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日本人の持つ単純明快な人間主体の宗教観に達するには、西洋人では天才ニーチェですら発狂するほどの努力を必要とした。
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投稿者 TORA 日時 2006 年 8 月 21 日 14:38:17: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
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日本人の持つ単純明快な人間主体の宗教観に達するには、
西洋人では天才ニーチェですら発狂するほどの努力を必要とした。

2006年8月21日 月曜日

◆キリスト教は邪教です!―現代語訳『アンチクリスト』 ニーチェ,フリードリッヒ・ヴィルヘルム(著)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4062723123.html

◆仏教の素晴らしいところ

さて、これまで私はキリスト教の問題点をあげ、それが最悪の宗教であることを説明してまいりました。それでは他の宗教について私がどう考えているのか、これも大事なことなので、きちんとお話ししておきましょう。

ご存じのように、仏教という宗教があります。仏教もキリスト教に負けず劣らずたくさんの信者がおります。仏教というと、キリスト教とはまったく違う宗教というイメージがあるようですが、実は両方とも同じようなニヒリズムの宗教なのです。しかし、仏教はキリスト教に比べれば、一〇〇倍くらい現実的です。

仏教のよいところは、「問題は何か」と客観的に冷静に考える伝統を持っていることです。これは、仏教が何百年と続いた哲学運動の後に現れたものだからでしょう。インドで仏教が誕生したときには、「神」という考えは、すでに教えの中から取り除かれていたのです。

そういう意味では仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教と言っていいでしょう。

彼らは本当に現実的に世の中を見ています。仏教では「罪に対する闘い」などとキリスト教のようなことを言いません。現実をきちんと見て、「苦しみに対する闘い」を主張するのです。

仏教では、「道徳」という考えは自分をダマすことにすぎないと、すでにわかっているのですね。ここが仏教とキリスト教の大きく違うところです。

これは私の言い方なのですが、仏教という宗教は「善悪の彼岸」に立っているのです。つまり、善や悪というものから遠く離れた場所に存在している。それは仏教の態度を見れば明らかです。

仏教が注意しているのは、次の二つです。

一つは、感受性をあまりにも敏感にするということ。なぜなら、感受性が高ければ高いほど、苦しみを受けやすくなってしまうからです。そしてもう一つは、なんでもかんでも精神的なものとして考えたり、難しい概念を使ったり、論理的な考え方ばかりしている世界の中にずっといること。そうすると、人間は人格的におかしくなっていくのです。

読者の皆さんも「自分も思い当たるな」とか「ああ、あいつのことだな」とすぐにイメージできるのではないでしょうか。

仏教を開いたブッダはそういったものを警戒して、フラフラと旅に出て野外で生活することを選びました。ブッダは食事にあまりお金をかけませんでした。お酒にも用心しました。欲望も警戒しました。また、ブッダは自分にも他人にも決して気づかいしなかった。要するにブッダは、いろいろな想念に注意していたわけです。

ブッダは心を平静にする、または晴れやかにする想念だけを求めました。ブッダは、「善意」とは、人間の健康をよくするものだと考えたのです。そして神に祈ることや、欲望を抑え込むことを教えの中から取り除きました。

仏教では、強い命令や断定を下したり、教えを強制的に受け入れさせることはありません。なにしろ、一度出家して仏の道に入った人でも「還俗」といって再び一般の社会に戻ることができるくらいですから。

ブッダが心配していたことは、祈りや禁欲、強制や命令といったものが、人間の感覚ばかりを敏感にするということでした。仏教徒はたとえ考え方が違う人がいても攻撃しようとは思いません。ブッダは恨みつらみによる復警の感情を戒めたのです。

「敵対によって敵対は終わらず」とは、ブッダが残した感動的空言葉です。

ブッダの言うことはもっともなこと。キリスト教の土台となっている「恨み」や「復讐」といった考えは、健康的なものではありません。エゴイズム今の世の中では、「客観性」という言葉はよい意味で使われ、「利已主義」という言葉は悪い意味で使われています。

