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植民地統治の検証1より全文引用
http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/217.html
投稿者 てんさい(い) 日時 2006 年 7 月 18 日 01:38:27: KqrEdYmDwf7cM
 

(回答先: 日本から見た韓国併合1,2 URL 投稿者 てんさい(い) 日時 2006 年 7 月 18 日 01:35:27)

http://mirror.jijisama.org/syokuminti1.htm


コリアンや左翼マスコミの主張は何だか変だぞ。と思ったことはありませんか?自分
達の基準や利害を優先して、嘘と誇張で日本の国益に反することを平気で行っている
ようにも見えます。そこでこのページでは、彼らの主張と相反する資料を集めて編集
し、別の立場から見てもらうことにしました。あなたは第三者として双方の違いを比
較検討して、正しいと思われるものを自分の意見の参考としてください。

植民地統治の検証 1 反日史観を糺す

 ■このページ内の項目へジャンプします
 
 ソウル南大門付近の変遷を見る / 鉄道・道路の建設 
 
 土地の侵奪 / 飢餓輸出 / 農民層の没落 / 森林の伐採  
 
  経済活動の抑圧 / 会社設立の制限  
 
 
 
 植民地統治の検証2
 
 ハングル・朝鮮史教育の禁止 / 創氏改名と皇民化政策 
 神社参拝の強制 / 強制連行 / 従軍慰安婦
 大東亜戦争と上海臨時政府
 
 
 植民地統治の検証3
 
 植民地支配の総論 / 日本の善政1 / 日本の善政2
 独立による財産請求権の清算
 日本が朝鮮にした数々の悪行を懺悔しよう!


 1910 韓国併合、総督府設置、土地調査事業はじまる(〜18)
 1912 清朝滅亡し中華民国成立
 1914 第一次世界大戦勃発
 1918 日本で米騒動、ウィルソン民族自決を提唱
 1919 三・一事件おきる、文化政治開始
 1920 産米増殖計画はじまる
 1923 関東大震災で朝鮮人殺される
 1929 世界恐慌はじまる
 1931 満州事変勃発
 1932 満州国建国
 1933 農村振興運動はじまる
 1937 盧溝橋事件おこる
 1938 陸軍特別志願兵制度実施
 1939 日本企業による労働者募集はじまる
  第二次世界大戦はじまる
 1940 創氏改名実施
 1941  真珠湾を攻撃し日米開戦
 1942 官斡旋による労働者募集を行う
 1944 国民徴用令を朝鮮に適用
 1945 日本敗戦で朝鮮解放
 1948 大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国成立
 1950 朝鮮戦争おきる
 1965 日韓基本条約調印
 序、ソウル南大門付近の変遷から日本の朝鮮統治をみる 日本の朝鮮統治を検証す
るには、現代の価値観から日本統治時代を非難するのではなく、当時の時代背景を考
慮して、李朝時代から日本統治時代になって何がどう変わったかを批評すべきだ。そ
の意味で南大門は、ソウルのランドマーク的建造物なので写真が数多く残っており視
覚的な比較に適している。


1897年、イザベラ・バード「朝鮮紀行」からソウルには芸術品がまったくなく、公園
もなければ見るべき催し物も劇場もない。他の都会ならある魅力がソウルにはことご
とく欠けている。古い都ではあるものの、旧跡も図書館も文献もなく、宗教にはおよ
そ無関心だったため寺院もない、結果として清国や日本のどんなみすぼらしい町にで
もある、堂々とした宗教建築物の与える迫力がここにはない。


撮影年度は不明であるが、江華島条約で朝鮮が開国したのが1876年だからそれ以降で
あろう。首都ソウルは市内が城壁で囲まれた囲郭都市で、南大門はソウル四大門の一
つで20万都市の正門であった。王宮へ向かう大通りに沿って粗末な藁葺き屋根の家が
建ち並び、衰退した国力を物語るような町並みが広がっていた。 写真2枚 「映像
が語る「日韓併合」史」 辛基秀 1987年 労働経済社より

 ▼
 1880年の南大門路
 ▼
 1897年 1 / 1897年 2 (着色) / 1897年 3
 ▼
 1908年 / 電車開通当時
 
 ▼
 1930年頃
 
 南大門外より南大門を望む / 京城駅から南大門を眺める
 
 南大門内より商品陳列館を見る / 南大門通3丁目
 
 南大門通りから黄金町通へ / 南大門付近3枚(1930年)
 
 ▼
 1930年 京城(ソウル)南大門通黄金町交差点付近 
 日本統治時代になって発展したのは一目瞭然  路面電車の線路が見える
 
 Link 韓国・国史編纂委員会HP 韓国の古写真
 Link 松原孝俊の世界 日本統治期の朝鮮半島の写真あれこれ

写真で比較すると発展の度合いが一目瞭然であるが、写真では住民の生活の雰囲気ま
ではなかなか伝わってこない。そこで李朝時代と日本統治時代の紀行文から時代の雰
囲気を感じていただきたい。 「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬
子訳 1998年 講談社学術文庫) 首都の第一印象(李氏朝鮮時代)

都会であり首都であるにしては、そのお粗末さは実に形容しがたい。礼節上2階建て
の家は建てられず、したがって推定25万人の住民は主に迷路のような「地べた」で
暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どうしがすれちがえず、荷牛と人間なら
かろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た個体およ
び液体の汚物を受ける穴か溝で狭められられている。悪臭紛々のその穴や溝の横に好
んで集まるのが、土ぼこりにまみれた半裸の子供たち、疥癬もちでかすみ目の大きな
犬で、犬は汚物の中で転げまわったり、ひなたでまばたきしたりしている。路地には
また「小間物」とアニリン染料で染めたけばけばしい色の飴を売る行商人もいて、溝
の上に板をさし渡し、おそらく1ドル程度の品物を並べている。こういった溝に隣接
する家屋は一般に軒の深い藁ぶきのあばら家で、通りからは泥壁にしか見えず、とき
おり屋根のすぐ下に紙を張った小さな窓があって人間の住まいだと分かる… かわら
屋根の反り返った上流階級の家庭でも、通りから見た体裁の悪さという点では何ら変
わりがない。

商店も概してみすぼらしいのは同じである。在庫品全部を買っても6ドル程度の店が
たくさんある… おもな商品は白い綿地、わらじ、竹の帽子、素焼きのかめ… 大量
の干した海藻と干しきのこといったもので、その他に安価な灯油ランプ、手鏡、安物
くさい花瓶などといった外国製の不要品から一番くだらないものばかりを選んできた
ような品々は、どれをとっても悪趣味のきわみとしか言いようがない。黒いうるしに
貝の真珠層か何かを埋め込んだ古風なデザインの象嵌製品にはときとして掘り出し物
がある。金糸の刺繍をほどこした絹地もあるが、デザインがまずく、色合いはなんと
もすさまじい。(中略)南山の美しい丘からはソウルの全景が眺められる。周囲の山々
は松の木立が点在するものの、大部分は緑がなく、黒い不毛地のうねりとなってそび
えている。こういった山々の取り囲む盆地の中に20万の人々がひしめきあっている。
城内は大半が藁ぶきの低い茶色の屋根の海で、林も広場もなく、単調きわまりない。
この茶色の海から突き出ているいるのが城門の反り返った二重屋根と灰色花崗岩の王
宮の石塀で、その中にさまざまな殿舎の大きな屋根がある。東の城門から西の城門へ
と広い通りが市街を貫き、この通りから南の城門へともう一本の通りが走っている。
中央の大通りからはさらに幅95ヤードの広い道路が王宮へと向かっている。常にじ
ゃま物のないようきれいに片付けられているのはこの通りだけで、ほかの街路は屋台
店が両側に並び、通行用には狭い道幅しか残っていない… しかし何百本とある、も
っと狭くてしかもその幅が軒やどぶで狭められている路地では、人間どうしがすれ違
うがやっとだ。何マイルも続く土壁と深い軒、どろどろとした緑色の溝、黒ずんだ排
気口の間には、男性の住民と荷物の運搬人以外、動くものはあまりない。どの家も犬
を飼っており、四角い穴から犬は家に出入りする。よそ者が来れば激しく吠え、傘を
ふると逃げていく。犬はソウル唯一の街路清掃夫であるが、働きはきわめて悪い。ま
た人間の友だちでもなければ、仲間でもない。朝鮮語をはじめ人間の話すあらゆる言
語に取り合わない。夜間吠えるのはどろぼうがいるからである。飼い犬といえどほと
んど野犬にひとしい。若い犬は春に屠殺され、食べられてしまう。

昼間水をくんだり洗濯したりする女性の多くは下女で、全員が下層階級の人々である。
朝鮮の女性はきわめて厳格に家内にこもっている。おそらく他のどの国の女性よりも
徹底してそうではなかろうか。ソウルではとても奇妙な取り決めが定着している。8
時に《大釣鐘》が鳴り、それを合図に男たちが家に引きこもると、女たちが家から出
て遊んだり友人を訪ねたりするのである。私が到着したのもそんな時間帯であり、ま
っ暗な通りにあるのは、もっぱらちょうちん片手の召使いをお供にした女性の姿だけ
という異様な光景であった。ただし、盲人、官僚、外国人の従僕、そして処方箋を持
って薬屋へおもむく者はこの取り決めから除外される。投獄を免れるためにこういっ
た肩書をかたる場合は多く、長い棒を手に入れて盲人のふりをする者もままある。1
2時にもう一度鐘が鳴ると、女たちは家にもどり、男たちはまた自由に外出できる。
ある地位の高い女牲は、昼間のソウルの通りを一度も見たことがないと私に語った。

夜間の静けさはきわめて印象的である。鼻歌ひとつ、咳ひとつ聞こえず、ひそとも人
の気配がない。通りに面していて、なおかつ明かりのともった窓というのがほとんど
ないので、暗さも徹底して暗い。静寂を破って届く《大釣鐘》のゴーンという低い音
には、不吉ともいえる響きがある。


白人が優越感で東洋人を見下しているのではないか、と感じられた方は同じ著者がほ
ぼ同時期に日本を訪れ、「日本奥地紀行」(平凡社東洋文庫)を書いているので読み
比べるとよい。「朝鮮紀行」とは反対に日本を過賞しており、偏見でもって「朝鮮紀
行」を書いたのではないことが分かる。しかし文明開化後の日本と朝鮮を比較するの
は不公平なので、幕末の日本を記した「ペルリ提督日本遠征記」と比較してみよう。

▽ 1910年韓国併合 ▽

日本統治時代になって明るくモダンになったソウル。特に女性を比較していただきた
い。まさに隔世の感がある。 「京城ローカル・春の巻」 1938年 京城ローカル社
 (「ソウル都市物語」 川村湊 2000年 平凡社新書より) 街の表情(京城)三
越前から

カールもあざやかなモガ(モダンガール)が足をのばしてぺーブメントを踏む、水々
しい高島田を真白い顔に乗せてゲイシャガールが人力車に乗つて悠々と行く、チマを
スカート風にきりつとさせて、ハイヒールの朝鮮の娘さんが颯爽と行く、白いツルマ
キを着込んだオモニーがゐる支那人がゐる、アメリカ人がゆくそしてまた、彼氏彼女
がゐる。まこと本町は流れる人の波に明けて暮れる。あの狭い、ウナギの寝床みたい
な街といふなかれ、大阪なら心斎橋通りといつた感じではないか。先づ本町をブラブ
ラしやうといふ者は、定石に従へば電車も自動車も鮮銀と三越と郵便局とに囲まれた
広場に降りる、この辺りは京城のセンターである。ビルディングがずらりと南大門通
りの街をつくつて、近代的文化都市らしい香ひを発散、南大門方面から来た電車は、
黄金町から東大門行と鍾路から東大門行とがチャンポンにチンチンいはせる、北へは
長谷川町が大平通りに抜ける。(中略)「デパート」といふ言葉は現代人の感覚に快
い響きを伝へて魅惑的である。数百といふ美しい結婚適齢期のショップガールが、明
るい照明の売り場に水々しいフルーツのやうな新鮮さで溌剌と商品の渦の中を泳いで
ゐる。丘のやうに積まれ、手際よく飾られた商品のモードがそれぞれ媚態的ポーズで
演じ出すデモンストレーション…


少なくとも、ソウルが日本時代になって発展したのは、誰も否定することはできない。
 で、↓

このページの見方

韓国人の主張

それに対する反論

曰く、 日帝の植民地支配は、人類史上最悪の搾取だった。 曰く、 世界でもっとも
残虐な極悪非道の日帝植民地統治。 曰く、 日帝は韓国人の集団奴隷化を狙った植民
地支配を行った。 曰く、 日本は朝鮮その他のアジア人民の血の海からはい上がった
悪の帝国である。 曰く、 日帝がアジア人民に行った犯罪行為について言えば、それ
はどのような最新のコンピューターを総動員しても計算できない途方もないものであ
る。

