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塩野七生(著) 「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」16世紀イタリアは経済の繁栄にかまけて政治腐敗が国を滅ぼした
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投稿者 TORA 日時 2006 年 9 月 19 日 15:17:09: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
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塩野七生(著) 「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」
16世紀イタリアは経済の繁栄にかまけて政治腐敗が国を滅ぼした。

2006年9月19日 火曜日

◆チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷 塩野七生(著)
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ヨーロッパの情勢は、変動しつつあった。中世後期を通じて、自由都市国家群という独自の形態を発展させることによって、商工業を盛んにし、それから得た莫大な富を使って、ルネサンス文化の花を咲かせ、ヨーロッパに君臨したイタリアが、歴史の流れともいうべき、専制統一国家政体という大きな壁につきあたる時がやってきたのである。

すでにこの頃までに、イタリア各地の小国家は、いくつかの強国に編入されてはいたが、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国、フィレンツェ共和国、ナポリ王国、それにローマ法王庁と、各列強に分裂していたイタリアにとって、統一国家への道は、あまりにも遠かった。

これに反して、それまでイタリア人が、田舎者と呼んで軽蔑していたフランス、ドイツ、スペインが、それぞれ専制主義の国家体制を確立することによって力を持ちはじめ、その領土的野心を、小国分立とその間での抗争の絶えないイタリアに向けようとしていた。さらに、地中海の東をおおいはじめたトルコ帝国の脅威に対しても、無関心は許されなかった。

十五世紀の後半から十六世紀の前半を通じて、イタリアは、自らの生き方を、根本的に考えなおすことを迫られるのである。この混迷の時代は、しかしそれだからこそ、ルネサンスの二大歴史家、マキアヴェッリとグイッチャルディー二を生んだ。

しかし、悲惨な時代、混乱の世紀であろうとも、そこに生れたものは、あくまでもその中で行き続けなければならない。チェザーレ・ボルジアも、その一人であった。緋の衣を身にまとうことによって、法王に次ぐ地位にまでのぼった彼を、ただそれだけに安住させないものが、少しずつ彼の心の中に芽生えはじめてきたのはこの頃である。

グイッチャルディー二の言った「悲惨な時代の最初の年」、一四九四年、この年に起ったフランス軍のイタリア侵入という大ぎな事実が、十九歳になったチェーザレを、はじめて激動する現実に直面させた。彼は、この時はじめて、真の学問をする。その彼にとっての師は、父の法王アレッサンドロ六世であった。

多くの歴史家によって、イタリアの近代の始まりとされる、このフランス軍のイタリア侵入は、どのような原因によって起ったのであろうか。ある者は、イル・モー口すなわちルドヴィーコ.スフォルツァの策謀だとし、他の者は、フランス王シャルル八世の名声欲からだとする。またその他にも、枢機卿ジュリアーノニァツラ・ローヴェレの、法王ボルジアに対する敵悔心からだという者もいる。いずれの言も間違ってはいない。というよりも真の原因は、これらがすべて組み合わさったところにある。

有能な傭兵隊長であり、またすぐれた君主でもあったフランチェスコ・スフォルツァからはじまったミラノ公国の当主スフォルツァ家は、その子のガレアッツォ・マリーアが暗殺された後、残された小公爵ジャンガレアッツォの執政を、彼の伯父にあたるルドヴィーコ・スフォルツァが、摂政として助けていた。イル・モー口と仇名されたこのミラノ公国の実力者は、摂政という地位に甘んずる気はなかった。

弟のアスカーニオ・スプォルツァ枢機卿とともに、彼は、甥から公爵の位を奪うための機会を狙っていたのである。長年の摂政としての実績によってミラノの民心はジャンガレアッツォ公爵より、彼の方に傾いていた。ミラノ公国内では、もはや問題はなかった。問題は、ナポリ王の出方であった。

なぜならば、ジャンガレアッツォ公の妃が、ナポリ王の息女であったから、ナポリは当然、イル・モー口のこの陰謀を認めるはずがなかったからである。イル.モー口は、ナポリ王位継承権を主張するフランス王シャルル八世に目をつけた。このフランス人を、ナポリのアラゴン王家をつぶす手先に利用しようと。

