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神道と仏教並存の真相【天皇の仏教から神教鞍替えが今に繋がる】
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投稿者 姫 日時 2006 年 9 月 13 日 14:32:26: yNQo0naya4Ss.
 

 今回は、神道と仏教の並存の真相を推理してみようと思う。ただし、この内容は、当方の研究成果とも言うべきものであり、通常の古代史の学説とは違うものである。また、この稿は、エジプトのカイロで書いたため、参考資料を見ることができなかった。多少記述に曖昧さや正確さに欠くことがあるのをお許し願いたい。(2000年3月1日)

日本では、昔から、神仏混合の風習があり、神道と仏教の共存があたりまえのように考えられてきた。しかし、最近の研究によるとこの神仏並存は、意図した方向でなく、藤原氏の苦肉の策との見方がある。今回は、この真相を推理する。

 6世紀になると、欽明天皇の時代に百済から仏像と経典が贈られるが、この仏像は、当時の百済の第一級の仏像である。現在の日本で例えるならば、広隆寺の弥勒菩薩像を他国に差し上げたようなものである。

 いかに百済が日本の軍事力をあてにしていたかがわかる。そして、これが、日本で初めての仏教の伝来と言われている。ただし、これは、正式な仏教伝来という意味であって、非公式には(個人的には)もっと早くから仏教は来ていたようである。

 奈良の飛鳥で蘇我氏が巨大化し、物部氏との宗教戦争に勝利してからは、事実上の蘇我王朝を展開していた。蘇我氏は、仏教を国教として、日本を治めようと考え、この間に元興寺(通称、飛鳥寺)が建設された。

 それまで、日本では天皇が住む宮だけが大型建築物であったが、蘇我氏の建設した寺院は、誰もが自由に出入りできる日本ではじめての公共的な大型の建造物であった。また、この時期、天皇家も仏教を受け入れて、聖徳太子を中心に四天王寺が建設され、飛鳥の元興寺と肩を並べていた。

 しかし、大化の改新により、蘇我氏が滅亡すると、仏教は強力な支持者を失い。しばらくは、宙ぶらりんの状態となった。壬申の乱の後、天武天皇が政権を握るが、天武天皇の時代は、仏教は大幅な後退時期であった。

 この間、藤原不比等は、新たな国の宗教として、道教、儒教を基礎に日本固有の宗教・神道を作ったのである。藤原不比等の父は中臣鎌足で、中臣氏の古くは、常陸鹿島の出身と言われている。

 奈良に春日大社があるが、これは、藤原氏の氏神で鹿島神宮の分社である。今の奈良公園には鹿がいるが、この鹿も春日大社の建立とともに鹿島から移されたものである。このように藤原不比等が旧来からあった八百万の神々を体系化した「神道」を打ち立てる条件は、生まれながらそろっていた。

 通常、宗教は3つの要素をもっている。教祖・教義・経典である。神道は、天照大神を教祖に据え、祓いと禊を教義とし、日本書紀を経典としたのである。そして、天皇は、教祖の子孫と位置付け、あたかも現在も教祖が生きているような演出をした。

 このように宗教を中心に国づくりを考えたのは、蘇我氏が最初であったが、不比等も同じ手法を使ったのである。ただし、それは、仏教でなく神道であった。(古くは、応神王朝も儒教による国作りを考えたようだが、確実な証拠はない)

しかし、一方で、不比等は、仏教の禁止はしなかった。この点、中国や朝鮮と宗教感覚の違いがある。日本ではいつもそうであるが、たとえ、中央政府がある特定の宗教を国教と定めても他の宗教を排除しないのである。

 中国では、儒教と仏教ではたびたび相互に弾圧しあったが、日本ではこのような現象は見られない。かつて、モンゴル帝国が、ユーラシア大陸を制覇したときも、宗教的弾圧は、しなかった。

 それどころか、中央アジアを支配したモンゴル帝国のハーン(王)は、国民が回教徒であるため、自分も回教徒になったという例もある。要するに、北方アジアの国民性として宗教には寛大なのである。この感覚は日本人にも備わっており、複数の宗教の存在を当然のように受け入れた。

 しかし、この不比等の神道による国家建設は、不比等の次の代で、大きな挫折を向かえた。不比等の4人の子供達は、それぞれ不比等の後を継いで政治家になったが、当時、藤原氏の強力なライバルとして長屋王(親王との説あり)がいた。

 そこで、この4兄弟は、策謀をめぐらし、長屋王とその一族30人を焼き討ちしたのである。(子供も多く含まれていた)長屋王殺戮自体は、藤原4兄弟の筋書きとおり運んだのだが、問題は、その後に起きた。

 天然痘が流行したのである。しかも、2年間で藤原4兄弟が天然痘や事故で、すべて死んでしまった。これに恐れおののいたのが、当時の聖武天皇の皇后・光明子である。皇后は、この藤原4兄弟の姉妹である。