わ、笑うな〜 彼らは本気(マジ)なんだから。 さて、上記の韓国(朝鮮)人の主
張に対して、『日本は植民地時代に朝鮮(韓国)に対して良いこともした』と少しで
も反論を呈すれば、袋叩きにあう状況がマスコミによってつくられていることから、
大多数のマスコミも反日左翼や韓国(朝鮮)人と同じ歴史認識だと考えられます。し
かし、彼らの主張を検証してみると、日本の行為を全面否定するためか、話のすり替
えや誇張・でっちあげを少なからず行っていることが分ります。つまり"日本は極悪
非道な植民地支配国であった"という結論が最初からあり、それに合わせて歪んだ見
方を一方的に述べているのです。それでは、"日帝の悪"とされるものを李氏朝鮮時代
の状況をおり込みながら個別に検証していきます。

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▼ 鉄道・道路の建設

総督府の鉄道・道路・港湾の建設は、朝鮮人の生活向上のために行ったのではなく、
その目的は、物資の大量輸送を可能にして経済的収奪を強化することであり、中国大
陸侵略を画策する日帝の兵站基地にするためでもあった。


李朝時代の劣悪な道路・交通状況 「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時
岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫) 道はとにかく悪い。人工の道は少なく、あっ
ても夏には土ぼこりが厚くて冬にはぬかるみ、ならしてない場合は、でこぼこの地面
と突きでた岩の上をわだちが通っている。たいがいの場合、道といってもけものや人
間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路にすぎない。橋のかかっていない川
も多く、橋の大半は通行部分が木の小枝と芝土だけでできており、7月はじめの雨で
流されてしまう。そして10月なかばになるまで修復されない。地方によっては、川に
さしかかったら浅瀬を渡るか渡し舟に乗るかしなければならず、これには必ず危険と
遅れがともなう。首都に中心をおく《六大道路》ですら、橋はふつう渡るまえにまず
馬や人間の重量に耐えられるかどうかを馬夫が確かめるほど、もろい状態であること
が多い。山間部では、道とはおおかたが渓流の川床に丸石をばらまいたもの以外のな
にものでもなく、最良の場合でも、冬場のソウル・済物浦(ソウルの外港)間のよう
に、ぬかるみの深さが1フィートから3フィートにおよぶ湿地帯がある。こういったい
まわしい乗馬道は、わたしも広くたどったが、朝鮮の発展の大きな障害のひとつであ
る。(中略)(朝鮮東部の都市元山へ向かう幹線道路を行く)道路が広くなると、そ
の中央には固まった泥の山がつづき、両側には同じく固まった泥がうねになっている。
道路が狭まれば、これはたんなる田んぼの畦道にすぎない。橋はとりわけ劣悪である。
あまりに老朽化しているので、馬夫たちが馬を歩かせたがらず、どの川もじかに渡っ
たほどである。それでもこの道路は、わたしの踏破した三ヵ所がすべて悪路だったに
もかかわらず、東海岸と西海岸からの貨物が行き来する第一級の幹線道路なのである。


「朝鮮の政治社会」 グレゴリー・ヘンダーソン 鈴木沙雄・大塚喬重訳 1973年 
サイマル出版会 英字新聞「コリアン・リポジトリィ」(1892年4月)は平壌と大邱に
はそれぞれ7万5千人が住んでいた(ソウルに次ぐ人口)ことを報じているが、ちょ
うどこの時期に大邱(テグ、慶尚北道中心都市)に住みついた宣教師アダムス一家は、
彼らの輸入した自転車が、悪路のため思うように乗りまわせなかったことを記してい
る。


「鎖国の汎パラダイム」 金容雲 1984年 サイマル出版会 『港には桟橋がなく、
人の背におぶさって陸にあがるほかない。馬は跳び下りるため足を折ることが往々に
してある』(朴斉家「北学議」)この文の内容から察すると、李朝の末頃に至っても、
港はほとんど原始状態であったことを示している。1854年、当時の香港総督が本国の
外相に送った手紙には次のような部分がある。『……韓国は非常に衰退し悲惨な状態
にある。……通信は極悪、航行可能な河川はごく限られている』


「アリラン峠の旅人たち ―聞き書朝鮮民衆の世界―」 安宇植訳編 1982年 平凡
社 (灰色文字は管理人注) (李氏朝鮮では道路が整備されず交通網が発達しなかっ
た。そのため物資運搬のための荷車も運行できず、物資はもっぱら褓負商(ほふしょ
う)と呼ばれている行商人たちがチゲという背負子で運んでいた。それはあまりにも
過酷な仕事であった。)ある旅行者はこの、歩行にかかわるこの国の交通事情につい
て次のように書いている。都会の周辺を脱け出すともう、まったく道路の体裁は整っ
ていない。ほとんどが山野の自然の状態のままにおかれ、人々に踏まれて自ずと作ら
れた道路であるため、道幅がすこぶる狭く、かろうじて牛馬を通すことができる程度
しかない。いわんや河川の状態を見るにいよいよ不便で、橋梁の架設された所がきわ
めて稀なため、やむをえず狭いどぶ川を素足になって渡らねばならない。広いどぶ川
には不安定ながらも飛び石伝いの橋や、渡し舟があってどうやら素足になることを免
れる、といったていたらくである。ひとたび夏の長雨にでくわせば、河川は氾濫し、
泥水が丘陵を覆い尽くし、波は矢のごとく広がっていく。これはとりもなおさず、山
村の荒廃したことに起因するもので、そんな時に河川を渡ることは到底不可能なため、
旅人は虚しく堤防で右往左往し、水のひく日を待ちわびるほかない。(中略)彼ら(褓
負商)はしばしば、山奥で虎に襲われて食い殺されたり、堀に落ちて死んだりした…
  (褓負商だった)尹求礼老人には左足の小指から3本は跡形もなく。右足は親指
しかの残っていない。つまり左右合わせて3本というわけである。けれども歩くこと
には熟達していたから、今でも薪をたっぷり担いで運び出すそうである。足の指は、
冬場にしばしば凍てついた雪の道を歩いたうえ、満足に凍傷の治療が施せないため、
一本また一本ともげてしまうのが普通だと語る。(朝鮮の冬はソウルあたりでも河川
が凍結するほど厳しい。褓負商は厳冬期だからといって仕事を休めるわけではないの
である。)


仮に、この状況を総督府が放置したままであったならば、現代韓国人は総督府の施策
を非難するであろう。韓国人の主張は、いちゃもんレベルの話だ。

鉄道の開通を単なる交通問題と片付けてはならない。その影響は新時代の象徴として、
朝鮮に社会変革をもたらしたほどなのである。 「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄
 1998年 光文社 李朝時代の朝鮮半島は、そもそも交通、流通が未発達な社会であ
った。それも朝鮮の国家安全を守る鎖国攻策の一つであった。『朝鮮交通史』によれ
ば、主要幹線街道においてさえ、辛うじて人馬を通しうる個所も少なくなく、河川に
は橋梁の架設がなく、徒歩または渡し船に頼った。道路事情が悪いため、旅行は徒歩、
カゴまたは駄馬により、貨物の輪送もかついだり、駄馬によるほかなく、駅站の後を
受けてできた郵逓局の逓送も駄馬及び歩行の両方法を用いた。だから大量貨物の遠距
離輪送はほとんど不可能であった。

朝鮮半島での日本の鉄道建設は、「朝鮮人の抵抗を抑え込み、大陸侵略の橋頭堡」と
するためとか、「台湾での鉄道建設は南方侵略の南進基地」云々という進歩的知識人
の告発は多い。日帝が朝鮮半島で道路建設を行なった真の目的とは、日本軍の移動と
穀物収奪、運搬、そして警備が主眼であった、という見方もある。あるいは交通網の
拡充は、大陸侵略のための軍事的施設、植民地収奪を強行するためにつくられたもの
といわれる。いわく、鉄道は中国大陸侵略への「幹線」であり、建設された第一級国
道は軍用道路である云々。日本人の鉄道建設への狂卉は、それは軍事的考えや軍主導
の下で進行されたものとよく指摘されるが、それはそのとおりであろう。列強諸国の
時代では、鉄道はただの「産業開発」目的というよりも、多元的な目的を持つことが
当然だったわけで、どの国家もそうであり、シベリア鉄道でもそうであった。

しかし、朝鮮半島では東西南北に貫通する鉄道の出現によって、政治上、軍事上、社
会上だけでなく、人文地理的にも大きな変化が起こっていた。それは今までの村社会
に閉じ込められている自給自足の原始的社会から脱却し、産業の発達、単一市場の形
成だけではない。日本から新しい、先進的な技術、資本(ヒト、モノ、カネ)、さら
に情報の流入があった。近代社会として成長した人的交流と物的流通によって、国土
観も変わり、朝鮮人相互の紐帯を強固にし、朝鮮人に一つの民族としての自覚をも与
えたのである。


朝鮮半島がアジアで第二の交通網整備地域となったのは歴史的事実である。

李氏朝鮮の社会資本は無きに等しかった。 「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 199
8年 光文社 中央集権体制国家の中華帝国にならって、さらに極端な中央集権体制を
敷いていた「小中華」は、すべての国富をソウルに一極集中し、牢固たる村国家をつ
くったものの、国富のシンボルであるはずのソウルは、決して「栄華の都」ではなか
った。いかに時代の流れに取り残されていたのか、数多くの記録が残されている。

統監府時代に、京城控訴院判事として韓国政府に招耽された山口貞昌氏の回顧(明治
四十一年六月)によれば、赴任した当時、「道路は狭隘で、しかも糞尿は至る処道端
に満ちて居るという有様でした。井戸水は混濁していて風呂に入れば茶色の湯で、か
えって体が汚れる様な感を催し、飲料水は石油の空罐一ぱい何銭で買って使用すると
いう状態で、電燈は未だ一般に普及せず、我々の借家にはその設備がなくランプを使
っておりましたが、冬になると寒気が烈しいので、石油が凍ってだんだんと光が薄暗
くなり、仕事ができないほどでありました」(『朝鮮における司法制度近代化の足跡』
友邦協会編)だという。

朝鮮総督府は、そのような社会に上下水道をつくり、道路をつくり、近代都市をつく
りあげたのだった。もっと知らなければならないのは、朝鮮の都市計画は、総督府の
予算からではなく、すべて日本の国家予算で施行したものであったことである。

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▼ 土地の侵奪

〔土地の侵奪〕 日帝の植民地支配下で、わが民族は、とくに経済的な収奪による大
きな苦痛を強いられるようになった。この中でもっとも大きな被害を受けたのは、土
地の侵奪だった。日帝は国権を奪った直後から、いわゆる土地調査事業という名目で、
農民の土地を申告するように通達した。これは土地所有関係を近代的に整理するとい
う口実で推進された。しかし申告手続きが複雑で困難だったことや、日帝に協調しよ
うとしない反日感惰から、多くの農民は申告をしなかった。その結果、申告されない
土地は地主がいない土地とされ、総督府の所有となった。また、従来の王室か公共機
関に属していた多くの土地が総督府の所有になったし、全国的に分布していた門中の
土地や村の共有地も大部分没収された。朝鮮総督府はこれらの農地を、日本人が経営
する土地会社に払い下げたり、韓国へ来る日本人に安い値段で売り渡したりした。そ
の結果、韓国の農民はさらに貧困になり、土地を奪われた農民は山奥へ人って、火田
民(焼き畑農耕民)になったりした。新しい生活の基盤を探して満州など国外へ移住
する者も増加した。 (韓国の中学校用国定歴史教科書1997年版より)

土地の侵奪は、李朝時代に両班によって行われてきた悪弊の一つであった。 「韓国
は日本人がつくった ―朝鮮総督府の隠された真実―」 黄文雄 2002年 徳間書店
両班こそが土地強奪の犯人

「日帝」による朝鮮半島の土地強奪は、「日帝七奪」のひとつとして数えられている。
よく言われる例は、日本人が小高い丘にのぼってあたりを見渡し、土地を指さして手
当たりしだい良田を奪っていったという話だ。しかし、これはおそらく両班時代の「土
地強奪」から連想して日本人に罪をなすりつけたものであろう。

ダレ神父は「朝鮮事情」(1874年)のなかで両班の土地強奪の実態を次のように述べ
ている。『両班は世界中でもっとも強力にして傲慢な階級である。彼らが強奪に近い
形で農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合、支払いなしですませてしまう。
しかも、この強盗行為を阻止できる守令(知事)は一人もいない』