さて、フランス王シャルル八世の方である。中世騎士物語を読みすぎたらしいこの王様は、シャルルマーニュの偉業にあやかりたいという思いでいっぱいだった。その思いの行きつく先は、外国遠征である。彼はナポリ王国の王位継承権が、アンジュー家の子孫の一人である自分にあると主張し出す。第三の原因である、ローヴェレ枢機卿のことは、もう少し話があとになるが、これらの原因を持ちながら、フランス軍のイタリア侵入は、その機を待っていた。そして、その時はやって来た。

一四九四年一月二十五日、老練な政治家として知られた、ナポリ王フェランテが死んだ。その王位は、嫡出の王子アルフォンソニ世が継ぐのが当然と思われた。すでに、先の法王インノチェンツォ八世の時代に、当時カラーブリア公であった彼の王位継承が、ローマ教会から認められていたのである。

しかし、フランス王から、王位継承権はフランス王にこそあるという横たいかんやりが入った。このフランス王の抗議は、ナポリよりも、王の戴冠式を行う側、すなわち、新王認証の権利を持つローマ法王に向けられた。法王がアルフォンソを認めでもすれば、フランスはイタリアに侵入するであろう。これが、シャルル八世が法王に送った脅迫である。

しかし、法王の心中は決っていた。フランス人をナポリに入れる考えなど、全くなかったのだ。四月十八日、法王は、モンレアーレの枢機卿である甥のジョヴァンニ・ボルジアを、ナポリ王戴冠式のための法王特使に任命した。ローマ駐在のフランス大使は、これを知って驚き、親仏派の枢機卿たちは、枢機卿会議召集を法王に迫った。その日の会議は、八時間続いた。

スフォルツァ、ルナーテ、サンセヴェリーノ、コロンナ、サヴェッリと、次々と枢機卿たちが、ナポリ王承認の危険性について、法王をはげしく追及した。このフランス派の枢機卿たちの黒幕は、枢機卿ジュリアーノニァツラ・ローヴェレであることは誰もが知っていた。ただ彼は、オスティアの城にあって、枢機卿会議には出席しようとはしなかった。

しかし、法王の意志は変らなかった。八時間に及んだ枢機卿会議を終えた彼は、その直後、ナポリ王としてアルフォンソニ世を認める教書を、全キリスト教国の君主に向けて発したのである。さらに続けて、以前よりナポリから話のあった、アルフォンソの庶出の王女サンチャと、法王の末の息子ホフレとの結婚まで決めてしまった。ローマとナポリのこの結びつきは、フランス王を激怒させた。

そして四月二十四日、枢機卿ローヴェレの逃亡事件が起る。枢機卿たちを動かしての作戦に失敗した.ローヴェレは、以前はナポリ派であったのに、ボルジア打倒のために、ナポリ王を捨ててフランス王と結託しようと決めた。ただ法王が、彼とフランス王との関係を見抜いている今、枢機卿がローマを出る時に必要とする許可を、法王が与えないと判断した彼は、逃亡という手段に訴え、成功したのである。

ジェノヴァに着いた彼は、イル・モー口の援助でフランスに入り、アヴィニョンでシャルルとの連絡を再開し、リヨンでシャルルと会った。ローヴェレが新しく宗教会議の開催を、王シャルルに強調したことはもちろんである。その宗教会議で、買収によって法王になったボルジアを退位させるべきだと。自分が宗教改革者にもなれるというこの案は、フランス王シャルルの名声欲をくすぐった。

ここからローヴェレ枢機卿、イル・モー口、シャルル八世三者の作戦が、本格的に動き出す。イル・モー口とシャルルの間では、当面の目標はナポリ王国だけだったのが、口ーヴェレの参加によって、ローマが強く打ち出されてきたのだった。