 これは、長屋王の祟りだと考えた。次に長屋王の祟りで死ぬのは自分だと恐れたのである。当時、多くの人が、藤原4兄弟の死は、長屋王の祟りと信じた。

実は、日本には、古くから祟りの信仰があった。今の歴史学界では、祟りの信仰は、桓武天皇の時代から(800年ごろから)となっている。理由は祟りに関する一番古い記録が、桓武天皇のときにあるからである。

 断っておくが、日本で最初に「祟り」という文字が使われたのはいつか、という問題ならば、記録に残っている桓武天皇の時代かもしれない。しかし、ここで、議論しているのは、「祟りという信仰がいつからあったか」という問題である。それは、記録を見るのでなく、民俗学的に祭祀跡、習慣、衣服、食習慣を調べるか、考古学的に古墳の埋葬品、遺品の分析などで進めるべきではないだろうか。

 言いたいことは、歴史学者が言うように西暦800年ごろから祟りの信仰が起こったのではなく、遥か縄文時代から日本には祟りの信仰があったと考えてもおかしくないと言うことである。

 このような時、天皇家の打つ手は、祟り封じの儀式であった。このときの儀式は、神道に則った方法であった。しかし、猛威を振るう天然痘の前には、神道による「悪魔退散(長屋王の怨霊)」の祈りは、通じなかった。天然痘に対して効果があるのは種痘であり、お祈りではないと考えるのは現代人である。

 当時の人は、祈ることにより、伝染病も退治できると考えていた。(参考までに、人類史上、伝染病(ペスト)の予防で最初に成功したのは、予言者で有名なノストラダムスである。)

 この場合、天然痘の退治が、最も重要なテーマであるが、光明子皇后をはじめ当時の人は、そうは考えなかった。長屋王の祟りを封じ込める一番いい方法は何かと考えたのである。

 結論は、仏教による怨霊鎮魂であった。おそらく、当時の僧呂(坊主)は、時節到来とばかり、「これは、仏罰である、仏教による加持祈祷以外、怨霊を治める方法はない。」と繰り返し主張し、夜も寝ずに加持祈祷をおこなったものと思われる。この祈祷のお陰かどうかは判らないが、一応、天然痘は沈静化し、光明子の命も無事であった。

 当時天皇は聖武天皇で、生来の病弱児であった。そこで、政治は、藤原氏の力を背景に光明子皇后が握っていたのである。(多少の変遷はあるが、ここでは省略する)この事件を機会に、天皇家と日本は大きく神道国家から再び仏教国家へと動き出した。

 その手始めが、国家安泰を祈願するため大仏の建立である。次いで、国分寺、国分尼寺の建設と仏教国家への建設が進められた。と同時に、法隆寺の再建も進められたのである。

 法隆寺は、聖徳太子により妃の実家・橘氏の協力のもと斑鳩に建設された寺である。ところが、天智9年、この法隆寺は焼失してしまった。日本書紀にも「天智九年、法隆寺焼失す。」と短い文章で書かれている。

 歴史学界では、戦後まもなく、これが大きな論議となった。法隆寺再建派と非再建派に分かれ、今の法隆寺が、聖徳太子が作ったものかどうかという議論である。再建派は、聖徳太子が作った法隆寺は、焼失し今の法隆寺は後日再建されたものであると主張した。

 このときは、だれが再建したかは判らなかった。非再建派は、焼失したのは、法隆寺の一部で、今の法隆寺は、大半は、聖徳太子が建設したものであると主張したのである。

 結論は意外と早く出た。現在の法隆寺の前の田んぼから四天王寺型伽藍配置の寺跡が発見されたのである。しかも、遺跡には多くの焼失痕跡があった。(これを若草伽藍という)これこそ、聖徳太子が建設した法隆寺であった。

 今の法隆寺は、そこから、100メートルほど山側に山を少し切り開いて再建されている。学生のとき勉強したと思うが、伽藍配置が一列にならぶ四天王寺型伽藍配置は、日本で最も古い配置と言われている。

 それにも係わらず、今の法隆寺は、日本最古の現存する寺院でありながら、伽藍配置は、決して古いものではない。これだけでも法隆寺再建説には有利であった。

 またまた、歴史学界の押し問答に考古学界が回答を出したのである。いつもそうであるが、歴史学者は、問題を提起するだけで、それを解決する能力はない。解決するのは、考古学者か民俗学者である。

 ここ30年間の考古学の進歩派大きく、炭素原子による年代測定とか非破壊分析の進歩、コンピュータによる高度な解析能力・検索能力で多面的な調査・分析が出来るようになった。

 さて、話を戻すと、法隆寺を再建した人は、光明子をはじめとする藤原一族である。(梅原猛「隠された十字架」より)これは、聖徳太子やその子・山背皇子の祟りを封じ込める(祟りを癒す)ための、藤原一族の贖罪行為であった。

 同様な例としては、出雲大社、平泉中尊寺などが、それぞれ祟りを恐れた人たちの贖罪行為により建設・保存されてきた。(これについては、別項で述べる)

 この説を主張した梅原猛氏は、法隆寺に残る古文書(勧進帳・資財帳)を調べていたら、不思議なことに気がついたのである。奈良時代・平安時代を通して、藤原氏に大きな不幸が起きると、藤原氏から法隆寺に多額の寄進が行われると言う事実である。