戦後、日本人が韓半島で行ったといわれる土地強奪は、ほとんどがこの両班をモデル
にしてでっちあげられた作り話である。そもそも、日本とは法治国家である。この大
前提を、戦後の韓国知識人はどうやら忘れているようだ。


「歴史民俗朝鮮漫談」 今村鞆 昭和三年(1928年) 南山吟社 回顧二十年前(今
村鞆は韓国併合以前の統監府の時代からの官吏であった。)新政の謳歌

従来官吏や両班やにイジメられて居つた良民は、日本官吏の配置と共に、特に新警察
のために、保護を受けて、その恩恵に浴する事となつたから、その喜びは非常なもの
であつた。懸倒を解くとか、或は塗炭の苦より救ふといふ語があるが、実際に於て此
の語に丁度ハマルものであつた。

鳥致院付近の村で殺人犯があつた、警察が往つた時には一部落逃亡して一人も居なか
つた、元は殺人があれば、郡守(地方役人)が大勢の人を引き連れ、食ひ倒し、飲み倒
し、かつ無辜(むこ(の民))を捕へ、種々の誅求の種にしたからである、しかして
其時、告示をして、旧来の如く人民に迷惑を及ぼさぬと諭して、安心して皆帰つた例
がある。

或る処で農民が牛を盗まれ、その泥棒を警察署で捕へ、牛を被害者に還付せんとした
時に、自分の牛に非ずとしてドーしても受取らなかつた。もし受取れば数倍の金を後々
より取らるると信じたからである、トウトウ、牛を受取つても後より一文をも誅求せ
ぬといふ証文を署長に書かしてようやく牛を受取つて往つた、しかして不思議がつて
居た。

自分が出張中忠州付近で両班が農民の山の中へ、勝手に墓を作りその山を横占せんと
し、紛擾をかもせる所へきかかり、その両班に、決して右の如き非行は相成らぬ旨を
言渡した、その時一部落の人民は、五十人ばかりイクラ止めても喜んで送つて来た。

右の如き例は、枚挙に遑(いとま)の無い程あつた。また裁判の公平土地調査の為め、
所有権を侵害される事の無くなつた事等は、民衆の大に喜んだ事であつた。

両班の動静

良民は新政を喜んだが、両班儒生の大多数は、新政に反対した。時勢を解した両班は、
従前の行動を改めたが、中には民衆の無知に乗じ、依然として昔ながらの、横暴振を
逞(たくまし)ふして居る者も多かつた。下民の身分を省みず、両班の前で喫煙した
とか、馬で乗打をしたとか、いふ様な、良民が時勢に目醒めてする、従来の習俗に反
する行為を咎め立てて、罵倒殴打する、等の事により、債務のカタに人や馬や財産を
強収拉去する、なほ甚だしきは、土地の境界不明に乗じ、良民の土地を侵犯するとい
ふ、慣行手段の悪事を公行して居たが、被害人民は、なほ十分に官庁を信頼せずして、
申告しなかつた。この土地侵略の悪風は、土地調査事業完成の為根絶し、良民は該事
業を、心から良制なりとして謳歌した。(中略) 一体に悪両班は、自己の悪事が出来
なくなりし為め、新政を呪詛して居た。


総督府の土地調査事業によって土地所有権が確立し、農民の土地所有が保障されるよ
うになった。それにより旧両班階級による不法な土地侵奪はなくなった。

李朝時代の土地所有と利用状況 「朝鮮」 金達寿 1958年 岩波新書 元来朝鮮には
土地の近代的所有はなかった。広大な土地が王室・宮院・官庁・書院・両班に属し、
全体として官人層が土地に対する支配力を持っていたが、彼らは土地の管理をせずに
収穫だけを取り、管理は舎音という差配にまかせきりであり、しかも舎音が何段にも
重なって中間で搾取し、収租の権利の主体すら明白でなかった。一方土地を耕す農民
は代々土地を耕してはいても、奴婢あるいは無権利な常民であって、その土地を自己
のものとするまでには成長していなかった。土地所有そのものが未熟な状態にあった
のである。したがって土地所有を証明するに足る文書・記録は整わず、面積の単位は
区々であり、土地の境界もあいまいであった。

李氏朝鮮は自作農だけの国ではなく、多くが小作人でその割合はかなり高かった。当
然ながら小作人に土地所有が認められることはない。 「図説 韓国の歴史」 1988
 金両基 河出書房新社 晋州民乱(1862年)当時この地域の農民の農地所有関係を
見ると、両班層や平民・賎民層の大部分が極端な零細農民であった。剰余生産物の蓄
積が可能な中農層は全農家の15.5%ていどで、生計の維持すら不可能な貧農層が両班
層では55.0%、平民・賎民階層では72.5%にもなっていた。かれらが農業生産を通し
て富を蓄積しようとすれば地主の小作地を借用せずにはいられなかったことを知るこ
とができる。

朝鮮王朝末期の自作農が3〜4割で、小作農が6〜7割だったという農村調査報告は、
このような現象の延長線上にあることをたやすく知ることができる。いわゆる三政紊
乱(田税・軍役・還穀の乱れ)により生計に脅威を受けるのとは別に、すでにかれら
はその農地所有において緊迫した状態に達していたことが知られるのである。(中略)
乱の初期には封建官僚に対する攻撃が主であったが、乱が進行するにつれて地主層が
攻撃の対象となっていった事実も、前に指摘した当時の土地所有関係において説明さ
れうるだろう。


「日本による朝鮮支配の40年」 1992 姜在彦 朝日文庫 1918年、つまり土地調
査事業の終わった年の統計によれば、
 全農家の3.3%(9万386戸)が全耕地面積の50.4%を所有(地主)
 全農家の37.6%(100万戸余り)が土地のない小作農
 全農家の39.3%(104万戸余り)が自作兼小作農
 全農家の19.6%(50万戸)が自作農というような農家構成があらわれています。

全農家の3.3%、戸数からすると約9万戸が全農地面積の半分以上を所有しているので
す。これは農家というよりも地主です。農業経営にタッチせず、じっと座って小作料
を得て生活する地主層なのです。もちろんこの3.3パーセントには朝鮮人、日本人を
含みます。(中略)小作料は建前としては5割ですが、実際には7割ぐらいになってい
たのです。ですから、朝鮮の全耕地面積の半分から生産される穀物の5割ないし7割が、
全農家の3.3パーセントにすぎない地主に集中するということなのです。なぜ小作料
が七割ぐらいにまでなったかというと、労働市場においても、労働力を売る側に比べ
て買う側が少ない場合、売る側は安売りします。それと同じで、農村でも他に転業で
きるような近代産業が少ないため、土地にしがみつくしかない農家がたくさんいる。
おのずから小作権をめぐって小作農民間の競争が起こり、常に地主が有利な立場に立
つ。ですから地主の無理難題も通るわけです。(中略)農家全体の37.6%、戸数にし
て100万戸余りがまったく土地のない小作農です。100万戸となると、1家族を5人とみ
て500万人になります。当時、朝鮮の総人口は2000万人といわれていましたが、その
なかの500万人がまったく土地を持たず、地主の土地を借りて5割ないし7割の小作料
を納めなくてはならなかったわけです。そのつぎは自作兼小作農です。つまり若干は
自分の土地があるけれど、それでは足りないので、やはり地主の土地を借りなくては
ならない。これが39.3パーセント戸数にして104万戸余りです。小作農と自作兼小作
農を合わせると、全農家の77パーセントになります。

当時朝鮮にはまだ近代産業が発展していませんから、ほぼ8割ないし9割の人口が農村
の土地にしがみついて生活していました。そしてそのなかの77パーセントが自分の土
地を持たないか、もっていても少ないために地主の土地を耕しながら、収穫の半分な
いし7割を収めていたのです。1920年の1戸あたりの平均耕地面積は1.61町歩(水田0.
57町歩、畑1.04町歩)となっていますが、1町歩未満の農家が、実に全農家の66.97
パーセント(うち0.5町歩未満が47.38パーセント)を占めています。つまり大多数の
農家が零細農であるうえに小作農である、これでは人間が生きていること事態が奇蹟
に近いのです。こういうところでは、地主はだいたい高利貸しを兼ねているわけです。
ですから小作料プラス高利で二重に縛られた、そういう層が77パーセントいたという
のが現実です。

結局77パーセントの小作農および自作兼小作農というのは過剰人口なのです。本当な
ら土地から離れて労働者になるべき人たちですが、朝鮮では農村の過剰人口を吸収す
るような近代産業の発展が遅かったから、いろいろな形でだぶついたのです。こうい
う過剰人口の存在は、まず第一に小作条件を非常に悪くします。小作農の立場は常に
不利ですから、何とか土地を借りようと、地主のあらゆる要求をそのまま聞き入れな
くてはならなかった。一つ例をあげましょう。日本の場合でも中国の場合でも、小作
争議というのは、小作料があんまり高いから低くしろとか、借金を免除しろ、こうい
うのが普通です。ところが朝鮮の場合、小作争議の理由の部分は、これは想像もつか
ないことですが、地主による小作権移動に反対するということなのです。つまり、地
主は小作農家が気にくわなければいつでも小作権を取り上げてほかにやってしまう。
だから小作料が高いとか安いとかの問題以前に、小作権を確保するために血眼になっ
たのです。土地にしがみつくしかほかに生活の方法がないものですから。これが朝鮮
農民の小作争議の特徴です。


農業以外に産業がないと農民になるしかないため、人口増加によって小作人が増え小
作人の割合が増加していく。また朝鮮人地主が日本人自作農に土地を売ったため、小
作農が土地を追い出されてしまったという事もあったであろう。

「NOといえる教科書」 藤岡信勝・井沢元彦 平成10年 祥伝社 井沢さてこの時
代になると韓国の教科書の記述は一方的で、これはある意味で予想されたことですが、
中でも見過ごせない点がいくつかありますから、見ていきましょう。まず「土地の侵
奪」という項です。要するにここでは、日本はまず朝鮮人から土地を奪い取るために、
非常に複雑な登録方法を待ち出して強制した。土地所有関係を近代的に整理するとい
う理由をつけてのことだったけれども、しかしその登録方法がむずかしいのと、反日
意識のため、登録しない農民が多かった。登録されない土地は持ち主がいないという
ことになって、朝鮮総督府の所有になった。つまり、取り上げたということですね。
そういうやり方で日本が土地を奪っていったと書いてあるわけです。

藤岡それは歴史の歪曲です。どこが歪曲かといいますと、まず李朝においては、農民
の土地所有などというのは、まったく保障されてないわけです。封建社会においては
ヨーロッパでもそうでしたけれど、近代的な意味での土地所有権というのは、はっき
りしていないんです。実は何重にも権利が重なっているということがあります。日本
の地祖改正にしても、土地の私的所有を認めて、近代的な意味での土地所有権という
慨念を確立したわけですが、日本が韓国でやろうとしたこともまさにこれです。つま
り朝鮮総督府の最大の功績の一つは、土地の所有権を認めたということです。つまり
農民に、耕作するそれぞれの土地の所有権を公権力が保障したということなんですよ。
これは大きな功績です。そのことがまったく逆に語られているわけです。たしかにそ
の過程でいろんな混乱はあったでしょうし、不平、不満も出たことでしょう。

井沢たとえば権利が重層しているような場合ですね。両方が争って、どちらか一方に
決まれば、もう一方の側としては、奪われたということになりますね。

藤岡そういうことはあったとしても、全体として、この施策は明らかに朝鮮の近代化
に役だったはずです。現実には隠田っていうのがたくさん見つかるわけですし、持ち
主不明な土地はたしかに総督府のものになったということはありますが、その比率は
ごく微々たるものです。山本有造氏の「日本植民地経済史研究」(名古屋大学出版会
刊)によると、こうした理由で総督府に接収された上地は約12万町歩、また定められ
た期間に申告しなかったり、所有権を証明する書類がないために接収された土地は2
万7000町歩で、合計14万7000町歩ということです。1922年(大正11年)の時点で朝鮮
における全耕地面債は450万町歩ですから、土地調査により総督府が接収した土地は
全耕地の3%ということになります。ちなみに同年の日本人農業者所有土地面積は17
万5000町歩、東洋拓殖という国策会社の所有土地面債は8万町歩で、計25万5000町歩
です。これも全耕地面積の5.7%にしかなりません。

井沢それがこの教科書では、何かほとんどの土地を日本人が奪ったというように読め
ますね。韓国の教科書ばかりか、日本の教科書も同様です。ここで引いた教育出版の
ものでは「土地調査を行い、その中で、多くの朝鮮人から土地をうばった」、大阪書
籍では「韓国併合後の朝鮮では、日本が土地調査を進めて農民たちから多くの耕地を
取り上げ」と、韓国に追従した表現になっていて、明らかに事実と違います。

