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Re:欧米侵略の進行に関するレス(2ちゃんねる戦争論より)
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投稿者 たかす 日時 2006 年 8 月 25 日 17:40:08: ifeEPcYg7BdHI
 

(回答先: NHKの大河ドラマの「功名が辻」は単なるホームドラマであり、これでは秀吉が何故バテレン追放令を出したのか分からない 投稿者 TORA 日時 2006 年 8 月 25 日 14:35:54)

369 名前: 幾千年の年月を 投稿日: 01/10/20 21:48 ID:k5nkBUgv
 インドネシア群島でもこれと全く同じ状況だった
 アチェーのスルタン・イスカンダル・ムダがトルコとヨーロッパから入手した砲は、
1620年には2000門に達していた
 だが、それでどうなったかと言うと、別にどうにもならなかった
 これらの砲はポルトガルとの戦争で全く役に立たず、1629年のマラッカ攻囲で
あらかた失われてしまった
 実際のところ、火器よりも900頭の戦象のほうが余程役に立った
 1629年以降、生き残った砲は儀礼用にとっておかれたに過ぎなかった
 城壁に守られた都市や要塞が比較的少なかったことが、このように伝統的な戦術が
近代的な戦術に勝った理由の一つだった

 このような領域では、攻城戦は当然のことながら未知の体験だった
 そこでの戦争は奴隷や貢ぎ物を手に入れるためのものであって、
領土を併合したり新しい戦略拠点を獲得するためのものではなかった
 故に、強力な攻撃に対する最善の防御は、さっさと降伏するか、取り敢えず逃げるかのどちらかだった
 繁栄を謳歌していた港湾都市マラッカに1511年にポルトガルの分遣艦隊が
攻めてきたとき、スルタンと守備隊はしばらく抵抗してみたが、取り敢えず内陸に
1日程度の「ピクニック」に出かけることにした
 彼らの記録によると、「(ポルトガル人たちは)ただこの町を略奪しに来ただけで、
ことがすめば立ち去り、略奪品を持って出帆するつもりだ」と考えていたのだった
 ところが予想に反して、ポルトガルはマラッカに強力な要塞を築いた
 「ア・フォモサ(壮大)」と呼ばれることになるその要塞は、
例によって歴代のスルタンが葬られている聖なる丘から石を集めてきて、
町の大モスクの瓦礫の上に建設された
 完成したポルトガル領マラッカの城壁は全長2キロに達し、10回の攻囲に耐えた

 特に、前述の1629年の攻囲は歴史に残る大攻勢だった
 イスカンダル・ムダは2万の兵を率い、236隻の小舟で港を封鎖し、
攻城砲でマラッカを包囲した
 アイェー軍はマラッカの周囲に見事な攻城陣地線を構築し、
「ローマ人でもこれ程強靱な陣地をこれ程速く造ることはできないだろう」と
ポルトガル人が記録に残した程だった
 だがそれでもイスカンダル・ムダは勝てなかった
 それどころか、結局1万9000の兵と将軍2名、船と砲の大半を喪った

 一方、同じ1629年に、マタラムのスルタンがバタヴィアのオランダの要塞に、
イスカンダル・ムダに劣らぬ大攻勢をかけている
 スルタンが正しく認識していた通り、この要塞は「ジャワの脚に刺さった棘」であり、「(ここで)引き抜いておかないと、全身が危険な状態になりかねない」からだった
 マタラム軍は、マラッカを包囲したアチェー軍のように、ヨーロッパ式の攻城築城を
やってみせた
 しかし、オランダの入植地を守る要塞の巨大な掘と城壁と稜堡はびくともしなかった


そんだけ

370 名前: 支踏 投稿日: 01/10/20 21:50 ID:k5nkBUgv
 ヨーロッパ人は東南アジアに他にも多くの要塞を建設した
 「香料諸島」(テルナール、ティドーレ、アンボイナ等)とフィリピン群島の無数の
小要塞群、台湾のゼーランディア要塞、マカオのモンテ要塞、アユタヤ、バンテン、
ペグーの城塞商館等である
 スペインとポルトガルは日本の長崎にも要塞化された港湾都市を築こうとしたが、
徳川幕府は稜堡の建設を認めなかった

 マニラは、マラッカとバタヴィアに匹敵する強力な要塞を備えていた
 1560年代にスペイン人が訪れる直前に、ボルネオとモルッカ諸島のムスリム領主に
よってフィリピンに要塞建設が行われたが、これは木造だった
 スペイン支配時代以前のフィリピンに存在した石造建築物は、
ミンドロ島のプルエト・ガレーラ近くにあった小要塞一つだけだった
 だが、この要塞も、マニラの巨大な竹造砦柵も、スペインの砲撃には耐えられなかった
 しかもスペイン人は、1576年から1650年にかけてムスリムが築いた砦柵の跡に巨大な要塞を建設し、この要塞はその後2世紀にわたってあらゆる攻撃を跳ね返した
 マニラのサンディエゴ要塞自体はセブのサン・ペドロ要塞程度で、
格別大きなものではなかったが、稜堡が点々と並ぶ厚さ3メートルの巨大な城壁に
つながっていた
 この城壁は、スペインが領有する市街を取り囲み、東アジア最良の天然港湾を見下ろすことになった
 もっとも、この「イントラスロム(城壁都市)」については賛否両論が存在する
 一般にはヨーロッパの要塞に引けを取らない強靱な要塞とされているが、
当時でもそれ程感動しなかった人もいた
 1588年、マニラに滞在したあるスペイン高官は、現在建設中の要塞は
「金と時間の浪費」だと国王に報告した
 「何故なら、時代遅れの円形の堡塁を建てた」からだった
 また、1591年に「イントラスロム」の司令官は、建築家がヨーロッパで設計した
ため、現地の防衛施設は「建築家の助言も計画もなしに建設されており、まるで的外れだ」と文句をつけた
 だが、1650年に完成した城壁は彼らの言い分より堅固だったことは間違いない

 これに刺激されて、または脅威を感じてヨーロッパのスタイルを採り入れる
地元の支配者もいた
 バンテン、パティ、ジャバラ、スラバヤは16世紀には煉瓦か石造の城壁を
備えるようになった
 スラウェシ島南部のマカッサールのスルタンは、17世紀半ばに首都の周囲に
煉瓦の城壁と3基の方形堡を建設した
 だが、彼らの努力は無駄だった
 東アジアの遠隔地交易の要点は、全てヨーロッパ人の手に握られたままだった
 インド以東の交易の要衝であるマラッカとバタヴィア
 太平洋を横断してアメリカにつながる拠点であるマニラ
 この3カ所は間もなく現地人と中国人の人口が膨張したが、
依然としてヨーロッパ人(国籍は時々変わったが)の支配下におかれ続けた
 ヨーロッパ人は、この三代拠点を領有することで得た富をもとに、
東南アジア一帯の主要港にあまねく揺るぎない影響力を行使し、
いかなる国にも有効な武力行使を許さなかった
 しかも、この三大拠点は東南アジアから資金を引き出し、
機会があれがいつでも支配圏を拡大するには最高の立地条件を備えていた
 こうして、泥塗れの長靴をはいたヨーロッパ人の足をインド、ペルシア、レヴァントの沃野に突っ込む準備ができた


そんだけ
出展:2ちゃんねる戦争論
http://yasai.2ch.net/army/kako/998/998225170.html

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