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60年代の日本を知らねば不満も少なかったろう
http://www.asyura2.com/0601/bd44/msg/367.html
投稿者 たかす 日時 2006 年 6 月 21 日 21:36:46: ifeEPcYg7BdHI
 

(回答先: 此の問題を考へる上で日本人の讀むべき必讀文獻 投稿者 石工の都仙臺市 日時 2006 年 6 月 21 日 02:20:40)

95年も99年も息苦しい時代だったので、60年68年の話を見る度に不快感を感じた。何故「今の日本の大人は闘わないんだ!」という激しい怒りだ。95年にオウム報道ばっかり見せられ、99年に学校管理強化と一方的処分を見せられ、反撃できてないなら、最初から日本はそんな国であって欲しかった。朝鮮戦争とレッドパージの時だって反撃は今よりはるかに強くてましだった。太田竜で最初から右翼思想家だと思えば反発せずに済んだんだ。昔の太田竜を知ればこそ腹が立つ面はある。「お前は50年代60年代を生き、後輩には戦中のような時代を強いる気か!」という反発。それは今の大人達全体に対してもそうだ。何故我々の時代はオウムであり、国旗国歌法案であり、組織犯罪対策法案であり、共謀罪なのだ。とても悔しい。こんな日本で我慢しなければならないなら、戦時中の日本しか知らない状態の方が楽だ。太田が最初から右翼で、戦後が最初からこんな従順な雰囲気なら、まだ耐えられるだろう。95年以後の状況では60年代の話は落ち着いて聞けませんよ。

太田竜 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E7%AB%9C
太田龍
http://khon.at.infoseek.co.jp/chosha/o009.html
日本トロッキスト聯盟 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%84%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%83%88%E8%81%AF%E7%9B%9F
中核派と革マル派 1 革共同の誕生と分裂
http://marukyo.cosm.co.jp/chu-maru.html

*太田竜がイルミナティサタニストの対日工作に果たした役割(藁↓
三多摩社青同闘争史1
http://redmole.m78.com/bunko/14/bunko141.htmlより
(抜粋貼付開始)
 一九五六年三月二〇日、「反逆者」第一号は、内田英世らの群馬政治研究会の手で創刊された。内田は日本共産党の旧国際派として除名され、トロツキズムに接近しなから「反逆者」を発行した。「反逆者」はこの年の二つの大変動――ソ運共産党二〇回大会とポーランド・ハンガリー革命がつくり出した日本の革命的左翼にとってまったく新しい情勢のなかで、全学連の指導的活動家達に徐々に影響を与えていった。同時にそれは、自分自身もトロツキズムへの傾斜を深め、五七年一月一五日・第九号紙上で、「反逆者編集部宣言」を発表し、「第四インターナショナルの旗の下に結集しよう!」と呼びかけた。このときから、「反逆者」は日本トロツキスト連盟機関紙となったのである。
 「反逆者」の立場が第四インターナショナル派に転換したのは、太田竜の働きかけによるところが大きかったのであるが、六全協後の日本共産党内分派闘争の激化のなかで、新たに、関西の西京司のグループと、東京で黒田寛一らが加わったことによって、「反逆者――トロツキスト連盟」の活動範囲は広がっていった。一九五七年九月、太田竜はインターナショナルの第五回世界大会に出席し、ヨーロッパ、セイロンをまわって帰国した。このとき国際書記局は、日本トロツキスト運動が社会党加入活動を採用するように勧告した。
 五七年末、日本トロツキスト連盟は日本革命的共産主義者同盟と改称した。日本革共同は、東京と関西で、全学連活動家グループにたいする働きかけをつよめ、その影響力は広がった。
 だが、学生活動家とのつながりが広がるにつれて、逆に学生活動家の反日本共産党的急進主義が革共同に及ぼす反作用もまた強くなった。
 全学連活動家層は、砂川闘争、「平和擁護闘争」を経験して、日本共産党中央との対立を深めつつあった。この対立は、日本の左翼にたいする日本共産党の思想的支配が全一的であり、ことに学生運動においてはほとんど絶対的な権威をもっていたという事情のために、つみ重ねられた準備が間に合わないうちに、ひとたび始まるやいなやきわめて尖鋭な発展を遂げた。学生活動家達は、一刻も早く日共中央の官僚指導部から訣別したいと願い、間に合わせでも良いから、すこしでも“革命的”な理論を探して放浪した。ロシア革命の全過程と、レーニン、トロツキーの理論の深みの底まで降りて、自らの立場を原則的にきずき上げようとするよりは、いくつかの“公式”にたよって、ともかくも日共中央と対立する立場を原理的に確認しようとしたのである。
 こうした態度は、勤評闘争、警職法闘争と発展した政治闘争の高揚のなかで、理論的な底の浅さを行動における戦闘性でつぐなう“戦術極左主義”によって補完された。この時期の全学連グループのトロツキズムへの接近は、トロツキスト党の建設のためではなくて、自分たちの新しい日共づくりのためという動機がもたらしたものであったことは、その後の歴史が示している。
 このような中間主義的な左傾化に迎合する路線を、革共同内部でもっとも良く代弁したのが黒田寛一であった。彼は、国際書記局の“加入戦術”の指導を受け入れるような辛抱づよさを持ち合わせなかった。彼は、労働者階級の既存の組織や闘争の内部で、一〇年、二〇年かかっても真に前衛的な潮流を経験を通してつくりあげていこうとする加入戦術活動よりは、さまざまの色合いをふつ反日共的活動家をいますぐひとまとめに結集する“反スターリニズム統一戦線”をつくりあげることのほうに魅力を感じた。そして反スターリニスト的諸傾向を統一するという目的から見れば、第四インターナショナルの「労働者国家無条件擁護」の綱領的立場は、なんとも厄介な障害として映ったのである。
 黒田寛一は、こうして二つの点で太田竜と対立するようになった。黒田の要求は、「労働者国家擁護」の原則を降ろして、「反スターリニストの戦略」をかかげることであり、したがってまた「加入戦術」のかわりに「反スタ統一戦線」を組織することであった。ここで革共同の第一次分裂が起った。
 五八年六月、太田竜は革共同書記局を脱退し、翌月、日本トロツキスト同志会を結成した。同志会に参集したメンバーは、太田をふくめてわずか五人であった。
(貼付終了)

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