井沢なぜそのような教科書が文部省の検定をパスしたんでしょうかね。そもそも近代
的な土地所有権の確立されていない国は、近代化できないんです。これは鉄則です。
ものを作るにしても何にしても、まず土地の所有が確定してないとどうしようもあり
ません。総督府がこのことにまず最初に手をつけたというのは、当然のことです。中
国などは、いまだに土地所有制がはっきりしていない。もっとも、朝鮮政府でも1895
年に、量田事業という土地調査を試みたことはありましたが中断していました。この
ことは付け加えておいていいでしょう。

「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 1989年 原書房 ある国ある地域を植民地にし
た宗主国にとっては、土地に関する権利関係を整理することは最も重要な政策の一つ
である。というのは、前近代的な社会においては、土地所有権といった概念自体が確
立しておらず、各種の伝統的利用権などが錯雑として存在しているからである。この
ような状態では、本国からの農民が土地を取得することは困難だ。農業移民に限らず、
不動産が安全に取引されなければ、経済の発展は阻害されることになる。それに、こ
れらの後進地域では、土地の面積も境界も定かでないことが多い。たとえば当時の朝
鮮においては、田畑の面積は、『一斗落ち』(一斗の種籾を播くほどの広さ)とか、
『一日耕』(農夫一人、牛一頭が一日間で耕すほどの広さ)といった単位ともいえな
いような単位を用いていた。これでは正確な課税もまた不可能となる。これらの問題
を解決するためには土地台帳を整備することが必要であり、そのためにはまず土地調
査事業を実施しなければならない。そこでいずれの宗主国も、その植民地に権力を確
立すると、人口調査、度量衡の統一、貨幣の統一などとともに、最初の仕事として土
地調査に着手するわけである。

(中略)李朝末期には、土地の圧倒的部分は貴族によって所有され、彼らはソウルや
地方都市に住み、完全に不在地主化していた。耕作農民と所有者の間には幾層にも中
間的な管理人が介在し、小農は独立生産者というよりは農業労働者に近い状態で、彼
らの下に隷属していたといわれる。そして耕す農民が土地を所有するという農民的土
地所有権は確立しておらず、いつでも国家の収用により没収される不安な状態にあっ
た。総督府の実施した土地調査事業は、少なくとも、農民の50%余りに土地所有権を
確立したことも事実なのである。土地調査事業は、社会、経済の近代化のために絶対
必要な施策であって、この事業自体を何か悪政のようにいうのは的を外れた批判とい
わねばならないだろう。

総督府は市街地、農地にひきつづき1918年、林野調査部を設け、林野の所有者の境界
の調査も実施した。朝鮮の山林は、特別保護されている"封山・禁山"を除き、無主公
山と称し自由伐採が許されていた。そのため山林は荒廃し、ことに、公私有の権利関
係があいまいに混在しており、紛争や訴訟があとをたたなかったといわれる。村有地
など公共の所有地は誰もが申告しない場合も多いから、そのような土地は無主地とし
て国有財産に編入された。

日本においても明治維新後間もなく、同じ目的で土地調査事業が行なわれ、土地所有
権を確定し、地券を交付した。その際、農民の伝統的耕作権が否定されたり、入会地
など誰も申請しない土地が国有地に繰りこまれる事態が生じ、朝鮮の場合と同じよう
な問題がおこった。日本全体の林野面積の70%近くが国有地となった一つの理由は、
このような経緯から来ているのである。

日系第一の地主ともいうべき国策会社"東拓"(東洋拓殖株式会社)の所有耕地面積は、
最大のときでも朝鮮の総耕地の4%にすぎなかった。(中略)東拓は朝鮮農民から土地
を購入して、これを日本からの農業移民に分譲することをその主たる業務として発足
したのであるが、日本移民の成績がかんばしくなかったこともあり、総督府は大正後
半以降、同会社の土地買収を認めなくなった。(中略)また、農民に対し貸付を行ない、
その元利の返済がないことを理由に担保の土地を奪ったとして非難される東拓の金利
は、1933年には8%、1935年には6%と低下している。資本が不足している植民地で
は一般に金利が高いのが普通であって、インドでは月に20%といった金利さえ存在し
たことを考えると、東拓の金利は借り手にとって著しく有利なものといえよう。


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▼ 飢餓輸出

〔植民統治政策の変化〕 日帝は食糧の不足を解決するため、韓国から米を略奪した。
そのため、農民は多くの米を生産しながらも飢えるようになった。 (韓国の中学校
用国定歴史教科書1997年版より)

朝鮮には李朝時代から「春窮麦嶺」という言葉があり、米と麦の収穫の端境期である
春に、食糧確保に窮するのは慢性化していて、日本時代になって飢えるようになった
のではない。 「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874年 (金容権訳 1979年 平凡社
東洋文庫) 朝鮮では、飢饉が頻繁にみられる。最も貧しい階級の人びとにとって、
それは年に2度、定期的に訪れる。まず、大麦の収穫を待つあいだの春窮期の6、7
月、次いで粟類の取り入れ前の9、10月である。金銭は、法外な利子付きでしか借
りられず、わずかばかりの貯えも使い果たした不幸な人びとは、米やその他の穀物を
買うことすらできない。彼らに残された生きる糧といえば、ただ塩水で煮つめたわず
かばかりの草木である


「宇垣一成日記 2」 みすず書房 (「関釜連絡船」1988年 金賛汀 朝日選書よ
り) (朝鮮総督の日記から)咸鏡南北、江原道(朝鮮北部)以外にも飢餓に瀕する
者少なからずして僅かに草根木皮によりて露命を繋ぎあるものを聞き、痛心に堪へず
して当路者に糺せば、彼氏曰く、『朝鮮にては左様の事は珍しくもなく今頃になれば
毎年各地に現はるる事象である。今ひと月もすれば木の葉も出て草も生ずるから夫れ
によりて収穫期まで何とかしていく』とて深く配慮するの様子もなかりし。(昭和7
年3月31日付)


宇垣総督は慢性的に疲弊した農民の生活を安定させるため、総督府をあげて農村振興
運動に取り組んだ。李朝時代には、このような国家指導者は存在しなかった。Link 
日韓関係の近現代史 / 韓国の戦後発展の理由


米は売ったのであり、略奪されたというのは言い掛かりだ。

「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 1989年 原書房 日本政府は日本内地の米不足
を補うため朝鮮で米を増産させ、それを内地に移出した。そのため、朝鮮人は満州か
ら輸入した粟を食べることを余儀なくされたと非難されている。この主張には、朝鮮
における米の増産以上に朝鮮から日本への米の移出量が増加し、また満州からの粟の
輸入量が増大している統計が示されて、一見説得力があるかのごとく見える。『朝鮮
の飢えによって、日本人の食料が充足された』のであって『産米増殖計画は、実は『米
取り上げ政策』に他ならないというのである。しかしながらこの批判は、仮に当たっ
ているとしても15%ぐらいしか正しいといえないであろう。というのは為政者として、
農民の所得水準を上げようとするとき最大の悩みは、何を植えさせるべきかというこ
とである。そして、その際考慮すべきことは、農業生産的見地からその土地に何が適
当かということと、その生産物に対して、市場が存在するのかという農産物流通上の
問題である。米は朝鮮においては従来最も多く栽培されてきたものであって、自然条
件がこれに適し、農民はその技術に最も習熟している、そして日本内地という市場は
きわめて近い。米の増産で図ったのは、為政者として賢明というよりは当然の方針と
いうべきである。

米を作って日本へ移出したことだけを責められるが、その見返りとして、朝鮮の農民
が現金収入を得たことを無視してはならない。戦争中の食糧難の折り、内地における
と同様、強権をもって朝鮮の農民から米を供出させた事実はある。しかしこのことと、
大正時代に始まった産米増産政策とは直接の関係はなく、別個の問題として取り上げ
るべきであろう。また朝鮮の農民は米を日本内地へ移出し、自らは粟を食べる結果に
なったということも、これ自体として非難に当たらない。市場性のある、すなわち価
格の高いものを販売し、安いもので我慢するというのは、農民の、少なくとも貧農の
ごく普通のパターンである。米を作っていた日本の農民が、米はお祭りの時ぐらいし
か食べず、麦や稗(ひえ)を食べていたことはよく知られている。『米を売り、粟を
買って食料とした』という事実は、自ら収穫したものだけを食べる自給自足段階にあ
った朝鮮農民が、高いものを売り、安いものを買い、その差額で食料以外のものを購
入して生活水準を上げるという市場生産に参加する農民に脱皮したことを意味するの
である。

なお朝鮮農民が食料として『満州から粟を輸入した』というと、はなはだしく困窮化
した状況を示すものとしてとられやすいが、北鮮ではもともと粟を食することが多く、
米よりも雑穀の栽培面積のほうがずっと多かったのである。

もう一つ付け加えねばならぬことは、朝鮮米の輸入を、短期間の一時期を除き日本政
府は望んでいなかったという事実である。1918年の米騷動を契期に日本内地において
米の不足が痛感され、総督府は1920年から15年間に135万トンの増産計画にとりかか
ったのだが、世界大戦後の不景気により、米価は下落の一途をたどった。日本政府は
米穀法を制定して価格維持に努力したのだが、その効果は空しかった。このような状
況にもかかわらず、朝鮮で増産された米は日本内地に流入し、ことに1927年の内地朝
鮮を通ずる大豊作は米価をさらに下落させ、内地の農民の窮迫化を招き、一大政治間
題にまで発展した。1931年には、米の価格は1919年の実に40%に崩落した。このため
昭和初年、朝鮮米の内地移入を制限しようとする農林省と、これに猛反対する朝鮮総
督府との間に激烈な論争がくり返されることになる。このことは昭和農政史における
著名な事件なのである。米の増産を奨励したのは日本政府なのであるから、その意味
では自業自得であろうが、当時、日本政府が朝鮮米の移入を奨励したり強制したりし
た事実はまったくないのであって、事実はその逆なのである。「朝鮮米の移入は、日
本農民の犠牲によって行なわれた」といっても過言ではない。

私は朝鮮農民の窮乏化を肯定しているのでもなければ、当時の日本政府を弁護しよう
と意図しているのでもない。ただ解放直後の感情的な反日非難の時期ならいざ知らず、
40年たった後にも、事実に反する批判を平然とくり返すものも、それを黙って聞いて
いるものも、将来の歴史家の軽蔑をかうであろうし、また決して日韓(朝)両国民の
ためにならないと思われるのである。


「歴史を偽造する韓国」 中川八洋 2002年 徳間書店 米を日本に移出したいと強
引に総督府に"強要"したのは朝鮮人農家である。日本は1912年の米騒動になった
あの米不足の時を唯一の例外として、日本国内の農家の保護のために朝鮮米の移入を
制限することを試みていた。このように、朝鮮米の移入をできるだけさせないとする
日本政府と、もっと移入しろと日本政府に迫る朝鮮総督府とが凄まじい争いをしたの
である。それは、朝鮮人農家が、朝鮮の物価水準からして破格の米代金を日本から手
に入れるべく、自らは粟や雑穀を食べて米を移出しようとしたのを総督府が全面支援
したためであった。

この朝鮮人の「米移出フィーバー」が朝鮮人全体の健康を害すると考え、ある年には、
総督府が、それにストップをかけ、急いで満州その他から雑穀の大量輪入をした。現
に、日本統治下では米移出によって飢餓が生じたことは一度もない。それを「飢餓輸
出」とは、何という史実の歪曲であろうか。朝鮮人の「過剰金欲主義による米移出フ
ィーバー」というべきが、唯一に正しい歴史である。現に、この1920年代後半か
ら朝鮮の人口は増えつづけ、一人当りの国民所得も大幅に向上した。より豊かになっ
た。

自給自足型であった朝鮮農民は、米を売ることでしか現金を手にする方法を知らなか
った。


貧しかった李朝時代の朝鮮人。日本統治時代になると、農民は生産した米を高く売り、
安い穀物を買って日々の食料とした。食事の質を落として金を貯め、それで家財道具
を買い揃えて生活水準を上げていったのだ。 「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874
年 (金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫) あなたは、みすぼらしい茅屋というもの
を見たことがあるでしょう。では、あなたの知っている最も貧しい茅屋を、その美し
さと強固さの程度をさらに落として想像してみて下さい。するとそれが、みすぼらし
い朝鮮の住まいについての、ほとんど正確な姿となるでしょう。一般的にいって、朝
鮮人は藁ぶきの家に住んでいます。 …二階建ての家は、探してもむだです。そのよ
うなものを朝鮮人は知らないのです。(中略)次に家具について、簡単に一瞥しまし
ょう。まず寝台ですが… 朝鮮人はほとんど、茣蓙(ござ)の上で寝ます。貧しい人々、
換言すれば大多数の者は、昼も夜も着ている同じ服のほかには掛けるものとてなく、
茣蓙の上で横になります。少しでも金のある者は、蒲団(ふとん)というぜいたく品
を持っています。その他の家具ですが、貧しい人々は、もうその他に何も持っていま
せん。常民たちは、横にかかった棒を用意し、それに着換えを掛けておきます。裕福
な人たちは、いくつかの籠を木の棒に掛けたり屋根につるしたりします。裕福な家に
は、かなり野暮ったい行李(こうり=竹や柳で編んだ箱)があります。学者や商人た
ちは、筆と墨、それに巻紙が置いてある小さな書見台を傍らに置いて座っています。
若い婦人は、チマ(民族衣装)をいれておく小さな黒いタンスを持っています。


