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ドラマとポエジーの世界
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投稿者 white 日時 2006 年 5 月 31 日 01:25:18: QYBiAyr6jr5Ac
 

(回答先: インタビュー・和田義彦 投稿者 white 日時 2006 年 5 月 29 日 19:02:40)

□ドラマとポエジーの世界

 http://www.pref.mie.jp/BIJUTSU/HP/event/catalogue/wada/wada-mori.htm

和田義彦展図録 2005.4
ドラマとポエジーの世界

毛利伊知郎

 和田義彦は、50歳代から60歳代の中堅作家に与えられる第25回安田火災東郷青児美術館大賞を2002年6月に受賞し、同年9月には受賞を記念する展覧会「―煌く刻―和田義彦展」が開催された。この受賞記念展が学生時代に始まる足跡のほぼ全貌を広く紹介する場となったことは記憶に新しい。近年の同賞受賞者は、和田にとってはいわば先輩格に当たる1930年代生まれの画家たちがほとんどであったから、1940年生まれの和田がこの賞を受賞したことは、洋画界において一つ新しい世代の担い手として和田が認知されたということができるだろう。
 今回の展覧会はこの受賞記念展をベースにしている。しかし、同展開催後いまだ2年半しか経過していないことから、本展開催に当たっては、受賞記念展との差異化を図るとともに、現在進行形である画家の姿を紹介したいと考えて、未発表の新作をなるべく多く出品したい旨を画家に伝えて準備を進めてきた。これに応えて画家自身も、寸暇を惜しんで制作に力を注いできたのである。
 これまでの和田作品と比べるとかなり異色に見える《鳥》(no.1-46)や《大陸の空》(no.1-47)などの新作は、こうした画家と関係者の意図に基づいて出品されることになったものである。しかし、こうした展覧会組織上の意図だけが新作発表を画家に促した理由ではない。
 和田は一つのスタイルに留まることなく、常に新しい表現を求めて変化を続けることが極めて重要であると常々語っている。そうした制作に対する和田の基本姿勢も、上記の新しいスタイルの作品が発表されることになった要因として忘れることができない。
 そうした画家であってみれば、将来さらに新しい展開が提示される可能性は十分考えられるが、先ずはその生い立ちに遡ってこれまでの足跡を見て行こう。

