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【殺人の自由化】無善悪3【コンパスと定規と6つの角】まだ読んでないが参考になりそうで…ここに保存したい、いいかな?
http://www.asyura2.com/05ban/ban4/msg/1005.html
投稿者 SV問題 日時 2005 年 12 月 10 日 08:54:20: cY3WTwUQzcbhA

(回答先: 【殺人の自由化】無善悪2【コンパスと定規と6つの角】まだ読んでないが参考になりそうで…ここに保存したい、いいかな? 投稿者 SV問題 日時 2005 年 12 月 10 日 08:50:22)

【3】

 

◆殺戮や戦争を見かけ上の
    感覚で判断する傾向について


また殺戮の『その手段と、自分の目に映る現象』によってそれを「嫌」と感じるか、
「さして感じないか」という、かなり重要な問題がここにある。

我々は戦争の当事者ではなくとも、戦地からの報道などを通じたその悲惨な情景を見て、
その結果として戦争に「嫌悪」する事がある。つまり「目に見える情景が悲惨だから」
という理由である。血肉が飛び散り、家族が悲しみ、女子供の死体が転がっている。
犠牲者が泣き叫び、不具になって人々が歩いている。

このように、『戦争それ自体への反感』ではなく、
戦争のもたらした「結果の現象を目にする事」からくる嫌悪感というものがある。

つまり、あなたの目に映る「その形にかかわらず」戦争や殺戮そのものが嫌であるのか、
それとも「嫌悪を感じる感覚が嫌であるのか」の問題は『微妙』なところである。
・・・・・・・・・
一番分かりやすいたとえは、あなたがゴキブリを殺す時である。
彼らを自分の手でひねりつぶすのには嫌悪感があるだろう。
(つまり「気持ち悪い」という理由)。

また女性の中には、ゴキブリを叩いて殺すと、そのつぶれた死体の後始末が嫌だという
者がよくいる。(これまた「気持ち悪い」という理由)。

ところが、
ホイホイや、コンバットや、スプレーで殺すのは別になんとも思わないわけだ。

すなわち、殺戮を「直接に自分が執行しない場合」や、その「死体を見ないで済む」と
いう事になると、「全く同じ殺戮行為」であるにもかかわらず、
嫌悪感や罪悪感はまるで減少してしまうわけである。

これが近代戦、あるいは未来戦で予測される大きな特徴なのである。
自分はボタンを押すだけであり、攻撃された土地の映像など目にする事もなれば、
なおさら戦争や殺戮には、嫌悪感も罪悪感も感じない事になるだろう。
・・・・・・・・・
考えてみれば、国連と言うのは実に変なところである。
というのも、彼らはなんと、『武器の種類』を区別するからだ。
地雷がいけないとか、化学兵器がいけないとか決めごとをするからだ。

なんであれ、人を殺すことには変わりはないのに、
足が吹っ飛んで半殺しになったりするのは残酷で「非人道的」と言うわけである。

すると、人体に与えるダメージが残酷な兵器は駄目で、痛みもなく一気に死ねるような
いわば『人道的兵器』ならば「まぁーそこそこ良い」という事らしいのである。
ここにもまた、人間が「感覚的な根拠」から殺戮や戦争を論じる特徴があるのだ。

さらには、被害者がいかなる苦痛を感じる暇もなく、死体が一瞬で消えてしまい、また、
確実に死ぬために不具者が生まれることもないような『完全な殺戮兵器』が登場すれば、
殺人についての是非問題は、
おそらく今よりも、『より純粋な哲学題材』となることだろう。
・・・・・・・・・・
つまり私が、ここで何を問題にしているかというと、何を論じる時にでも人は、
『戦争とは何か?、殺戮とは何か?、その根本原因は何か?、人間とはなんだろう?、
自殺とはなんだろう?』という、哲学的課題を論じようとはせずに、
常に『現象の見え方と、自分の感じ方に大きく左右されてしまう』という事である。

そういった意味で、冒頭で私が疑問を感じた事、つまり、
戦争や殺戮自体が問題なのか??、
それともそれによって自分たちの感じる『苦』が問題にされているのか??という事へ
の答えは、まさしく『苦こそが問題なのである』と言えるだろう。

