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大室寅之祐 明治天皇の誕生 (1)  投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 08 日
http://www.asyura2.com/0601/revival1/msg/205.html
投稿者 愚民党 日時 2006 年 9 月 16 日 08:08:17: ogcGl0q1DMbpk
 

http://www.asyura2.com/2002/dispute4/msg/104.html


Re: 日本人はなぜ駄目か 投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 08 日 02:32:13:

(回答先: Re: 日本人はなぜ駄目か 投稿者 通りすがり 日時 2002 年 11 月 08 日 01:26:38)


(資料)
鹿島昇の「裏切られた三人の天皇−明治維新の謎」という本により、維新の際薩長間に、徳川家茂及び佐幕派であり鎖国に固執した孝明天皇、それに同調した睦仁親王を暗殺して、長州出身の南朝の後裔である大室寅之祐を睦仁親王にすりかえて明治天皇にするという密約があり、その首謀者は岩倉伊藤等であつたとする異説があることを知つた。
具体的には、伊藤博文が自ら隊長となつた長州力士隊にかつて吉田松陰が南朝再興の理想を託した一人の少年奇しくも睦仁親王と同年の16歳になる大室寅之祐なる者がいて、吉田松陰の命を受けた木戸と伊藤が掌中の玉の如くして養育し、孝明天皇と睦仁親王を暗殺した後で、睦仁親王とすりかえたというものである。

それによれば、
1.睦仁親王は天然痘を患い、「あばた」の残る虚弱体質であり、書は下手で、即位前乗馬の記録はないのに対し、明治天皇は「あばた」がなく、5尺7寸・24貫の巨漢で、達筆であり、鳥羽伏見の戦の際馬上閲兵した、また相撲を得意としたという。
2.中山日記における「寄(奇)兵隊の天皇」という表現、突然の東京遷都、昭憲「皇太后」の呼称(本来ならば「皇后」であるべき。また、大正天皇もこの呼称でよいと御裁可されたという。)南北朝正閏論における南朝正統の御裁定(天皇は「北朝」系であるにもかかわらず。)等々の事実がある。

この異説により、多年の疑問が氷解したように感じた。これによれば、長州出身者に対する厚遇、乃木大将の殉死(吉田松陰との関係)等の説明が出来るからである。また、これが事実であるとするならば、天皇制の日本近代史における意義が一層増すように思われた。

長崎県平戸市にある松浦史料博物館に本件につき訊ね次の返事を得た。
現在平戸城に、亀岡神社の宝物「祐宮(サチノミヤ)御初衣」が公開展示されています。この初衣には大納言中山忠能卿が松浦家第35代松浦煕(ヒロム)(乾斎)公(1791-1867)に宛てた添翰があります。同封した添翰のコピーの中に祐宮(後の明治天皇)の御誕生等について詳しく記されています。
これを見ますと、娘典侍慶子(ヨシコ)は皇子を懐妊され、8月27日表向き着帯(腹帯)、中山家の産所において9月22日に若宮降誕とあります。
ご存知のように、慶子様は松浦家第34代松浦清(清山)(1760-1841)の第八女愛子様と忠能卿の間に誕生し、後に光明天皇の典侍として宮仕えをしておられます。
因みに明治天皇は松浦清公の曽孫に当たられます。
明治天皇の出自については諸説があるかも知れませんが、当地平戸の識者の間では慶子様御生母説が有力でこれが定説となっているようです。ただ、慶子様が愛子様の娘であるということに、疑義をお持ちの方もおられるようです。


何れにせよ、祐宮(睦仁親王)は中山忠能が外祖父であることに間違いはない。
そこで、最後の藩主第37代松浦詮(アキラ)公(1840-1908)について、「松浦詮伯伝」を調べてみた。
その結果、詮公が中山家はもとより、三条・岩倉等と相当近い関係にあつたことと皇室から厚遇を受けている事実をあらためて知つた。