一方、ローマのアレッサンドロ六世は、ローヴェレ枢機卿の逃亡を知って、事態が悪くなりつつあるのを感じた。しかし、追ってもすでに効果のないことだった。彼は、ローヴェレの逃げたあとのオスティアの城に、オルシー二一族を送って、それを占領させてしまった。この城を手に入れたことは、法王にとって重要なことであった。なぜならば、ローマからナポリヘの海路の確保を意味したからである。この二週間後、テヴェレの河口にあるオスティアの城の前を通ってナポリヘ向った法王特使モンレアーレ枢機卿によって、アルフォンソニ世の戴冠式が行われた。その数日後、十三歳のホフレと十五歳のサンチャも結婚した。

シャルル八世が、グルノーヴルに兵を集結させはじめたという噂は、アルプスを越えて、またたくまにイタリア全土に広がった。その噂に緊張したイタリアの諸国は、すぐ続いて、シャルルの使節を迎えねばならなかった。イタリアだけでなく、ヨーロッパの各列強に送られたシャルルの親書は、次のようなものだった。

「ナポリ王国征服の目的は、異教徒の下にある聖地イェルサレムを奪還するための、十字軍遠征の基地とするためである。」

イタリアでは、誰一人、この理由を信じる者はいなかった。当時、フィレンツェ共和国を、その狂信的な宗教政治で支配していたサヴォナローラと、彼の一派の他には。

イタリア諸国には、さらにこれに続けて、このフランスの意図への協力を要求していた。領土通過の承認と、兵力、資材の供出である。この王の要求に、ミラノ公国はもちろんのこと、娘がイル・モー口に嫁いでいるフェラーラ公国のエルコレ公も、またマントヴァ侯も、全面的な協力を約束する。

東地中海域で、対トルコ防衛に手いっぱいのヴェネツィア共和国も、このシャルルの動きを黙認するしかなかった。イル・マニーフィコの死後、メディチ家とサヴォナローラ一派の争いで物情騒然としているフィレンツェ共和国は、態度を決定することすらできない状態にあった。イタリアは、一戦も交えないで、シャルルの前に軍門を開いたも同然である。

ローマ法王庁も、シャルルの使節の訪問を受けた。シャルルは、法王に対して、あくまでも自分のナポリ王位継承権を認めることを要求し、それは、十字軍遠征への第一歩であると強調した上、トルコ王子ジェームを渡すようつけ加えることをも忘れなかった。そして、もしこれを法王が拒否した場合、フランス王は、宗教会議を召集し、そこで法王に退位を迫る考えだと。これでは、もはや完全な脅迫である。

法王は、今なお、十字軍遠征の夢想に酔うシャルルにはあきれはてた。しかし、この馬鹿者は、力をもっている。力を持たない時、それに対抗する手段は技としての政治しかない。そして技としての政治とは、こういう場合に、すなわち、力をもたない者が別の意味の力を得るために使うものである。

法王は、シャルルの使節を、明確な回答を与えずに追い返した後、七月十四日、ナボリ王と会った。しかし、絶望的な防戦におおわらわなナポリ側からは、ローマ防衛のための余裕もないことを知らされただけだった。さらに、軍事的援助を要請するため、神聖ローマ帝国皇帝とスペイン王フェルディナンドに送った使節のもち帰った回答も、法王を安心させることは何もなかった。

フェルディナンドは、シャルルの十字軍構想を別に反対する理由もないと答え、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアンは、先年、スフォルツァ家の公女と結婚し、イル・モー口と近かったからである。イタリアの諸国中、唯一、その政治的独立を保持できる力をもっていたヴェネツィア共和国でさえ、シャルルの行動を認めるという知らせを受けた法王にとって、残された方策はひとつしかなかった。時をかせぐこと、せめてアルプスに雪の降る時まで。 (P38〜P45)


(私のコメント)
昨日のテレビは朝から晩まで自民党の総裁候補のテレビ出演に埋められましたが、私は朝の「報道2001」と夜の「小泉純一郎のドラマスペシャル」の一部を見ただけだ。ドラマの方は岩城晃一の小泉首相のそっくりぶりが目立ちましたが、国家の最高責任者ともなると自分で決断しなければならない事の多さが分かります。だからいくら大勢の補佐役がいたとしても決断力の無い人物では勤まらない。