「韓山紀行」 山路愛山 1904年 (「現代日本思想大系4ナショナリズム」1964年
 筑摩書房より) (灰色文字は管理人注) (明治時代の史論家山路愛山の韓国紀行
から)水原を韓人は称して韓南第一の都会というそうなれども日本の穢多村(原文の
ママ)同然の体(てい)たらくなり。さりながら城門は立派なるものなり(水原城は
ユネスコ世界遺産)。韓国の都会は大陸流にして廻らすに城壁をもってし四門を開き
望楼を設く。遠望すれば写真で見たる万里の長城なり…  それはともあれ僕は城壁
の大なると楼門の魏々たるとを見、城の内外にある民家の豚小屋同然たるに対比し、
韓国には役人の建築ありて、人民の建築なきを感ぜざることを得ず。


 朝鮮の食糧不足は急激な人口増加に食糧増産が追いつけないから起こったのである。
 (植民地36年で倍増)

 「朝鮮総督府統計年報」  朝鮮総督府編 
 年次 年末常住人口・(注)1944年は5月
 1910(日韓併合年) 1312万8780人  (注)初期の調査は精度が低いと
されている
 1915 1595万7630人
 1920 1691万6078人
 1925 1854万3326人
 1930 1968万5587人
 1935 2124万8864人
 1940 2295万4563人
 1944 2512万0174人 (この他に日本内地や満州に数多くの朝鮮人がいた)

一人当りの米消費量が年ごとに減少している統計資料を持ち出して、朝鮮から米を略
奪した結果だという主張もあるが、人口増で少食の幼年人口の割合が大幅に増加して
いくのだから、朝鮮人一人当りの米消費量が減少するのは当然である。また、大旱魃
で米収穫量が激減した年もあった。


李氏朝鮮時代の農民たちの惨状 「朝鮮」 金達寿 1958年 岩波新書 農村の荒廃は
ひどく、農民は流民となってさまよい、そのうえ旱害・水害・悪疫等々もまた相次い
でこの国を襲った。顕宗の時の大飢饉(1671)は飢えと疫病とによって死んだものは、
前二者(秀吉軍・満州軍)との戦争による死亡者よりも多く、飢民は墓を暴いて死体
の衣をはぎとり、親は子を捨てて道端に行き倒れた。また、この飢民は変じて火賊と
いわれる群盗となるものもあるという状態であった。こういう災害は李朝の復興期で
あった英祖の時代にもおこり、その25年間に疫病による死者5〜60万を数えたといわ
れ、1812年には飢民の数は平安道90万、黄海道52万、江原道12万、慶尚道92万、忠清
道18万、全羅道69万にのぼった。


「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社 "生き地獄"を生きた李朝朝鮮
の農民たちフランス人宣教師のシャルル・ダレは、当時の朝鮮王国のがんこな鎖国政
策について、こう書いている。「1871年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が朝鮮
半島を襲 い、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々のなかに は、娘を中
国人の密航業者に1人当たり米1升で売るものもい た。北方の国境の森林を越えて遼
東半島にたどり着いた何人か の朝鮮人は、惨たらしい国状を絵に描いて宣教師達に
示し、 「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。  しかし、そんなときでさ
え、朝鮮国王は、中国や日本からの 食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が
死んでいくのを 放置しておく道を選んだ」(朝鮮事情・平凡社東洋文庫) 丁若[金
+庸]著の『牧民心書』でも、李朝社会の貪官汚吏の下であえぐ悲惨な朝鮮農民生活が
書かれている。(中略)朝鮮農民の間には、古来から「春窮、麦嶺越え難し」という
古諺があるほどだが、農民は収穫の5割以上が年貢として取り立てられてしまうし、
収穫した米も翌年3月の初めごろには全部、食いつくしてしまう。そこで、じやがい
もや麦のできる6月までの3ヵ月は、春窮期といわれるのだ。李朝以来、数百年にわた
って朝鮮農民の背負う歴史的な宿痾(長い間治らない病気)と言える。それは人ロの
9割を占める農民のうちの8割の小作人が、保存食糧を冬季に食いつくし、麦の収穫期
までの間、草の根、干し草、どん栗、とちの実などで食いつないでいくことである。
極端な場合には、松の木の表皮と木質との間にある柔らかい白い部分をはぎとって食
用にする。あるいは五月になると麦の成熟するのを待ちきれず、穂がまだ青く乳状で
あるものを、穂先だけ摘み取って粥にして食べたり、せっぱつまれば種子籾まで食べ
つくしてしまう場合もある。

朝鮮の農書、農史を読むと中国の農民と酷似している。旱害、水害、風害、ひょう害、
霜害、病虫害が、間断なく年中行事のように各地方を襲い、農は乞食、農奴同然であ
る。そのうえに、両班と悪吏に食い物にされ、小作農ほ、大なり小なり、慢性的な食
糧難と借金苦にあえいでいる。だから「小作人は、地主のところで出来高の勘定をす
まして帰るときには、箒と箕(穀物をふるって、ちりやからをふりわける道具)を持
って家に帰るだけである」という惨めな諺があるぐらいだ。もちろん、それは大多数
の農民に限らず、朝鮮の鉱山労働者も同じである。『朝鮮旅行記』によれぱ、「労働
者の受け取る賃金はごくわずかで、元山(ウオンサン)にて日本人へ金を売りさばく
役人たちの懐に全てが入ってしまう」「勤労の民は非常に貧しくて、飢えている」「鉱
山の近くに村があって、労働者らはそこで食事し、酒を買い、給料には手を付けない
で、ほとんど裸同然でうろついている」

そもそも朝鮮半島は三南(忠清、慶尚、全羅)地方以外、飢饉の多いところで、最近
の北朝鮮のような食糧危機は、決して特異な現象ではない。たとえば、丙子胡乱後、
毎年各地が旱魃で飢饉が続き、崇徳3年、咸鏡道が飢饉で疫病、死者3300余、黄海道
に蝗害、三南地方まで凶作。以来、3年間連続で飢饉が続いた。朝鮮『仁祖実録』に
よれば、「6年5月、3年凶作の後、八路が大旱、両季の麦が枯れ、四野が全て赤地、
これは誠に千古未曾有の大異変なり」、8年3月にまた「飢饉に疫病、人民はほとん
ど死に絶えた」とまで述べている。1671年の大飢饉では、墓を暴いて屍体の衣を剥ぎ
取り、親は子を道端に捨てたほどであった。

朝鮮総督府は、李朝社会の惨状――乞食同然の農民と道端に行き倒れの無宿者の多さ
に驚き、自作農の創出、小作制度の改善を重視している。朝鮮半島の開発、社会改革
に献身した日本人が少なくなかったことは、韓国人、朝鮮人も知っておくべきではな
いだろうか。

李氏朝鮮は現在の北朝鮮のように大量の餓死者がでる国だったのだ。朝鮮半島の歴史
で飢饉による餓死者が出なかったのは、今に至るまで日本統治時代だけである。

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▼ 農民層の没落

1920年から始まった「産米増殖計画」は米の単作増産のための水利施設、開墾、
干拓などは農民に租税、水税、小作料の増加をもたらし、農民の破綻没落をもたらし
た。

「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社 朝鮮産米の生産性は、どれだ
け向上したか日本の農務省による『韓国土地農産調査報告』によれぱ、1905年、農業
生産力の高い朝鮮半島南部でさえ、反当たりの平均収穫量は、9斗のみで、当時の日
本の平均反当たり平均収穫量、1石6斗の半分強であった。だが、朝鮮総督府スタート
当時、産米高が約1000万石前後であったのに対し、その後年々産米高が増加し、18年
後の昭和3年には1700万石を生産した。「日帝36年」の朝鮮統治で、米穀生産政策は
もっとも朝鮮人に恩恵を施したものの一つであった。有史以来、年産1000万石以上を
一度も超えたことのなかった朝鮮産米生産量は、昭和時代に入るとつねに2000万石を
突披したのだ。それは歴代総督が、食糧生産の充実と米穀生産性の向上に並々ならぬ
努力を重ね、土地改良、品種改良、耕法の改善、小作法の制定、低利融資、米穀生産
奨励などを行なって増産を重ね、日本国内産米との競争によって品質向上に努めてき
たからであろう。朝鮮産米の対日輸出は、日本内地の食糧不足の救援に大きな役割を
果たしたことは事実であったが、もう一方では日本農民の競争者となり、国内の米価
低落に拍車をかけ、内地の農家に脅成と圧迫を与えた。とくに昭和5、6年の恐慌以後、
いわゆる外地米統制問題として浮上し、朝鮮総督府と日本政府との間の対立をもたら
したほど発展していた。しかしながら、朝鮮近代史では、対日輸出による米価の高騰、
日本商人による流通の支配、朝鮮商人の従属化、買弁化を強要されたとか、農民は正
確な米穀の相場を知らないまま米穀商人の言い値で売り渡すことを余儀なくされたの
で、詐欺同然であるとか、さらに日本商人の高利貸的取奪が強められた……という記
述も多い。いかなる時代でも米穀商人の「収奪」は存在するかもしれないが、朝鮮総
督府の米穀保護政策は、決して現在の日本農水省の米穀保護政策に劣ることはない。
たとえぱ、米価の決定と米作農に対する生産奨励補助金の交付などは、どう考えるべ
きだろうか。1941年の米価設定では、生産者の手取り価格は、1石で50円となるのに
対し、消費者価格は43円に据え置きである。この差額は政府負担となった。43年には
政府の標準買入れ価格は44円、奨励金などを算入して1石当たり62円50銭にまで引き
上げられた。だが、標準売渡し価格は、43円であった。

日本によるわずか36年の植民地統治で米の生産量が倍増した。彼らの誇る朝鮮半万
年の歴史とは何だったのだろうか。


搾取される上勤勉とは程遠い李朝時代の農民たち

「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社 地方を治める官吏は、みな中央で任命さ
れたうえで派遣された。中央からやってきた役人たちは、地元に対して同情心を持っ
ていなかった。着任すると、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の政治を行こない、自
分の任期中に、できるかぎり税を取り立てるかたわら、自分の懐を肥やそうとした。
平均的な任期が短いものだったので、苛政(暴政)にいっそう拍車がかけられた。そ
こで、日本のように地方ごとに産業が創出されて、発展することがなかった。韓国の
農民たちは働く意欲を失った。

李朝末期の韓国を訪れたカナダ人ジャーナリストのマッケンジーは、「私は、十分に
耕せそうな土地をほったらかしにしていながらも、飢えに苦しむ農民のさまが理解で
きなかった。「どうしてそれらの土地を耕さないのか」ときいたところ、「耕せば耕
すほど、税を取られるだけのことだ」という返事があった」(「朝鮮の悲劇」 F.A .
マッケンジー)と書いている。


「韓山紀行」 山路愛山 (「近現代史のなかの日本と朝鮮」 山田昭次、高崎宗司
 1991年 東京書籍より) (釜山にて)僕の目に映じたる韓人の労働者はすこぶる
ノン気至極なるものにして餒ゆれば(うゆれば=食糧がなくなって腹がへる)すなわ
ち起って労働に従事し、わずか一日の口腹を肥やせばすなわち家に帰って眠らんこと
を思う。物を蓄うるの念もなく、自己の情欲を改良するの希望もなく、ほとんど豚小
屋にひとしき汚穢(おわい)なる家に蟄居し、その固陋(ころう)の風習を守りて少
しも改むることを知らずという。僕ひとたび釜山の地を踏んで実にただちに韓国経営
の容易の業にあらざるを知るなり。(明治37(1904)年5月5日)


