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原理主義者がボルシェビキを受け入れろと講演してるぞ!(必見!)
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投稿者 姫 日時 2006 年 5 月 12 日 15:25:03: yNQo0naya4Ss.
 


「同時代を考える会」例会詳報

 テーマ「支援の論理 番外編」
        ・ゲスト=宮崎 学
        ・聞き手=岡庭 昇


http://www.amy.hi-ho.ne.jp/yumeno/miyazaki.htm


 私は、以前から宮崎学さんのファンですし、非常なシンパシーを持っています。これは、お世辞で言うのではありませんが、今、物書きに関しては、ろくな物書きがいない中で、非常に希有な存在だと思っております。
 
 昔、私が慶応大学の学生時代に、慶応の歴史に残る「授業料闘争」と言うのがありました。政治が嫌いな慶応で、ほとんどの学生にあたる三万人が、三田のキャンパスに集まったというような大闘争がありました。
 
 そして、それに引き続いて宮崎さんたちの活躍した、早稲田闘争がありました。これは、学内問題の闘争という意味では、時代も同じですし、非常に似ています。しかし、慶応闘争は、よく言えばロマンティック、悪く言えば甘い学生運動の最後の幕引きであって、早稲田闘争は、全共闘運動につながっていく、新しい時代の幕開けです。そう言う意味で、接しているけれども、はっきりそこで、ひとつの時代が転換しているという風に思います。
 
 当時、早稲田闘争の中で、こう言う噂をよく聞きました。「民青(民主青年同盟)は怖い」。意外や意外、あの「歌って、踊って……」おだやかな、弱虫の民青が実は非常に強い。あかつき部隊というまぼろしの部隊があって、それが怖いという話を散々聞きました。あとで『突破者』を読み、宮崎さんにお会いして分かりました。あれは、あかつき部隊というのが怖かったのではなくて、あかつきの中で、木刀片手に早稲田大学の校内をのし歩いた、宮崎さんひとりが怖かったのだ。今、分かりました。そういうことを含め、いろいろと親近感がありました。
 
 それから、例えば、たぶん宮崎さんにとっては、お父さんの代からのお付き合いだと思いますけれども、京都の「会津小鉄」という地元に密着した、伝統的なヤクザの任侠組織があります。この組織を対象に、私はテレビ・ドキュメンタリーを作ろうと苦労しました。それは、もちろん暴対法(暴力団対策法案)を批判するための番組でした。そして、ぎりぎり放送寸前になってつぶされました。誰がつぶしたかということは言いません。どこかの雑誌に梶原静六と書いてありましたけれども、それは、その雑誌の主張であって私が言ったわけではない。
 
 そして、その「会津小鉄」の高山徳太郎さんという会長は、非常に優れた人です。反権力的な高い意識を持ち、教養もある人です。私は、この方を尊敬しております。そして、高山さんとの取材でのお付き合いの中で、こういう発見をしました。高山さんをはじめ「会津小鉄」は、在日の人たちが圧倒的に多い。まず、あの大きな組織で三分の一は在日ではないか、という説があるぐらい在日の人たちの受け皿になっている。それからもう一つ、幹部の親分集の奥さんが、圧倒的に創価学会の人が多く、熱烈な創価学会員ということです。
 
 高山さんは、娘さんに言われやむを得ず入ったので全然形式的な会員で、まるで勤行もしていない、けしからん会員ですけれども、奥さんは、一生懸命勤行している。そういう出会いがありました。そういう中で、宮崎さんは、「会津小鉄」をはじめ、ヤクザ任侠の立場からの人権ということをかねて主張している。それは、私の中の主張と重なっているというシンパシーもあります。
 
 まず宮崎さんに、最初にお伺いしたいのは、宮崎さんが創価学会という新鮮な対象を見出していく、そこには、宮崎さんの半生の左翼体験を含めた、一種の総括が含まれていると思うのですが、そこの所をじっくりお聞かせ願いたいと思います。
 
──宮崎 こんばんは、宮崎学です。今日は、岡庭さんと同時代を考える会の方にお招きいただき、非常に喜んでおります。どうもありがとうございました。

 まず、岡庭さんのお話に答える前に、僕の立場というものを二つ明らかにしておこうと思います。それは今日、僕がこの会に参加させていただいた目的があります。それは、今日参加しているマスコミ関係者からも、先程質問を受けたのですが、やはり、国会の焦点になっている、盗聴法の委員会審議が、非常に急を告げてきているという局面を国会が迎えている。それは、当初から私のホームページをお読みの方は、既に分かっていただいていたと思うのですけれども、7月の24日の公明党大会以降の急激な政治の流れというのは、やはり、一つ明らかになって来たのだと考えています。僕が今日ここに来た目的の一つは、やはり、盗聴法案をどうつぶすか、皆さんに協力をいただきたい、ということを訴えたいのが一つです。
 
 それから、もう一つは、先程岡庭さんが言っておられたことと重なるところではあるのですけれども、果して、あの創価学会の名誉会長の池田大作さんが、どう考えておられるのか知りたいという欲求を持っています。この集会が、その足掛かりになれればいいという、二つの目的のために参加させていただきました。
 
 今日、実はここで話するにあたって、一体何を話そうかかと非常に悩みました。今の政治行政、いわゆる自自公の問題とか、公明党の右旋回の問題とかというようなことは、かなり言い尽くされていることであって、実は、それ自体としては普遍性はもうないのではないか。それよりも、僕の赤裸々な問題意識というものを、さらけ出していったほうが良いのではないかという風に考えました。
 