 1940年、和田義彦は三重県北牟婁郡引本町(現海山町)で神社の神職を父に生まれている。和田の生地である三重県南部の北牟婁郡は熊野灘に面し、背後に紀伊山地が迫る、美しくも時に厳しい自然に囲まれたところである。自ら述懐しているように、生まれ育った神社の深い森は、無限に広がる宇宙空間として幼少期の和田の眼に写っていたという。和田の作品は都会的かつ西洋的感覚に満ちているが、こうした出身地や生い立ちを知ると、画家がしばしば話題にする東洋への関心はこうした画家の出自に発しているのではないかとも推察されるのである。
 しかし、三重県での生活はさほど長くはなかった。和田家はその後現在の中国東北部(旧満州)に移住、終戦後引き揚げてからは愛知県名古屋市に居を構えることとなった。1959年(昭和34)に愛知県立旭丘高校美術科を卒業した和田は、現役合格できなかったら父の跡を継いで神職に就くという約束で東京芸術大学油画科を受験、見事に現役合格を果たすことになる。既に指摘されているように、このことは和田作品の基礎を形づくっている的確な描写力が青年時代に遡ることを物語るエピソードと考えてよいだろう。
 芸大での和田は、牛島憲之、山口薫、伊藤廉らに師事、1963年3月に学部を卒業した後は大学院に進んでいる。学生時代の作品で現存するものは多くはない。しかし、暗い色調で統一された《波切の海》(no.1-1)やドローイング類を見れば納得されることだが、当時の画家の多くがそうであったように、和田もアンフォルメル絵画から少なからぬ影響を受けていた。
 大学院を修了した1965年(昭和40)の第39回国画会展で《背面の赤》が初入選を果たしたのを皮切りに、和田は以後毎年のように国画会展で受賞を重ね、1970年(昭和45)30歳の時には会員に推挙されている。
 しかしながら、以上のような和田20歳台の作品は現存するものはほとんどない。その後の画業を考えようとするとき、この時期の作品に接することができないのは誠に残念なことだが、この時期は和田にとって頭角を現しながらも固有の表現を求めていた、いわば雌伏の時期であったと考えてもよいだろう。
 このような時期の後に訪れるのが、1971年(昭和46)に始まるイタリア留学である。この留学がその後の和田義彦にとって決定的ともいえる大きな意味を持つことになるのはいうまでもない。ローマに着いた和田はローマ美術学校に入学するが、一年ほどで国立中央修復学校に転校、油彩画技法と修復技術を学び始める。和田によれば、小品や素描を除くとイタリア時代に自身の作品を制作することはほとんどなかったという。
 それは長い歴史を持つ油彩画技法によって自身の作品を創造していこうとするとき、その技法を徹底して修得することによって、いわば制作の基礎固めを行おうという画家の姿勢によるものと解してよいだろう。
 いうまでもなく、日本からヨーロッパに留学する画家たちが、油彩画発祥の地でどのような研究を行うかは一様でない。たとえ遠回りになっても、自己が取り上げる技法を自身の血肉とすべく修練を積もうとするその行動は極めて堅実というべきで、いかにも生真面目な画家の性格の現れといえるかもしれない。
 滞欧は5年半ほどに及んだが、その間に和田はローマを基点に古典絵画の研究を重ね、マドリッドにも足を伸ばしてプラド美術館でルーベンスやリベラ作品の模写を行っている。
 こうした技法研究と平行して、和田は多くの素描をローマで行っている。その一部は本展にも出品されているが、例えば《習作(女性像)》(no.2-3)などを見ると、その後の和田作品に登場する人物像の生の姿―骨太な人物像の骨格といったものが現れているように思われる。
 1977年(昭和52)秋に帰国した和田は翌年から国画会に復帰、ヨーロッパでの収穫を自己の作品に具現化することになる。そうした70年代末から80年代前半は、イタリア留学の体験と密接に結びついた作品によって自己のスタイルを確立した第一の高揚期といってよいだろうし、その後1990年代に至る和田作品に登場する各種モチーフをはじめ、和田芸術の基本構造が提示された時期ということもできるだろう。
 たとえば、1981年に発表された《不安な広場》(no.1-6)は、イタリア古建築や室内調度品をモチーフとして取り入れながら、赤褐色を基調とした画面の中で、堅牢なモニュメントの安定感とは対照的に人間という存在が逃れられない不安感があぶり出されている。
 また、翌年の《寂しい彫像》(no.1-8)《帰らぬ時》(no.1-9)《出口なき美しい庭》(no.1-11)などは、いずれも鮮やかで深みのある緑色の効果に加えて緑と褐色との対比を活かした画面の中で、虚と実との関係、あるいは人間的なるものと非人間的なるものとの相異、さらには存在することの意味への問いかけが追究されているように見受けられる。
 これら留学後の画家40歳代の作品は、重厚といってもよい色調と画肌が画面を覆い、和田がイタリアやスペインで親しく接したルネサンス美術から学んだと推察される安定感のある画面構成を示している。そして、いずれの作品にも人間に迫ろうとする作者の意志をはっきり見て取ることができる。
 この時期の和田作品に登場する人物は、美しく整った姿かたちではない。《不安な広場》に描かれた裸婦たちは何ものかにおびえて広場から逃れようとし、安楽椅子に腰かけた《白昼の沈黙》は非現実的な空間の中で孤独に虚空を見やっている。《Rossi夫妻の宴》に登場する人物たちは、構図上は相関関係を保って配されているが、心理的にはむしろ無関係にあるというべきだろう。
 こうした人間存在の諸相に迫ろうとした和田は、描写力を駆使して様々な人間像を描き分けるとともに、色彩の効果や群像の場合にはいわゆる鏡像関係による人物配置などを利用して、安定感と不安感とが交錯した画面づくりに成功している。
 必ずしも美しくはない人間の生の姿、孤独や不安にさいなまれる人間、笑顔の裏に隠された真の表情、人と人との関係に対する強い関心が現在まで継続していることは後年の作品を見れば明らかだが、和田義彦の作品における中心主題がこの時期に提示されていることは注意しておくべきであろう。
 
