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三つ巴カザール帝国の歴史
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投稿者 ワヤクチャ 日時 2006 年 8 月 31 日 16:42:02: YdRawkln5F9XQ
 

(回答先: 偽ユダヤ人カザール問題の解決法(5) 投稿者 木村愛二 日時 2006 年 8 月 31 日 14:42:38)

040 三つ巴カザール帝国の歴史

http://www.hi-net.zaq.ne.jp/buakf907/bun040.htm


 4世紀末から5世紀中頃、フン族がヴォルガ川とドン川を渡ってヨーロッパに向かった。6世紀にはアバール人が同じように通過して東欧とギリシャを襲った。ここ、カスピ海〜コーカサス山脈〜黒海の北側の地は、世界歴史地図では13世紀の大モンゴル帝国まで、色が塗られることがない。もちろん歴史の教科書で取り扱われることは今後も当分ないであろう。では、大河と草原しかなかったのか? そうではない。歴史から消された帝国があったのである。ソ連時代、ロシア民族の優越性を疑わせるので(?)、その研究は禁止されていたことも大いに関係があるのだ。


5世紀中頃アッチラ大王の死後、この地域に政治的空白が生まれた。そこをアバール人やウイグル人といった遊牧民が通り過ぎて行く。カザール(ハザール)人は、カスピ海とアラル海の間に住んでいたが、ボルガ川に居たブルガール人を追い出し、コーカサスの北で一番有力な種族となった。6世紀後半の話である。次にこの地を支配したのは、突厥王国(西トルコ帝国)であった。帝国は、カガン(ハガン、可汗)と呼ばれる支配者によってまとめられた種族連合国家であった。その下でカザールは帝国一の実戦部隊として力を付けていった。  7世紀は、東ローマ帝国・ササン朝ペルシャ・西トルコ帝国の三つ巴であった。カザールは東ローマ帝国と軍事同盟を結び、コーカサス山脈を越えてペルシャ領のグルジアやアルメニアに侵攻して戦利品を奪った。ペルシャはドン・ドニエプル川にいたアバール人と同盟して抵抗したが、東ローマ帝国のヘラクレイオス皇帝軍に敗れ(627年ニネヴェの戦い)弱体化したところに、イスラムの嵐、ウマルの軍隊により滅ばされるのである。  西トルコ帝国の支配力が弱まり、7世紀後半には新たな三つ巴がうまれた。東ローマ帝国・カザール・イスラム帝国である。コーカサス山脈は天然の障壁ではあるが、ダリエル峠ルート(現在はカズベク峠)とカスピ海沿いダルバンドからのルートがある。イスラム軍は幾度も攻め込んだが、決定的勝利は得られなかった。イスラム軍はコンスタンチノープルも南から包囲したが、落とすことができなかった。イスラムが黒海を周回できたら歴史は変わっていたかもしれない。  


8世紀はじめ帝国鼎立の下でカザールは、ブルガール人、マジャール人を征服して、クリミヤとウクライナを版図に加えていた。今や帝国と呼べるに相応しい行政システムを備えていたに違いない。支配者の称号は、西トルコ帝国と同じカガンである。地方長官を任命し、征服地の管理と徴税をさせた。カガン(大カガン)は、直接指図することはなく、カガン・ベクと呼ばれる副官が行うのである。大カガンは人前に現れる事はない。ベクが毎日、御前に裸足で伺候するだけであった。大カガンは宗教的な特別な地位であったようだ。聖俗2重権力構造である。これは天皇と将軍の関係に似ているかもしれない。  イスラム軍は、マルワンの指揮でカザールに対し大勝利を収めた。カザール軍をボルガ川まで押しのけたのだ。マルワンは征服地にイスラム教への改宗を求めた。カガンはそれに応じたと史料に記されている。しかし口先だけの同意だったに違いない。マルワンは駐屯地も管理組織も残さずに帰っていった。ウマイア朝が内戦のため版図拡大どころではなくなったからである。内戦を治めマルワン2世は、カリフまで上り詰めた。6年後に暗殺され、カリフの地位はウマイア家からアッバース家のアブルの手に移っていった(750年)。以来、イスラム軍がコーカサスを越えることはなかった。  新しい三つ巴は安定したものだったが、外交的な駆け引きは続いたようだ。カザール帝国は東ローマ帝国との関係を強化して、姻戚関係を結び皇帝の擁立に介入した。カザール人ハーフの皇帝(レオン4世)も生まれた。後にキリル文字を作りルースへの布教を行った宣教師キリルをノブゴロド公国に遣わしたポティウス司教もカザール人だった。イスラム帝国は、ボルガ中流に追いやられたブルガール人の王国(もう一つはダニューブ・ブルガール王国があった。現ブルガリアに続く)へ使節を送り、北からのカザール撹乱を画策した。しかし8世紀はおきな政治的変動は起きなかった。カザール帝国は、首都をイティル(カスピ海西岸)に置き、シルクロードの北ルートの出発点として栄えた。  大きな変化は、宗教界に起きた。


