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中間報告
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投稿者 天蓬元帥 日時 2006 年 10 月 20 日 11:27:12: JlAsSjJwTHXA6
 

(回答先: 現在の宗教の問題とされることが浮き彫りになっているのかもしれないとも感じました。 投稿者 アロン 日時 2006 年 10 月 17 日 01:18:01)

アロンさん、こんにちわ。丁寧なレスを頂き感謝いたしております。ご返事が遅くなってしまいましたことお許し下さい。適切なご返事になるかどうか分かりませんが、思うところを書かせていただきます。

では、アロンさんの文章から一部を引用しつつ述べていきます。


“「信仰」についてですが、信仰とは、思考放棄の道だと思っています。ただ、大方の場合は、それは部分的に依存した思考怠慢(放棄)する為の都合の良い逃げ場として用いられるだけだと思います。
ただ、もし主観の作用から独立した自己が在るとしたのなら、非常に稀なケースだとは思いますが、完全なる思考放棄が成された時、客観への道が開かれることもあるかもしれないとは予測はします。つまり、自我(主観)を形成する思考を全面的に放棄することで、自己が主観の作用から離れることが起きることがあるのかもしれないとは・・・。
ただ、よく考えるなら、完全なる思考放棄をしようとする思考をも放棄されなくてはならず、それが起こり得るかどうかは矛盾も残ります。”

さて、お説の中に“もし”という限定付きとは言え、“思考放棄の道”に他ならない「信仰」が“客観への道”に通じるのかも知れないという可能性への言及があります。つまりは、「信仰」を肯定し得る可能性を全面的には否定しないということかと思います。

もちろんここでは、“もし”という限定の内容こそが重要でしょう。その部分を約めれば、“もし主観の作用から独立した自己が在るとしたのなら”“自我(主観)を形成する思考を全面的に放棄することで、自己が主観の作用から離れることが起きることがあるのかもしれない”となりそうです。

しかし、“主観の作用から独立した自己”は、「信仰」という名の思考放棄に依るかどうかは別として、当然、“主観の作用から離れることが”できるでしょうから、問題は、“主観の作用から独立した自己”が在るのかどうかとなります。この点について、アロンさんはもっと積極的な見解も示していらっしゃいます。


“俺、個人的には、自己は主観の作用から独立して在るのではないかなと思っています。”

ならば次なる問題は、“自己が主観の作用から離れる”とはどのような事かでしょう。そして、この事についてもアロンさんは見解をお持ちです。


“そして、もしも主観の作用から独立して、物事を“認識する”ことが仮にできたのであれば、そこには客観しか存在し得ないことになり、主観は一つの小さな小さな点のようなものになると思います。つまりその点からするならば、自分の人間存在を形成する主観の作用そのものも、客観と呼べることになるのかもしれません。そうなると人間存在においては主観と客観が同所に備わっているとも言えないこともないでしょう。”

ここに示されたご意見は、人間意識の二重構造という私の見解を許容し得るということかと受け止めました。もちろんそれは、“言えないこともないでしょう”というはなはだ消極的なものではありますが。

しかし、なぜ消極的なのか。認識あるいは思考についてのアロンさんの見解が私のそれと異なっているからだと思われます。


“さて、客観というものは、人間存在に宿る自己というものには備わっていないのでしょうか。つまり自己が主観の作用から独立して、物事を“把握する”ことは、できないのでしょうか。
ただ、これについては知り得ないとしか書きようが無いです。“知り得る”としていること自体が主観の作用であり矛盾するものだと思っており、それは形而上的な世界観だと思っております。”

ここには、アロンさんが消極的にならざるを得ない理由が明確に述べられています。“これについては知り得ないとしか書きようが無いです”がそれです。そして、そう書かざるを得ないのは、““知り得る”としていること自体が主観の作用であり矛盾するものだ”からというわけです。

この一点こそ、アロンさんと私を分かつ基本的な場所のようです。““知り得る”としていること自体が主観の作用”なのかどうかです。決して二重構造自体についての相違でないことは、アロンさんご自身が特に注意を促していらっしゃいます。


“だから、それをあたかも人間存在には主観と客観の二重構造が存在するとする論には、俺は信仰的なものを感じざるを得ません。(ただ俺は信仰を否定しているわけではありません)。
ただ、これは自己には主観と客観の二重構造が存在してはいないと言っているわけではありません。”

アロンさんにとっては“知り得ないとしか書きようが無い”ことを、知り得た事として書くのは“形而上的な世界観”であり、そのことに“信仰的なものを感じざるを得”ないと仰っているだけです。

では、先に明らかになった二人の相違点に戻って考えてみましょう。““知り得る”としていること自体が主観の作用”なのかどうかです。この事を考える為に私は言葉についての議論を致しました。形而上的な議論を避けるために有効であると考えたからです。もちろんアロンさんは私の議論に異議を提示していらっしゃいます。