 それはどういうことかと言いますと、人はある目的のために組織というものを作っていくと思います。会社組織であれば、営利目的であったり、政治組織であれば、自分の政治的理念を実現するためのものである。そのように、人は組織を作っていくわけです。ところが、どの段階からかは別にして、ある段階から組織そのものが一人歩きをしはじめる。つまり、組織を維持することが一番大きな目的になっている。本来の政治目的を遂げるためには、遂げる目的のために作った組織が実は、本来の目的を見失って一人歩きしている。その過程でいろいろな問題が生まれてくる。
 
 僕が、日本共産党を離れた理由の一番大きなところはそこにあります。そういう風な僕自身の体験を踏まえて、組織というものが一体どういうものなのだろうか。組織が一人歩きして行ったときどんなことが起こって、何を生むのだろうか。こういう風な話をしてみたいと思います。それ自体としては僕のひとつのテーマでもあるのです。
 
 これと同時にもう一つは、時代の問題で見ますと、僕は戦前のファシズム=昭和のファシズムが形成されていった過程というものに対して、非常に興味がありまして、それなりに、取材を続けているわけなのです。
 
 その中で、僕が一番興味を持つのは、戦前の大政翼賛会が、文明的といいますか、文化的に完了するのは、何をもって大政翼賛会が確立したといえるか、ということを考えますと、それは、当時の被差別部落の運動をやっていた水平社が大政翼賛会に入ることによって、戦前の大政翼賛会は文化的に完成するのではなかろうか、という風に考えております。
 
 それは、岡庭さんなどはご存じでしょうけれども、今日は、あまり若い人が多いので、よくわからない人がいるかもしれません。実は、水平社運動というのを創設するにあたっては、大正デモグラシーの流れの中で、ものすごい大きな「アナボル論争」と言うのがあります。アナーキストとボルシェビキの論争というのが、水平社運動そのものの問題解決でもあったわけですけれども、最終的には、ボル派が勝って、水平社運動を進めていくわけです。
 
 そして、水平社運動が大政翼賛会に入っていく過程。つまり、一番虐げられている人たちの社会的な層というのが、むしろ、反社会的な運動を社会に対抗する運動を行うよりも、すり寄る形でのあり方を求めていったほうが、解放されるという風に実感したからではなかろうか。それは、戦前における差別が非常に強いものであった、ということから起因しているものだろうと、僕は思うのです。ただ、文化的、文明的といいますか、そういう意味においては戦前の大政翼賛会、つまり、ファシズムの体制の確立は水平社運動を取り込む形であったのだろう、という風に考えています。そして、近々それらに関するを本を出してみたいと考えいる次第です。
 
 それと同時に、僕は1960年代に入って、創価学会が中心として行ってきた、社会運動というものの質というものを考えるわけです。それは、私の場合は岡庭さんよりも少し若い世代で、1965年の早稲田入学になります。公明党が創設された64年の翌年だったと思います。当時、私は共産党だったものですから、共産党の選挙活動などをやるわけです。
 
 その時に、実は創価学会に対する違和感を持つのであります。その違和感というのは何かといいますと、それは、自分たち、つまりその当時の共産党が立っていた位置と、創価学会がある位置との差というものをものすごく感じたわけです。それはどういうことかと申しますと、簡単に説明いたしますが、東京大学や早稲田などで、戦前から共産党の組織の運動として、セツルメント活動というのがあります。それは、学生が地域社会に出ていって、子供の勉強の面倒を見る……を中心にするボランティア活動をセツルメント活動と言ったわけなのです。
 
 そのセツルメント活動の中に、今もあると思いますけれども、「坂下セツルメント」というのを学生がやっていました。坂下というのは坂の下ということなのですが、中心は、徳永直の『太陽のない街』に出てくる、いわゆる文京区の今の共同印刷があるところという風に考えていただければ、結構なのですが、その辺りでセツルメント活動を共産党は盛んにやっていた。学生の党員などと、その時のセツルメント活動をやっている人たちの話をすると、「社会の底辺にいる人たちに対するボランティア活動」──こういう風な認識がある。

 ところが、現実の姿を見てみますと、彼らがやっていたことは、「坂下」ではなく「坂中」だった。坂の上には、高級住宅地があります。坂の真ん中には、いわゆる中流家庭が住んでいます。「坂下」には、所得の低い人たちがいる。実は、その一番坂下を組織していたのは創価学会だった。僕はこう実感しております。それでは、その差というのは一体なんなのかということで、創価学会が行っている社会運動に対する見方というものを大きく、変えさせていただきました。

 つまり、戦後の60年代後半から起こる、大きな経済成長の過程で取り残されていった層。そこからドロップアウトした人たちを組織し、相互扶助し、自立して行こうということをやっていたのは、実は左翼ではなかった。むしろ、創価学会がそのことをやっていたのだという風に、創価学会の運動を捉えていました。

 先程岡庭さんがおっしゃったように、例えば、ヤクザの問題が出ておりましたけれども、ヤクザの奥さんというのが創価学会員が非常に多い。ヤクザというのはどうなのか。社会からドロップアウトした人間たちが、生きていくために集まったものであろうかと僕は思うのです。そこには、共産党というのは一人もいないだろうという風に考えております。つまり、社会のリアリティのある中での現実的な相互扶助、自立、その他の活動はむしろ、創価学会によってなされていたというモノの見方を私はしています。

 僕自身が共産党を離れて、その問題は組織と個人という問題で、あとでまた述べたいところではあるのですけれども、政治的な活動というものに対するアパシーというものを強烈に持つに至りました。政治などはどうだっていいやということで、その後、政治活動はあまりしませんでした。この盗聴法の問題に限っては、私のテーマでもあるので、今一生懸命やっておりますけれども、この問題が終わったらまた止めます。あまり興味ありませんし、できるだけ政治などには、関心を持たないようにしています。のめり込むと、無限に突っ込んでいかなければいけないという話になりますので、これは、私としてはあまり興味のないテーマではあります。

