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下山事件読解T<実行犯/3・6章> 延禎、ジョージ・ガーゲット、CIA
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投稿者 下山事件 日時 2008 年 4 月 27 日 11:54:17: XlGOPZqQMF/ZQ

(回答先: 下山事件読解 投稿者 下山事件 日時 2008 年 4 月 27 日 11:37:09)

下山事件読解T「葬られた夏・追跡下山事件」(諸永裕司 著、2002年12月 朝日新聞社 刊)
<実行犯/3・6章> 延禎、ジョージ・ガーゲット、CIA

下山事件の実行犯について推測してみる。結論から言えば、本書第3章(黒幕)に登場する延禎が浮かび上がる。著者がアメリカでインタビューに成功した3人の元諜報部員の一人だ。
まず、延禎のプロフィールを本文中から引用する。尚、この第3章は、延と著者とのやり取りを軸に構成されている。


(p.79)“元キャノン機関員の延禎。一九二五年、ソウル生まれの韓国人である。ロサンゼルスに住んで三十年以上になる。”
(p.82)“延がはじめて東京の土を踏んだのは十七歳の時だった。祖父が父を誘い、日本へと連れ帰ったという。延は中央大学法学部に通っているときに軍隊に取られ、ソウルの歩兵二十二部隊に送られた。幹部候補生として配属された関東軍で半年後に敗戦を迎える。
「ポツダム宣言が出て、韓国は独立することになっていた。そこで大隊長にこう言ってやったんだ。『あなたたち(日本兵)と一緒に捕虜になるなんて、あわない。私たちは逃げます』。二十八人の部下を引き連れて逃げ出した。夜歩いては昼隠れる。その繰り返しだった。満州と韓国の境にある鉄橋にたどりつくために火をたいて列車を止め、貨車ごと乗っ取ってソウルへ戻ったんだよ」
 その後、米海軍の参謀総長から声をかけられ、海岸警備隊の司令官となる。赴任地は日本海に面した墨湖。階級は海軍少佐だった。”


本文は続けて次のように記している。


(p.82)“「ある日、李承晩大統領から呼び出されてね。『東京のGHQから優秀な諜報部員を派遣するようにと言ってきたんだ。日本の事情に通じていて、英語も堪能であることが条件だという。君、行ってくれるね』。そう聞かれた。まあ、聞かれたというより、命令だよ、大統領直々のね」
 延はかつて旧日本軍の陸軍少尉でもあり、韓国では北朝鮮にからんだ情報収集や諜報工作にたずさわっていた。その経験と語学力を買われたのだ。”


明らかに何か重要な任務が待っていると推測できる。では、延が日本に赴いたのはいつなのか。第3章の後半には興味深い事柄が綴られる。


(p.93)“ノートの余白についたクエスチョンマークを見つけ、前後のやりとりを思い返しているうちに、僕は極めて重要なことに気がついた。
 ノートには、延が下山と会った時期について「五月か六月」と書かれている。ところが、キャノン機関の一員になるために来日したのは「九月」だったとある。明らかな矛盾だった。”
(p.93)“「九月来日」ならば、七月に起きた下山事件、三鷹事件、そして八月の松川事件のときには日本ではなく韓国にいたことになる。仮にキャノン機関が工作に絡んでいたとしても、自分は当事者ではないとの立場を貫ける。だからこそ、他の機関員が沈黙を守るなか、彼だけが『キャノン機関からの証言』といった本を書き、突然の訪問者である僕にも会おうとすることができるのではないか。”
(p.94)“ところが、翌朝、再び顔を合わせた延は開口一番、こう言ったのだ。
「私が下山に会ったというのは間違いでした。あのときはまだ日本に来てませんでしたから」”


