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[情報の評価]『1439年、東西統一公会議』の現代的意味(1)
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投稿者 鷹眼乃見物 日時 2006 年 4 月 15 日 01:21:29: YqqS.BdzuYk56
 

[情報の評価]『1439年、東西統一公会議』の現代的意味(1)

<注>この記事は、2005.5.4 付toxandoriaの日記「『薔薇の名前』の時代、『1439年・東西統一公会議』の現代的意味(1)」を、その後の環境条件の変化などを考量しながらリメイクしたものです。

  ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』の時代に当る1327年頃のヨーロッパは、イタリア大詩人ダンテ(Dante Alighieri/ 1265-1321)が出現して『神曲』(1321)を出版(イタリア・ルネサンスの曙光)し、フランスでは詩人・作曲家フィリップ・ド・ヴィトリ(Philippe de Vitry/1291-1361)のアルス・ノヴァ(新・音楽技法の運動)が音楽に“伴奏を持った旋律”という新しい存在様式を発見し、美術史の上ではドウオーッチョ(Duccio di Buoninsegna/ca1260-1319)とシモーネ・マルティーニ(Simone Martini/ca1284-1344)に代表されるシエナ派や北イタリアで活躍したジェンテーレ・ダ・ファブリアーノ(Gentile da Fabriano/ca1370-1427)、ピサネッロ(Pisanello/ca1395-ca1455)らに代表されネーデルラント(ブルゴーニュ公国時代)の優れたミニアチュア(miniature/写本装飾の細密画)の影響を受けた国際ゴシック様式(1370〜1420年頃)の絵画が全盛期であった時にほぼ重なります。

  一方、イタリアのフィレンツェでは、中世美術様式の枠を脱し新時代のイタリア絵画の基礎をつくった天才画家(建築家)ジョット(Giotto di Bondone/ca1266−1337)が活躍していました。1334年には、ジョットがフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母子教会)の鐘塔(duomo/ドゥオモ)の設計に取りかかっています。しかし、この時代のヨーロッパは、やがて「英仏百年戦争」(1339-1453)と全人口が1/4にまで激減した「ペスト大流行」(1347-51)がもたらす大混乱に巻き込まれて行く運命にあります。余談ですが、直木賞作家・佐藤賢一の傑作小説『傭兵ピエール』の物語は、この百年戦争の末期ごろの1430年代を舞台に進行します。

  また、聖(教皇権)と俗(王権)の対決では教皇の「アヴィニョン捕囚」(1309-1377)によって、ローマ教皇権が衰退の兆しを見せ始めていました。それから、約20年後のフィレンツェでは、ボッカチオ(Giovanni Boccaccio/1313-1375)が近代文学の先駆けとされる短編小説『デカメロン』を、ペトラルカ(Francesco petrarca/1304-1374)が詩集『カンツォニエーレ』を発表します。ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオの文学の近代性の意味を一口で言えば、中世の口承型(吟遊詩人型)の文学から共通イタリア語(フィレンツェ方言が基盤)で記述する文学を確立したということです。いずれにしても、14世紀のヨーロッパはイタリア・ルネサンスの曙光がさし始めた時期ですが、それと同時に成熟しつくした封建社会の大きな矛盾がしだいに顕わになり、その内側からあふれ出そうとするマグマの予兆が満ちみちた時代でもあったのです。

  イタリアの記号学者ウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』は、ジャン・ジャック・アノー監督、ショーン・コネリー(イングランドのパスカヴィル出身の修道士ウイリアム役)主演によって見事な映像美の世界に脚色されましたが、この物語の舞台となっているのが「1327」年です。これも余談ですが、1986年制作のこの映画(http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD11812/?flash=1)によって、とうに70歳を超えた俳優ショーン・コネリー(http://www.asahi-net.or.jp/~rn6d-hnd/people/sean_connery.htm)は「007のスター」から脱皮して、魅力的な新しいキャラクターを創りあげ現在も名優として精力的に活躍しています。

