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ヒトラー・ユーゲント 第2章
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投稿者 hou 日時 2006 年 5 月 27 日 02:07:31: HWYlsG4gs5FRk
 

(回答先: ヒトラー・ユーゲント はじめに 投稿者 hou 日時 2006 年 5 月 27 日 02:04:28)

http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~tamaki/joyama/joyama2000/kwmr2.htm

第2章 ヒトラー・ユーゲント

 

第1節 ワイマール期のヒトラー・ユーゲント

 この章では、ナチスの青少年団体であったヒトラー・ユーゲントとはどのような団体であったのか、ということをみていく。主にその組織的発展、法律による強制的な統合の面、また、その統合に反抗した若者たちについても触れることにする。

 ナチスの組織する青年運動は、最初各地で自然発生的に生まれ、活動も形態もばらばらであった。最初のナチスの青年グループは、1921年、ニュールンベルク市に誕生した「祖国団」であるといわれている。14歳の少年を指導者に、このグループはナチス党員の子供の集まりとして組織されたが、青年運動といえるほどのものではなかった。党と別組織(突撃隊の行進育成組織)の青年グループ「ユングシュトゥルム・アドルフ・ヒトラー」ができたのは、翌22年のことである。ヒトラーが党に対する回状と、すぐそのあとに党新聞で発表した声明でそれを要求したのである。「ユングシュトゥルム・アドルフ・ヒトラー」の団員は、翌23年、マルフェストで開かれた第一回党大会で、突撃隊(SA)、親衛隊(SS)の行進の隊伍の中に姿を現した。しかし、同年秋ヒトラーが企てたミュンヘン蜂起の失敗の結果、党の禁止と運命を共にして、突撃隊年少部も解散し、消滅した。1925年、ナチ党再建の直後の4月、ザクセンのフォークトランドで、K・グルーバーが最初のナチス青少年のグループを自主的に組織した。ヒトラーによって、このグループは、はじめて「ヒトラー・ユーゲント」の名称を与えられた。フォークトランドで始まった運動はR・クーゲルの指導と活動によって、やがてフランケンに拡大し、多数のヒトラー・ユーゲントの地方分団が生まれた。注目すべきは、すでにこのころから、早くも青年獲得のために青年労働者をターゲットと考えていたことである。ヒトラー・ユーゲントは「ドイツ労働青年同盟」という別名を利用し、各地の労働者街に進出していた。翌26年ナチ党の下部組織である突撃隊(SA)の一部門として正式に「ヒトラー・ユーゲント」が結成された。

 ナチ運動にとって伸び悩むこととなったワイマール共和国の相対的安定期に入ると、ヒトラー・ユーゲントは確かに活動と組織を整備し、団の勢力も次第に上昇線を描いてはいたが、まだ大衆的な運動に躍進する機会をつかんではいなかった。1928年には、バードシュテーベンでヒトラーユーゲントの最初の全国大会がもたれ、翌29年のニュルンベルク党大会で、ヒトラー・ユーゲントとして正式に姿を現した。しかし、その行進の隊伍は、まだ2000名の青年で編成されていたにすぎなかった。

 しかし、その後1930年には団員数が1万8000人を数え、当時のヒトラー・ユーゲントが党指導部に当てた秘密報告では、団員数は32年1月、3万7000人、3月には7万2821人となっている。そして、ヒトラー・ユーゲントは、突撃隊とともに、32年4月から6月まで活動禁止処分を受けているが、32年末には団員数を10万7956人としている。ただ、この数字はヒトラー・ユーゲント側の報告なのであまり信用はできない。

 団員の社会構成については、指導者の1人であるカウフマンによれば、1931年には、青年労働者と徒弟が69%、商業関係の職業が10%、ギムナジウムなどの中等学校の生徒が12%となっている。このことは、この時期のヒトラー・ユーゲントは、ワンダーフォーゲル、「同盟系」青年運動が上・中層階級の運動であったことを考えると「プロレタリア的」青年運動であったことを示している。

