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ドイツでの結果が、未来の日本のサッカーの行方すら決めかねない 中田英寿と日本代表の9年間  【小松成美】
http://www.asyura2.com/0601/bd44/msg/306.html
投稿者 愚民党 日時 2006 年 6 月 14 日 00:58:11: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 4パーセントの望み  (6月12日@カイザースラウテルン)  【宇都宮徹壱】 投稿者 愚民党 日時 2006 年 6 月 14 日 00:31:06)

http://wc2006.yahoo.co.jp/voice/nonfic/komatsu/at00009209.html

第2回
軌跡(後編)――中田英寿と日本代表の9年間




【Getty Images】


 20歳で日本代表に招へいされた中田英寿。彼は9年という時間と自らの立場をこう振り返ったことがある。

「9年は本当に長かったね。フランスの頃は、自分が一番若い方で、自由にやらせてもらっていた。けれど、今は年齢からいっても立場が違う。周囲との意志の疎通をはかることにエネルギーを使わなければならないと思っている」

 現在の日本代表にあって、中田は2度のワールドカップですべてのゲームに出場した唯一の選手である。

「フランス、2002年、そしてドイツと日本代表は当然変化している。3敗したフランス大会、日本代表は“ビギナーズ”だった。ベスト16という結果を出したとはいえ、2002年は“ホーム”という特典を与えられていた。ドイツでは、本当の意味でワールドカップを戦うことになると思う」

 中田が振り返る代表の軌跡は、決して一直線ではなかった。

■事件

 代表に登場した20歳の中田英寿は、サッカーファンにある衝撃を与えた。試合を大きく旋回させるサイドチェンジのパス、攻撃の基点となるスペースを探し、そこへパスを送る洞察力、激しい当たりにも耐えられるフィジカル、ビッグゲームでこそ実力を見せる強靭(きょうじん)なメンタリティー。どれをとっても、中田は日本人の枠を超えていた。

 1996年、アトランタ五輪代表の一員だった際、守備的MFとしてピッチに立った中田は「自由なサッカーができない」と落胆し、戦術という名の足かせを嫌がっていた。「トップ下で前線にパスを送り、美しいゴールを演出したい」と願う彼は、1997年にフランス大会を目指す日本代表へ選出されてもさして興奮していなかった。

「代表に選ばれても枠にはめられ自由にパスを出せないのなら意味がない。それだったら、おれじゃない誰か別な人を入れた方がいいよ」

 中田は、代表選出の栄誉より、イマジネーションのままにパスを繰り出すことができる自由なサッカーを求めていたのだ。

 Jリーグ開幕から4年目、中田が所属するベルマーレ平塚(当時)では、植木繁晴監督(当時)が、彼をトップ下で起用し賛否を呼んでいた。外国人助っ人がチームの中心であることが常識だった時代、植木が作った「中田のチーム」は、大いなる賭けでもあった。Jリーグには、前園や澤登など攻撃的MFとして才能あふれる選手はいたが、90分間、攻撃の指揮をとり、フィールドの中盤でパスを回し続ける日本人選手は、それまでいなかった。

 しかし、植木の賭けこそが救世主誕生のきっかけとなる。
 前を向いてボールをもらった中田は、冴えたキラーパスをゴール前に放つ。日本人としてはそれまでにないスタイルを持ったゲームメーカーが、そのまま日本代表の牽引力になっていった。

 若い中田が、日本代表の中で突出した存在であることを証明した“事件”がある。1997年9月、国立競技場で行われた韓国戦でのことだ。0−0で迎えた後半22分、山口素弘が見事なループシュートを決め、チームは先制ゴールに歓喜していた。

 先取点を喜んだ選手たちは相手ゴールの前で輪を作り、抱き合い互いを讃えていた。喜び続ける日本の隙を突いた韓国は、早めのリ・スタートを切り速攻を仕掛けようとする。その動きを察した中田だけが慌ててセンターサークルに戻っていた。相手チームの選手がひとりでもセンターサークルにいればプレーを再開できない。韓国は、中田を見ながら速攻を仕掛けられなかった悔しさに声を荒げた。