その「松浦詮伯伝」の中に、次のような記述がある。
明治10(1877)年1月5日、天皇及び皇后両陛下の御真影を拝戴す。21日宗族規約を設け、始祖源融(トオル)公神影の前に於て、誓約書に連署す。
署名人は正四位松浦詮、その長子従五位厚、次子従五位靖(ハ力ル)、分家従五位豊及び従五位渡辺章綱の5名でこれに詮の家令・家扶(何れも正四位)、靖の家令(従五位)、渡辺章綱の家扶(従五位)の4名が副暑している。
これをみて、源融公の末裔ということであれば他にも大勢いるであろうに、実質的に渡辺章綱だけを拘束する規約が何故この時期に必要であつたのか。
実は、渡辺章綱(後に子爵)は、鹿島氏の著書によれば、泉州伯太一万三千石の藩主であり、役職は大坂城の定番であつた。徳川慶喜の命を受けて孝明天皇暗殺の犯人を調べ、それが岩倉と伊藤であることを知り、後年設立した長崎の青年学校でこの事実を広言したため、伊藤の仕向けた刺客に襲われ、1894年死亡したことになつているが、実は逃れて1911年まで生きたという数奇な運命の持主である。
松浦家は維新の舞台裏を知つた上で、内乱等の不穏な動きに対処するため、宗族規約という名目で、渡辺章綱の言動を牽制するこ
とを図つたのではないだろうか。その背景には他よりの圧力もあつたかも知れない。

幕末、藩主の命を受けて情報活動を行つた平戸藩士に籠手田(コテダ)安定(1840-1900)なる人がいる。1867年京に上り国事を偵察し、薩摩の五代、長州の伊藤の知遇を受けた。後に滋賀県令・貴族院議員となり、天皇の寵を辱くし、平戸藩士中ただ一人華族(男爵)に列せられたこの人こそ、明治天皇の出自を確実に知つていたといえるだろう。(注1)
平戸島にはその北端に田助港というところがあり、幕末各藩の志士をのせた船舶が寄港し、多々良孝平という篤志家のところに、西郷吉之助(隆盛)、桂小五郎(木戸孝允)、山県狂介(有朋)、大隈八太郎(重信)等が屡々来て国事を談じたとのことである。その意味で平戸は、吉田松陰遊学のことと併せ、明治維新にゆかりのある地である。
(注1)井上家と籠手田家は隣家同士であり、家族は亙いに出入し、籠手田安定が滋賀県から連れ帰った愛妾から私の祖母、姉妹(寅之助の娘達)が琴、三味線の手ほどきを受けたという。また井上家の今一方の隣家は沖家で、日露戦争の露探として横川省三と共にハルピンで処刑された沖禎介の実家である。
籠手田安定の長男は大正中期陸軍砲兵大佐で退官帰郷。今から80年以上前の話である。戦後、井上家と籠手田家の子孫は東京に移住し敷地は残っているが人は住んでいない。

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(資料)【明治という時代】

1.幕末(孝明天皇と14代将軍家茂)

明治二十二年二月十一日、大日本帝国憲法が発布された。
第一条  大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第三条  天皇ハ神聖ニシテ犯スヘカラス
現在日本の形は、全てここから始まった。其の話をしよう。

 明治二十二年二月十一日、午前十時三十分、政府高官の並ぶ中、明治天皇の玉座着席によって、式典は始まり、明治天皇は憲法発布の勅語を読み上げた。式典はほんの十分ほどで終わったのであるが、祝砲がとどろき市中の鐘が鳴り、山車が練り歩き、仮装行列が繰り出し、さながら祭り気分の大にぎわいであった。
万歳、万歳、万々歳の大合唱のもと、無事、式典は終了した。因みに、最初は「奉賀」と唱える案が出たのであるが、何回も唱えていると「阿呆」に聞こえるので「万歳」に変わったらしい。それ以後、万歳は、頻繁に使われるようになる。そして翌年十一月二十九日から施行される胸決まった。国民を無知、阿呆たらしめた憲法の船出である。伊藤博文の胸中如何ばかりか。
 