これはおかしな言い方だ。「下山に会った」のが間違いだったのなら、下山ではない別人に会ったことを勘違いして話したということだろう。だとすれば、あれは別人だったという言い方になるはずで、「あのときはまだ……」とはならないだろう。
また、「あのとき」というのが「五月か六月」を指しているとすれば、韓国にいた「五月か六月」に誰かに会ったことと取り違えたということだろう。その場合でも、あれは別人だったという言い方が付け加えられそうなものだ。
しかし、そもそもこの部分は、延がキャノンに連れられて下山に会いに行ったという話なのだ。それが下山ではないにしても、キャノンと一緒に誰かに会ったということなら、当然日本でのことだろう。「あのときはまだ日本に来てませんでしたから」となるのは不自然だ。
いやいや、本当に延はキャノンと一緒に下山ではない誰かに会ったのかも知れない。そして、それは「五月か六月」ではなかったのかも知れない。しかしそうなると、会いに行った相手と時期の両方を一度に間違えたわけだ。やはり不自然だ。

結局、「あのとき」とはどんな時のことなのだろうか。やはり、下山に会った時ではないのか。下山に会った時は、自分はまだ日本に来ていないことになっていたというのが実際ではないのか。日本に来ていないことになっている自分が下山に会ったというのは間違いでなければならないということだ。それが、「私が下山に会ったというのは間違いでした。あのときはまだ日本に来てませんでしたから」という言葉を生んだのではないか。

だが、引退したとはいえ名うての元諜報部員がそんなミスを犯すものなのか。むしろ、わざとミスを犯して相手の注意を引き付けようとしたとは考えられないか。実は下山事件に関与したのではないかという誤った憶測を誘うために。ならば、やはり来日したのは「九月」なのだろうか。

この点に関しては、第6章(秘密)に別の手がかりがある。

第6章は、著者がアメリカでインタビューした二人目の元諜報部員ジョージ・ガーゲットとの対話が主な内容となっている。彼が隊長を勤めた情報機関についての記述を見てみる。


(p.177)“ジョージ・ガーゲット―――。
 戦後、北海道にあったアメリカ情報機関の隊長だった。その名前からガーゲット機関と呼ばれていた組織は、当時、最大の共産主義勢力だったソ連(現ロシア)軍の侵攻に備え、また引揚者やソ連側のスパイの進入に対処するために設けられた「共産主義の防波堤」だった。”
(p.191)“ガーゲット機関とはどんな組織だったのか。僕はまっすぐに問いかけた。
「一五〇機関とか、いろいろ呼ばれているようだけど、正式にはCIC(米軍防諜部隊)の米軍四四一部隊です。東京を管轄していたのがキャノンで、私は北海道の管轄だった」”
(p.191・192)“日本が終戦を迎えた三ヵ月後、ガーゲットはみずから志願して情報の世界を目指す。米メリーランド州ボルチモアで訓練を受け、四十六年一月二十六日に来日。施設や民家に侵入するための開錠の仕方や対象者の尾行方法などを学んだ後、北海道(CIC四〇地区)に赴任した。部下を百人ほど抱えていたという。”


しかし、そうしたガーゲット機関に変化が訪れる。


(p.203)“さらに、当時の土山の同僚、藤浪正興によると、下山、三鷹、松川という鉄道を舞台にした怪事件が起きる一年前の四十八年夏ごろから、北海道にいた米軍情報部員は続々上京したという。そして、この年の暮れに東京へ転出した土山軍曹を追うかのように、宮下も翌春、東京へ出てきている。宮下は自分の上京時期について、こう話している。
<「そのころ、CICのなかでひそかにCIA(米中央情報局)要員が編成され、自分もその末端で働くことになったためだ。しかし新たな組織の動きはCICの同僚にも秘匿して行なわれた」>


ここに出てくる四十八年夏というのはもちろん西暦一九四八年の夏である。この年に関する記述が少し後の方にもある。


(p.206)“一九四七年に発足したCIAが初代東京支局長を送り込んだのは翌年のことだった。オフィスは三井本館のGHQ外交局内。いまでは重要文化財に指定されている三井本館の周辺には日本銀行本店、三越百貨店などがあった。”