 ただ、私自身がそういう流れの中で、池田大作さんの著作も何冊か読ませていただきました。そして、読ませていただいた中で、一番感じたのは、ものすごく過激な思想である。これは、この社会に対するアンチの存在として、ものすごい過激な思想だというのが第一点だと思います。

 それから、もう一つは組織を作るという点においては、やはり日本における希有な存在だろうと感じました。それは、もう一方で私は、日本共産党にいたことがありますから、宮本顕治という人間に組織を作ると、組織のオーガナイザーとしてのモノを見るわけです。

 もちろん、批判的ではあるのですが、そういう点で、池田大作さんが、先程も言いましたように、今、現実的に日本の中、つまり、確たる基軸のないヌエのような全体主義化の方向。これは、辺見庸がそういう風に言ったわけでありますが、支配する側も確たる基軸もない。ただなんとなく、全体主義化の方向が進行していく過程の中で、果たして、今の公明党の行っているすべての政治的行為というものに対して、池田大作さんが、どう考えているのかということは、ぜひとも知りたいことである。

 つまり、先程言いましたように、戦前の日本の大政翼賛会の体制というのは、一番社会の底辺で喘いでいた、当時の水平社の人たちを取り込むことによって完成した。それでは、今における辺見庸が言うところの、ヌエのような全体主義化の社会というものは、これはいわば、政治的な体制の中では、公明党を取り込むことによって、始まるのではなかろうかという問題意識があります。

 やはり、そこのところを聞くにあたっては、組織のトップに聞きたい。これしかなかろうというのは、ざっくばらんに申し上げれば、公明党を中心として起こっている、政治的な現象というものに関して、池田さんは“NO”であろうという期待感を、私は持っているがゆえにそのことをお尋ねしたい。もしも、池田さんが“YES”であれば、それはそうなのだろうということなのです。ただ、先程言いましたように、僕としては創価学会そのものが、日本の所得の低い人たちを含む、底辺のいろいろな人たちの中にあって、左翼ができなかった社会運動として展開されてきた、その延長線上にある、とこう思うわけなのです。その延長線上にある創価学会が、その代表たる池田さんが、今の状況を容認することは、やはり、言語矛盾だとまで思っております。

 もちろん、その一方における政党ということで考えますと、政党というものは、時々主張やモノの考え方を変えるのが政党でありますから、それそのものを否定するわけではないのですが、存在そのものの否定まで至ってしまうものではなかろうか、ということを考えまして、ぜひ一度お会いして、直接お伺いしたい。それしか方法はなかろうと考えている次第です。

 もちろん、今回、私は連日のように国会に行きまして、盗聴法の問題が開かれている、現在参議院の法務委員会などの話を、見たり、聞いたりしているのですけれども、やはり、明らかに公明党の姿勢というのは、公明党の国会議員からは伝わってこない。何故、路線転換をしたのかという説明を誰一人として、はっきりと説明ができ得ない。これが現状であります。だとしたら、それを聞くには池田さんしかいないだろうと考えている次第です。あと組織、個人の問題に関しては、のちほど述べたいと思います。大きく言いまして、今日の集会に来た私の目的と、問題意識というものを述べました。

──岡庭 この集会においでになった問題意識と、私の反応とは少しズレるかもわかりませんけれども、今、お話を伺っていて大変文学的にも興味がありました。坂下セツルメントという説明を聞いた、その場所は明治時代の三大貧民窟の一つで、まさに坂上から坂下にかけて貧富の差が極端だった所です。一番低いところは、小石川植物園で、ここで石川啄木が急死しているわけです。まさにそういう場所である。

 そして、もう一つ、当然でそうであろうと思いながらも、感動的だったのは杉浦民平さんという人がいました。

 私が若い頃、新日本文学の大先輩の杉浦民平さんは、戦後すぐの戦闘的だった頃の日本共産党の活動家で、一生懸命故郷の渥美半島で農村の啓蒙運動をやっていた。あとで聞いたのですけれども、農村の一番貧困な、一番救われるべき層は革命に踏み切れない。その日暮らしですから、ちょっとボスに睨まれると終わりですから、貧困な人──本当に救いの必要な人ほど立ち上がれない。で、毛沢東のやり方をしたり、いろいろ勉強して一生懸命やったけれどもダメだ。
 ところが、ある日一番しんどい、一番動かない層が、創価学会員だと言って今度は胸を張って堂々と、地主と渡りあっている。それを見て民平さんは、創価学会に負けたという風に思った。それは、宮崎さんがおっしゃった体験とうまく重なりあったという感じがしました。

 また、そのあとでおっしゃったことですが、私は盗聴法だけが問題であるとは思っておりません。私は、ファシズム三法、あるいは四法と言っていますけれども、ガイドライン法案と盗聴法と、総背番号制と日の丸・君が代(国旗・国歌)問題は同じだろうと思っております。

 そして、そのことでちょっと推論が入りますので、確実なことは言えませんけれども、宮崎さんが心配しておられた点で、私ももちろん大問題と思っております。と申しますのも池田大作さんが近年、『小説 新・人間革命』という、『小説 人間革命』の続編を書くにあたって、その第1章のスタートを戦争花嫁=ジャパニーズ・アメリカン、非常に貧困な中で生活苦と戦った、ジャパニーズ・アメリカンの中でも特に貧困であった、戦争花嫁を冒頭に持って来ている。その次は、南米のやはり、貧困と戦った開拓民、日本から行った開拓民を主人公にすえている。そして、その先に出てくるのは、ドカン生活者という、つまり、これは戦後の引揚者です。若い人はご存じないでしょうけれども、引揚者というのは、それ自体差別語だったと思います。その引揚者を主人公にすえている。