朝鮮の発展はインフラの整備だけで成し遂げれるものではなかった。怠惰な民族性を
改め勤勉な労働精神を涵養しなければ朝鮮の発展はなかった。


朝鮮農民の手本となった日本農業移民

「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社 日本人の朝鮮半島に対する「土
地強奪」間題としてよく批判されているのは、日本人が小高い丘に登って見渡し、土
地を指さして、手当たりしだいに良田を奪っていったというものだ。日本人は両班(ヤ
ンバン)ではあるまいし、法治国家の国民である。これほどの歴史歪曲があろうか。
朝鮮半島では、東拓をはじめその他の日本人地主は、せいぜい一割にすぎなかった仮
に「二束三文」で朝鮮半島の土地を手に入れた者がいたとしてもである。(中略)移
住農民は、やがて米価の高騰により、生活状態が好転し、養豚、養鶏、養蚕、果樹園
の経営その他の多角経営で、地方に貢献していった。そもそも日本農民は、朝鮮農民
の粗放農業とは違い、集約農業に慣れていたので、集約的、多角的経営によって定着
し、農民は生活が向上している。

日本農民が開拓した農地は、決して言われているほどの良田ばかりではなかった。開
墾地は元は大河の遊水地、交通不便にして少々塩害がある干拓地であったものが少な
くなかった。たとえば、江西干拓事業は3500町歩の干潟地、海岸草生地であった。李
完用の養孫から買った土地は、黄海道東部の山間にある高原地帯であった。地味不良
で有機物に乏しく、灌漑用水も上がらない、水田にもならない不毛の地であった。当
時の東拓農業移民を含めて、日本の農業移民は、朝鮮半島農民の美田、良田を強奪す
るよりも、朝鮮半島の農民が一顧だにしなかった不毛の地の開墾や僻地の干拓を行な
う者が多かった。

日本農民の朝鮮半島開拓は、数千年来の農耕国家には、まったく考えられないほどの
農業革命をまき起こしている。農業移民の改良農法は、成績が上がれば朝鮮小作人の
モデルとなり、改良品種の試作によって、新品種、新農法が次から次へと普及してい
った。さらに移住農民の養豚、養鶏、養蚕などの多角的経営、農事施設、農業指導、
勧業奨励などは、かつて小作人からの収奪しか知らない李朝時代には、見られない光
景であった。当時の朝鮮人の気風としては、午前中に働いて、午後は寝て暮らす、明
日は明日の風が吹くというのが一般的であったからだ。雨や雪の日の労働を忌み嫌い、
冬季になると室内に蟄居(家のなかに閉じこもり)して、無為徒食する朝鮮農民にと
って、日本農民が老若男女の差なく、家族ぐるみの農事に従事し、厳冬にも室内作業
その他の副業に励むことは驚異であった。そして日本農民の自カ更生に燃える生活意
識と勤勉な農民気風が、新風として朝鮮の農村に吹き渡った。そもそも朝鮮人女性は
屋外で労働する習慣がなく、屋内に隠れていて、他人に顔を見せることを恥としてい
たが、婦人の屋外勤労奨励により、少しずつ畑などで働くようになった。

日本農民の集約的農法は、労働力を結集して、換金作物から副業にまで及び、自ら資
産を増していくとともに地方をも潤していった。日常必需品の急増によって地方経済
をいっそう刺激し、市場経済が賑わっていく。しかも、僻地にまで組合や学校がつく
られ、医療施設も普及し、道踏、橋梁がつくられ、流通、運搬も盛んになった。「土
地の収奪・搾取」などと机上で論じている戦後の論埋とは違い、日本の農民が朝鮮半
島の農業近代化だけでなく、朝鮮半島の近代市民社会の成熟に多大な貢献を果たして
きた。その歴史的事実について、終戦後の学者たちは、なぜ本格的な研究をしないの
だろうか。まことに遣憾である。


「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社 日本人は、農村振興運動を進めた。日本
統治時代以前の韓国の農村には、河川に堤防もなかったし、水利組合も存在しなかっ
たが、水利組合が結成されたために、河川地域が整備されて堤防が建設され、それま
で恒常的だった水害から、農地や農作可能な土地を守ることができるようになって、
新しい農地がつくられ、多くのところで稲作が可能になった。この結果、日本人地主
も増えた。また畜産が奨励され、日本人がつくった金融組合が、希望する農家ごとに
子牛一頭を無料で与えてくれた。与えたというよりは、貸したものだった。牛が成長
して子牛が生まれたら、一頭を組合に返すと、成長した親牛は、無償で農民のものと
なるという制度だった。

日本人は植林と治水に力を注いだ。山を管理し、植林を進めるために、総督府は山監
(サンカン)という監督官を村に置いた。また村人が、植林した山に入ることを禁じ
た。

私の小学校の日本人教師や山林局に所属していた山監や若い農村教導師は、緑化につ
いて情熱にあふれていた。真面目で、献身的な青年が多かった。日本統治時代には、
そのせいではげ山だった山々が緑に覆われるようになった。農村教導師は、農村振興
運動の一環として農村の改革と生活改善のために、村から村へと巡回していた。

私が小学校に入学する前に、満州事変が起こり、やがて支那事変(日中戦争)に移っ
ていったので、村でも戦時色がしだいに感じられるようになっていった。私は、父親
に違れられて公会堂で農村教導師が講演をするのをたぴたび聴いた。名調子の演説が
多かった。

(中略)あるいは金融組合による子牛を貸し出す制度についての講演会で、別の農村教
導師が「夕焼けほのぼのと燃えあがる空を背にして、牛を連れて家に帰る美しい姿を
目にしたときには、感激の熱い涙が、ポタリポタリと落ちるのであります」と熱弁を
振るった。

私の小学校時代には、日本統治がもう二十五年以上になっていたので、村の人々の大
半が日本語を聞いて理解することができた。そこで講話は、通訳なしに日本語で行な
われた。人々は話に耳を傾けながら、しばしば韓国語で「ケンジャンハンラサム」(立
派な人だな)とつぶやいたり、「ヨクシ、ヨクシ」(なるほど、なるほど)と相槌を
打った。

また「カを合わせて朝鮮を蘇生させましょう!今日の朝鮮では、山川草木が空からく
れた天の恵みである雨水を貯え切れず、海に流してしまっています。ああ、もったい
ない、もったいない。そこで陸は、いつも旱魃に悩まされています。木がもっと山に
生い繁れば、天の息みの雨の40パーセントを、飲み水や、水田の水として、または地
下水として貯えることができます。徹底的に山に木を蓄えようではありませんか。水
は生命の源であり、農耕の源なのです」といった話もあった。

日韓併合以前の韓国の山々といえぱ、乱伐したり、燃料にしたりしたために、ほとん
どがはげ山だった。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われる
ようになっていた。私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。しかし、独
立後にまたかって気ままに木を切るようになったので、はげ山に戻ってしまった。

日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判が良かった。日本人がやってき
てから、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、
進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を進めたので、
村人の生活水準が大きく向上したからだ。

それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。両班のように小作人
(ソチクイン)である常人を理不尽に苛めるようなことがなかったし、不作のときに
は、小作料を安くしてくれた。日本人地主のほうが、物わかりがよかった。だから、
日本人の地主は人気があった。みんなは、韓国人の地主の小作人となるよりは、日本
人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。日本人のもとで働いていた
常人たちは、羨望の自で見られていた。

日本人が所有していた農地は、独立後に、「敵産」(チョクサン)としてすべて没収
された。しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、否定でき
ない。

私たちの村は、李朝時代にはいつも水害で悩まされていた。そこで農作が思うように
できなかった水田地域を、「べべーミ」(船が浮かぶような水田)と呼んでいた。し
かし、1911年(明治四十四年)、川に堤防が築かれたために、水害から逃れることが
できた。それからは「ベベーミ」という悪名のあった水田が一等級の水田に変わって、
多収穫地として生まれ変わった。この話は、私の父親がしてくれた話である。

母はいつも韓服を着ていた。しばしば李朝時代のころの生活がいかに苦しいものだっ
たのかを、話してくれた。村には五つの農業用水池があった。日本人が京釜線を敷く
のにあたって、池を掘って線路の盛り土をしたということを教えてくれたのも、母だ
った。

日本統治時代になってから、村の人々はまともな生活を営むことがでぎるようになっ
たのだった。私の村では、独立運動系の人々を除けぱ、ほとんどの村民が日本人を尊
敬していたし、敬愛していたといってよかった。村の人々のあいだで「イルボンサラ
ムン・キョンウカタルダ」(日本人は、事理に明るい〈すべて正しい〉)という言葉
がよく交わされた。

それでも村の人々が、外国人である日本人に対して屈折した感情をいだいていたこと
も事実だった。何といっても、韓国は外国の支配下にあったのだ。日本人のもとで働
いたり、日本人と結ぶことによって成功している者は、陰で「アブチェビ」(ゴマス
リ)と呼ばれた。これにはたぶんに嫉妬心理も手伝っていただろう。


「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社 李朝時代の朝鮮農民は、あた
かも「自然法則」に弄ばれるように、4、5年に1回、巨大な旱魃、あるいは水害に
襲われるので、農業はきわめて不安定であり、農民は自然災害に対しても無抵抗であ
った。政治に対してもそうであった。すべての民衆はこの人力をはるかに超える恒常
的自然災害に対しては、いかんともしがたい天命として甘受しつづけてきた。そこか
ら生まれたのが民族全体の諦観(あきらめ)であろう。農業というのは、自然の恩恵
によって成り立っているもので、ある程度、自然に左右されやすい。しかし人力によ
って、その自然の猛威を克服しないかぎり、農業は成り立たないし、進歩発展も不可
能である。農業がきわめて不安定、不確実であることを歴史的事実として体得した農
民は、資本の再投下にほとんど関心がなく、先祖代々からもっぱら安易な略奪農法に
明け暮れていた。それが李朝時代の社会経済発展の停滞を招き、自主独立の精神を喪
失させるに至った歴史社会的背景であったともいわれる。朝鮮の歴史も、そのような
農業基盤のうえに成り立っていた。

新渡戸稲造(1862〜1933、農政学者、教育者)が見た「枯死国朝鮮」とは、自然の枯
死だけでなく、民族まで枯死に瀕していることを語っていたのであろうか。李朝時代
は旱魃、水害が繰り返し発生し、飢饉が日常化していた。統監府以前の朝鮮社会は、
司法行政の綱紀が乱れ、教育、衛生はほとんど顧みられず、河川、林野が荒廃し、道
路、橋梁もなく、港湾も船も車もほとんどなかった時代であった。それから20年後
の昭和初期に朝鮮を訪れたアメリカの碩学(せきがく)ブルンナー博士は、朝鮮農村
の実状を視察して、地方の古老にも接して今昔を比較し、天と地ほどの差が見られる
ことに驚嘆した。朝鮮総督府は人さらい、草賊(盗賊)暗躍、飢民あふれる李朝末期
の社会に、産業をおこし、治安を回復し、近代社会をつくったのであった。

1930年からの3年間、中国西北部の大飢饉では、餓死者1000万人、1942
年にはベンガルの飢饉で餓死者150万人が出た。20世紀前半になっても、アジア
大陸各地を相変わらず飢饉が襲い続けた。しかし、朝鮮半島は、大旱魃に襲われたこ
とがあったものの、飢饉はもはや過去のものとなったのである。

李朝時代の脆弱な農業基盤

「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社 朝鮮半島は、地形的には脊梁
山脈が縦走しているので、日本海側は、豆満江以外は、河川の流路が短く、朝鮮海峡
側に注ぐ河川には大河が多い。また、有史以来、大規模な治山、治水は、ほとんど行
なわれておらず、自然のままで放置されていた。雨季はだいたい7、8月ごろで、台風
の来襲も同時期に集中しているので、洪水と旱魃は、交互に朝鮮半島を襲い、その自
然生態史をつくってきた。

わずか都邑付近には、石堤や土堤があるものの、豪雨になると洪水が平原に氾濫し、
広漠たる平野が一夜にして湖沼と化してしまうこともたびたびあった。日本の河川に
比べて、流水量は二倍もあるのに対して、渇水期の流水量は、日本の河用の十分の一
から二十分の一にすぎない。

朝鮮半島は、統監・総督府時代以前は、ソウルなどの一部の都市を除いて、ほとんど
自然のままの状態で荒廃していた。李朝時代には慣行にしたがって、賦役を課し、わ
ずかに都邑のみにおいて、堤防護岸などの工事が行なわれていただけだった。

朝鮮半島には、灌漑を目的とする堰堤、あるいは河水を堰き止める石木や土でつくら
れた「ボク(上流に堰堤を築いて川の水を堰き止め、これを水路によって下流地方の
平野に導水する)というものは、決して絶無ではなかった。はるか1500年前の新羅時
代に有名なペタコル池(堤)という一大堰堤(岸長1800歩)があり、歴代王朝に堰堤の
修築もないわけではなかったが、李朝未期になると、山河がしだいに荒廃し、堰堤ら
しいものは、廃堤の遺跡しか残っていない。灌漑用水をめぐる紛争は古来絶えること
がなかった。