逆に言えば、多数決により、『自分たちの苦を軽減するため』ならば、
戦争や殺戮や死刑は「時には行われてもよい」という事になっている。

だから自分たちの苦を回避する目的での殺戮や戦争はいつまでも行われるのである。
故にこれからも未来永劫にわたり、戦争も殺戮も依然として続いてゆくことだろう。
何せ、今日も明日も、人間は隣人との「口論という戦争」すらやめられないのだから。
・・・・・・・・・
誰もが、「誰かに言われたから」、とか、「宗教が禁じているから」、という理由で、
殺人を悪だと教育によって「覚えただけ」であったり、あるいは、
その目に映る悲惨な現象への嫌悪感をもってして戦争に反対しているにすぎないのでは、
誰も「心底から殺人を悪と認識していない」わけである。
それに、それを単純に「悪」として定義するのは非常に困難だと私は感じている。

・・・・・・・・・
さて、本論に戻ろう。
殺人とは関係なく、むしろ「自殺論」の一部となる余談ではあるが、
「人に生きる権利」があるとするならば同じく「死ぬ権利」というものもあるはずだ。
世の中には、「自分を殺してくれ」と他人に懇願するような場合もある。

その代表的なものは、安楽死、尊厳死であり、
非合法のものでは、自殺幇助の行為などである。

ここでも問題になるのは、「権利」という言い分である。
はたして、『権利』というものは、生きることだけには認められて、
死ぬことには認められないのだろうか?。
「人の自由意志のひとつである死ぬ権利を妨害するのはいいのか??」。
それとも、死ぬ自由意志だけは断固として「人権」とは認められないと言うのか?。
もしもそう言うとしたら、「何」をもってして言うのか?。
・・・・・・・・・
さて、本論に戻り、4の見解についての疑問は、
「肉体的にも、精神的にも苦痛のない殺人はどうなるのか?」、
という素朴な問題である。例えば睡眠中に薬物で殺した場合などである。

5についての疑問は、
「身寄りも全くなく、誰もその人の死を問題にもしないという、天涯孤独の被害者」も
多く存在するという事実である。
この場合には、「残された者」も存在しなければ、「悲しむ者」も存在しない。
せいぜい、それがニュースで報じられた時でも、あなたは、「孤独」というその言葉の
響きから、習慣的で個人的な連想をして、若干の哀れさを感じるのみであるが、
本音としては、他人の死も、他人の殺人も「自分には関係ない事」に過ぎまい。
・・・・・・・・・

6と7についての検証
6/「法律以前の問題として、人間として殺人が良くないというのは良心の問題だ」
7/「命は大切なものだから、粗末にしてはいけない」

まず7の「命は大切だから」という主張への疑問は数限りなく存在する。
というのも、我々は『命』と言う言葉を口にする場合には、常に、
「人間の命」と「人間以外の生物の命」の間に
あきらかな『価格差』を投影しているからだ。

 

◆殺戮なしには自然界の秩序は存在しない

 

ところで、本論では、問題の本質に迫るために、
「殺人」と「殺戮」には、ある程度の仕分けをしてある。

というのも、社会は殺人は否定するが、殺戮を否定する事は出来ないからだ。
殺人とは、文字通り「人が人を殺すこと」である。
しかし、『殺戮』と言う言葉の中では、
我々が動物や他の生命の命を奪う範囲までがその範囲に含まれるからだ。

また、完璧な菜食主義というものが成立しないために、
殺戮の恩恵によって生きていない人間は、ただの一人も存在しないからだ。
飲料水や、衣類などの素材に対して行う熱消毒の段階で、すでに我々は無数の微生物を
殺しているのであるからだ。

だから、「私は魚のダシも取らないし、肉も一切食わないから私は野蛮な殺戮には関係
はない」という主張は成り立たない。
また、本人が肉や動物を直接には食さないとしても、
あなたは、自分のバックや靴やベルトや、あなたの子供のランドセルが、
蛇や、ワニや、鹿や、牛の革で出来ていないか、今一度よく見た方がよいだろう。

さらには、あなたが飲む薬、特に西洋医学の世界で作られるほとんどの薬が、
どれだけ多くのネズミたちを使った実験によって支えられてきたかを考えるとよい。

また、そもそも「完璧に独立した菜食主義」などは存在しないのである。
植物の生育には、無数の微生物、動物、鳥類、昆虫の生死や生存競争がかかわっている
からである。植物とは、生物たちの食物連鎖の殺戮の結果として積み重ねられた、
まさに『死骸の大地』の中に生えているものなのだから。
・・・・・・・・・
また、動物とは何かという定義を広範囲な意味での『可動性動物』としたとしても、
微速度撮影をすれば分かるように、
植物は明らかに狭い範囲では「生きて動いている」のだ。

このように、一体、あなたが食する食物のどの範囲までを、自然界や人為的な殺戮行為
に全く関係しない食物であるかを定義することは不可能であり、
はっきり言えば、そんなものは存在し得ないのである。