そして、ガーゲット機関はどうなったのか。


(p.206〜208)“――北海道での任務を終えたのはいつですか?
「ええと、四九年の七月だったかな」
 ――記録はありますか。
「ちょっと待って。いまファイルを見るから」
 ガーゲットが書庫から取ってきたファイルには六月末までしか記録が残っていない。なぜだろう。答えを探しているのか、ガーゲットは足を組み換え、所在なげにページをめくっている。
「あ、思い出したよ、(任務を終えたのは)確か七月二日だったね」
 答えるまでにずいぶんと間があった。事件の三日前だ。
 ――北海道を引き揚げて、どこへ行ったんですか。
「いったん東京へ寄ったんだ。アメリカへ帰る前に」
 この日、下山は労組代表との話し合いの席で交渉の打ち切りを宣言している。
 ――いつまでいたんですか。
「確か、七月四日まで……」
 首切りの発表当日、下山が三越で姿を消す前日である。あたかも、事件が起きたときには日本にいなかったことを強調しようとするかのような答えに思えた。
 ――東京はどんな様子でしたか。
「……ただ、軍の仕事は請け負っていなかったよ」
 質問には答えない。先回りして疑問を打ち消す。言葉の少なさも不自然だ。
 ――印象に残っていることはありませんか。
「いや、別に」
 反共の最前線にいた人物が、首切りをめぐる騒然とした世情について、「革命近し」などと叫ぶ共産党をはじめとする左派の台頭ぶりについて何も記憶していないというのか。
 ――ということは、下山事件が起きる三日前に東京へ来て、前日に日本を離れた、と。
「その任務はずっと前から言われていたんだ。だから事件とは関係ない……」
 ガーゲットの言葉は短くなっていた。余計なことは口にしない。必要最小限の情報だけ。そんな頑なさを表わすような語り口だった。”


本文では前後するが、いったん日本を離れたガーゲットは、しばらくして東京に戻っている。


(p・206)“――東京というと、ガーゲットさんは北海道を引き揚げたあとにCIA東京支部の責任者として赴任したんですよね。
「そう、一九五一年に戻ってきた。やはり、引揚者に紛れて潜入するスパイを摘発するのが仕事だった。郵船ビルにDRS(資料調査局)という偽装の看板を掲げてね」”


以上、ガーゲット機関に関係する人間たちの動きや、CIA東京支局の開設時期などを考え合わせれば、一九四九年に発生する一連の事件との関わりに思い至る。延禎の来日時期もまた、そうしたこととの関連が想像される。

GHQの要請に基づき、韓国大統領直々の命令によって来日した延に与えられた任務とは何だったのか。来日が一九四九年の九月だったとすると、一連の事件は既に起きた後だ。翌年には朝鮮戦争が勃発し、延は韓国でも大活躍している。九月来日が本当だとすると、日本にいたのは長くて8ヶ月程ということになる。その間の日本に一体どんな重大任務があったのか理解に苦しむ。

ここで第3章に戻り、延禎とはどんな人物なのかその活躍の様を見てみよう。


(p.79)“「私はね、朝鮮戦争でシルバースターを三個もらってるんだけど、有名な仁川上陸作戦のことを取り上げて映画をつくりたいっていう話がハリウッドからきてるんだよ」
 シルバースターとは、米軍の軍人に与えられる最高の栄誉である。それを三つ手に入れた男――。”
(p.80)“十五年前にも、二十世紀フォックス社から「東洋のジェームズ・ボンド」として映画にしたいという打診があったと、まんざらでもなさそうな表情で続ける。”
(p.80・81)“案内された六畳ほどの書斎兼寝室の壁には、はじめて見るシルバースターと賞状が額に入って並んでいる。延はもっとも左側にある額を指した。
「これが仁川上陸作戦のときのものだよ」
 それは、戦局を一挙に逆転させ、延が最初に名を馳せることになる任務だった。
「三十八度線の北側では臨戦体制に入っている、という情報があってね、私が偵察に入ったんだ。そのとき、韓国軍は戦争に突入するなんてありえないとタカをくくっていた。でも、実際には情勢はかなり緊迫していたんだ」