しかし、「客観性」があまりにも大きくなってしまい、「個人的なものの見方」が弱くなってしまうのは問題です。また、「利已主義」が否定され続けると、人間はそのうち精神的に退屈になってくるものです。

こういった問題に対して、ブッダは「利已主義は人間の義務である」と説きました。要するに、問題を個人に引き寄せて考えよう、と言ったわけです。

あの有名なソクラテスも、実は同じような考え方をしています。ソクラテスは人間の持っている利己主義を道徳へと高めようとした哲学者なのです。

◆多様な文化を認めないキリスト教

それではなぜ、仏教はこれほどまでにキリスト教と違うのでしょうか。その原因は、まず仏教がとても温かい土地で誕生したということ、またその土地の人たちが寛大でおだやかで、あまり争いを好まなかったことなどがあげられるでしょう。そして重要なのは、仏教が上流階級や知識階級から生まれたことです。

仏教では、心の晴れやかさ、静けさ、無欲といったものが最高の目標になりました。そして大切なことは、そういった目標は達成されるためにあり、そして実際に達成されるということです。

そもそも仏教は、完全なものを目指して猛烈に突き進んでいくタイプの宗教ではありません。ふだんの状態が、宗教的にも完全なのです。

ところがキリスト教の場合は、負けた者や押さえつけられてきた者たちの不満がその土台となっています。つまり、キリスト教は最下層民の宗教なのです。キリスト教では、毎日お祈りをして、自分の罪についてしゃべったり、自分を批判したりしている。それでもキリスト教では、最高の目標に達することは絶対にできない仕組みになっているのです。

フェアじゃないですよね。暗い場所でなにかコソコソやっているというのがキリスト教なのです。肉体が軽蔑され、ちょっとしたものでもすぐに「イヤらしい」などといってケチをつける。

かつてキリスト教徒は、ムーア人(八世紀にスペインに侵入したアラビア人)をイベリア半島から追放したのですが、彼らが最初にやったことは、コルドバだけで二七〇軒もあった公衆浴場を全部閉鎖したことでした。

キリスト教徒というのは異なった文化を認めようとしないのですね。それどころか、考え方が違う人たちを憎むのです。そして徹底的に迫害する。とても暗くて不健康で危険な人たちなのです。

キリスト教徒ってのは、言ってみれば神経症患者みたいなものです。常に神経が過敏な状態が、彼らにとっては望ましいのです。

キリスト教徒は、豊かな大地や精神的に豊かな人に対して、徹底的に敵意を燃やしました。具体的に「肉体」を持っているものに反発して、自分たちは「霊魂」だけを信じている。それで、張り合おうと思っているわけです。

キリスト教は、立派な心がけ、気力や自由、あるいは心地のいいこと、気持ちがいいこと、そして喜びに対する憎しみなのですね。

キリスト教が下層民のもとで誕生すると、やがてそれは野蛮な民族の間に広まっていきました。野蛮な民族は、仏教徒と違って、不満や苦しみを、敵に危害を加えるという形で外に出していったのです。

逆に言いますと、キリスト教は野蛮人を支配するために、野蛮な教えや価値観が必要だったのです。たとえば、初めての子どもを犠牲に捧げる風習や、晩餐で血を飲む儀式などがそうです。

このように、キリスト教というのは、人間の精神と文化への軽蔑なのです。仏教は、いい意味で歳をとった、善良で温和な、きわめて精神化された種族の宗教です。

残念なことに、ヨーロッパはまだまだ仏教を受け入れるまでに成熟していません。仏教は人々を平和でほがらかな世界へと連れていき、精神的にも肉体的にも健康にさせます。

キリスト教は、野蛮人を支配しようとしますが、その方法は彼らを病弱にすることによってです。相手を弱くすることが、敵を飼い慣らしたり、「文明化」させるための、キリスト教的処方簑なのです。

仏教は文明が発達して終わりに向かい、退屈した状態から生まれた宗教ですが、キリスト教は、いまだに文明にたどりついていないのです。 (P46−P53)