 中田はセンターサークルから「みんな早く戻れ!」と大声で叫んでいた。大きく手を回し、それぞれのポジションに戻るようにと促したのだ。しかし、先制点に陶酔した選手たちの集中力はすぐには戻らなかった。

 中田はゲームのあと、吐き捨てるように言った。
「たったひとつのゴールが決まっただけで、まるで勝利したような大騒ぎ。先制された韓国が形相を変えていたことに誰も気付かない。勝ったつもりになって、気持ちが緩み、あとは押されっぱなしだよ。同点にされて逆転された。ゲーム後半、どんなに走っても、韓国との気持ちの差は埋まらなかった」

 勝利に貪欲であり常に冷徹な中田が、最年少で代表の精神的・戦略的支柱になっていくのにはそう時間はかからなかった。

 薄氷を踏むようなアジア地区最終予選。引き分けで終わったカザフスタン戦のあと加茂監督が更迭(こうてつ)され、続くウズベキスタン戦から岡田コーチが監督に就任する。一進一退の戦いは選手の疲労を倍増させた。日本代表は完全に窮地に立ち、もはやワールドカップ出場は困難に思われた。

 しかし中田は、1997年11月16日、マレーシアのジョホールバルで行われた日本対イラン戦で「絶対にワールドカップ出場を決める」と断言していた。この決戦の前日、中田は次のように語っていた。

「イランはすごくいいチームだし、簡単に勝てる相手ではない。絶対に厳しいゲームになると思う、でも、おれは負けることは考えないよ。勝つことしか考えていないから。どんな状況になっても諦めない。大丈夫、絶対に勝って応援してくれるみんなをワールドカップに連れて行くから。おれだって早くこのホテル生活から開放されたいんだ」

 試合開始、中山が先制点を上げる。だが、後半になるとイランが2点を獲得、逆転されてしまう。ツートップが三浦、中山から城、呂比須に交代。中田のクロスを城がヘッドで同点ゴールを決めてから流れが変わる。決定的なスルーパスを放ち続けた中田が、延長戦で見せた起死回生のドリブルがエンディングの始まりだった。中田の打ったシュートはGKに阻まれるも、途中出場の岡野雅行がゴール前へ猛進しスライディングしながらシュート、延長後半13分でゴールデンゴールを奪ったのだ。

 21歳の中田は、ついにワールドカップの出場権をつかみ、フランスの地に立った。ワールドカップ初出場に沸く周囲をよそに、彼は勝利にとことんこだわっていた。

「おれには『胸を借りる』なんて考えはぜんぜんないよ。サッカーはルールに従い、11人で戦う。条件は皆同じだ。だからこそ、ピッチでは何が起こるかわからない。初出場の日本だって優勝する可能性はゼロじゃないんだよ」

 しかし、結果はアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカに3連敗。中田はそのことを受け止めながら、真に悔しがってもいた。

「1勝もできなかったことは本当に残念だった。日本は、3試合ともに相手を打ち負かすチャンスがあったから。3連敗したけれど、あのチームは素晴らしい気迫を持っていた。個々の選手が戦うことに魂を燃やしていたんだ。ワールドカップで戦うことの意気込みが、ハートの強さに繋がっていた」


■執念


【2005 Getty Images】


 フランスから4年後の2002年6月、自国でワールドカップを開催する日本は予選を戦わずして本大会に出場した。フランス人監督、トルシエが率いる日本代表は、フラットスリーというディフェンスシステムを採用し、監督の綿密な戦術のもとでプレーしていた。
1試合目のベルギー戦で引き分け、ワールドカップで初めて勝ち点1を得る。続くロシア戦で1−0、第3戦目のチュニジア戦では2−0と勝利し、予選を1位で突破したのである。ベスト16の栄光は、サッカーファンの溜飲を下げた。しかし、中田に笑顔はなかった。限りない悔恨だけが残ったからだ。

「決勝リーグに進んだことは大きなステップだと思うよ。でも、トルコ戦は、不完全燃焼のまま終わってしまった。90分を戦った後、倒れて動けないとか、足がつって歩けないとか、そこまでやっていたかと言えば、答えはノー。最後の一滴までエネルギーを使い果たして戦えたとは、到底思えなかったんだ」