 こういう緻密な計算。改めて今大きくなり、金持ちになり、権力をもってしまった創価学会が、もう一度原点に立たなければならない。「病人と貧乏人の組織」と言われた創価学会に戻らなければならない、という問題意識があからさまにあるわけで、そういうところから池田さんはスタートしている。ですから、私はこの推測自体はあまり意味はないと思いますけれども、現在の公明党のいき方が、池田さんの意思であるわけがない。これは、はっきり言えるわけです。

 それから、もう一つ、少し宮崎さんと意見が違うので恐縮なのですが、池田さんがどう考えているかを知る必要はない、と僕は考えています。つまり、池田さんにどうあって欲しいのか、創価学会員のほうが何を求めているのか、そのほうが重要だという風に考えております。そこまで感想を申し上げた所で、続きをお願致します。

──宮崎 少し脱線するのですけれども、今、岡庭さんがおっしゃった、坂下セツルメントという所の僕らの時代に、一番輝ける指導者は誰であったかと言うと岡光さん(元厚生省の役人)でした。岡光が一生懸命やった。彼は、そこで彼自身の家庭の環境・境遇ということを僕らに説明していました。つまり、母子家庭で、お母さんは厳しい生活の中で私を東大に入れてくれた。私は貧しい人のためにこの活動をやるのだ。彼の問題意識はそういう所にあった。だから厚生省に入った。ところが、厚生省に入った瞬間に変わるわけです。その問題意識は見事に消し飛んでしまって、彼は、結局(汚職で)逮捕されるまでに至る道をひた走りに走って行くということになるわけです。

 僕は、ここに一つの今の日本特有の、あるいは日本だけではないかもしれないけれども、その組織と個人の持つ関係というものを見ることができるだろうと思います。例えば、僕自身が日本共産党を辞める時、一番悩んだことは何であったか。ぶっちゃけたことを話しますと、何人か、何百人かの僕が入れた党員がいるわけです。組織を作っていくと、組織というものは戦いということを日常的にやっていくわけです。この部分が弱い、この部分を強化すればいい。あるいは、早稲田という大学の中であれば、この学部のこの学年が弱い。で、どういう風に核を作って、どう広げていくかというような、緻密な組織戦術というものを全部組み立ててやったわけです。

 それは、当たり前のことなのですが、そういうことをやりますと、今の自分が属している組織の弱さと強さとが分かる。分かると離れられなくなる。間違っていようがどうしようが離れられない。そこが一つ大きなジレンマとしてありました。まして、自分が入れた何百人かの党員がそこにいるのだ。そこにいて俺が出てどうなるかな。どうせ共産党中央は、全部査問にかけて締め上げてくるだろうと、この時に俺は耐えられる。そうではなくて、俺以外の人は耐えられるだろうかと非常に悩みました。やはり、僕はそういう時に組織と個人との関係を考えるに至りました。

 最初に言ったように、組織というのは目的のためにある。それでは、日本共産党というのは何のためにあるのかと言えば、日本革命を行うためにある。そうであれば、日本革命が行われれば何だっていいものだ。つまり、無くなっていいものだという発想を絶対に取り入れなくなる。まして、69年くらいの時期から日本共産党は議会主義の方向に移る。議会における多数派を占めようと言う。それが、日本革命の展望であるというようなことを言い始めるわけです。そうして、今までやってきたことを全部隠蔽するに至ったわけです。だいたい僕は、現実的にゲバ棒を持って殴っていたわけですから。でも、それは無かったというわけです。歴史としては、結局そういうものなのか。

 つまり、組織というものは、組織を維持せんがために嘘で固まってしまう可能性が非常に高いわけです。それは、ヤクザの世界でも同じだ、と考えるように最近は至っています。それは、ヤクザというのは社会からドロップアウトした人たちであり、ドロップアウトしたというのは、組織にも馴染めない、言葉づかいも乱暴な、勉強もできない、字も書けないという人たちが多いわけです。そういう人たちが生きていかんがために集まる。つまり、社会からドロップアウトして、まず組織を作ってしまう。今度は、その組織を維持していくための規律を決めていってしまう、ということの繰り返しをやっているわけです。もちろん、組織があったほうが組織がないよりも、いろいろな戦闘や、ヤクザ的に言えば抗争などということには便利です。つまり、組織が持つ指令性、便利だというあり方に騙されるというところが、人間としてあるのではなかろうかと思うわけです。そして、組織が一人歩きし始める。一人歩きを始めると、当然そこに腐敗が発生してしまう。

 腐敗とはどういうことかと申しますと、例えば、日本共産党の場合の腐敗と言うことになりますと、明らかに皆様もご承知のとおり、毎年、新聞発表になれば年間何百億円というお金が、機関紙の収入などでどんどん上がっていく。そのシステムを作っておけば、そこで何人かが食っていける。なおかつ、政治的に自分が正しいことをやっているかのような主張をしながら、それで生きていける。この安堵感の中にどっぷりと入っていってしまう。

 つまり、革命をやるよりも組織を維持するほうが重要になってきてしまう。こういうことになってきたわけです。これが、組織の弊害ということになると、いろいろな所に現れてきているだろう。だから、僕は創価学会の中は果たしてどうなのかという風に思います。

 例えば僕自身が、党派あるいは党というようなものは、政治的な目的のためには潰してもいいと思います。潰すことによって政治的問題が解決できるのであれば、喜んで何のためらいもなくつぶすことができるかどうか──僕は、何のためらいもなく、自らが作った組織を潰せることの踏ん切りのよさ、ケレンミのなさというものを、実は、池田大作さんの著作の中に感じていたわけです。

 だとするならば、今、創価学会や公明党に起こってきている現象というのは一体何だろうか、という風に思うに至っているわけです。確かに、言ってみれば世の中というのは組織社会ですから、組織というものがいろいろなものが生まれて、組織の幹部が生まれてきます。非常にたくさんの収入を得て、送り迎えをされて、先生、先生と呼ばれていれば気持ちのいいことです。むしろ、それを持続していくことに腐心してしまい、組織そのものをかけて社会を変革していく、という当初の組織を作った時の目的から、だんだん離れていってしまう。そういう悲しい現象が、やはり、日本のいろいろな組織でいま起こってきている。これが、今の日本の閉塞状況の一つではなかろうかと、僕はこう考えています。