  ところで、この時代の修道院のスクリプトリウム(scriptrium/写本室)と図書館(書庫)はまさに中世の「知識の宝庫」です。なぜなら、中世末期からルネサンス期頃になって漸く知の中心施設として大学が整備されるようになるまでのヨーロッパでは、修道院が「知識の集積」と「知的情報」(シンクタンク)の中心機能の役割を担ってきたからです。東ゴート族の王テオドリック(ca473-526)に仕えたローマ人カッシオドルス( Cassiodorus/ 490〜583)は、古代アレクサンドリアのムセイオン(Museion/図書館兼博物館)をモデルに大学と図書館とを兼ねたようなものの建設を考えていましたが、それが実現したのは540年ころで、図書館を併置したヴィヴァリウム修道院(Vivariumは現在のナポリ近くの地名)を創建しました。その写本(字)室ではギリシア語の文献がラテン語に翻訳されていました。

  このような仕事のおかげでギリシア・ローマの古典的な学問がヨーロッパの深層に残されてきたのです。その後、529年ころには、ベネディクトゥス(Benedictus/ca480-ca547)がモンテ・カッシノ(Monte Cassino/ローマの南、約130kmの地)に修道院を創りましたが、彼は厳しい「ベネディクトゥス会則」を定め、その中では読書と写本が日課として定められていました。やがて、このような修道院文化は特に大陸から遠く離れたイングランドやスコットランドで熱心に営まれるようになります。800年に即位したカール大帝(Karl 1/742-814)は、イングランドのヨーク出身の神学者アルクイン(Alcuin/ca730-804)をトゥール(Tours/この頃の中心地はアーヘン)に招聘して神学校と写字施設を設け、写本制作を命じました。これが名高い「カロリング・ルネサンス」時代の始まりです。中世の教育機関としては修道院のほかに俗人にも開放された教会付属学校があり、イングランドのヨーク、カンタベリー、フランスのノートル・ダム、スペインのバルセロナなどの教会付属学校がよく知られています。

  13世紀に入り中世も終り近くになると、フランス、イングランドなどの王権が強化されるとともに知的活動の中心は教会から大学に移り始めます。フランスではソルボン( Robert de Sorbon /1201-1274)が1250年に自分の名を付けた個人文庫をパリの学寮(ソルボンヌ大学の前身)に開設しました。1289年の目録によると、この時代の蔵書数は約1,000冊程度でした。オックスフォード大学の場合は、各カレッジの図書館ができるのは14世紀に入ってからのことです。このような歴史的経緯から、中世ヨーロッパの知の中心地は修道院であり、知識人の殆んどは聖職者でした。また、ヨーロッパ中世のキリスト教研究(学問研究)の言葉はラテン語であり、しだいにギリシア語の理解はごく一部の知識人に限られるようになったのです。例えば、ペトラルカもボッカチオもギリシア語は殆んど分らなかったとされています。ところで、エーコの小説『薔薇の名前』は膨大なキリスト教・哲学・自然学などの知識が物語の流れとともに多重構造で張り巡らされており、それが恰もWeb上のハイパーリンクのように飛び交い、そのリンク空間は情念と論理が目くるめくように交差する世界となっており、それが味わい深い独特の魅力を醸しだしています。ジャン・ジャック・アノーは、映像美によって、このように「濃厚な情念と知の世界」を見事に描いています。

  ところで、敢えてこの小説のエッセンスを抉り出せば、それは『“巧妙に隠された知”=真理』の発見ということです。12〜13世紀ころまでのヨーロッパの知(キリスト教学/スコラ哲学)の根本にはヘレニズム化した(*)古代ギリシア哲学が根付いおり、どちらかといえば、そこでは「プラトン流の知」が優勢でした。しかも、それはギリシア古典から直接学んだものではなく、あくまでもラテン語に訳された写本文献からの、いわば“又聞きの知識”に基づくものであったのです。ここで「ヘレニズム化した」ことの意味は、古代ギリシア哲学がアレキサンダー東征の時代を経て古代オリエントの宗教・文化と触れることで、それが彫塑的イメージを重視する方向へ傾いたことを指します。より具体的に言えば、そこではプラトンの理念的・理想的なイデア世界の形象よりも現実に存在する客観的・形態的な側面の反映であるアリストテレスの「現実世界における視覚イメージ傾斜型のリアリズム」(アリストテレス『詩学』/“美は(現実的な実在物の)大きさと秩序にある”)に重きが置かれたのです。そして、ここから現代に繋がる「近代化」への道が始まったと見做すことができるようです。