 25歳の中田は、このトルコ戦の直後に、4年後のドイツでの戦いに思いを馳せた。燃え尽きることができぬままゲームを終えた自分を許さず、さらに高いハードルを超えることを自己とチームに課したのだ。

 2002年7月、日本代表監督に就任したジーコは「最高の技を持った選手たちをピッチに送り出し、それが融合すれば最高のサッカーができる」と考えていた。

 中田は代表に招集されるたび、ジーコの求めるサッカーを体感していた。
「ピッチに立った選手は、その場面場面、自分自身で判断を下さなければならない。一瞬の判断をもって思い通りにプレーする権利が与えられるんだ。つまり、自由を与えられる選手たちには、その責任が付きまとう。イマジネーションとコミュニケーションを駆使し、唯一無二の最高のプレーを見せなければならない。ジーコになってから、トルシエの時代より遥かに高度なサッカーが求められている」

 ところが、ドイツ大会に出場するために挑んだアジア地区の1次予選・最終予選を戦っている中田は、さらなる危機感を募らせていく。

 2004年3月に行われたアウェーのシンガポール戦では怒りが爆発した。初戦のオマーンに続き力では段違いなはずのシンガポールに苦戦を強いられる。1点差で辛うじて勝利を収めたが、中田は憤りを言葉にして吐き捨てていた。「このチームには熱意というものがない。いつも親善試合と一緒じゃないか! こんなゲームがもう一度でもあったら、ワールドカップなんて絶対にない!」と。

 肉体と魂とを燃焼させ、どんな相手でも全身全霊を懸けて戦わなければ、勝利は即座に逃げていく。トルコ戦での教訓が中田を激昂させた。

 2005年6月8日、北朝鮮に勝利し、ドイツ大会出場を決定した日本代表は成田のホテルで凱旋記者会見を行った。皆が喜びに浸っているとき、中田だけは表情を崩さなかった。プレスから中田へ「このチームの満足度は?」と質問されると、中田は淡々と言い放った。
「僕にとって予選突破はあくまでも通過点。このチームでは、本大会で戦って勝ち抜ける力はまだないと思います。この1年で個人個人が伸びてみんながレベルアップして、勝ち抜けるチームになることが必要。(そうすれば)3度目のワールドカップで、初めて前へ行ける」

 28歳になっていた中田の比類なき勝利への執念が、そのまま言葉になって連なった。中田は後日あの発言についてこんな説明をしてくれた。

「人間、喜ぶことは簡単だよね。逆に『まだまだ上を目指さなきゃ』と、気持ちを引き締めることは難しい。フランスでも、2002年でもそうだけど、ワールドカップ出場は、戦いのスタートラインに立っただけのことでしょう。ようやく戦う権利を得ただけのこと。それなのに『よかったよかった』と騒いでいたら、その上のプレーは望めないじゃないか。日本は3度目のワールドカップを戦うんだ。もう初心者じゃない。ドイツでこれまで以上の勝利を手に入れるために、ここでもう一度自分たちのサッカーを見直さなければならないんだよ。あのとき、咄嗟(とっさ)にそう思ったから、正直に言っただけですよ」

 中田は、ドイツで戦う日本代表が、出場国のなかで最高の熱情を持つことができると信じている。

「ドイツでの結果が、未来の日本のサッカーの行方すら決めかねない。今まで以上の執念や闘争心を掻き立てなければならないね。選手全員がそんな気持ちを偽りなく共有できたとき、道は開けていくんだと思う」
 
 20代最後の年に3度目のワールドカップに臨む中田は、この先の日本サッカーの軌跡を描くその人に違いない。

(文中敬称略)


小松成美(こまつ・なるみ)
1962年神奈川県横浜市生まれ。会社員を経て、1989年より執筆活動に入る。人物ルポルタージュやスポーツノンフィクション、インタビューに定評がある。著書は「ビートルズが愛した女アストリット・Kの存在」、「中田英寿 鼓動」(ともに幻冬舎文庫)、「中田語録」、「ジョカトーレ」(ともに文春文庫)、「イチロー・オン・イチロー」(新潮社)、「さらば勘九郎 十八代目中村勘三郎襲名」(幻冬舎)、ほか多数。

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