──岡庭 今のことを、特に創価学会の参加者は考えて欲しいと思います。創価学会が自由な組織で、一人一人勤行し、唱題をしていく主体があって、そういう人間関係で集まっているわけですけれども、どうしても今、宮崎さんがおっしゃったように、組織の悪い法則があって、気づかずにいつの間にか組織と信仰が逆立ちをしている。どうしても本末転倒になっている。そこのところを充分考えなければいけないと思いました。先程、池田大作さんのことが話題になりましたが、それは、あとでまた述べることにします。

 宮崎さんにどういう風にお考えなのか、聞きたいことがあるのですけれども、私の見るところ、公明党の問題というのは、根本的に「政教一致」という間違った攻撃──「政教分離」していればいいというその間違った攻撃──が、政治的プロパガンダとして自民党から叩かれたわけですけれども、どうも公明党自身が、それを信じ込んでしまった。あるいは、もっと言えば、そのほうが楽だから信じた振りをした。そこに、実は今日の公明党の問題点が根本的に帰着すると思います。

 「政教一致」論議がありますが、一般には、政教分離でなければならないという論議が、何の疑問もなくすーっと通ってきてしまっている。だから、創価学会への攻撃は、政教分離と言いながら、選挙で公明党を応援しているではないか──という攻撃になるわけです。私は、政教一致でなければいけないと思うので、政教分離が今日の公明党の退廃の原因になっている。こう考えるのですが、宮崎さんの立場だったら、どうお考えになりますか?

──宮崎 僕も岡庭さんとほとんど意見は同じだと思います。僕も政教一致批判に対しては批判的です。「政教一致が何故悪いのか?」という説明が、まず一つもなされていません。それから、世界のいろいろな政党を見ても、キリスト教民主同盟を含め、アイルランドのプロテスタントの政党にしても、アラブにしてもしかり、政教一致政党なわけです。むしろ、その中身が問題であります。

 政教一致が憲法に違反するのだ、という論議だったと思うのですが、それは、その政教一致という平易な言葉ではなく、権力による宗教利用です。かつて日本が神道を利用したような、権力による宗教の政治利用ということに対する歯止めとして、日本の憲法は存在するのであって、当然、宗教をやっている人が、その宗教の延長線上に政治的に問題意識を持って政治活動をする。それは当たり前のことであって、それをやらないのであれば、宗教を辞めればいいのだ、と僕は考えています。

 そこのところの戦いをやはり、公明党はきちんとやらなかったのではないか。創価学会はやらなかったのではないか。そこが残念至極というところであります。

 例えば、日本共産党にしてもそういう歴史はあるわけです。暴力革命政党だという風なことを言われて、いや、私たちは平和革命を目指します、という形で対応していったわけです。僕は思うのですけれども、宗教家とかあるいは革命家とか、申し訳ないですけれども、それと並列的に言わせてもらえば、ヤクザというものは、世の中から白い目でみられ、差別をされる。それをエネルギーとして活動するというのが、それが正しいあり方だろうと考えるのです。だから、愛されるヤクザなどあり得ないし、愛される共産党などと言うのは間違っているわけです。

 むしろ、そこで社会的に受ける冷笑とか、言われなき差別、それをエネルギーとしてどれだけ自分自身を高めていくことができるか、内的に高めることができるか──ということがあろうかと思う。それを迎合する形でもって対応するといったところに、非常に大きな間違いがあったのです。僕は、日本共産党にしてもそうだったと思います。日本共産党の場合は、もっとひどい問題が一方であるわけです。それは、党内における民主集中性という問題です。それは、全くスターリン主義的な組織原則を、中央的な組織原則をまだ頑なに守りながら、一方では、政策単位に右転換していく。組織の締めつけだけは厳しくやる。旧態依然の方法でやっていく。こういう風なことで対応しようとしている。これは、二重の意味で誤りを犯している。僕は、創価学会の政教一致批判に対する対応も、政教一致で何が悪いのかという、そういう風な対応が何故できなかったのだろうか。そこの所を逃げてしまったのだろう。僕は、何故逃げたか、この辺が問題だと思います。

──岡庭 確かにそこに深刻な問題があると思います。単に逃げたから間違ったというだけではなくて、実は公明党にとってそれが楽だった。話は逆転しているわけです。それは私の考え方でありまして、客観的かどうかはわかりませんけれども、政教一致して政治をやっていくということは大変なことである。常に緊張して戦わなければいけない。それは、勤行をやることと同じことなので、勤行を楽なようにやってはいけないわけで、いくら楽でもダメなわけです。ところが、公明党は楽に政治をやりたいから、政教一致批判を、権力側が仕掛けただけじゃなくて、実にそれを喜んで迎え入れてしまった。そして、「創価学会は口を挟むな、票だけ出せ」という所まで落ち込んでしまった。そういう風に厳しく言っているわけです。

 我々の会の基本的な認識、公明党の定義ですが、「公明党というのは、創価学会という民衆運動の政治的な自己表現である」。そうすると、政教一致しなければならないとか、すべきであるとかしょうもない議論に囚われるのではなくて、当たり前のことを言っているわけだけれども、その当たり前のことに、今さら気づいた時に問題が始まったということです。そして、公明党は創価学会という民衆運動の政治的な自己表現であるのならば、今やっていることはなんであるか。全部逆立ちしている。