740年、カザール帝国はユダヤ教に改宗したのである。これは政治的な判断だったようだ。西にクリスト教、南にイスラム教の国がある。首都イティルには交易に従事するイスラム教徒の居住区があった。東ローマ皇帝とは姻戚関係にある。どちらの宗教も国教として組することができないのは、素人目にも分かる。そしてクリミアには、ユダヤ人のコミュニティがあった。また、東ローマ帝国のレオン3世はユダヤ教徒のクリスト教への強制改宗を行ったが、ほとんどのユダヤ教徒はイティルに逃げ込むという事件も 720 年にあった。聖俗2重権力構造では、帝国が統治できない事態に陥ったのであろうか? 大カガン、ブランは奇策を打つのである。  大カガンは、3宗の高僧を集め論争を行わせた。どの宗教が最も優れているのか、決着がつかなかった。そこで各宗の高僧を一人づつ呼びたし、自宗教の次にどちらの宗教が真理に近いかを聞いた。クリスト教の聖職者はユダヤ教と答えた。イスラム教の法学者もユダヤ教と答えた。ユダヤ教のラビは、答えようとしなかった。そこで、大カガンは国教をユダヤ教に定めたのである。かなり、できすぎた話だ。真偽の程は置くとして、ここに宗教においても3つ巴の構造が生まれるのである。しかし、政治的な思惑とは別に、新たな展開を生むことになったのだ。


ブランの孫のオバディアは宗教改革を行い、やがて多くのカザール人が次第にユダヤ教徒に改宗していったからだ。  9世紀、突然、スカンジナビアの民は大挙して南下を始めた。北海ルートは海のバイキング、ノルマンと呼ばれた。東は川のバイキング、ルスと呼ばれた(ルーシ。イスラム教徒はバラング人と呼んだ)。適当な大きさの小島を先ず占領し、そこを補給基地として本土を襲撃した。条件が良ければ襲撃地に住みこみ、現地人と同化していった。襲撃に失敗すれば、交易を行った。バルト海を渡ってヴォルコフ川を遡り、イルメン湖の小島に居留地を作った。ホルムガルドと名づけられた。後のノブゴロドである(862年ノブゴロド公国)。更に遡って南下し、迷路のような現在のカリーニン一帯の湿地帯からボルガ川やドニエプル川の上流を見出し、カスピ海・黒海へと向かった。  ボルガ川ルートは、勇敢なブルガール人やカザール人が居る上にカスピ海に注いでいるため、ルス人は熱心ではなかった。しかもカザールのカガン・ベクは、東ローマ皇帝テオフィリスに使者を送り建築家と職人を求め、ドン川(ボルガ川と繋がっている)下流のサルケルに砦を築いたのである(1930年代、ロシア共産党はそこにチムリャンスク貯水池を作り、サルケル砦を水没させた)。一方、ドニエプル川ルートは、トルコ系より大人しい農民であるスラブ人が住んでいた。しかも黒海に繋がり、その先はコンスタンチノープルがある。ルス族は、スラブ人を捕まえて、カザールの首都イティルの奴隷市で売った。そうして、次第にルス族はスラブの地に住みこみ、やがて同化してゆく。何度かコンスタンチノープルを包囲したが果たせず、逆に10世紀末には、ビザンチン教会の教えを受け入れ、ルス人はロシア人となっていった。  話の流れとは外れるが、スラブ人を狩ったのはルス族ばかりではない。西のフランク王国もそうだ。狩ってフランス東北部のヴェルダンに集め、マルセイユ経由で、東ローマやイスラムへ売りに行った。コルドバには大きな奴隷市場があった。奴隷売買の仲介をするのはユダヤ教徒の仕事だったが、それは彼らがイスラム圏にもキリスト圏にも出入りできたからだ。ここにも奇妙な三つ巴が見られる。もともと、古代ローマでは帝国内のラティフンディウム(大土地所有者)がビラ(農園)で働かせる労働力の供給を求めていた。始めはゲルマン人を奴隷とした。西ローマが滅んでも、東ローマや地中海沿のイスラム圏では要求は増大する一方だったのだ。一昔のゲルマン族やスラブ族はクリスト教徒ではないので、遠慮なくやった。英語の slave が、スラブ( Slav )に似ているのは偶然ではないのである。  