◆キリスト教が破壊したローマ帝国

人がウソをつくときって、どんなときでしょうか。やはり、そのウソによって何かを守るときか、あるいは破壊するときでしょう。これらは相反するものですね。

しかし、キリスト教は無政府主義者と同じなので、破壊のみを目指すのです。歴史を振りかえれば明らかです。まさに歴史が証明しています。

先ほども言いましたが、宗教的な法の目的は、人生をよりよくするためのいろいろな条件や、杜会の偉大な組織を「永遠化」させることです。

偉大な組織では、人生が豊かになるからこそ、キリスト教はそれに対して攻撃を仕掛けるのです。

『マヌ法典』では、長い年月をかけて手に入れた収穫は、より利益を高めるために上手に運用し、より大きく豊かに、完全に持ち帰るべきものとされています。

反対に、キリスト教はローマ人の巨大な業績を一夜のうちにぶち壊しました。

キリスト教は世界を破壊しつくしてしまった。

キリスト教と無政府主義者は、両方デカダンスです。解体したり、害毒を与えたり、歪曲したり、血を吸う以外には何の能力もありません。立っているもの、持続するもの、未来を約束するもの、すべてに対する恨みと呪いの固まりなのです。

キリスト教徒はローマ帝国の血を吸いつくしました。

ローマの歴史は素晴らしいものでした。本当はローマ帝国はさらに大きくなるはずだった。ローマ帝国という驚くべき大規模な芸術作品は、まだ一つの始まりであり、数千年もの時間がたって真価を発揮するようなビツグプロジェクトだったのです。

これほどの大事業は、歴史上で、かつて一度も行われたことがありませんでした。ローマ帝国は偉大でした。たとえ、ろくでもない人間が皇帝になったとしても、土台が揺らぐことはありませんでした。誰が皇帝になろうと、そんなものは偶然にすぎず、ほとんど関係ないのです。

実はこれがすべての偉大な建築物の条件なんですね。しかし、そんな偉大なローマ帝国でさえ、腐り果てたキリスト教徒を防ぐことはできませんでした。

ウジ虫たちは、暗闇や霧にまぎれてコソコソと人々に忍び寄り、「真なるもの」に対する真剣さ、現実の世界で生きていくための本能を、人々から吸い取っていきました。そして一歩一歩、ローマ帝国という巨大な建築物から「魂」を奪っていったのです。

ローマ帝国の人々は、自分の国に対して、自分の意見を持ち、真剣さと誇りを持っていました。ところが、その男性的で高貴な本性が奪われてしまったのです。偽善者たちの陰謀が、ローマを支配して主になってしまった。 (P155−P157)

◆ルネサンスは反キリスト教運動

ここで、ドイツ人にとっては苦々しい思い出に触れる必要があります。最後の偉大な文化の収穫だったルネサンスが、バカなドイツ人のせいで失われてしまったことをです。これを最後に理解していただきたいのです。

ルネサンスとは、キリスト教的なあらゆる価値を転換させることにほかなりません。

キリスト教の反対の価値、つまり高貴な価値が勝利をもたらすように、最高の知性が集まってくわだてられた試み。この偉大な闘いがルネサンスなのです。ルネサンスはいまだかつてなかった強い強い問いでした。

そして、私が言っていることは、ルネサンスが発した問いなのです。というのも、ルネサンスほど根本的で単刀直入にキリスト教の中心部に切り込む攻撃の方法は、それまでなかったからです。

キリスト教の中心部に、決定的な地点で攻撃を仕掛けること。そして高貴な価値を王位につけること。

ルネサンスは素晴らしい魅力と可能性の広がる事業でした。その可能性は美しく光り輝いていました。そこでは一つの芸術が始まっており、それは悪魔と見間違えてしまうほど神々しかった。何千年かかっても、次の可能性は決して見つからないようなものでした。

私は一つのお芝居を思い浮かぺます。それは非常に意味が深く、驚くべき逆説的な光景です。オリンポスの神々もこれを見たらきっと大笑いするでしょう。そのお芝居では、イタリアの君主チェーザレ・ポルジアが法王の立場にいる。私の言っている意味がおわかりになりますでしょうか。

