投稿者 ○H○ 日時 2006 年 7 月 12 日 02:45:32: dYD4U0ksEk0Do
>暴力と縁切るにゃ、所有を放棄し、主体だの自立だのって偉そうな事言わずに自身の現実を受け入れるしかねえんだろうな。
生きている人は所有から逃れることはできないと思うがどうだろうか・・・。
自分の肉体も、ある意味に於いては所有と言っていいかもしれないし、生きる為に肉や野菜などの食物を体内に取り入れること、或いは呼吸することでさえも、所有と呼ぶこともできるだろう。それを暴力と呼ぶことさえも可能だろう。
暴力と縁を切るには、「所有」そのものではなく、所有すること所有しようとすることから生まれる「執着心」を放棄することなのかもしれないとも思う。ただ執着心を放棄するには、「暴力と縁を切る」という欲求から生まれる執着心をも放棄しなければならないだろう。そして生に対する執着からも・・・。
なぜ人は執着するのだろうかと考える時、それは死からの逃避、つまり自己や自己と同一化されたものの死(無)から逃れようとする衝動だとも考えられる。そして自己がある限り、この衝動からは逃れる事はできないと思う。
「執着のない所有」(それが所有と言えるかどうかは別だが)を達成しようとするなら、主体である自己の所在を辿るしかないようにも思われる。つまり、生きて所有して執着する存在に対しての非自己化なのだろう。(「自身の現実を受け入れる」というのが、主体である自己の所在を知る為の第一歩にはなるとは思う。)
ただそれは、自己が生きている存在にではなく、他にあるという段階では執着、つまり自己の死からの逃避による衝動からは完全には逃れることはできないと思う。つまりそれは、自己の不在によって達成されるものだろうし、達成者すらも不在であるため、達成されるものではないのだろう。結果的には主体だのと言わないようにするのではなく、言えないということなのだろうし、言えないということも起こらないというとこだろう・・・。
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