第一条、天皇は万世一系であると記す。今から思えば、こんな大嘘、憲法の第一条に、良くも入れたものである。あまりの大胆さに、日本国民全員が、呆気にとられ、脳みその麻痺により信じ込んでしまったのか。
第三条でもって、天皇は神聖にして犯すべからずと念を押す。アジアでいち早く、近代的立憲国家になったという思いが、これらに対して目くら判を押させたのか。

それにつけても、少し前の幕末の世、天皇は玉と呼ばれ、政治の道具に過ぎなかった。そう行動してきたのは、伊藤博文自身では無かったのか。そして、それ以前は、すっかり歴史の表舞台からは無視されつづけて来た天皇である。

天皇の歴史のほんのさわりを紐解けば、天皇が万世一系で有るわけがないと言うことは少年でも見抜く。紐解いてもらっては困るから、神聖にして犯すべからずと続く。情報を独占し、強権によって言いくるめる。嘘八百でも、批判を許さず、何回も、声高に唱えることにより本当になる。御用学者が必死に太鼓持ちをやる。批判や意見を言おうものなら、その日から飯の食い上げになる。それどころか命すら危ない。従って御用学者に成らざるを得ない。おかしな理屈の積み重ねにより、いろいろと言いつくろう。一見開かれた世のように思われた文明開化の明治も、この一手ににおいて、まさに暗黒の世界にはいるのである。

伊藤博文らは、一体なぜこのような条項を入れたのであろうか。尊皇思想の成文化が其の全てであろうか。其の答えは幕末動乱期にあった。

倒幕に燃え立つ、革命の志士達は、其の革命思想が、最初から一貫していたわけではない。尊皇攘夷から、公武合体、攘夷、倒幕、尊皇開国へと変わっていく。

西欧列強との対立の愚を知った、薩摩、長州などは、尊皇、倒幕、開国へと傾いていく。慶応2年1月(1866)の薩長同盟の成立により、この考えは、確固たるものとなる。ところがである。尊皇として頂くべき、時の孝明天皇は、頑固な攘夷主義者であると共に、幕府に好意的で、公武合体を押し進めていたのである。

文久三年の八月十九日未明には、孝明天皇の指示により、中川宮朝彦親王を中心に、公武合体派の巻き返しを図り、尊攘派の公家達を追放、禁足した。もっとも、薩摩はこの時、まだ公武合体派であったが。しかし慶応二年の段階では、薩長をはじめ、革命志士側にとって、倒幕は、動かしがたい目標になっていた。従って、孝明天皇は、極めて大きな障害となっていたのである。しかし、孝明天皇は、一貫して公武合体路線を堅持していた。
 
そんなとき、天皇が疱瘡にかかったのである。
ここのところは、少し詳しく見ていこう。
「孝明天皇紀」、「中山忠能日記」より、拾ってみる。
ちなみに、中山忠能とは、明治天皇の生母と言われている中山慶子(孝明天皇の妾)の父である。

慶応二年十二月二十一日
 天皇は、少し風邪気味であったようだ。
十二月十二日
 高熱を発し、苦痛を訴える。
十二月十五日
 手に一対の吹き出物が出来る。
十二月十六日
 吹き出物が顔にも出来る。一睡も出来ず、吐き気と下痢が激し い。
十二月十七日
 典医十五名は正式に疱瘡と発表、宮中にわかに騒がしくなる。
十二月十八日
 吹き出物が変色して落ち着く。睡眠もとれはじめた。京都守護 職松平容保などがお見舞いに参内。
十二月十九日
 朝から食欲がでる。
十二月二十日
 食欲、便通も順調、吹き出物の経過も良好。
十二月二十一日
 天皇の機嫌が良くなる。吹き出物から膿が吹き出し始めてさら に楽になる。徳川慶喜もお見舞いに参 内。
十二月二十二日
 午前二時に葛湯一碗、唐きび団子三つ、さらに二時過ぎに唐き び団子五つ、十一時半にお粥一碗、  正午には御大便少々、 午後二時に唐きび団子七つ、五時にお粥一碗、八時過ぎにほし いい一碗、
 十二時前にお小水、そして午前一時前にお粥半碗と大根おろし 少々。

