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劉震雲「温故一九四二」(あらすじ) 日本軍は比較的見識があり、民心の向背に注意を払った
http://www.asyura2.com/0601/bd43/msg/546.html
投稿者 TORA 日時 2006 年 4 月 14 日 19:41:12: CP1Vgnax47n1s
 

(回答先: 小説「温故一九四二」 日本軍は、餓死寸前の中国の農民に軍糧を放出し、飢餓農民を救った 投稿者 TORA 日時 2006 年 4 月 14 日 15:26:27)

◆劉震雲「温故一九四二」 『中国当代作家選集還書 劉震雲』(人民文学出版社、2000年9月、第1刷)
http://tianliang.main.jp/038.html

(あらすじ)
1942年春から43年秋にかけて、河南省では110県に及ぶ広範な地域で旱害、蝗害、水害の三大自然災害が発生し、大きな被害をもたらした。飢饉のために省の全人口の十分の一に当たる300万人が、餓死、あるいは病死し、流浪者(「逃荒」)も300万人となり、罹災者は合計で600万人とのぼった。そして、流浪の途中での餓死、病死、汽車にひき殺される等々による死者は数えきれなかった。

  罹災者は、木の皮、雑草、柴、泥などを食べたが、それらさえもなくなった。子どもや婦人が売られた。家庭を支配している者が、支配される者を売った。男も女も、その値打ちはいずれも普通の作柄の時の十分の一となった。若い女は妓楼に売られ、成年男子は国民党軍に捕まえられて、兵士に徴発された。しかし、彼らは喜んだ。軍隊にいれば、ご飯が食べられるからだ。

  人間が人間を食う。アメリカ人記者白修徳は、河南省に行く前に、この世で人間が人間を食うことを信じられなかったが、しかし、彼は自分のこの目で見た。一人の母親が、自分の二歳の子を煮て食べた。一人の父親が、自分が生き延びるために、二人の子どもを縄で絞め殺し、蒸して食べた。・・・・・「易子而食」、「易妻而食」などなど(3)。

  飢饉は、全てを支配した。この時、同情心、親族の思いやり、習俗のきまり、道徳心、宗教心などは「蕩然無存(跡形もなく消える)」となった。大量の死体が野ざらしとなり、飢えた犬の食料となった。1943年の河南省罹災地区では、犬の方が人間よりもずっと元気があった。

  しかし、政府は、罹災地区からも変わらずに現物税と「軍粮(軍隊に供給する食糧)」を徴収し続けた。

  民衆の本音を伝える流行歌謡に、次のようなものがある。“説真語、会卿官、半真半假保住官、置天大姿恂大官(本当を言えば、官職を失い、半分本当で半分嘘なら官職を保ち、嘘八百並べれば高官になれる)。”

  蒋介石委員長も、「嘘、でっち上げ、水増し、上乗せ」の統計という中国の官僚病をよくわかっていた。だから、蒋は河南省政府に対して、自然災害の報告を偽りと決めつけ、さらに、河南省の徴税項目や分担金などで緩和や免除を絶対に許さないと厳しく命じた。これは、現実には、政府が刀をもって自然災害の仲間となることを意味していた。

  『大公報』記者、張のわずか六千文字の「豫災実録」の報告、および評論は蒋を激怒させ、『大公報』は三日間停刊させられ、関わったジャーナリストが処分された。

  他方、数百万の罹災者たちは、「洋人(白人)」のアメリカ人記者白修徳、イギリス人記者込里儼・福櫛曼、中国駐在アメリカ人外交官たちに、大いに感謝していた。白修徳は、アメリカのマスコミに呼びかけた。また、白と福は、宋慶齢(1893.1.−1981.5.孫文夫人)を通じて、蒋介石と20分ほど会見した。中国人は白人の気にさわることを願わないため、多くの河南省の罹災者が救われた。

  アメリカ政府は、蒋に対する信任を割り引いた。外国からの救援物資は、全て宣教師を通じて配給された。白人たちは、宗教の教義から出発し、教会におかゆの給食施設、医院、孤児院を設立した。

  これらの少数の外国人は、中国人に生命が高貴であることを意識させた。一人のカトリック神父は、おかゆ給食施設設立のきっかけについて問われたとき、このように答えた。

  「少なくとも、彼らを人間のように死去させてあげたい。」
  中国政府も救済活動を始めた。陝西省や湖北省には、豊富な食料が貯蔵され、即座に調達すればよかったが、政府は同意しなかった。中国では、一貫して政治が人間よりも高いのである。

  数ヶ月後に、中央政府の救済金の二億元が河南省にまでたどり着いたとき、わずか八千元になっていた。省政府役人は、この八千元を銀行に預け、利息が増えるのを待っていた。さらに数ヶ月後、一部の地方役人は救済金を受け取ってから、農民の未返済の税債務を差し引き、農民の手元ではゼロになった。

  また、中央政府の紙幣は全て百元札で、食料を買いだめする投機売買人は百元札を拒絶し、農民はやむを得ず国家銀行に行き両替したが、その時、銀行は17%の手数料を抜き取った。罹災者にとって必要なものは、食料、穀物であったが、しかし、政府は無視した。

  確かに、慈善による募金や公演も行われた。しかし、これらの救済金も政府に渡さなければならない。そして、政府が罹災者に配給する過程で、省から県、県から郷、郷から村というように、多くの中間機関を経て、幾重にも重なって、救済金は収奪された。上から下へ行く中で、次々に奪い取られた。どれだけ、罹災者の手元に届いたのだろうか?
  その中で、皮肉で驚くべきことには、政府の公務員は「一回食べれば、一週間飢えない食品」を発明して、普及させようとした。実際には、1943年、蒋介石政府の救済キャンペーン中に、農民たちは毎日飢え死にして、それが常態となっていた。大通りで、野原で、駅のそばで死んでいた。総じて言えば、蒋の救済キャンペーンは、ただのドタバタ劇であった。白人、白人の政府、世界に見せびらかすドタバタ劇であった。

  1943年秋、イナゴの災害もやってきた。しかし、河南省の人が全て死んでしまうことはなかった。50年後には、中国で二番目に人口が多い省となっている。それは、中国政府が災害救援措置を実行したからか、それとも、イナゴが自分から飛び去ったからか。否。

  1943年冬、日本軍が河南省罹災地区に来た。罹災者が救われた。侵略者が罹災者に「軍粮」を配給した。

  生存のためならば、売国奴であれ、「漢奸(漢族の裏切り者が原意、転じて民族の裏切り者、侵略者の手先)」であれ、「私」の親族、友人、同郷人で、日本軍を助け、中国軍を武装解除した者は数えきれない。50年後、「漢奸」を追究するならば、皆そうだ。私たちは皆、「漢奸」の子孫だ。

  1944年春、日本軍6万人は、中国軍30万人を殲滅した。それは、日本軍の「軍粮」が民衆を救ったからだ。中国政府に腐敗がはびこり、民心を失い、政権を保つことができなくなってしまった。

  日本軍は比較的見識があり、民心の向背に注意を払った。「吃(食べる)」は民衆にとって根本的なものである。飢え死にして中国の鬼になるよりも、むしろ、飢え死にせずに亡国の民(奴隷)になりたいのか。飢え死にの瀬戸際にある罹災者は、この問題に直面したとき、後者を選択した。

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