“また言葉は、主観の作用の産物だと思っております。言葉は事物の代数のようなもので、知覚と同じ様に、主観の外部を把握する為の主観の作用だと思っております。”

先ず、知覚が主観の作用なのかという問題がありそうです。ここで仰っている知覚とは感覚のことであろうと思うのですが、通常、感覚とは身体の作用であるとされているように理解しています。確かに、外部からの刺激に対する感覚器官の反応そのものと、意識化された感覚とは区別すべきでしょう。そして、意識化という点を強調したとき、感覚と言わずに知覚と言うのかも知れません。しかし、そうだとしても知覚の前提として身体の作用が必要であることに変わりはありません。仮に身体の作用を欠いた知覚があるとしても、それは錯覚とか幻覚と言われるものでしょう。錯覚や幻覚を主観の作用とすることに異論はありませんが、本来の意味での知覚は、身体作用を必要とする以上、単純に主観の作用とは言い難いのではないでしょうか。

同じように言葉は、音声や文字との結びつきにおいて身体作用が不可欠です。もちろん言葉は、単に知覚すればそれでよいのではなく理解する必要があります。理解においては、身体作用への依存は不明確となり、主観が独自に行なう作用との見方も可能です。特に文字の場合、知覚した眼前の文字を理解するとはその文字に対応する観念を思い浮かべることであり、知覚と理解の区別はより明確です。

こう考えてくると、アロンさんの仰る“言葉は事物の代数のようなもの”ということの意味が見えてきそうです。眼前の事物である文字を知覚し、その理解としての観念を頭に思い浮かべるのですから、観念は事物の代数と言ってよいでしょう。そして、この観念が言葉に他ならないということになります。

また、“主観の作用の産物”とは、主観の作用である理解が観念を生み出したということであり、そうすることによって主観は、“主観の外部を把握する”ことができるというわけです。もちろん、ここで言う外部とは知覚された文字のことであり、把握するとは理解することに他なりません。

さて、以上のように、言葉についてのアロンさんの議論はその主要な部分で充分納得できるものです。一体、どこが私の議論と異なるのでしょう。既にお気付きかも知れません。把握された外部とは何かという点です。

主観にとっての外部とは知覚されたものに過ぎません。主観は知覚したものを理解しているだけであって外部を直接に理解しているわけではないということです。主観の理解が外部に及ぶためには知覚の助けが必要であり、その知覚には身体作用が不可欠です。身体作用をも含めて主観と言うのでない限り、主観の作用の産物たる言葉が外部の事物の代数たり得るかどうか心もとない限りです。

しかし一方で、人間が外部の事物を把握していることに疑いはありません。外部に働きかけて意図した結果を作り出し得るということは、その証拠でしょう。しかも、そうした営みに言葉が重要な役割を果たしていることも事実です。如何にして、言葉は外部の事物の代数たり得るのでしょうか。

一つ考えられるのは、理解の前提としての知覚がより正確に外部を捉えることです。知覚の捉えた事物が正しく外部を表わしているのであれば、それに基づく理解は外部に及んでいるのだと言えるでしょう。知覚を形成する意識作用を研ぎ澄ますとともに身体感覚により忠実な知覚形成を目指すことになります。こうした知覚を指して直観というのではないでしょうか。直観は単なる主観ではなく身体感覚に忠実な主観ということでしょう。

いま一つ考えられるのは、知覚における主観の意識作用を排除することです。知覚を構成する意識作用を排除し身体感覚そのものを取り出すことです。とは言え、意識作用無くして認識はあり得ませんから主観とは異なる意識作用が必要です。それが客観ではないでしょうか。

しかし、直観と客観はいずれも身体感覚を拠りどころとしていながらどう異なるのでしょう。要は、その身体が自分のものであるかどうかでしょう。直観における身体とは自分の身体以外にあり得ません。しかし客観においては、主観が排除された時点ですでに、自分の身体ではなくなります。もちろん他人の身体というわけにもいきません。客観とは身体を持たない意識ということになります。

では、身体を持たない意識がどうして身体感覚を捉えることができるのか。両者を結びつけるものがなければならないでしょう。それが思考ではないでしょうか。但し、この点は別な言い方も可能です。思考が両者を結びつけるのではなく、思考が客観を作り出すのだと。同じように思考は主観をも作り出すのだと。主観の作用として思考があるのではなく、思考の作用として主観があるということです。


以上、議論としてやや中途半端ですが、ご返事として遅くなりすぎていることや、この文章自体もかなり長くなっていることでもあり、中間報告的な区切りとさせていただきます。悪しからず。

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