食欲も排泄の方も順調に回復していることを記している。又、中山忠能の日記にも、すでに前日に「全て御順道との儀承り、恐悦に存じ上げ候」と書いている。

十二月十三日
 食欲ますます進み、吹き出物の膿も出てしまい乾燥しはじめ  た。
十二月十四日
 この日も葛湯、お粥、ほしいいをとり、便通もあり、天皇の機 嫌はますます良好。

ところがである。

十二月十五日
 天皇の様態は前夜から急変、激しい嘔吐と下痢におそわれ、顔 には紫の斑点が現れた。さらには「御 九穴より御脱血」、七 転八倒の苦しみのうちにその夜遅く亡くなった。

天皇はまだ三十六才、それまでは至極健康な壮年であった。
 
孝明天皇記をはじめ、殆どの資料は、疱瘡による急死である胸、伝えている。しかし上の日記からだけでも、何か解せないものを感じるが、やはり戦後になり、いち早く歴史家のねずまさし氏が、孝明天皇は病死ではなく暗殺であることを学問的に論証された。事が事だけに、論証の正否などには関係なく、学会からは無視された。

ところが、十数年前、天皇の最後の病床に立ち会った宮廷医師、伊良子光順の曽孫に当たる伊良子光孝氏が、光順の手記について発表された。「日記の中には、毒殺ではないかと疑っているような表現があります。」としながら、自らも医師であるところから、其の手記を明細に検討した結果、医学者としてみるなら、砒素系毒物による急性中毒症状であると診断せざるをえない。(石見銀山あたりの)亜砒酸である可能性が高い。

これに対して、死因を痘瘡だとすると、痘瘡が殆ど全快した段階における様態の急変、異常な症状を説明することが出来ないと言われる。
 
ここまでくると、孝明天皇毒殺は、当時より、一部で噂されたとうり「何者かによる暗殺であったこと」はかなり高い確率で認識される。ならば、其の暗殺者は誰か。宮廷の奥深く、しかも権力の中枢で行われたことであり、今となっては物証は何もない完全犯罪である。

しかし状況証拠は、ただ一点を指し示している。岩倉具視と其のブレーン、薩摩、長州の討幕派の中枢。岩倉具視は、それ以前にも、天皇の暗殺を企て、投げ文されたことがある。
維新後の動向と考えあわせれば、岩倉のほかに、大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛、伊藤博文、彼らが大なり小なり関わっていたことは、全ての状況が指し示す。

岩倉具視の義妹、堀河紀子が宮中女官として入っていた。彼女が加担していたことは容易に推察されると、先に挙げた、ねずまさし氏も指摘している。
典医によって調合された、痘瘡の薬は、女官の手を経て天皇のもとに運ばれる。その間に、そっと毒物を混入すれば済むことである。
まさに、その後彼女は、口封じの如く、薩摩と思われる手によって殺害されているのである。
 
当時、日本に駐在していたイギリスの外交官アーネスト・サトウの「日本における外交官」と言う日記が残されている。

名前が日系人のようであるが、れっきとした紅毛人である。この日記の中に、孝明天皇は革命、革新のじゃまだったので暗殺されたという噂を聞いたという文章が残っている。もっとも、日本訳されたものは、なぜか、この部分がカットされてはいたが。噂と言っても、巷のそれとは違う。仮にも外交官の残した手記である。その筋の噂と言うことである。彼は、其の噂を聞き、さもありなんと納得している。