 先程、宮崎さんがおっしゃったことで、さまざまな推測が成り立つのですが、例えは、一つ有力な推測は、野中広務という、新宗連の自民党の幹部がいます。この野中との関連で、宗教基本法がある。「(オウムみたいな)組織は怖い」という、(若干の批判はありますけれども)オウムを利用すれば、宗教基本法なんていう、むちゃくちゃな法案でも通りかねない。いつでもどうぞと脅かして引っ張り込むという手があり、それについて言えば、土井たか子や管直人や不破哲三が公明党を批判することはできない。

 公明党をひいきして言っているわけではないのですが、公明党が危機感を抱く心理的な必然性はあるわけで、94年に宗教法人法が改悪された時に、今、野党の管も、野党というか議会内左翼ですね。管直人も土井たか子も、不破哲三も、みんな権力に賛成したのです。憲法、憲法といっている人たちが、「憲法の中に信仰の自由だけはいらない」と言っているわけです。

 ですから、公明党がどれだけ不安な立場になったか、を理解する必要はある。今度、権力が宗教基本法を通す時にオウム問題を利用すれば、簡単に通るぞと言った時に、(公明党の代弁をするつもりはないけれども)客観的にいって他の野党がどれだけ頑張ったか──そのことを押さえないで、今、民主党や社民党が、公明党がやっていることは不可解だと言う。何も不可解ではないのです。そういうもろもろな条件があって、公明党はこういう風に追い込まれているのだろう、と好意的に見ればそういうことです。これを悪意的に見ますと、言いたくもないことまで言ってしまうので、事情を知らない人には誤解を与えるだけですので、この辺にしておきます。

──宮崎 オウムの問題ということをいろいろ考えると、僕は、普遍性という中で見ていかなければいけないと思います。例えば、その茨城県のなんとかという町は、住民登録を認めないということをやっているわけです。その時の町長が言った理屈は、憲法に違反していることは分かっているけれどもやるのだ。こういう風に言っているわけです。つまり、これはものすごいことで、人がその人の属している身分、あるいは宗教、あるいは心情で差別されてはいけない。その最低限の普遍性を社会が破り始めているということだ、と考えるわけです。そうだとしたら一切普遍的なことで話はしないほうがいいし、選挙なんかもしないほうがいいかもしれない。「俺のこの町は、俺が町長なんだから、選挙というような制度は、法律にふれるかもしれないがやらないのだ」と言えばいいわけですから、人はやはり、その人が属している身分によって裁かれたり、あるいは、不当な扱いを受けるべきではない。それが、唯一の社会で与えられることのできる普遍性だろうと思うのです。それは、創価学会においてもそうだろう。

 つまり、創価学会であるからゆえに、差別を受けたり、あるい不当な扱いを受けるということがあってはいけない。これは、原則としてあると思うのです。現実の政治過程の中で、しかしながら、公明党や創価学会の人が、宗教基本法の恫喝の時に非常に恐れたと言うのです。恐れたのはもちろん、オウムに対するものすごい捜査というものを目の当たりにさせられた。まして、国会内部を見てみると宗教に関する意見としては、同情してくれそうなところはない。それどころか、「宗教はアヘンだ」という主張が圧倒的である。なおかつ、自民党の中をみると、新宗連というようなものに表れているように、反創価学会的な流れが非常に強い。

 こう言った包囲網の中で、非常な危機感を持ったのだろう、その危機感を持った時に、党内的にどういう形を取ったのだろうかと考えるわけです。僕は、実はあまり公明党のこの間の歴史ということに関して、関心がなかったものですから、勉強もしていません。ですから、僕自身の直観的なことで誤っていれば、訂正していただいていいのですけれども、やはり、神崎のように検察のヤメケン(元検事)を導入することによって、政党的な色彩を強めていった。つまり、検事を引っ張り込むことによって、法律の適応に対抗しようとした。こういう流れが一方であるのではなかろうとかと思うのです。

 これは、法律の問題ということで言いますと、公明党はそういう方向を取ったのだろうけれども、社会党や共産党は逆に弁護士を入れるというようなことでやっていた。それはそれで同じようなことだろうと思うのです。しかしながら、検察を党のような所に配置することによって、弾圧を回避しようということは、公明党の危機感の深さを表しているのだろうという風に考えています。

──岡庭 公明党の問題について言いますと、今、私はつい言い訳をしてしまいますが、いろいろしんどいことはあるわけです。今、宮崎さんが言っていただいたような、のっぴきならない問題を抱えている。しかしながら、それを許せないという結論は、やはり許せないわけです。

 そうやって考えていきますと、最近私は、公明党のその時その時の政策や自民党との付き合い方が問題である以前に、なにか本質的に考えなければいけないのではないか。それは、どういう意味かと申しますと、創価学会という民衆運動の歴史が、何故、基本において偉大であったかというのは、何よりも宗教という出発において、戦後、疾風怒濤の勢いで、創価学会がスタートした時、宗教であると同時に、宗教のワン・オブ・ゼムではなくて、宗教であると同時に猛烈な宗教批判だということです。それを簡単に言えば、折伏ということになるわけですけれども、その宗教批判であった宗教が同時に宗教批判であった。それは、今でも健在です。

 しかし、一方であわせて文化を持っていこうとしたり──この文化を分かりやすい例で言いますと、創価大学と潮と公明党となるわけですが──文化を持とうとした時には、ちっとも文化批判はなかった。要約して縮めて言ってしまうと、結局は「第二の東大」、「第二の文春」を持とうととしている。公明党が「第二の自民党」になるのは、理の当然なのだ。本質的に宗教のあり方と、持とうとした文化のあり方の問題があるのではないか。

 一方では立ち入った話、創価学会のメンバーでなければ、なかなか分からない話ですけれども、何年か前にルネッサンス運動というものがあって、それは、宗門と手を切って、坊さんが偉いという仏教と決裂をし、決然として、在家宗教、在家仏教に踏み切ったわけです。