こういうことが起こっていれば、それこそ勝利だった。今日、私だけが望んでいることが、勝利を占め、キリスト教が除去されたはずでした。

ところが、一人のドイツ人修道士ルターがローマにやってきた。復讐心の強いこの修道士が、ローマでルネサンスに対抗して立ち上がったのです。

当時のローマではキリスト教という病気は克服されていました。それも、本拠地において。本来ならそれに感謝しなければならないはずなのに、ルターはキリスト教を都合よく利用することしか考えていませんでした。宗教的人間というのは本当に自分勝手なのですね。

ルターは法王が堕落していると思いました。しかし、本当はまったく逆だったのです。

当時、法王の座にキリスト教はいませんでした。そこに座っていたのはキリスト教なんかではなく、「生」だったのです。「生きること」に対する勝利の歌。すべての高くて、美しい、大胆なものごとへの肯定だったのです。

ところが、ルターは教会を復活させてしまった。彼が教会を「堕落している」と言って攻撃したからです。そのせいで、ルネサンスは大いなる徒労となってしまいました。こうしたバカなドイツ人のせいで、今、私たちは大きな被害を受けています。

本当に、ドイツ人はろくなことをしません。宗教改革、ライプニッツやカントなどのドイツ哲学、さまざまな「解放」戦争、帝国。どれ一つをとっても、すでにそこにあったものを、二度と回復できないような徒労に終わらせるものでした。

こういうドイツ人が私の敵なのです。

私は、彼らの考え方や価値観のうす汚さ、誠実な判断に対する臆病を軽蔑します。ここ1000年もの間、彼らの指が触れたものは、すべてよれよれに、もつれてしまっています。

彼らは、キリスト教という病気によって腐っているのです。ヨーロツパに病気を広げたのは、ドイツの責任です。

この世に存在するもっとも不潔な種類のキリスト教、ほとんど治る見込みのない重病のキリスト教、つまりプロテスタンティズムについても、ドイツには責任があります。

今すぐに、キリスト教とけりをつけないのなら、その責めはドイツ人自身が負うべきでしよう。 (P167−P170)


(私のコメント)
昨日は、日本でどうしてキリスト教が受け入れられないのか紹介しましたが、日本人なら直ぐに気がつくようなキリスト教の欠陥を、なぜヨーロッパ人は気がつかないのだろうか? 最近「ダビンチコード」という小説や映画が話題になりましたが、ルネッサンス期の天才のレオナルド・ダビンチや狂気の天才であるF・W・ニーチェなどはキリスト教の欠陥に気がついて絵画や著書で現しましたが、一般のヨーロッパ人にはキリスト教を捨て去るという文明のレベルには達してはいない。

むしろ最近のアメリカにおけるキリスト教原理主義の動きなどを見ると精神文化が後退しているようにも見えるのですが、それがパレスチナ戦争がなかなか終わらない原因にもなっている。とくに福音派と呼ばれるキリスト教の一派は中東の地でのハルマゲドンを待ち望んでいるという狂気にはついていけない。

レオナルド・ダビンチはまだ教会の圧力が強いときだったから絵画でしか「反キリスト」のメッセージを残せませんでしたが、約100年前のニーチェの時代になって「アンチクリスト」が書けるようになってきた。この本は現代語訳となっているから非常に読みやすくて30分で全部読んでしまった。その中ではまずカントを批判していますが、私は哲学者ではないのでよく分からない。

しかし完璧に見えるカントの哲学も、論理に固まりすぎると人格的におかしくなってきてしまうようだ。むしろ実際の現象や歴史的事実を見ながら考えていったほうが真理にめぐり合えると思うのですが、論理で固めてありもしない真理を作り上げる危険性をニーチェは批判しているのでしょう。

日本においては戦国時代のときも仏教の僧侶とキリシタンの宣教師との論争もあったようですが、具体的な記録として残っているのは昨日も少しふれた新井白石の「西洋紀聞」であり、次のようなものだ。


◆キリシタン禁制の論理考 れんだいこ
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/kirishitankinseico.htm