 梅原猛氏は、これは、藤原氏が法隆寺に大きな「負い目」があって、再び不幸が起きないように法隆寺にお願いしていると解釈したのである。簡単に言えば、法隆寺を建立した聖徳太子一族が祟る人で、藤原一族が祟られる人という構図である。

 これを前提に、昔から伝えられている「法隆寺の七不思議」を考えると明快に解くことが出来た。詳細は、梅原猛著「隠された十字架」をお読み願いたい。(これに対し、歴史学界や法隆寺側から猛反発があった)

 藤原氏が政治の表舞台に出るのは中臣鎌足から始まるが、中臣鎌足は、聖徳太子の子・山背皇子とその一族36人を殺し、仏教に熱心であった蘇我馬子・入鹿親子を殺した。

 また、鎌足の子・藤原不比等は、当時歌聖と言われた柿本人麻呂を流刑ののち殺害している。((梅原猛「水底の歌」より)その子4人は、長屋王とその一族30人を殺した。ここまでの藤原氏は一貫して、日本における仏教徒の撲滅運動をしてきたようなものである。これを知る人は、祟りがあるのはあたりまえと思ったであろう。恐らく、藤原家出身の人々は知っていたものと思われる。

 しかし、藤原不比等が、薦めてきた神道国家建設を公に止めるわけにはゆかず、そこで、聖武天皇から称徳天皇まで5代の天皇は、神道と仏教双方が成り立つように取り計らった。 しかし、これも天武王朝までのことで、桓武天皇からは、仏教一辺倒で国事は進められたのである。

 桓武天皇は、天智系の人で、平安京に都を移したが、同時に天皇家の墓所も京都に移した。今の誦泉院が天皇家の墓所である。ところが、ここには、天智天皇の次に光仁天皇(桓武天皇の父)以下が奉られており、天武王朝系の9人の位牌はない。(天智系の人達からみれば、天武王朝の人たちは他人であった)

 平安時代から江戸時代まで天皇家は、火葬してから埋葬している。火葬は基本的には仏教の葬儀方法であるから、この間、天皇家は仏教徒であったと見てもよい。(参考のため、徳川家では、儒教の葬儀方法で火葬はしていない)しかし、明治になってから、天皇家は、神道の葬儀方法になり、火葬の習慣は止めた。

 また、明治の一時期仏教と神道を分離する運動が起き、寺によってはいくつかの破損を受けたところもあったが、仏教の存亡に係われほどではなかった。 明治期には、(特に日露戦争後)従来の神道にキリスト教的教義を付加して、皇国史観に基づいた新たな神道が出来たが、これが、第二次世界大戦まで日本人の思考の中心となった。(現在の私達が知っている神道は、これである。)

 このように日本では、奈良時代から現在にいたるまで神道と仏教は、混合された形で、信仰されてきている。こうした仏教と神道の並存を招いたのは、すべて藤原4兄弟の突然の死であった。

 これが日本人を幸福にしたか不幸にしたかは判らない。ただ、日本の場合、宗教が強くなると国民は、不幸になると言う歴史を持っている。皇国思想一辺倒であったときは、第一次、第二次世界大戦を経験しているし、最近のオウム真理教のように狂信的な教祖により教団ごと殺人集団となる場合もある。

 神仏混合のような曖昧な宗教観が、日本人にとっては精神的に安定する状態なのかもしれない。

以上
http://home.att.ne.jp/banana/history/Dai05-heizon.html 

(私見)

文中より

『 当時の人は、祈ることにより、伝染病も退治できると考えていた。(参考までに、人類史上、伝染病(ペスト)の予防で最初に成功したのは、予言者で有名なノストラダムスである。)

 この場合、天然痘の退治が、最も重要なテーマであるが、光明子皇后をはじめ当時の人は、そうは考えなかった。長屋王の祟りを封じ込める一番いい方法は何かと考えたのである。

 結論は、仏教による怨霊鎮魂であった。おそらく、当時の僧呂(坊主)は、時節到来とばかり、「これは、仏罰である、仏教による加持祈祷以外、怨霊を治める方法はない。」と繰り返し主張し、夜も寝ずに加持祈祷をおこなったものと思われる。この祈祷のお陰かどうかは判らないが、一応、天然痘は沈静化し、光明子の命も無事であった。』

あらゆる病気は祈りではなく、戦争型経済を放棄すれば直るのでは?

病院こそが究極のマッチポンプ。放射能を浴び続けて早20年、、。顔中がニキビだらけになったことも、、。盲腸さえも虫垂の炎症。細胞破壊、、、電気ショック。

神の祟りではなく、病院が患者を呼んだのさ。医者は当然呼んではいない。債権保有者と天災研究室だろう。悪霊ではなく、人間の仕業ということで。

放射能の研究は誰もがやりたがるよなぁ。いわゆる救う側の職業を潰すよ。

銀行が物価を操るならば、祟り信仰は人の生死を操る、、。デスノートは実在するかもしれない。

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