 つまり、これは画期的な試みで、僧侶は偉いという既成仏教の基本を否定した。こうやって日常の中で働いている我々=俗人が偉い。俗人が主体なのだという運動に踏み切ったわけです。それは、創価学会の画期的な転換である。そうであるならば、その先が必要であろうと私はよく言うわけです。もう一歩先を言えば、聖なるものと俗なるものという従来ある2元論があります。

 中野孝司さんの「清貧の思想」という、清貧であって当たり前の人しか出てこない、良寛というような世の中で生きている人は出てこないので、世の中で生きている人は清貧にはなれない、という絶望的なのですけれども、それはともかくとして、聖と俗という立て分けをやめて、俗なる生活を営んでいる私たちが同時に聖なのだ、そこへ踏み切ったというのは画期的なことである。非常に画期的なことをやったのだけれども、画期的な自分に(創価学会自身が)気がついていない面があるのではないかという気がします。

 いまだに、我々は俗だから、俗の在家運動だから、俗が聖なのだ、という風に開き直れなくて、信仰は聖であるけれども、俗は俗でいいのだという2元論が根強い。この場合の俗は公明党の部分のような気がします。一生懸命、勤行しているのだけれども、これ(政治)は別、こちらはなんだっていいのだ、今がチャンスだから政権に入ろう……としている。これは類似しているけれど、公明党の問題ではなくて、創価学会の新しい展開のドア口に立っているのだけれども、同時に危機であるという現状なわけです。

──宮崎 僕自身の非常に大きな興味として持っているのは、カリスマ的なのが組織なわけです。創価学会そのものは、やはりそれは一代で終わるべきだ。僕は、そういう意見を持っています。一代限りでどれだけ行き着けるのか、たどり着いたところから、また、ほかの人がスタートしていく。そういうものでいいだろう。そのほうが現実的なラディカルな、もとラディカルな側面というものは出てくるだろう。そこで、展開されたものは、さらに継続をして、次の代の人に、まして、息子さんに継なぐというようなことがあるとするならば、それは、宗教としてはどんなものなのだろうか。一番、否定しようとしたことなのではないのかと考えるのです。僕自身が北朝鮮の金日成と金正日の関係に関して、批判的なのと同じ理由なのです。

 もう一つ、これは、宗教とヤクザとを一緒にするなと、怒られることを覚悟の上で言います。ヤクザは、実子にあとを継がさないのです。それは、何故かというとヤクザはヤクザで一杯いろいろな問題を抱えるわけで、先代がものすごく偉大な親分だったかもしれないけれども、それを実子に継がれると、今まで悪い弊害が一杯起こったという経験則がある。よって、かならず博徒と言われる人たちは、自分の子供に次の代は継がせない。ワンクッションかならず置くという、方便を使うところが非常に多くなっているわけです。つまり、僕は、ほぼ人間のあり方というものを考えますと、それは一代限りでいいだろうと思います。そうした時に、始めて見えてくるものがいっぱいあるのではないか、なんとかこの組織を維持しなければならないとか、何故ということが出てくるわけです。それは、創立者の方の、立派な考え方を世の中に広めなければいけない、残さなければならない、というようなことになってくると思うのです。つまり、カリスマ性の強い組織ほど、一代限りでいいという考えを持っています。

 二番目には、もう一つの側面を考えていただきたい。それは、創価学会ということに限らず、組織というものを作って、自分たちの組織外の人に、自分たちの考え方を広めようと考えるわけです。僕は、ここに誤りがあるのではないかと思うのです。それは、どういうことかというと、例えば、ある考え、Aという考えがあって、Aという考えを世の中に広めようとした場合、Aという考えを持っている組織は、それ以外の人たちよりは偉いということになるのです。つまり、人にAという考え方を啓蒙する立場になるわけです。僕自身は、そこにAという考え方の根本は、本当に啓蒙するということなのかどうか、だと思うわけです。

 それは、自分の内的な面における充実の問題であって、それを人さまに自分の考えを啓蒙するということではないのではなかろうか。このような考え方は、極少数の人間、少数もいないのではないか、という話なのですけれども、ただ、現実的な社会の状況を考えますと、政党にしても、あるいは市民運動とか労働組合運動とか、いろいろな社会運動があります。それぞれが組織を作って、自分の考えを社会の世の中の人に伝えようとする。その時は、必ず啓蒙主義的な傾向に陥ってしまうわけです。そして、それぞれがピラミッド型の組織をいっぱい作るわけです。

 例えば、創価学会や公明党がどうか、というのは僕は分かりませんけれども、日本共産党の場合でしたら、日本共産党の周りに赤旗の読者がいる。民商の会員がいるという風に、同心円的な組織を作っていくわけです。この同心円がもっと大きくなれば、革命が起こるのだという話になっているわけです。この種の同心円は、あらゆる所にいろいろな形で生まれている。そして、同心円と同心円が重なったところで、いわば対立がある。こういうようなものだったのだろうと思います。

 僕は、同心円的なおかつそれは、日本共産党の場合は、立体的な円錐型の組織を作るわけです。日本共産党中央委員会幹部会というのが上にある。そのもとの同心円的円錐型の組織を大きくしていく。これが、日本の革命を起こすことであるという風に考えてしまう。このようなものがたくさん世の中にできても、あまり意味がないのではないか。僕は、むしろカリスマ性のある組織があったとして、カリスマ性のある組織から、他の組織に横に移動できる、横に超えることのできるような、そういう幅の広さというものがあった時に、はじめて組織というのは、組織としての本来的な意味を持つのではないかという風に思うのです。

 これは、吉本隆明さんが横超という横に超える、横超ということで言っています。日本の転向という問題に関わってくるのです。例えば、日本の転向というのは、東大の藤岡信勝という人がおります。彼も、日本共産党だったわけですけれども、共産党という所にいた人間が今度は右に移る。しかし、やっていることの中身はほとんど変わらない。言っていることだけが違ってきているという風なことだろう。