 それでは、ヒトラー・ユーゲントとはどのような組織だったのだろうか。まず、ヒトラー・ユーゲントは、「同盟系」青年運動の外面的装飾物を採用したところがある。どのようなことかといえば、制服と組織構造を引き継ぎ、旗を掲げ、多くの青年運動の歌を(自分たちの歌とならんで)歌い、戦争ゲームをやった、というようなことである。しかし、根本的にはヒトラー・ユーゲントは「同盟系」とは別物であった。「同盟系」の第一の関心事は、集団生活と個性の教育であったのに対して、ヒトラー・ユーゲントは主として突撃隊ないし親衛隊の未来の隊員のための訓練機関であった。また、活動の面にしても「同盟系」は、森に引きこもって隠遁したり、外国まで長期の旅行に出かけたのに対して、ヒトラー・ユーゲントの主な活動は、大都市の街頭を派手に行進して世間の目をひくことであり、 この他にもナチ党の勢力拡大のためのプロパガンダ活動、選挙闘争、党の他の組織が開催する催しへの動員など圧倒的に政治活動であった。 

 この時期に、ナチ党が手にしていた青少年の数は、誇張部分を最小限に差し引いてもせいぜい10万人くらいで、他の青年団体に比べれば全くの少数派でしかなかった。確かに、ナチ党としては成功を収めた。だがヒトラー・ユーゲントに限れば、ワイマール期の多様な青年団体から若者たちを大量に奪い取るほどの権力も魅力も持たなかった。この時期においてはまだヒトラー・ユーゲントがどのような組織になるのかは、流動的であったのである。

 

第2節 ナチス政権獲得後のヒトラーユーゲント

 1933年1月30日のヒトラー首相就任によるナチ党の政権掌握後、ヒトラー・ユーゲント指導部は、全ドイツ青少年の組織的掌握に向けて動き出すことになる。「国民社会主義労働者党がいまや唯一の政党なのであると同時に、ヒトラー・ユーゲントも唯一の青少年組織でなければならない。」というシーラッハの考えの下で、各青少年団体の禁止措置、ヒトラー・ユーゲントへの吸収、すなわち青少年団体の強制的同質化が開始される。

 1933年4月5日、シーラッハはヒトラー・ユーゲント部隊を動員して、ベルリンの「全国委員会」の事務所を襲撃し、機関自体の指導権を横取りした。この行動により、シーラッハは他のすべての青少年団体の情報を入手し、ユダヤ人と社会主義系青少年団体を「全国委員会」から締め出した。共産党系の組織は一足先に禁止されていた。その直後、シーラッハは「このたびヒトラー・ユーゲントが入手した重大な資料によって、これ以上全国委員会が存続するとドイツ青年に恐るべき危険がふりかかってくるということが判明した。」との声明を出し、無理やりこじつけて他団体排斥に利用した。同年6月17日、ヒトラーはシーラッハをドイツ帝国青少年指導者に任命した。シーラッハがドイツ帝国青少年指導者に任命されたその日に、「全国委員会」の解散と、一章でも少し触れた、「同盟系」青年団体の大同団結組織である「大ドイツ同盟」の禁止が命じられた。6月24日、シーラッハはこの就任にあたって、「200万人ドイツ民族同胞は、大戦争の戦場で諸君のために殺された。200万人の死者たちは、その生涯で最もつらい時期に熱望し、感じ取っていたことを諸君がかき消してしまわないことを求めている。それゆえ、我々は前線の伝統の担い手となるのである。」と決意を表明した。すでにこの時点で「平和」の名の下に青少年の戦争準備が求められていたのである。

 他の青少年団体も禁止されるか、解散させられ、ヒトラー・ユーゲントに吸収されるに至った。その後、ヒトラー・ユーゲントは、各青少年組織に属していた青少年を次々と吸収し、急速に団員数を伸ばしていくことになる。国家青少年団体への発展に向けてその一歩を踏み出したのである。

 団員数の増加に伴い、組織も整備されていった。1933年7月1日の時点で、性別と年齢に応じたヒトラー・ユーゲントの4つの区分が確定していた。10歳から14歳までの男子が〈ドイツ少年団〉に、15歳から18歳までの男子が〈ヒトラー・ユーゲント〉(「狭義」のヒトラー・ユーゲント)、10歳から14歳までの女子が〈ドイツ少女団〉、15歳から21歳が〈ドイツ乙女団〉にそれぞれ区分されていた。それぞれの組織は、管区―部隊―大隊―中隊―小隊―班というピラミッド構造になっており、帝国青少年指導部が全てを統括していた。このように、ドイツの青少年を各地方に至るまで全て把握するためのシステムは少なくとも制度上は確立していたのであった。