あなたにとっては「普遍的な意味で命が大切」なのではなく、
自分の生命の利害関係にかかる対象や、愛着を持った対象の命だけが問題になるわけだ。
ハツカネズミをペットとして買う人間もいれば、
単なる実験動物としてしかない見ない人間もいる。
インフルエンザの感染源とされた食用の鶏が、何百万羽と殺される。
それらは、もともとは人間が勝手に自分の「食用として」繁殖させたものだ。

全く同じことは、あらゆる種類の、家畜産業、魚介類の養殖産業、そして細菌培養にま
で適応される。人間は勝手に人間の都合で生物を繁殖させたり殺したりするのである。
これで一体どこに「命は大切だ」という資格が人間にあるのだろうか??。

しかも、人間は肉眼では形や動きが見えない「微生物」に対しては、
たとえその存在を知識として知っていても、文字通り「虫けら以下」の扱いをする。
そして、ゴキブリや、(人間にとっての)害虫の事は、まさに「虫けら」として扱う。
これでも、「命は大切だ」と言うのだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
結局は、「何何の命は大切であり」、「何何の命は大した問題ではない」というのがあ
なたや人類の心の本音であり、なんと時には、
「これは殺してしまうべき命だ」と人間が勝手に決めた生物が無数にあるのだ。
だから、私はもう2度と、人間から、
「命は大切だ」と言う偽善的な言葉などは聞きたくもない。
「大切な命もあれば、大切でない命もある」、「だからあの命は殺してもいい」という
扱いをしている、それが人間の実態なのである。
・・・・・・・・・

 

◆人間における存在価値の採点

 

そして、このことは、結局は同じ「人間同士」についても言えるのである。
もともと平等というものは存在してはいない。
社会とは、もともと「それぞれの基準で」人間に点数をつけるものなのだ。
学校は学校の基準で、会社はそれぞれの会社の基準で人間を採点をする。
そして、それらの点数は、その組織や社会にとって「どのような利用価値があるか」を
基準にしてつけられる。

だから人間は、「命の尊厳」とやらを口にする一方では、
同じその口で、嫌悪する隣人に対して、そして特に犯罪者に対しては、
「あんなやつは、生きている資格がない」
「あんな人間は、死んだ方がよい(または殺したほうがいよい)」
「あいつは人間失格だ。」などと言う。

ところで、この「人間失格」という言葉は、なんと中立であるべきニュースキャスター
が口にする事すらもあり、コメンテーターもトーク番組で口にするのである。
しかし、「あいつは人間失格だ」と言うのは、
「あいつは人間ではなく類人猿以下だ」と言い切るのと同じことである。
人権団体に言わせれば、これは人権侵害用語とすら言えよう。
(ただし、私は人権主義者ではない)

そして麻薬中毒患者などは、もしもキャンペーンのフレーズ通りに解釈すれば、
彼らは「人間をやめた」と見なされるのだろうか?。

もしも、本当にそうであるならば、
「犯罪者は人間として扱わない」という制度でも作るべきだろう。
そして、もしもそれが出来ないならば、こうした罵倒用語は少なくとも公共の放送では
禁止でもしたほうがいいだろう。

だから、結局のところ、人間同士の間には、
明らかに差別、区別、価格差、つまるところ『命の価格』が存在するのだ。

 

◆人間の価格

 

では、その価格とは、何を基準にしてつけられるだろうか??。
そこで、哲学に特有の極論を、つまり極端な例を上げてみよう。
ここに、世話をする親近者も全く存在せず、
治癒の可能性のないアルツハイマーを患い、しかも入院費もない。
さて、社会は、どのような価格をその人間につけるのだろうか??

結局は、治療薬の被験者としての価値しか残らないのだ。そして、
介護師の働き口を提供し、介護するという自尊心(つまりは奉仕活動という自己満足心)
を提供する事に貢献するのみである。
それとも、あなたは彼らの臓器に移植のために値段をつけるのだろうか。

一方では、極度の鬱で、自殺をしたいと言い張る人々がいる。
いかなる治療も、いっこうに効力なく、全くの無気力状態の者たち。
薬物中毒であれば、原因が薬物であるかぎりは、更生は可能性があるだろう。
しかし、鬱というものは、性質が異なる。
しかも、それは心理分析ですら未だ解決困難な病である。

プロザックなどの抗鬱剤がいくら効果があったとしても、
それすら効かない者は必ず発生する。
いわば、「完全な怠惰や衰弱」の中で、
「生きる気力を喪失して生きている者」がいたら、
あなたは、一体、彼らの存在価格として何点をつけるのだろうか?。