「 その教えとするところは、天主を以って、天を生じ地を生じ、万物を生ずるところの大君大父とす。我に父有りて愛せず。我に君有りて敬せず。猶(なお)これを不孝不忠とす。いはんや、その大君大父に仕ふる事、その愛敬を尽さずという事無かるべしと云う。礼に、天子は、上帝に事(つか)ふるところの礼ありて、諸侯より以下、敢えて天を祀る事あらず。これ尊卑の分位、みだるべからざるところあるが故なり。しかれども、臣は君を以って天とし、子は父を以って天として、妻は夫を以って天とす。されば、君に仕えて忠なる、もて天に仕ふるところ也。父に仕えて孝なる、もて天につかふるところ也。夫に仕えて義なる、もて天につかふるところ也。三綱の常(君臣、父子、夫婦の関係)を除くの外、また天につかふるの道はあらず。もし、我が君の外につかふべきところの大君あり、我が父の外につかふべきの大父ありて、その尊きこと、我が君父の及ぶべきところにあらずとせば、家においての二尊、国においての二君ありといふのみにはあらず。君をなみし、父をなみす、これより大きなるものなかるべし。たといその教えとするところ、父をなみし、君をなみするの事に至らずとも、その流弊の甚だき、必ずその君を殺(正式文字は右のつくりが式)し、その父を殺(式)するに至るとも、相かへり見るところあるべからず」。


(私のコメント)
要するに「神」と「先祖」や「両親」や「主君」との関係の矛盾点をついたものですが、キリスト教は「個」の宗教であり「家」の宗教ではない。そもそもキリスト教とは奴隷階級の宗教でありユダヤ教も同じだ。古代イスラエルは大ローマ帝国に滅ぼされましたが、ユダヤ人はその復讐のためにキリスト教を作り上げてローマ帝国領内でその教えを広めた。

ローマ帝国領内には奴隷が沢山いたから弾圧にもかかわらず瞬く間に広まり、ついにはローマ国教化するのですが、あれほど揺ぎ無かったローマ帝国がキリスト教と言うウイルスが繁殖して滅んでしまった。つまりキリスト教の教義にローマ帝国を弱体化するために「個」の論理を植えつけたのだ。決して蛮族の侵入で滅んだのではない。

日本も戦前は「神国」と呼ばれていましたが大東亜戦争で敗れて「神国」という神話は崩れ去った。天皇は人間宣言をして、アメリカ占領軍は日本をキリスト教国化しようとした様だ。その為に教育制度や民法の改正などで「家」制度を崩壊させてキリスト教の「個」の制度を押し付けた。そして日本を二度と立ち上げれぬように弱体化させようとした。

日本がアフリカや南北アメリカのような未開の地であったのなら、戦争で負けたことでフィリピンのようにキリスト教国化してもおかしくは無いが、日本は相変わらず「神国」のままだ。その原因としてはキリスト教よりも仏教が先に入ってきたことであり、仏教の方が宗教として洗練されている事であり、日本人から見ればキリスト教の欠陥は直ぐに分かってしまうのだ。

ニーチェの「アンチクリスト」ではローマ帝国を滅ぼしたのも、ルネッサンスを潰したのもキリスト教のせいと断じています。とくにキリスト教が世界に弊害をもたらしているのが世界の多様な文化を認めないことだ。十字軍の運動がその端緒ですが、キリストの名の下に世界の民族や文化を破壊して周り、現在でもアメリカとイスラエルは中東に民主主義をもたらすとして戦争をしている。

現在のアメリカとイスラエルは確実に狂いつつあるのですが、その原因はキリスト教とユダヤ教にある。キリスト教は復讐の宗教であり、戦争を絶えず続けていないといられない強迫観念に駆られてしまう。だからヨーロッパは世界を征服するために侵略を始めたのですが、欧米の植民地支配を終わらせたのは「神国」である日本である。

世界史的に持て日本だけが欧米の植民地にならずに先進国になれたのも偶然ではなく、仏教などの異文化が入ってきても上手く融合させる文化があるからであり、西洋の文化も上手く融合させる事ができた。その意味では日本の宗教は異文化に対して融和的でありキリスト教文明よりも仏教と西欧文明を融合させた精神文化は西洋よりも進んでいるのだ。


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