 しかし、ヒトラー・ユーゲント団員数の発展状況を見てみると、ヒトラー・ユーゲントにとって14歳から18歳までの青少年を掌握するのが困難だった事が示されている。 ヒトラー・ユーゲント側はこの年代の青少年、特に青年労働者や徒弟をヒトラー・ユーゲントに組み込むための方策をとったり、あるいは魅力的な活動を実施して「自発的な」入団を促進しようとしていた。この点については第三章で考察する事にする。

 1936年12月1日に「ヒトラーユーゲント法」が発布された。この法律は、ヒトラー・ユーゲント入団の義務化を明示したものではなかったが、「ドイツ帝国領土内に居住する全ドイツ青少年は、ヒトラー・ユーゲントに総括され」(第一条)、家庭と学校以外においては、ヒトラー・ユーゲントが「身体的・精神的・道徳的に、国民社会主義の精神に基づいて、民族への奉仕と民族共同体の目標とする教育を担う」(第2条)ことが確認された。このヒトラー・ユーゲント法の発布は、1935年3月16日の一般兵役義務の開始、同年6月26日の労働奉仕の義務化と連動する形で、「ヒトラー・ユーゲント―労働奉仕―国防軍」というナチ教育システムの確立を宣言するものであった。

 しかし、ヒトラー・ユーゲントは官僚的な大組織として確立されるのに伴い、青少年たちの自由時間まで拘束するようになり、そのことに反抗する若者たちも現れてきた。「同盟系」の生き残りや組織とはいえない逸脱集団(特に有名なのは「エーデルワイス海賊団」)が次々と出現したのである。これらの若者は、ヒトラーユーゲントの団員、とりわけその指導者やパトロール隊に絡んだり、喧嘩を売ったり、そして襲撃することが多かったのでヒトラー・ユーゲント指導部としてもその存在は、悩みの種となったのである。

 このような逸脱行動が増加した原因はヒトラー・ユーゲント自身にあるといえるだろう。 若者たちの反抗の理由は、ヒトラー・ユーゲント勤務義務を強制するためにとられた規律化と監視措置によって、ただの仲の良いグループなどの日々の娯楽までが犯罪的であるとみなされるようになったことや、彼らと同年齢のパトロール隊が有無をいわせぬ権力を主張したこと、などであった。第三帝国下にもかかわらず、ではなくて、第三帝国下だからこそ、若者たちの逸脱行動が増加したのである。

 

第3節 戦時中のヒトラー・ユーゲント

 第二次世界大戦勃発をひかえた1939年3月、ヒトラー・ユーゲント法施行規則が制定された。この規則により、ついにドイツの全青少年男女のヒトラー・ユーゲントへの服務が義務化された。9月1日、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まるわけであるが、それとともにヒトラー・ユーゲント団員たちもまさに多種多様な活動に動員されることになった。動員された団員の数は、最初の1ヶ月ですでに延べ109万1000人に及んだという。

 彼らは、具体的にどのような活動をしていたのかというと、まず男子団員は、党大管区、管区での伝書任務、防空団、病院、国防軍事務局のための報告任務、配給切符や配給品の配布、駅業務、防空壕の構築、国防軍の移動の際の荷物積載の補助、公的な仕事への労働派遣、避難民の世話、国防軍や避難民移送の際の食事の引き渡し、避難民を宿泊所まで案内すること、当火管制下の道案内、警察補助、口コミ宣伝に対する闘争、装備品の回収に従事した。

 女子団員は、駅業務、幼稚園の設営や運営、救急隊員としての訓練、防空方策、野戦病院の補助、食料の引き渡しないし分配、国防軍や避難民の移動、子供の多い家庭での手助け、生活用品店の手伝い、避難民の世話に動員された。この他に農村奉仕、古物回収、募金活動にも動員された。このように、戦争初期においては、前線に召集された大人たちの穴埋め的活動としての銃後の活動が中心であった。