おそらく人道的な「心情」から、点数をあげるかもしれないだろうが、
それは、彼らに「直る可能性」をいくらかでも期待している場合に限られるであろう。
しかし社会にとって完全に無用と見なされるであろう、不治の人々がたくさんいるのだ。
いくら、『生命の尊厳』や『平等』などと言うものを、
他人からの借り物の価値観と社会の掛け声を真似て、あなたがその口で言ったところで、
『他人の利害と関係性を持たず、ただ生きている』という者には、
あなたは存在価値の価格をつけられまい。
あるいは、ここでもまた、あなたは彼らの臓器に価格をつけるのだろうか??。

そして、日常で何げなく、あなたが誰かを軽く軽蔑する時にも、
「自分は彼よりは存在価格が高い」とあなたは内心思っているのである。
このように、いつだって、人間は、あらゆるものに『価値の値札』をつけるものなのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

◆殺人の動機となるもの

 

さて、そこで殺人という行為の根本問題を考えてみたい。
殺人とは、(仮に加害者の立場に立てばの話だが)自分にとって、相手の価格がゼロで
ある場合には成立しないものである。
なぜならば、相手が価格ゼロだったら、それは自分には関係がないからだ。

そうではなく、相手の存在が自分にとって「赤字をもたらすもの」である場合に、
人は、殺人をするのである。

相手の存在が、自分を困らせる場合に、人は殺人をする。
相手の存在が、自分を心理的に苦しめる場合にも、人間は殺人をする。
とにかく、肉体的にであれ、心理的にであれ、
相手の存在が、自分の精神や肉体に苦をもたらすと『主観的に判断した時』、
人は殺人、あるいは暴力を行う。

若者がよく言う「ムカついたから、殺した」というのは、実に短絡的ではあるが、
もしも相手が自分を楽しませてくれたら、相手を殺すまい。
つまり「ムカつく」というのはあきらかに不快の一種である。
不快とは、そのまま不快の対象からの刺激が続けば、自分の安定した思考・神経・知覚
の一部またはその全体が、否定される(無にされる)に至ると思えるがごとく、
歪むこと、圧迫されること、揺さぶられることから起きるのである。

「不快とは、レベルの低い苦」であり、嫌悪や逃避のきっかけとなる。
「恐怖とは、レベルの高い苦」であり、防衛または攻撃的殺戮へのきっかけとなる。
・・・・・・・・・

そして、不快の定義は個人的なものと動物的なものに分類される。
個人的なもの、というのは、たとえば、クモが好きな者は殺さないが、
クモなど見るのも嫌いな者は、叩き殺すという具合だ。
これは、そのままそっくり人間同士に当てはめても同じことである。
誰かにとっては殺してやりたいような人間も、
別の誰かにとっては、全くそんな事はない。これが主観的な不快の例である。
人間にとっての多くの殺人は、この主観的不快感によって起きるものだろう。

一方、動物的なものというのは、肉体が脅威にさらされた場合の、
防衛本能からくるものであるが、人間の場合には、直接に危害を加えられなくとも、
間接的に肉体に害が及ぶと思い込んでいる不快感や恐怖というものがある。

この代表的な例は、会社でよく耳にする「クビにするぞ」という脅迫文句である。
クビ=貧困=飢餓=死という単純な連想が聞き手の頭にあれば、
「クビ=食えなくなる」と結論され、
結果的にこれが、「動物としての生存を脅かされている」と判断されるのである。

同じ事は「自分の秘密を暴露されれば、社会的責任を問われて、社会から脱落して云々、
その結果は=貧困」というありがちな思考公式にも言える。

こうした事が原因で、
動物の世界ならば、ごく単純な脅迫、攻撃、防衛、戦闘で維持されている食物連鎖や、
弱肉強食の原理が、人間社会では、「理性」と呼ばれる『高性能の妄想回路』によって、
形を変えただけで、やはり同じ弱肉強食構造を形成しているだけの事なのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、そうなると、殺人の動機の「多く」は、
生存を脅かされる、あるいはその可能性が推測されるから殺すという事になる。
金銭トラブル、社会的地位、犯罪行為の発覚を恐れての殺人などは、
結果として食えなくなるという『本能的恐怖』が主原因となる。

一方で、嫉妬、口論、言語によるいじめと言った、心理的次元でも、やはりそこには、
次元こそ異なるが、基本的には『心の死活問題』が横たわっているのである。

 

◆思考や記憶という身体

 

たとえば、相手が誰であれ、手足も指一本も使わず、言葉だけによって、
ほぼ100%、他人を怒らせる事が可能な方法の「原則」をご存じだろうか??。
それは相手の『存在それ自体を、否定する結論を導き出す事』を言いまくる事である。