カザールは8世紀を盛りにだんだん力がなくなった。9世紀中頃、カザールの版図であったウクライナはいつのまにかルスの手に落ちていた。先にルス人がキエフに来て勢力を伸ばし、周辺のスラブ人を支配するようになった。後にノブゴロド公リューリクの息子オレグが来て先人のルス人を殺しキエフを占拠してしまったのだ(882年キエフ公国)。カザールが支配していた東方に住むペチェネグ人が、更に東方のトルコ系民族(クズ?)の圧迫を受け、カザールの地に流入した。カザールは彼らの定住を拒否したので、ペチェネグは更に西方へと移動した。そこはカザールの同盟者マジャール人の地であった(現ルーマニア)。マジャールはそこを追われ、カルパート山脈を越えて現ハンガリーの地に到った(893年)。カザールとの協力関係が切れたのである。このようにカザールは帝国の版図を縮小していった。三つ巴の構造は、4番目の勢力によって壊されようとしていたのだ。  カザールは10%の通行税を取っていた。これが大いにルスの不満であった。交易と奪略とが紙一重のルス人はボルガを下ってカスピ海にも進出した。小競り合いはあったが、決定的な事件は、オレグの子スビャトラフ公がドン川の守りサルケル砦を落としたことである(965年)。スビャトラフの死後、内戦を治めたウラジミールは女に狂っていた。それを止めたのが、宗教であった。カザールの時と同じように宗教コンテストを行ったが、今度はクリスト教が東西あり、四つ巴となった。そしてビザンチン外交が勝利したのである。その結果、今までの(カザール=東ローマ帝国 対 ルス 対 イスラム)の関係が、(東ローマ=ロシア 対 カザール 対 イスラム)へと変わった。一度も東ローマに武器を向けたことがないカザールに対し、東ローマ=ロシア連合軍は、1016年にカザール国に侵入したのである。この時、首都イティルも陥落したようだ。  その後、この地はクズ族(クン、クマン、キプチャク、ポロベツ)の支配するところとなった。キエフ・ロシアが内戦状態になって北へ去り、カフカス地方に空白ができる。これはビザンチンの誤算であった。通商の要地がまた異教徒の手におちたのだ。カザール国の滅亡後も、12世紀までカザールの名前が出てくる。モンゴル人が、キプチャク・ハン国を打ちたてた以降に、サライ・バトゥにユダヤ教を信じるカザール人が住んでいるという旅行記が書かれている。その町の別名はサスキン、またの名はイティルである。今でもカスピ海はカザールの海と呼ばれている。  イティルが何処にあったか、謎であった。旅行記『モンゴル人の歴史』を書いたカルピニは、先のようにイティルはサライ・バトゥのことでキプチャク・ハーン国の首都、ボルガ川の河口にあると書いている。砦のあったサルケルをイティルだというロシア研究者も多い。10年ほど前、ボルガ川のカスピ海河口南端にある都市キーロフスキーの沖にあるチースタヤ・バンカ島で防塁と古墳の一部が見つかったと言うニュースが入った。その後のフォロー記事は知らない。  この話は終わりに向かっているが、実のところ本当の歴史はこれから始まると言っても良い。カザール帝国のユダヤ教徒が一瞬に消えてしまうわけがないからだ。改宗のパラグラフの最後に書いた「新たな展開」のことである。中世のロシア・ポーランドのユダヤ教徒、そしてポグロム、更に第1次大戦後のアシュケナージィのイスラエルへの大量入植とつながって行く。最後の三つ巴とでも言うべき事態なのだが、今は書く力が残っていない。参考URLを上げるので参照されたい。 The Khazaria Info Center The Thierteen Tribe by Arthur Koestler カザール可汗国(ロシア史の補説として) カザール人(年表) ユダヤ教国、カザール・ハン国 ユダヤ問題特集(ケノが書けなかったこと) 湾岸報道に偽りあり(ケノが書けなかったこと) [01.05.27]

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