 つまり、内面的に超えれない、超えれることができずに、外見的に横に平行移動する。左だったものが右に移るというような転向しかない。だから、日本の組織社会というのは、こういう風なことを繰り返して来たのだろう。それは、裏切り者になるわけです。そういうことの繰り返しの中では、あまり進歩はないのではないだろうか。そういう点でカリスマ性組織を含めて、組織社会というものを考え直すべき時が来ているのではないか。そうでないと、その組織そのものの維持のために汲々とすることによって、とんでもない弊害が生まれてくる可能性が高いのではないか、と考えているわけです。

──岡庭 これは、まさにおっしゃるとおりです。それを平たく言いますと、創価学会も大きくなりすぎたということは、明らかにいえると思います。ただ、私はおっしゃるとおりと思うのだけれども、そういう風にだけ言えるかなぁ、あえて違うところもあるのでは、と思う。例えば、創価学会という「志」の集まりが、実質上は組織の工作の論理に、逆立ちの本末転倒に巻き込まれているだろう。

 しかし、どこかでまだ再出発をして、(精神医科医の斉藤学さんが言うような)魂の家族、というような試みが一般的に絶望的なのかどうかというと、やはり、私はそういう論理はないのだ、と断定はしたくない。ですから、もう一度創価学会は、組織のための組織ではなくて、魂の家族をそれぞれに求めたはずの原点を考え直せば、この組織は再び活性化するという風に私は信じている。そのために、いろいろな困難はもちろんある。

 それから、おっしゃったことを言いますと、カリスマという意味は、ちょっと多種多様だと思うのです。池田さんという人について言えば、膨大な著作を出されていて、しかも、刻々と出されている。講演などの記録とかを通じて、その都度、全ての会員とは言いませんけれども、私が知っている限りのここに集まっているようなレベルの人たちは、その都度検証しているわけです。池田さんの思想は自分の思想たり得るか──とやっているわけです。それは実に刻々と出ている。しかも出るものが衰えるどころか、むしろ、最近もっとよくなっている。そういう検証にさらされているという意味では、精神的なカリスマではあるのだけれども、組織的独裁者ではないだろう、と私は経験上思うのです。

 それから、もうちょっと突っ込んでみますと、組織的にはむしろ除外され、権力もあまりないのではないか。そこまで言ってしまうと推測になりますけれども、ですから、カリスマの問題はおっしゃるように一般論的にはありますけれども、私は、今の創価学会に解決しなければいけない問題はそれではない、と私は思います。いろいろと問題はあるけれどもそれではない。

 それから、やはり組織原理といいますか、組織至上主義と言いますのはおっしゃるとおり、創価学会もむしばまれているとはっきりいえると思います。ですから、今一度、魂の家族を作るための運動なのだ。本来は、もともと一人で御本尊を前に、一人で勤行し、唱題していればいいのですから、それが何故集まっているのか考えた場合に、魂の家族ということをきちんと考え直してもらいたい、と私は思います。そのことにとっての、その作業にとっての一番の桎梏は、やはり公明党だ。創価学会にとっての桎梏は、公明党なのだという非常にマクロ的な話ですけれども、実際にそうなのです。ですから、そのことをいろいろな形で確かめ直さなければいけないという風に思います。
 
──宮崎 僕は、そういう点で共産党を含む左翼的な運動の中に、身を置いたことがあるのですけれども、。一つその時の問題意識の中にあって、いまもまだ未解決でいる問題もあるわけです。それは、例えば、左翼とか共産党というのは労働者階級のためや、人民のためというような、立派な目的を唱えるわけなのですが、実質的にやっていることは自分のためにしかやっていない。これが、実情だったのではないか。僕は、いままでの日本の左翼の運動をそのように捉えているわけです。自分のための革命であった。しかし、それもできないということなのです。人のためではなかったのではないかと思うのです。だから、そういう点では、創価学会などの運動のほうが現実的で、人のためになっていたのだろう。僕は、共産党の運動に比べれば、はるかにそうだったのだろうという風に見ています。

 ただ、その現実性というものが政治のためになってくると、その現実性というのが非常に歪曲してしまうということだと思うのです。現実的に、今、この時代を迎えて、ここにお集まりになっている方、ひとりひとりに一度聞いて見たい。今回の国会でガイドラインから、ここまで行くと思ったでしょうか。皆さん、最初からここまで考えていた人がいたでしょうか。ここまでということで考えていたのだろうか。僕は、実はここまで行くとは考えていなかった。それは、公明党の問題が、もう少し装った形で出てくるのではないか、と思っていた。ここまで露骨に出てくるとは思わなかったわけです。

──岡庭 今の政治や、マスコミの専門家ほど考えていなかったと思います。私も考えていませんでした。つまり、それだけ公明党は酷いわけです。ガイドラインはアメリカにものすごく要請されているので、やむを得ない。やむを得ないにしても、だまし討ちのようなあんなやり方する必要はなかった。それから、盗聴法と総背番号制はですね、官僚は諦めていたので、自民党はやる気がなかった。やる気がないのに無理やり通してしまった。もういい加減にしろとおっしゃるのも、当たり前です。予想していたとしたら、それは事情を知りすぎているので、プロほど予測していなかった。


(私のコメント)

宗教のピラミッド型に対して円中心??中心を柱に外郭が広がる??
原理主義者も末期症状だな。ヤクザが部落民を右翼に引き入れて成功したとかほざいてるし、共産党も右翼もスパイが活動しやすい組織をつくるためのものでしょ。

ったく!ボルシェビキを受け入れない国は腐敗が始まるなんてさ。これがレオ・シュトラウスの全体主義に繋がるんかね〜。

彼らは日本を破壊に導く工作員だ!こいつらこそが腐ってる!


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