 戦争になれば、アメリカと韓国の軍隊はひとたまりもないだろう。延がそう報告を上げた二週間後の一九五〇(昭和二十五)年六月二十五日、北朝鮮軍は三十八度線を突破してきた。三日後には首都ソウルが陥落し、二ヵ月後には、米韓両軍は朝鮮半島の南端まで追い詰められる。あとには朝鮮海峡がひかえるだけ。絶体絶命だった。
 八月中旬、この劣勢を逆転するための作戦が、延と限られた米軍情報官に授けられる。韓国の奥深くまで侵攻して長く伸びきった北朝鮮軍の補給路を断って挟撃する。その際、警備が薄いとの情報があるソウル周辺の仁川へ上陸せよというものだった。いまでは国際空港がつくられて、広く知られるようになった場所である。
 その仁川沖にアメリカ第七艦隊などが集結するため、灯台に灯をつける必要があった。灯台には六人の警備兵がいて、撃ち合いになれば北朝鮮軍にも知られてしまう。敵に射撃する間を与えずに灯台を占拠しなければならない。
 延はわずかな月明かりのもとに上陸すると、配下の特殊工作員に細く強い紐を渡した。
「背後から絞め殺せ。声を出させるな」
 十分足らずで灯台を占拠すると、延は光が漏れないように陸側をダンボールで覆い、予定どおり午前零時に合わせて灯をともした。それを合図に、沖合いに待ち受けた艦隊からの艦砲射撃がはじまり、空からは戦闘機がナパーム弾を落とした。そうして七千五百人もの兵力が上陸し、国連軍は一気に攻勢に転じることになったのである。

 作戦の二日後に仁川へ上陸したマッカーサーから左胸につけてもらったという勲章がいま、目の前にある。勲章に顔を近づける僕の横で延は言った。
「成功した作戦というのは普通、表に出ないものさ。逆に失敗すれば大きく騒がれる。でも、現実には、だれも知らないところで無数の重要な情報工作が毎日のように行なわれていたんだ。それはいまも変わらないだろう」
 そのうちのひとつが下山事件だったというのか――。”


延禎はスゴ腕の工作員であり、しかもその道の有名人だ。加えて自己顕示欲も旺盛のようで、いまだ世間に知られていない自分の手柄話をそれとなくほのめかしたくなったとしても不思議はない。うっかり間違えたようなふりをして「五月か六月」と言い、あとでそれを訂正したとも考えられる。

やはり、延禎が来日したのは「九月」ではなく、「五月か六月」にキャノンとともに下山に会いに行くよりも前というのが本当ではないのか。もちろん下山事件こそが延の任務だったのだ。欧米人と違い日本の町中を歩いていても目立たず、日本の事情にも明るいスゴ腕の工作員。仕事が終われば直ちに日本を離れて捜査の網にかかることもない。最初の騒ぎがおさまった頃(九月)に何食わぬ顔で再び日本にやって来てキャノン機関の一員らしく振る舞いながら後始末をやる。

もちろん延一人でやれる任務ではないから部下も呼んだのだろう。東京での仕事について延が答えている。


(p.86)“延によれば、仕事の手順はざっとこうなる。
 キャノンから任務を命じられると、まず予算をもらい、自分で工作員を集め、アジトを借りてから「仕事」を始める。ときには工作員を韓国から軍用機で連れてくることもあった。スパイ用旅券や外国人登録証は東京の韓国代表部が発行した。「総司令部(GHQ)用」としておけば、とくに個別の名前まで求められることはなかったという。”


要するに、延は実行部隊の指揮者だったのだろう。そして、延に任務を与え事件全体を統括していた責任者がガーゲットではないか。もちろんCIA上層部からの指令に基づいて。一方、キャノン機関やGHQはそうした工作を支援したということになるが、同時に、延やガーゲットそしてCIAにとっては都合のいい隠れ蓑でもあったはずだ。

CIAの工作は常に偽装の下に行なわれるのだろう。下山事件では、その偽装がほとんど芸術の域に達している。


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