  一方、ギリシア語の原典からラテン語へ翻訳する流れとは別にアラビア語からラテン語へ翻訳されるルート(イスラム文化圏経由のルート)が、特に12世紀のヨーロッパへ大きな影響を与えたことが、近年の研究によって明らかになっており、この歴史的な事実に対する「12世紀ルネサンス」という呼び名が定着しつつあります。「12世紀ルネサンス」の大きな特徴は、その影響によって、13世紀以降になると神学解釈上(スコラ哲学)の天秤がプラトンからアリストテレスの方向へ大きく傾いたということです。およそ10〜12世紀頃のことですが、バグダードを中心に9〜10世紀に大きく花開いた先進的なイスラム文化(バグダード・ルネサンス)がヨーロッパの南から北へ流れ続けていました。主なルートはイベリア半島(スペイン)、南イタリア(ナポリ・シチリア)、ビザンツ(コンスタンチノープル)の三つで、バグダード・ルネサンスの精華(文献)がアラビア語からラテン語に翻訳されていたのです。

  アル・フワーリズミー(al-Khwarizmi/生没年不詳)の『代数学』(8世紀)とイヴン・スイーナー(アヴィセンナ/Ibn Sina/980-1037)の『医学典範』(11世紀)は12世紀のトレドで翻訳され、以降400年以上にわたりヨーロッパの各大学のテキストとして使われてきました。因みに、コンピュータ・プログラムやネットワーク理論の基礎知識である“アルゴリズム”(算術的論理)の呼び名は、アル・フワーリズミーの読みが訛った言葉の転用だとされています。「バグダード・ルネサンス」と「12世紀ルネサンス」のかかわりの研究で世界の最先端を歩むのは、パリ・第七大学のエジプト人教授ルシュディー・ラーシド博士です。現在、ここでは貴重な再発見が次々と続いているようです。また、フランス政府はイスラム文化の研究に一層力を注いでおり、ごく最近ではルーブル美術館の新しい企画としてイスラム美術の収集・研究のため大きな予算を計上したことが報道されています。

  このようにヨーロッパ中世〜ルネサンスの文化・情報交流史を概観すると、ヨーロッパ文化の末裔であり先端でもあるアメリカ・ブッシュ政権による「2003年3月19日・イラク攻撃」後の世界が、今やますます混迷の極みに近づく一方であるのは、現代科学技術の先端をひた走るユビキタス社会(ピア・ツー・ピア社会、http://www.nikkeibp.co.jp/news/biz06q2/501249/)の実現を目前としつつある我われが壮大な「歴史のアイロニー」の目撃者となる可能性がある恐るべき時代に生きていることの証なのかも知れません。そして、どうやら、その壮大なアイロニーの嚆矢は14世紀の『薔薇の名前』の時代の知的パラダイムの急転、つまり「現実世界における視覚イメージ傾斜型のリアリズム」が尊重されるようになったことにあるようです。なぜなら、それまでの知的パラダイムの基盤(=中世以前に生きた人々の世界認識の基盤)は視覚に偏るものではなく、むしろ五感(視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚)を内面的に綜合するものであったと思われるからです。無論のことながら国民層の大多数を占める、いわゆる庶民層の人々が「視覚イメージ傾斜型のリアリズム」に本格的に目覚める(ポピュリズムの時代が本格化する)のは、市民革命と啓蒙主義の時代を過ぎた18世紀末〜19世紀になってからのことです。

(To be continued)

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