もう一人、朝鮮に安重根と言う朝鮮独立運動家がいた。明治四十二年十月十六日、満州ハルピン駅で、伊藤博文を狙撃したテロリストである。彼は、他の朝鮮人が多く持っているように、いやそれ以上にがちがちの儒教信奉者であった。彼は、伊東殺害の後、その場で取り押さえられたのであるが、その後の裁判等で彼自身の信条を述べている。伊東を殺害した理由の中にこんな文章が残っている。
「今ヲ去ル四十二年前現日本皇帝ノ御父君ニ当ラセラルル御方ヲ伊東サンガ失ヒマシタ其ノ事ハ皆韓国民ガ知ツテ居リマス」

伊藤博文は孝明天皇を殺害した。そのことは韓国民は良く知っていると言っているのである。安重根の情報入手経路は、はっきりしていないが、伊藤殺害の動機の一つになっている。彼の裁判は、どういう訳か裁判途中より、非公開になってしまった。

幕末を見ていると、今ひとつ疑問に突き当たる。それは、孝明天皇の死を遡ること、五ヶ月、将軍家茂の死についてである。
この時期、時代の思惑は錯綜している。

紀州より迎えた、徳川慶福は、徳川十四代将軍として、名も家茂と改めていた。後見役に一橋慶喜がいた。朝廷側、孝明天皇に支えられ、家茂は長州軍に対峙した。いわゆる禁門の変である。

大阪城に本拠を置き、長州征伐の途についた。長州は、劣勢に立たされていたが、このころ、薩摩の動きが微妙になってくる。土佐の坂本龍馬らの動きにより、薩摩長州は、密かに同盟を結ぶのである。西洋式の武器が、薩長へ流れ込むことにより、幕府側の旗色は悪くなる。

こんな折り、突然、若き征夷大将軍家茂は死去するのである。其の死は単に世間から隠されただけではなく、妻(孝明天皇の妹、和宮)をはじめとする近親のものにも、其の姿を隠したのである。時を同じく、薩摩藩主らにより、建白書が出された。内政変革の急務である胸を強調し、長州征伐をやめるよう説いたのである。状況は、俄然きな臭くなる。

死に一人立ち会ったという、旗本蜷川(にながわ)相模守の息子蜷川新は語る。
大阪城にいた将軍家茂は、慶応二年の七月毒物の盛られた茶を飲み、にわかに苦しみ始め死去した。毒殺の事実は極秘にされたが、家茂に従って従軍していた父は其の真相を良く知っていた。遺骸は江戸に送られた。和宮は遺骸に礼拝することを希望されたが、毒物の痕が顔面に気味悪く現れていたので、老中は納めてある棺を開くことを許さなかった。と言うのである。

薩長だけでは、毒は盛りづらい。やはり、急進派の公家が絡んでいる。尊皇攘夷から、開国へ方向転換しかけていた急進派の面々。指し示す方向は一つである。

文久三年三月、天皇の賀茂社行幸に供奉したとき、高杉晋作に、「イヨーッ、征夷大将軍!」とやじり飛ばされている。幕藩体制始まって以来の珍事であったが、幕府、将軍と言ったものの地位がいかに落ちていたかを如実に示している。
和宮(かずのみや)はわずか五年で未亡人となる。公武合体という政略結婚の悲しい犠牲者であった。時は過ぎ、昭和三十年、増上寺の発掘調査の際、和宮の棺の中から湿板写真が見つかった。その画像は確認されないまま一夜で消えたという。

将軍家茂の暗殺、孝明天皇の暗殺、どちらも、歴史を揺るがす大事件である。


2.幕末〜明治(明治天皇)