まず、手初めに、相手の思想、心情、意見をことこどく否定、批判してみればよい。
つまり相手のアイデンティティーをことごとく無価値だと言う。(価格ゼロの提示)
さらに、無価値どころか、社会的に迷惑だと言う(マイナス価格の提示)。

そうやって、相手の容姿(肉体)を非難し、心(思考)を非難し、存在それ自体を非難
されたとき、(もしも自分で自分の存在の値段をつけている者であれば)、
その者は、必ずあなたに対して、嫌悪・怒り・無視などによる「逃避行動」に出るか、
言葉による防衛や、言葉や暴力による「攻撃」のいずれかの行動を取るに違いない。

これが意味する事は、心とは、まるで物体や肉体のように、
文字通り、「心が傷付き」、時には「心は死ぬ事もある」ということなのだ。
すなわち、一人の人間の感情や記憶や習慣的な思考とは、耐性や自己保存機能を持った
「身体」なのである。

これ故に、他者から見ていたら、馬鹿げた口論も殺人に発展するわけであり、
他人から見ていたらささいな心配事も、膨れ上がって殺人や自殺に発展するのである。
すべて、それらは、肉体と精神の「生存欲」を基盤にして生まれるものである。
・・・・・・・・・
多くの殺人は、結局は生存欲から生まれてくる。
中には、実質的な害が自分におよぶ可能性が全くないのに相手を殺したり、
論理的にかなりの屈折をしている殺人者も多いものだが、
それでも基本的には、犯罪史を見ると、
自分が心か肉体のどちらかの極度の死活問題に追い込まれたときに、人間は殺人を行う
ケースが最も多いようだ。
しかも、動物と異なり、人間に限れば、自分を追い込んだ対象に対しては、
「逆恨み」や、「八つ当たり」といった、
誠に「不条理な形」をとる事も、しばしばなのである。

(注・・・ただし神戸の連続殺害事件のA少年は、奇妙な事に「生存欲」ではなく、
『死滅欲』をその動機の基盤にしているように私個人は感じる。)

・・・・・・・・・
いずれにせよ、「殺人は悪い」といくら口や世論が言っても、
それが一度として起きなかった日は、人類史上ただの一日もないのである。

だから、我々はそれを「特異な他人事」としてではなく、
「自分がいつでも殺人者になる可能性がある事」と、その場合の「理由」について、
よく洞察してみるとよいだろう。

自殺と同じように、殺人もまた、一定の条件が揃ったときには、
「誰がその行為に及んでも全く不思議ではないもの」だからだ。

法治国家では、無法地帯に比べれば確かに殺人の「件数」は少なくなるかもしれないが、
それは、心の中の殺人の「衝動それ自体」が少ないわけでは決してない。

それどろこか逆に、殺人衝動のストックを膨大に蓄積する可能性があるものだ。
だから「社会悪」や「宗教的悪」というレッテルによる規制や罰則が多く存在する社会
や時代になるほど、精神の歪みはより大きくなってゆくのである。

老子が言ったように、
そもそも、「世の人々が正しいことが何であるかなどを知らなければ、
そこには間違いもなかった」のである。

間違いとは、正しさを知ることから始まるのである。
生命とは、善悪の思考で明確に分別できるほど単純な現象ではないのである。

したがって「殺人をしないのは{良心}の問題だ」という6の主張もまた怪しいものだ。
「良心」という言葉の裏には、愛や洞察ではなく、

常に人類という種の保存をしようとする本能が見え隠れし、

また村八分への恐れから他人の目を気にする心が存在しする。

社会的安全確保という人間社会の都合による基準が見え隠れし、

同一民族は殺すのはよくないが、敵の民族は殺してもよいという大義名分が見え隠れし、
一人が死ぬことで、大勢が助かる場合には、一人を殺してもよいという論理がある。

あなたが「良心」という単語を辞書でひいたところで、そこには、全く無意味な説明を
見るだけだろう。国語辞典によれは、良心とは、
「道徳的自覚」と「善悪判断によって自己命令する能力」と定義されている。
なんと、道徳も、善悪も、
人類史上いまだかつて明確に定義されてもいないというのにである。

「良心」なるものを持たされた人類を、
『できそこないの病気の博物館だ』と哀れむ少年の物語りに、もしも御興味があれば、
マークトウェイン著の『不思議な少年』を読まれる事をお勧めする。

良心であれ、法律であれ、宗教であれ、なんであれ、
国家権力や武力によって、直接または間接的に、
「言うとおりにしないと殺したり、おまえの自由を奪うぞ」と言っているような『脅迫』
によって安定しているような秩序は、必ず苦を生み出すものである。

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