李朝の歴史記録によれば、堰提、ボクの施設数は朝鮮半島で2万4000を数えたといわ
れる。しかし水利関係者が、「万石堤」と称する貯水池以外は、ほとんどどこかに消
え、荒れ果てている。農事潅漑はたいてい腕力による。流水の汲み上げに限る足踏み
水車も、まれにしか見られなかった。天水に頼り、農業はきわめて原始的である。


稲作を基本とする国では治水こそが繁栄の礎であるはずなのだが・・・・・

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▼ 森林の伐採 日本人が朝鮮の森林を伐採してはげ山にした


朝鮮半島の山々を甦らせた山林緑化事業 「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998
年 光文社 1885年12月6日から86年2月29日にかけて、ソウルから北部朝鮮をへてポ
シェートに至るまで徒歩で踏破したペ・エム・ジェロトケヴィイチは、朝鮮について
(李朝時代)「どこまでいっても禿山と赤土ばかりで、草も全て撚料のために刈り取
られている」、「山地が痩せていて、昨年も沢山の餓死者が出た」、「ここは退屈極
まりない土地で、山は禿山、植生は殆ど見られない」、「朝鮮人たちは土地が痩せて
いると不満を訴えている。樹木は殆ど皆無で、燃料には藁と草が使われる」、(「朝
鮮旅行記」)などと記述している。

朝鮮半島の林野状況については、統監府設置当時では、鴨緑江と豆満江流域などで原
生林が見られる以外は、はげ山が多く荒涼とした景観となっていた。だから、はげ山
といえぱ西にスペイン、東に朝鮮といわれたほどであった。ではなぜ朝鮮半島が、あ
れほどの山野荒廃、基岩露出、土砂流出という山河崩壊の惨状になったかについては、
気侯や地質上の自然原因と人為的原因があったと考えられている。人為的原因につい
ては、乱伐といわれるものが原因で、冬季の薪材の需要と林政の不備、戦争災害もそ
の原因の一つである。数百年来にわたる旱魃と洪水による悪循環によって、いっそう
山河と大地は荒廃していった。朝鮮では古来、山林は個人所有を認めていなかったの
で「無主公山」といわれ、民衆は木を伐り、根まで掘っていくので荒廃していった。

朝鮮半島の荒廃した山野の復旧造林は、明治40年代から営林署の設立によって行なわ
れた。森林保護令、幼齢林の育成、民有林に対する造林補助、病虫害駆除、森林組合
補助、林業試験場の整備、地方庁職員の増員を行なった。さらに愛林思想を育成する
ために、農林当局は1911年から毎年4月3日に記念植樹を行ない、それからの30年間で
5億9000万本の植林を達成した。朝鮮半島の山河崩壊を緩和、阻止するために、禿山
への植林と砂防工事が全国的に実施された。

『朝鮮半島の山林』(土井林学振興会出版)によれぱ、大正7年(1918年)以降から
昭和17年までの施工面積は約17万7300ヘクタール、造林本数は6億622万4000本であっ
た。

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▼ 経済活動の抑圧

〔産業の侵奪〕 日帝は、韓国の土地を略奪すると同持に韓民族の産業活動を制約し、
さまざまな手段で資源を略奪した。これは韓国を、日本の経済発展に必要な商品市場
と原料供給地にして、彼らの国家利益を増やすためだった。日帝の産業侵奪政策に韓
民族の経済活動は制限され、民族産業もその発展が抑圧され、沈滞するしかなかった。
とくに、電気と鉄道などの事業は、朝鮮総督府と日本の大企業が握り、彼らの利益を
増やすのに利用された。 (韓国の中学校用国定歴史教科書1997年版より)

植民地に本格的な工業を興したのは日本だけである。 「韓国人の歴史観」 黒田勝
弘 平成11年 文春新書 韓国で「植民地近代化論」あるいは「侵略と開発」論を
主導してきた学者に、安秉直・ソウル大経済学部教授がいる。安教授は研究者として、
日本支配時代の功罪は実証的研究によって冷静に認識されるべきだとの立場から、「こ
れまで韓国内で常識とされてきた歴史観の見直しが必要である」と述べている(『S
APIO』1995年12月20日号)。安教授によると「植民地時代の朝鮮では農業経済が
安定し工業生産力が拡充するなど、多くの発展があった。それは自生的なものでなく
日本の植民地開発による部分が大きい。たとえばGDP(国内総生産)は1912年から
37年までの平均で4.15%の成長だった。これは当時の先進国の成長率を上回っていた。
それは植民地化の過程で日本が持ち込んだ貨幣制度、土地調査などの近代的な諸制度、
そして港湾、鉄道、道路、電信、銀行などのインフラストラクチャーの拡大によるも
のだった」という。そして日本の植民地支配の開発的側面を過小評価してはならない
といい、「従来のような独立連動勢力を特権化する歴史観は、反日感情への過大な配
慮のため常にそういう傾向があった。その弊害として韓国の世論が歴史の事実から目
をそらすことになり、植民地支配下において韓国人自身がどれほどの発展潜在力をも
っていたのかとか、現代史における韓国経済の発展が近代史とどれほどの関連性を持
っていたのかなど、客観的な研究と判断の余地をなくしてしまった」と批判している。


植民地時代までさかのぼらなくても、戦後から今日に至るまで、韓国はずっと海外か
らの巨額な投資や融資に頼ってきた。植民地朝鮮に投下した国土改造・殖産興業の巨
額投資は、朝鮮・韓民族の自力更生の力をはるかに超えたものであることを知るべき
である。


元々李朝時代から商業・工業とも振るわなかった。急に近代化できるわけがない。日
本の江戸時代のような繁栄を想像していたとすると大間違い。

「こんな「歴史」に誰がした」渡部昇一・谷沢永一 平成9年 クレスト社 渡部日清・
日露戦争当時の朝鮮というのは、底知れぬ貧乏国でした。単に近代産業がないという
レベルではありません。農業生産にしても、とうてい日本とは比べ物にならないもの
だった。「春窮(しゅんきゅう)」という言葉があるくらいで、秋に収穫した米も春
を迎えるころになると尽きてしまうというのが珍しくなかった。収奪なんてできるわ
けがない。また当然、商業なども発達していませんでした。日清戦争の後に、陸軍軍
人であった柴五郎が朝鮮を旅行したときに驚いたのは、朝鮮には銀貨も紙幣もなくて、
銅銭だけがあったということでした。つまり、当時の朝鮮には高額の貨幣が必要なか
ったのです。そして、その銅銭もシナから輪入した銭だった。

谷沢日本で言うと、平安時代末期から鎌倉時代の状況です。つまり、コリアの経済は
日本よりも800年遅れているわけです。(中略)李氏朝鮮においては商業は卑しいもの
だと思われていた。


「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874年 (金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫) 朝
鮮人は、科学技術の分野においてほとんど進歩のあとを見せていないが、産業の知識
においては、なおさら遅れている。この国では、数世紀もの間、有用な技術は全く進
歩していない。この立ち遅れの主な原因の一つに、人々が全ての手工業を各自の家で
まかわなければならず、必需品を自分の手で作らなければならないという現実がある。
農民たちは、自分の手で衣服・わらぐつ・籠・ざる・箒・綱・紐・ござ・それに必要
な農具を作る。一言にして言えば、自給自足しているのである。彼らはもっとも単純
で原始的な方法に満足しているので、決してめざましい熟練にまで達することはない。

特殊な道具を必要とし、その道具を使用するのに、徒弟期間の置かれた職業にのみ特
別な職人がいる。しかしこの場合でも、一つの定まった仕事場だけで働く職人は稀で
ある。普通彼らは雇い主の所まで道具を担いでいき、そこでの仕事が終わればまた別
の仕事を捜す。設備が必要なはずの者でさえ、一定の場所に留まることがない。たと
えば陶工は、薪と粘土が自分の好みに合う所に居を定め、そこに小屋と窯を作り、近
隣の人のために雑器や土壷、時に大きな容器を作ったりするが、薪がなくなればまた
別の所へ稼ぎ場所をかえる。鍛冶屋も同じ行動様式で採鉱が非常に困難になるとそこ
を離れて行く。したがって、大きな工場や本格的な採掘場・その名に値するほどの作
業所などできはしない。簡単に風に吹き飛ばされて、雨が漏れやすい継ぎ目の悪い板
小屋。それにひびが入って壊れそうな窯や炉、これが全てである。したがって利潤は
ほとんどない。金のあるような人はこのような産業へ投資しようとは考えもしない。

朝鮮の国内商業がほとんど発達していないことは容易に結論づけることができる。自
分の家に店を開いている商人はごくわずかで、ほとんど全ての取り引きが市で行われ
ている。また商業の発達に大きな障害になっているものの一つに不完全な貨幣制度が
ある。金貨や銀貨は存在せず、流通しているのは銅銭しかない。そのため相当量の支
払いをするためには、一群の担ぎ人夫が必要となる。というのは、200フラン分の
銭が1人分の荷物になるからである。北部地域ではこの貨幣すら流通していないので
ある。

朝鮮の金利は法外である。年3割の利子で貸し付ける人は、ただで与えるのも同然だ
と思っている。もっとも一般的なのは5割・6割で、時には10割もの利子が要求さ
れる。商取引におけるもう一つの障害は、交通路の惨めな状態である。この国は山岳
や峡谷が多いのに道路をつける技術はほとんど知られていないのである。


李朝末の商業の発展段階を窺い知ることのできる旅行記。著者は、『この国では商業
という概念が行商人の商いに限られている』と低調な商業活動を記している。

「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 講談社学術文庫 1998年)
(李朝末、日清戦争の頃の朝鮮旅行記。漢江という川を舟で旅した話ほか。) ( )
は管理人注

通貨に関する問題は、当時朝鮮国内を旅行する者を例外なく悩ませ、旅程を大きく左
右した。日本の円や銭はソウルと条約港でしか通用しない。銀行や両替商は旅行先の
どこにも一軒としてなく、しかも受け取ってもらえる貨幣は、当時公称3200枚で1ド
ルに相当する穴あき銭(注*日本の寛永通宝のような貨幣)以外になかった。この貸
幣は数百枚単位でなわに通してあり、数えるのも運ぶのも厄介だったが、なけれぱな
いでまたそれも厄介なのである。100円分の穴あき銭を運ぶには6人の男か朝鮮馬1
頭がいる。たった10ポンドなのにである! わたしが旅行の前半に雇った舟はバラス
ト(注*舟を安定させるために船底に積む重し)が穴あき銭で、わたしは円の銀貨を
つめたかぱんを持ち、自分の運のよさをあてにすることにした。そして今回の旅では、
それもまんざら役に立たないわけでもなかったのである。(中略)銀を穴あき銭に両替
しようとしたが、いつも金庫は空っぽだといわれ、誰も銀など信用してくれないか、
そもそも銀というものを知らないかで、必需品がなにも買えなかった。さいわい人口
1850人の村マギョに着いたときは市の日で、行商人がいそいそと銀35円を1円対3000
枚のレートで穴あき銭に替えてくれた。穴あき銭を舟まで運ぶには6人の人手が必要
で、舟はまた重たい荷を積むことになった。 (注*1枚3.75gの中国銭と同じ
と仮定すると両替した35円分の銭10万5千枚は394kgにもなる!!(爆笑)
 1円銀貨35枚では0.94kgである)(中略)ある大きな村でわたしたちは週に
一度立つ市に出くわした。地域の交易について調べてみるのは毎度のことで、調査の
結果、通常の意味での「交易」は朝鮮中部と北部のおおかたには存在しない。つまり、
ある場所とほかの場所とのあいだで産物を交換し合うことも、そこに住んでいる商人
が移出や移入を行うこともなく、供給が地元の需要を上回る産業はないのである。こ
のような状態は朝鮮南部、とくに全羅道でもある程度見られる。平壌をのぞいては、
わたしの旅した全域を通して「交易」は存在しない。

このような状況をつくった原因は、朝鮮馬一頭で10ポンドに相当する現金しか運ぺな
いほど貨幣の価値が低下していること、清(シナ)西部ですら銀行施設があって商取り
引きが簡便になっているのに、ここにはその施設がまったくないこと、概して相手を
信用しないことである。(中略)首都ソウルにおいてすら、最大の商業施設も商店とい
うレベルには達していない。朝鮮ではなにもかもが低く貧しくお粗末なレベルなので
ある。