明治天皇紀や、中山慶子の手紙などを覗いてみると、其の少年期は、虚弱体質で、病気ばかりしており、あまり学問は好かれず、御遊技ばかりしていたようである。

実の母親であるという中山慶子自身が、父である忠能に宛てた手紙が残っている。
「・・・何分にも世は末に及び、御所中悪魔えいまんにて恐れ入り候。当今様おん事(睦仁天皇)じつにお案じ申し上げ、悲観のほかこれなく候。とかく格別明君にあらせられず候わでは内外とても治まり申さず・・・かかるご時節に当今様の御代にならせられ候おんことなんと申し上げておんよろしく候や。ただただ神慮にかなわせられ、ご強運強く、神明のご加護にて早々内外の悪魔を遠ざけられ候よう、祈り入り祈り入り上げ候。なかなか紙上に尽くしがたき事ども日々御座候いて、浅間しきごようす、嘆き入り、嘆き入り参らせ候。」

我が子ならば、かなり欲目に見ても良さそうであるが、其の母親が、睦仁のあまりの愚昧さに嘆いているのである。この中山慶子の日記からは、睦仁は、精神障害があったのではないかと思わせるほどである。
上に抜粋したのは、慶応三年一月十二日の手紙である。
 
しかし其のわずか一年足らずして、さっそうと馬に跨り、声高らかに号令をかけ、臣下の乗馬を気遣うほどの賢人になっていた。この違いは一体何を意味するのか。全くかな釘流の書体であった睦人天皇が、明治天皇になったとたんに達筆になり、虚弱体質が、二十四貫目(約九十Kg)を超す巨体に成り、乗ったこともなかった馬を自在にこなし、つい三年ほど前、大砲の音を聞き気絶したことなど無かったように剛胆になった。これは一体何を意味するのか。
 
明治神宮の祭神は明治天皇と昭憲皇太后。
これって実に変ですね。明治天皇に対するなら、昭憲皇后でないといけない。
なぜ、皇太后なのか。実はこの疑問、明治時代にも出ているが、今更換えるわけにも行かないとかでそのままになっている。ただ、括弧付きで皇太后の下に昭憲皇后と書いた。皇太后だったら、明治天皇のお母さんに成る。

昭憲皇太后は、左大臣一条忠秀での三女で一条勝子と言った。寿栄姫と改め、睦仁親王の皇后として入内し、後に美子と改名した。
正式に皇后になった胸記されているのは、明治六年十二月八日であるが、慶応二年六月に見合いをして皇后に決定し、睦仁親王は慶応三年正月御大典を行っている。
明治天皇の肖像写真絵に描いた物を写真で取ったという顔に痘瘡をやった痕の、あばたが少々在った為、それを隠すためだったとも言われている。
しかし、睦仁親王は、子供の頃、種痘を受けているのである。現代医学の七不思議の一つである。

一言で言ってしまえば、睦仁親王と明治天皇は別人である。

慶応三年夏、睦仁天皇は軽い風邪を引いた。尊皇派の重鎮達により、薬が調合された。そんなことのあったすぐ後、皇居から、睦仁天皇の母の実家である中山家へ、一体の等身大の仏像と称する物が厳重に布でくるまれ運ばれた。このことはしっかり文章に残っている。

ここから、想像をたくましくすれがば、この仏像は、実は、毒殺した睦仁天皇の亡骸であった。そして、尊皇派によって、仕立て上げられた別の天皇が、すり替わった。

この陰謀に、中山家が、加担すれば、それは容易いことではないか。一つ疑問が残るのは、中山慶子が、実の子どもの暗殺に加担するかと言うことである。
実は、中山慶子が妊娠したとき、激しい腹痛によりしょう産の疑いがあったのである。このことはなぜか宮中には知らされなかった。無事良くなったと事なきを得たようになっているが、死産を隠し、赤ん坊を取り替えた可能性もあるのである。「権典侍様御用雑記」などは、その時のことを記している。ならば、一度やったことは二度だって出来る。すり替えなど、中山家にとって自らの権勢が維持できればいかほどのことでもない。後は、天皇近くにいた幾らかの公家を懐柔すれば済むことである。事実、中川宮などは、名を何回も換えているが、孝明天皇寄りで、攘夷派だったにもかかわらず、明治以後も公家社会の中枢に君臨している。
 