首相のような行政職はいくら議員歴が長くても役には立たず、むしろ都道府県庁の知事をやって実績を上げた人のほうが向くのではないかと思う。アメリカの大統領も州知事出身者が圧倒的に多い。だから日本の総裁選挙も都道府県知事の中から総裁候補がいても良いと思うのですが、国会議員歴の長い人はしがらみが多くて調和的な政治になってしまう。

政治討論では三人の候補者への質問では歴史認識に対する質問が必ず出されますが、国会議員は歴史学者ではないのだから、日中戦争は侵略戦争かと聞くほうも馬鹿なのですが、政治家が歴史を語ったら外交問題になるから、専門家に任せるのが正しい判断だろう。ヨーロッパでもローマ法王がイスラム教の聖戦思想を非難して国際問題になっていますが、政治の当事者が歴史を語るのは外交問題になりやすい。

もちろん政治家が歴史を知らなくてよいと言うのではなく、政治の積み重ねが歴史であり、歴史とは政治の延長上にあるから誰よりも知っていなければならない。ところが歴史は正解の出ていない問題が多くて、ローマ法王が言った事も間違いではなく、イスラム教徒が怒る事も間違いではなく、正解が一つとは言えない問題が多い。

政治学や歴史学の教科書にニッコロ・マキャヴェッリの「君主論」がありますが、政治家なら必読の書なのですが、日本の政治家で読んだ人は何人ぐらいいるのだろう? 政治を宗教や道徳から切り離して考えるべきなのですが、「君主論」こそ政治学の始まりでもある。だから私も大学時代は「君主論」を読んで勉強した。

その「君主論」の中で理想の人物として触れられているのが、チェザーレ・ボルジアであり、マキャヴェリとチェザーレ・ボルジアとは直接面識がある。チェザーレ・ボルジアは日本で言うならば織田信長のような人物であり、31歳の若さでなくなったがためにイタリアの統一は遠のいてしまった。

このような状況を知るためには塩野七生氏の「チェザーレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」という小説を読むと当時の状況や、チェザーレ・ボルジアがどのような人物であり、マキャヴェリがどのような状況で「君主論」を書いたのかが分かる。

小説の中からフランス王のシャルル八世のイタリヤ侵入の部分を紹介しましたが、いわゆるイタリア戦争の始まりとなって、1494年から1559年まで続いた。その間イタリアはフランス、ドイツ、スペインの侵略を受けて、悲惨な状況になってしまった。もし、チェーザレ・ボルジアが殺されなかったならばイタリアの統一がなされて侵略は防げたのかもしれない。マキャヴェリはそれを願って「君主論」を書いたがイタリアの統一は未完に終わった。

日本でも世界でも群雄が割拠する戦国時代は政治学や歴史学の材料の宝庫なのですが、イタリアがヨーロッパの中で最後まで統一が遅れたのも、倫理や道徳がとことん腐敗してしまって、毒殺や親兄弟が殺しあうような戦乱が続いた。マキャヴェリの「君主論」もそのような中で書かれたから、政治を道徳や倫理から切り離して書かざるを得なかったのだろう。

塩野氏の「あるいは優雅なる冷酷」は小説と言うよりも歴史書のような小説であり、当時の状況が克明に描かれている。ルネッサンスは十字軍遠征によるキリスト教の腐敗から起きた人間復興の事でもあるのですが、欧米ではキリスト教に代わる倫理道徳がなく、キリスト教の堕落は人間復興でもあるし、倫理道徳の腐敗でもあった。

その象徴のような人物がチェザーレ・ボルジアであり、彼の父のローマ法王のアレッサンドロ六世であった。当時はカトリックの総本山のローマ法王が愛人を囲って子供を作ることなど当たり前であり、チェザーレ・ボルジアも愛人の子だった。日本人から見れば坊主も愛人を囲って子を作るなど昔から例がありますが、キリスト教に代わる倫理道徳が無いことがイタリアの悲劇でもあったのだ。

日本ならば人間教のような原始的な宗教があるのですが、ヨーロッパではそのような原始的宗教はキリスト教によって駆逐されてしまった。


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