 しかし、それも電撃戦による楽勝の時代のことで、1941年冬にドイツ軍がモスクワで敗北したことによって、青少年の戦争動員は、その一部が戦闘への直接的な参加に転喚していく。この転換を明示していたのが、1943年2月に男子を対象として開始された空軍補助動員であった。まず動員されることになったのは、1926年生まれと27年生まれのギムナジウムの生徒たち(この時点ではほぼ15歳と16歳)であった。4月の時点で3万4000人が動員されたという。勤務内容は電話番、伝令、レーダーや照準算定機の操作、事務などとしていたが、訓練後に補助員の発達段階に応じて高射砲射撃手として配属する事ができ、重高射砲での勤務も著しい身体上の負担がない勤務に限って可能であった。しかし、その後すぐに通常の高射砲兵士とほとんど変わらない役目を担うようになった。

 ヒトラー・ユーゲントの団員を戦闘に動員しようという動きは、空軍補助員にとどまらなかった。1943年6月、ヒトラーはヒトラー・ユーゲント指導者アクスマンとの協議の後、「親衛隊機甲師団ヒトラー・ユーゲント」の設立を命じた。ヒトラー・ユーゲントが17〜18歳の団員を募集し、その軍事キャンプで即席の訓練を行った。8月にはベルギーに最初の1万人が集結していた。44年6〜7月にフランスで英米連合軍と闘い、短期間に半数以上が死亡したという。44年9月には、ヒトラーが16歳から60歳までの男性は国民突撃隊を結成するようにという有名な命令を出した。これに続いて、ヒムラーは10月1日に、1928年生まれと29年生まれの男子(ほぼ15歳と16歳)がこの国民突撃隊の中で特別部隊を結成するように指令した。これらの男子の掌握と訓練はヒトラー・ユーゲント指導者にゆだねられ、軍事教練キャンプで16歳は6週間、15歳は4週間の軍事訓練を受けることとされた。この短い訓練期間の後に青少年たちは、無意味な死、という悲劇への道を歩んでいくことを余儀なくされたのである。

 敗戦の直前、いくつかの都市では、連合軍の侵略に対してヒトラー・ユーゲント団員が最後の抵抗を試みた。こうした行為のために、戦闘は再開され、それぞれの都市は壊滅的に破壊され、住民の状況はいっそう悪化した。例えば、戦争が終わりを迎えようとしていた1945年4月30日、メクレンブルク州のマルヒンというほとんど破壊されていないこの都市をソビエト軍が占領した。しかし、しばらくすると、隠れていたヒトラー・ユーゲント団員が発砲を始め、ソビエト軍兵士を数人殺害した。その結果、報復で火が放たれて大火災が生じ、町の70%が破壊されたという。

 このように、敗戦が避けられない状況にいたっても、ヒトラー・ユーゲントの団員たちは無謀な戦闘を挑んでいった。このような残酷な結果は、言い換えればヒトラー・ユーゲント教育の「成果」ということができるであろう。

 ヒトラー・ユーゲント指導者アクスマンは、ヒトラーが自殺する4日前の1945年4月26日、ドイツ騎士団の金十字および第一等鉄十字章を授与された。ヒトラーはベルリンの地下本部でアクスマンに勲章を手渡すとき、こう言った。「君の青少年がいなければ、そもそも戦闘は不可能だっただろう。ここベルリンばかりではなく、ドイツ全土において」。アクスマンは「総統、あなたの青少年です」と答えたという。このことからわかるように戦時中のヒトラー・ユーゲントの重要さについてはヒトラーでさえ認めている。ヒトラー・ユーゲントの最終目標が「祖国のために喜んで死ねる兵士を育てる」ことだったということを考えると、ナチスは、戦争動員のための青少年の獲得とその教育については成功したといえるだろう。失敗したのであれば、戦争はもう少し早く終わり、犠牲も少なかったのではないだろうかと思われるからである。

 この章では、ヒトラー・ユーゲントの発展過程を主に強制的な面からみてきた。ところが、まだ義務化が明示される前に、ヒトラー・ユーゲントには自発的に入団した若者も多かったのではないかといわれている。後に、破滅への道を突き進んでいくヒトラー・ユーゲントに、若者たちはどういった「魅力」を感じたのであろうか。また、ヒトラー・ユーゲントは若者たちをひきつけるためにどのような方策を用いたのだろうか。このことは同時に、ナチスの青少年統合成功の一面をみることができると考える。よって次章はヒトラー・ユーゲントの「魅力」を探ってみることにする。

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