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他者を、語る…          。ディアスポラ。
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投稿者 桑の実(市区町村) 日時 2006 年 1 月 01 日 15:55:04: Szt/imEacmcv6

(回答先: カバラという字の入る「酒鬼薔薇聖斗」(神戸事件)と「小林薫」(奈良事件)をアナグラム解析 投稿者 サラ 日時 2005 年 12 月 13 日 20:59:19)

他者を語る → 弁護と 代議と 学的発掘 (書評参照)

 
 
 
 

レイ・チョウ(周蕾)『ディアスポラの知識人』
(青土社、1998)

 
 

 人文・社会科学研究をおこなう者は、なんらかの形で「他者」を研究対象とする。しかし、いかに「自己反省的」洞察を身につけようと努力してきた者でも、次のような著者の問いに出会うとき、おおきなたじろぎを感じざるをえないだろう。また、社会史や民衆史を研究する者は、以下の文章のなかの「ネイティヴ」の箇所に「民衆」や「庶民」を当てはめたとき、自分の研究が(また、論文を「書く」という行為そのものが)容易ならざる行為であることに気づくはずだ。さらにまた、大衆的メディアの研究者は「大衆的メディアの読者」をそこに当てはめたとき、著者レイ・チョウの問題意識の深刻さに気がつくだろう。

 イメージを単に無視することでもなく、またエスニックな標本という「正しい」イメージを「正しくない」イメージによって置き換えることでもなく、あるいはまた「虚偽の」イメージの「背後に」隠された「真実の」声をネイティヴに与えることでもなく、そのどれでもないような仕方で、ネイティヴを「発見する」ことは可能だろうか? ネイティヴをイメージに還元し、抽象化してしまうことが避けられない時代に、どのようにしたら私たちはネイティヴを取り扱うことができるのか? ネイティヴの消去しえない一部分と化してしまったイメージ、汚れておとしめられたイメージを無視することなく、どのようなネイティヴの記述が可能だろうか?・・・・汚されたイメージを謹んで浄化してしまうような手軽な変更を断じて拒否しながら、この空間について書くことは可能か? 歪曲されたイメージをなにか高貴なものと交換することによって得られる剰余価値、いわば虐げられたものの剰余価値によって自分たち自身をより富ませることなく、ネイティヴの占める場をいかにして書いたらいいのだろうか?

ここには、われわれ人文・社会科学を職業として(言いかえれば、飯の種であると同時に、社会的権力獲得の方法として)「生きよう」する者たちへの真摯な、そして重大な問いかけがある。
 それは、こうも言いかえられる。この問いは、カルチュラル・スタディーズが「他者」を扱おうとするときに足を突っ込まざるをえない「イメージにかかわる問題の根元」に位置する問題であり、そして著者によれば、文化研究をおこなう者は下手をすれば「他者がイメージとして表象されるとき、それはつねに幻影、ごまかし、虚偽として疑いの対象となる。それゆえ、他者を救おうとする試みが、しばしば他者を騙すことができないものとして持ち上げようとすることになるのだ。そのとき他者は、真正さと真の知識のよりどころとされるだろう。そしてこうした試みを行う批評家自身も、まがいものでない本物の知を手にいれたものとして、騙されない者たちの仲間入りをする」ことになる。
 ここで言われている「騙されない者たち」とは、むろん皮肉である。ここには、ラカンおよびジジュクの言う「騙されない者こそ間違える」というパラドクスが下敷きにされている。

 この本は、香港で生まれ、「ディアスポラ」とならざるをえなかった著者が「カルチュラル・スタディーズへの批判的介入」を試みた本である。取り扱われている問題群の射程はひろい。だから、すべてについてコメントすることはできないけれど、ぼくがもっとも惹かれた考察は「サバルタン論」だ。
 著者レイ・チョウはG.スピヴァックを引きながら、中国研究、またカルチュラル・スタディーズにおいて「サバルタン subaltern(エリートでないすべてのもの)」がいかに描かれてきたかを問う。オリエンタリズム、またその一変種である毛沢東主義に典型的に表れるように、「サバルタン」はしばしば「神聖化」されてきた。しかし、「神聖化」されることによって、オリエンタルズムは帝国主義・植民地主義と連動し、また毛沢東主義は全体主義への歩みを容易にしたのだった。
 本来「サバルタンは語らない」。「語らない」サバルタンに代わって多くの研究者たちは「かれらの」(と身勝手に想定した)言葉を語ろうとする。しかし、その行為はしばしば語る者たち自身を「サバルタン化」(=抑圧された民の解放のために努力する少数の奇特な御仁に)することにはなっても、現実のサバルタンから「抗議と正当な要求の言葉を奪う」ことになりかねない。ここには文化研究のメタ文化的問題がひそんでいる。

 このような議論の展開をおいながら、ぼくは戦後知識人、とりわけ鶴見俊輔のことを考えていた。かれの言う「民衆」や「限界芸術」のことを考えていた。著者なら鶴見の仕事を一刀両断のもとに切って棄てるだろう。かれこそ、鼻持ちならないオリエンタリストだ、と言うに違いない。
 しかし、著者のように「他者言及」に過度に敏感に反応してしまえば、われわれは失語症になりかねない。彼女が強いられた「ディアスポラ」の位置は、図らずも「他者言及」の可能性を与えたかもしれないが、しかし多くの研究者たちは幸か不幸か容易に「ディアスポラ」にはなりえないのだ。
 さらにまた、ぼくは「社会学的想像力」と人間としての「知的マゾヒズム」の力を信じたいと思う。「他者」を語ることの虚偽性とその社会的罠の危険性を自覚しながら、「他者のために語る」ことは可能だと信じたい。ただし、あくまでその虚偽性とその社会的罠の危険性を自覚しながら、ではあるけれども。
 カルチュラル・スタディーズのみならず、民衆史、表象文化論、社会思想史、中国現代史、中国現代文学に関心のある人びとに薦めたい著作であることは間違いない。

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