儒教は商人や職人を卑しい職業とみなしたため、李朝も商業や殖産を軽んじ、経済は
停滞した。

「世界の都市物語7 ソウル」 姜在彦 1992年 文藝春秋 そもそも朝鮮の両班政
治のもとで産業政策は農本主義であって、商業というのは末業として賎視され、その
発展をできるだけ抑制する抑末思想が支配していた。(末=まつ=大切でないもの、
つまらないもの、の意)商業というのは末利をうるための詐術によって儒教的な醇風
美俗を大いに乱すというのが、抑末思想の理屈である。だから正当な商業利潤さえい
かがわしい詐術による末利といい、そういう末利をかせぐ商人たちを「謀利之輩」と
いって賎称していた。したがってそういう末業を家業とする商人たちが誇りをもって
子々孫々にそれを伝えるよりも、売官買職などあらゆる機会をとらえ、手段をつくし
てでも両班身分への強い上昇志向を持たざるをえなかった。このことは匠人(チャン
イン・手工業者)の場合も同じであって、チャンインが訛ったチャギは蔑視語になっ
た。両班政治のもとで匠人は、「身良役賎」といわれた。身分は良人(常民)である
が、その家業は賎しいということになる。技術軽視である。もともと農業というのは、
天候に左右され、したがって天意に逆らうことには限界がある。ところが商と匠は、
そういう自然的制約を受けず、自分の計算と技能による独立自尊的な生業である。と
りわけ儒教の抑末思想は、商と匠の活動の障害になりこそすれ、プラスにはならない。

李氏朝鮮の国教ともいえる儒教では「君子は労せず」と教えており、額に汗して働く
者を卑しんだ。そのため支配階級である両班は労働をすることが全くなかった。労働
を卑しむ社会は停滞するほかない。 「悲劇の朝鮮」アーソン・グレブスト 1912年
 (高演義・河在龍訳 1989年 白帝社) 朝鮮の学者(両班)は、誰かうるさい人
の目に労働と映りうることなら、できる限りそれから遠ざかろうとします。衣服を自
分の手で着てはいけないし、タバコの火も自分で点けてはいけません。そばに手伝っ
てくれる者がいない場合は別にして馬の鞍に自力でのぼるべきでなく、また荒馬から
落ちたとしても、誰かがやってきて抱き起こすまでは地面にそのまま倒れていなけれ
ばならないのです。両班は個人的な商売はやらないのですが、その訳は商売というも
のがまさに労働であり礼に反するからです。


「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫)
両班はみずからの生活のために働いてはならないものの、身内に生活を支えてもら
うのは恥とはならず、妻がこっそりよその縫い物や洗濯をして生活を支えている場合
も少なくない。両班は自分ではなにも持たない。自分のキセルすらである。両班の学
生は書斎から学校へ行くのに自分の本すら持たない。


「韓国人、大反省」 1993年 金容雲 徳間書店 李朝末期に韓国を訪れた西洋人が
テニスをしている姿を見て、時の皇帝高宗が、「なんと哀れなることよ、この暑い日
に汗を流して体を動かすとは。下人にさせればよいものを・・・・』と言ったという
エピソードがある。また、李朝時代の絵画には、むしろの上に横たわって長いキセル
を口にくわえた両班が、稲穂を片付けて働く農夫の姿をぼんやり眺めている場面がよ
く見られる。このように労働を徹底して軽視した指導者たちの導く国のありさまはた
やすく想像がつく。


「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874年 (金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫) (両
班は)現在、この国の大きな災厄になっている。なぜなら、両班階級の人口が途方も
なく増大したため、彼らのほとんどが極貧におちいり、強奪や搾取で生活しなければ
ならなくなったからである。すべての両班に品階と階級を与えることは、現実的に不
可能である。しかし全ての者がそれを望み、幼少の頃から官職の道に向かって科挙の
準備をしている。ほとんどの者は、他に生活の方法を知らない。彼らは、商業や農業、
あるいはなんらかの手工業によって真面目に生活の糧を稼ぐには、あまりにも高慢で
あり、貧窮と奸計のなかで無為に世を送る。彼らはいつも借金で首がまわらず、何か
ちょっとした官職の一つも回ってこないかかと首を長くしており、それを得るために
あらゆる卑劣な行為を尽くし、それでもなお望みがかなえられない場合には飢えて死
んでしまう。宣教師たちが知っていたある両班などは、3、4日に一度しか米にあり
つけず、厳冬に火の気もなく、ほとんど服も着ないで過ごしながらも、いかなる労働
に従事することも最後まで拒絶し通したものであった。何かの労働に就けば、たしか
に安楽な生活は保障されるであろうが、その代わり両班の身分を剥奪され官吏の地位
につける資格を喪失するため、彼らは労働することを拒むのである。


「30年前の朝鮮」 バード・ビショップ 1925年 (「醜い韓国人」 朴泰赫 19
93年 光文社より) 読者は朝鮮人の無気力、怠惰、居候(いそうろう)根性、貧し
さをつぶさに観察されたことになるが、このために朝鮮の独立はきわめて困難で、将
来を望むことが難しい。(中略)朝鮮を亡ぼすもっとも大きな、普遍的な原因は、国
民が挙げて独立独行の精神に欠けていることである。健康な体格を持ちながら、親族
知己に少し富裕な人があればその家に居候して、終日何一つの仕事もせずに暮らして
いる。(中略)居候も朝鮮人の居候根性は徹底したものである。京城市内の高官、裕
福な人の家には、屈強な大の男が相当の教育がありながら数十人となく寄食している。
三度三度の飯も食わしてもらえぱ、煙草一服も人のものを吹かしている。見苦しい話
だ。


このような両班支配のもとでは産業の発展など到底不可能である。両班は極端に肉体
労働を蔑み、殆ど働かなかったので、手足として使役する奴婢(奴隷)を必要とした。
李氏朝鮮の国力衰退の根源は、牢固たる階級差別制度にあった。総督府は両班や奴婢
などの身分差別を禁止して朝鮮人の意識改革をおこない、近代国家の「国民」を創出
した。

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▼ 会社設立の制限 朝鮮総督府は会社令を公布し、会社の設立のときは朝鮮総督の
許可がなければならなくなった。これは韓国人の企業活動を抑制するための措置だっ
た。(中略)1910年に会社令を制定し、韓国人の会社設立を抑制した。そのため、日
本人会社の成長が韓国人会社を上回った。1911年と1917年を比較すると、韓国人の資
本金は17パーセントから12.7パーセントに下がったのに比べ、日本人の資本金は32パー
セントから83.2パーセントに上がった。(中略)日帝は会社令を許可制から申告制に
変えた、そのため、日本の財閥の資本が浸透し、日本人が経営する会社が設立され、
韓国の産業と韓国人の経済生活は、日本人によって支配されるようになった。 (韓
国の中学校用国定歴史教科書1997年版より) 併合当時は鉱山経営などで第三国の資
本がかなりあり、それが買収などで日本人の資本と置き換わって日本人資本比率が上
昇したという面もある。Link 神戸大学付属図書館 / 朝鮮と外人鉱業権


「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 1989年 原書房 朝鮮総督府は株式会社を届出
制でなく許可制としたが、これは民族資本の活動を抑圧し、日本資本の進出を容易に
したものとして非難されている。これは民族資本の活動を抑圧し、日本資本の進出を
容易にしたものと非難されている。そのような結果をもたらしたことは事実であろう
が、この措置は朝鮮人の経済活動の抑圧のみを目的としたものとは思われない。

他人の資本を広く集め、しかもその出資者は、事実上その経営に関与できない株式会
社は、社会、経済の発展していない所ではしばしば詐欺目的のため設立され、あるい
はそういう結果におちいることが少なくない。総督府が許可主義をとった理由として
『株式会社の健全な発展を期するため』と述べているのは、詐欺目的の乱立により、
朝鮮民衆が被害を受ける恐れがあることと、株式会社制度そのものが、信頼を失うこ
とを心配したことにもよろう。植民地統治は、その社会は未開であり原住民の知識水
準は低いというのが前提であるから、植民地統治の初期において、みだりに株式会社
を作らせないという方針はそれなりに合理性をもっているのである。

明治初年、日本も株式会社制度を導入した際、当初は免許主義をとっており、1899年
の商法制定の折、準則主義、すなわち用件が整っておれば誰でも設立することができ
るようになった。朝鮮でも統治開始10年後の1920年、許可主義は届出主義となり、経
済活動の可能性は法律上は平等化されている。


「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社 事実上、農耕民族の朝鮮人は、
株式会社組織という伝統も理解も理念もなかった。今日にいたっても株式会社という
より家族会社が主流である。他人といっしよに会社をつくらないだけでなく、つくっ
てもすぐ騒動が持ち上がり空中分解してしまうのであった。当時、財政顧間として農
工銀行の株式を整理した関係者によれば、当時の朝鮮人のほとんどが株式会社とは何
たるかを知らなかったし、民族資本云々という話どころではない社会なのだという。
株式は募集ではなく、各地方の面長(村長)がそれぞれの地方有力者に債券を割り当
てて会社をつくったぐらいで、当時の朝鮮社会では他人といっしょに会社をつくるな
どということはもってのほかであり、朝鮮人で独自の事業計画を立てて、会社令によ
って申請した人は一人もいなかった。(『日本統治下における朝鮮の法制』友邦協会)


「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画 さまざまな政策を実行す
るための財源として、日本政府は併合直後から毎年1000万円から1900万円の補充金を
一般会計から朝鮮総督府特別会計に補給し続けた。

日本は産業振興にも力を入れ、併合後20年にして、工業製品出荷額は約16倍になった。
工業の種類も軽工業中心から重化学工業中心へと徐々に移行し、昭和15年には工業生
産額のうち重化学工業の占める比率は57.8%にも達した。こうした産業を興すために
は資本(資金)が必要であるが、官民とも疲弊していた朝鮮側はその資本をほとんど
準備できなかった。必然的に産業資本は90%までが日本本土からの投資であり、朝鮮
民族資本の蓄積によるものは僅か10%にも至らなかった。企業はボランティア団体で
はないため、出資者にその利益が廻される。このため、日本は本土の大会社を進出さ
せて朝鮮から経済的搾取を行なったと批判されるのだが、それではどうしたらよかっ
たのか。日本が資本を投下せず産業を興さなければよかったのか。

どちらにせよ、農業振興や産業育成などによって朝鮮の人々の生活水準は徐々に上が
り、大正9年には法人所得税をはじめて徴収できるまでになったのである。(併合時
の韓国の国民経済は破綻しており、朝鮮人から税金を取ることもままならぬ状態にあ
った。このため日本は併合後、10年間所得税を免除した。)このように日本からの多
額の投資・援助や指導によって、朝鮮は飛躍的に近代化し、国民生活も僅かずつなが
らも豊かになった。


李朝時代の状況を知れば、朝鮮人が株式会社制度に信用を置かなかった理由が分かり、
総督府の統制下に置いた理由が理解できる。

「朝鮮事情」 シャルル・ダレ 1874年 (金容権訳 1979年 平凡社東洋文庫)
朝鮮の両班は、いたるところで、まるで支配者か暴君のごとく振る舞っている。 大
両班は、金がなくなると、使者をおくって商人や農民を捕えさせる。 その者が手際
よく金をだせば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行されて 投獄され、
食物もあたえられず、両班が要求する額を支払うまで笞(むち)打たれる。 両班の
なかでもっとも正直な人たちも、 多かれ少なかれ自発的な借用の形で自分の窃盗行
為を偽装するが、 それに欺かれる者は誰もいない。 なぜなら、両班たちが借用した
ものを返済したためしが、いまだかつてないからである。 彼らが農民から田畑や家
を買う時は、ほとんどの場合、支払無しで済ませてしまう。 しかも、この強盗行為
を阻止できる守令(郡県の長官)は、一人もいない。


「朝鮮紀行」 イザベラ・バード 1897年 (時岡敬子訳 1998年 講談社学術文庫)
搾取の手段には強制労働、法定税額の水増し、訴訟の際の賄賂要求、強制貸し付け
などがある。小金を貯めていると告げ口されようものなら、官僚がそれを貸せと言っ
てくる。貸せばたいがい元金も利子も返済されず、貸すのを断れば罪をでっちあげら
れて投獄され、本人あるいは身内が要求金額を用意しないかぎりムチで打たれる。こ
ういった要求が日常茶飯に行われるため、冬のかなり厳しい朝鮮北部の農民は収穫が
終わって二、三千枚の穴あき銭が手元に残ると、地面に穴を掘ってそれを埋め、水を
そそいで凍らせた上に土をかける。そうして官僚と盗賊から守るのである。


これは搾取などという手ぬるいものではない。ならず者によるカツアゲだ。株式会社
設立の許可制度の背景にはこういう社会状況があった。


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日本から見た韓国併合1(http://mirror.jijisama.org/kankoku_heigou1.htm
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植民地統治の検証2(http://mirror.jijisama.org/syokuminti2.htm
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