 1991年(平成3)、50歳を越えた和田に新たな西洋体験が訪れることになる。この時期、和田は名古屋芸術大学に勤務していたが、その休暇中にパリ国立美術学校のピエール・キャロン教授に招かれて渡仏、画学生にまじってデッサンや制作を行い、以後しばしばパリを訪れるようになったという。また、1996年(平成8)からはベルギー出身でパリを拠点に制作活動をしている画家ジャン・ルスタンから招待されてヴェニスやアントワープ、パリに滞在するようになったという。
 パリを訪れるようになった1990年代以降、和田作品に変化が現れる。それは、ルネサンスやマニエリスム、バロック美術との関連を窺わせる舞台仕立てが影を潜め、カフェやクラブなどが場面設定として頻繁に登場するようになったこと、中間調の色彩でまとめられた作品、あるいは明度の高い色彩による作品が見られるようになったことなどである。
 この時期の作品にも複雑な感情を示し、他者と微妙な関係を結ぶ多くの人間が登場する。彼らは、作品の中で様々な人間ドラマを演じているのである。同時に、風景と単独の人物とを組み合わせた1990年代以降の作品は、美しい色彩効果とあいまって、独特の詩情を強く漂わせている。この展覧会の副題を「ドラマとポエジーの画家」と命名した所以である。
 そうした意味で、1990年代から2000年代初期を和田の第二期ととらえることができるだろう。そして、この時期の作品によって画家和田義彦のイメージは広く知られるようになったのである。では、パリを訪れるようになって、和田は西洋絵画や自らの制作についてどのような考えを抱くようになったのだろうか。
 フランス近代絵画に接することによって、イタリアルネサンス以降、近代に至る西洋絵画の展開を実感したことも大きな成果であったというが、一つのスタイルに固定することなく、常に変化し続けることの重要性をルスタンらから教えられ、常に新しい表現を求め続けることを和田は非常に重要なことと考えるようになったと画家自らしばしば語っている。
 また、色調の変化と関連づけて、イタリアやスペインの絵画は強い明暗法が大きな特徴であるが、フランス絵画の特質はむしろ強いコントラストを抑制して、中間色で作品をまとめることにあると認識するようになったという。
 パリ滞在にはイタリア留学時代に研究したことを再確認するという意義もあった。たとえば、古典絵画の模写や修復を通じて学んだ絵画技術の「技術」という言葉に含まれる精神性をも含んだ意味の深さと重要性を、和田はジャン・ルスタンらとの交流を通じて再認識したという。
 こうしたパリ体験の成果として、中間調の色彩と早い筆使いとによる《何処に》(no.1-14)や《旅人》(no.1-15)など風景の中に単独人物を配した作品、あるいは《踊り》(no.1-19)や《女性像》(no.1-22)などカフェやクラブを舞台とした作品が生まれた。そして、この系列の一つの集大成として、第25回安田火災東郷青児美術館大賞を受賞した《想》(no.1-28)がある。
 しかし、その後も和田はそうしたスタイルに固執することなく、新たな画境を求め続けた。2003年から2004年にかけて制作された《戦火の子どもたち》(no.1-37)、《壁画のある風景》(no.1-40)、《神戸》(no.1-45)では、時として社会性のある主題が採用されるとともに、2002年までの作品とは打って変って重厚な色彩と表現とが見られるようになった。
 《戦火の子どもたち》と関連して、和田は「今、自分が生きてきた遠い時代の側面を思い出している。幼年の頃に満州から引き揚げてきたが、万里の長城の下で日本兵が我々家族達にいとしみをこめて別れの手を挙げていた姿が忘れられない。この原稿を書いている現在、イラク、北朝鮮問題がいつも紙面を陣取っているが、私には結果が読めない」と記している。
 紛争が頻発し、私たちの生命が危機に曝されている今日の世界情勢に対する画家の強い関心を窺うことができるが、こうした社会をつくってしまうことになる人間の業は、かねてから和田が追い求めてきたテーマでもある。
 本展が初公開の場となる《鳥》(no.1-46)や、中国旅行から着想された《大陸の空》(no.1-47)は、昨年後半期に描かれた最新作だが、これら二作品で和田は新たな試みを行っている。その抽象的表現から明らかなように、作品を見る限り和田は従来の具象表現の枠の中に留まる意図はないかのようだ。
 《鳥》のモノクローム調の暗く重い色彩と、《大陸の空》の中間調で明るい色調とは、これまでの和田作品にも見られたものだが、明らかなデフォルメを加えた対象のとらえ方はもちろん、にじみ等をまじえた絵具の使用法などにも、和田作品に対する認識を大きく変える特徴を見ることができる。こうした表現が今後どのように展開するのか、あるいはさらに方向を転じるのか未知の部分も多いが、これら両作を今回の展覧会であえて発表するところに、画家のつよい意思と姿勢が明確に現れている。
 これら二作品とも関係することだが、近年の和田は日本東洋への関心を強めつつある。日常生活でも和田は墨と毛筆を巧みに操って書簡を認めるが、本展に出品されている森村誠一著『敵対狼群』挿絵原画に示される墨色に対する細やかな感覚と対象を捉える鮮やかな筆使いは、いわゆる余技の範疇を越えた優れた表現を示している。
 イタリア、スペインで西洋古典絵画の技法を修得し、またフランスで近代に至る西洋絵画の展開を研究した和田は、1970年代末以降2000年代初頭まで西洋的文脈にそった作品を発表してきた。今や、生まれ育った日本・東洋の造形世界をも視野に入れて新たな絵画の創造を和田はめざしている。《鳥》と《大陸の空》は、その出発点に位置する作品といえるかもしれない。今回の個展が、これまでの足跡を回顧展望する機会になるだけではなく、和田義彦の新たな創造に向けた出発点になれば、関係者の一人としてこれに勝るよろこびはない。
(もうり・いちろう/三重県立美術館学芸員)

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