孝明天皇暗殺の噂は、当時公家社会の中でかなり話の遡上に上っていたという。明治天皇だって耳にしないはずはない。大変英明だった明治天皇が、真に孝明天皇の子ならば、この噂の中心人物である、岩倉具視や大久保一蔵を快く優遇したであろうか。たとえ噂だけでも。岩倉に至っては、其の病の枕元まで、天皇自ら出かけ見舞っているのである。
私にはとても理解しがたいものがある。
すり替えた天皇は、遷都の号令も何もなく、そそくさといち早く、江戸を改めた東京へ移された。そして明治と改元した。 

ならば、すり替えられた明治天皇とは誰なのか。

幕末、尊皇思想が起こってくるには、其の素地がある。水戸藩における思想体系は、尊皇思想であったと言っても過言ではない。幕末の藩主、水戸斉昭、其のブレーンの藤田東湖が、其の全てを代弁している。「将軍家は本家、禁裏は主君。」「いざと言うときは、禁裏にはせ参じるのが本来の姿。」そして、其の禁裏とは、彼らの思想上、それはいわゆる南朝を以て正当であるとしていた。彼らは隠し玉を持っていたのである。南朝の血を引く末裔であるというふれ込みの熊沢家。熊沢天皇である。

南朝を正当視する、松下村塾が、長州にあった。ご存じ、吉田松陰の塾である。そして、彼らもやはり南朝の末裔という大室家。大室天皇を要していたのである。いざと成ったら、この天皇を担ぎ上げ、革命を起こす。これが、彼らの最終目標で在った。

担ぎ上げられたのは、大室天皇であった。ただ其の事実は隠された。思ったよりスムーズに進んだ大政奉還、明治維新。隠し、事なきを得たほうが、社会掌握に良いと判断された。

松下村塾の遠からずに麻郷村(おごう)と言うところがある。ここに大室家はあった。慶応年間、高杉晋作の造った奇兵隊へ良く出入りしていた活発な十六歳前後の少年がいた。馬にも乗り、相撲も良く取った。彼の名を大室寅之祐と言う。

大室家は、九十六代、後醍醐天皇から四代目、松良天皇の末子光良親王の血を引くと言われている。いったん草莽の民となった者に、その真実のほどを云々するのは難しいが、光良親王は応永の乱(1399年)後、大内氏に従い周防へ下向し、麻郷村の麻里府に住み着き、大室と名乗ったというのである。

この家の大室寅之祐が、尊皇開国派に担がれ明治天皇になった。慶応3年夏のことである。
明治維新、新生日本の事相成り、社会もほぼ固まってくると、この事実は絶対に隠蔽しなければならない最極秘のこととなった。ここに、明治憲法の第1条と3条の出来た必然性が浮上してくる。

其の伊藤博文も亡き、明治四十三年頃南朝、北朝正当論議が学問の場で盛んになった。其の論議に幕を下ろしたのは、外ならぬ明治天皇であった。 「南朝が正当の王朝である。」
孝明天皇はもちろん北朝である。其の子であるなら、当然明治天皇も北朝である。自らを否定することである。学者の間には、内心かなりの混乱と疑問があったに違いない。しかし、それは、天皇は神聖にして犯すべからずと言う強権憲法のもとにオブラートにくるまれてしまった。自ら、南朝を名乗れなかった明治天皇のせめてもの自己表現であったのかもしれない。明治天皇自ら造らせた、北朝天皇家の系図、「纂輯御系図」には、後花園天皇の父後崇光院貞成親王の父は、不詳となっている。
これでも、明治天皇は孝明天皇の子で有り北朝といえるのか。

憲法で縛り、わざわざ天皇紀を出し、いっさいの批判を封じ込めた。天皇をひたすら神にしたのは、国民に疑問の余地を残さないためではなかったのか。14代将軍を殺し、孝明天皇を殺し、睦神天皇を殺し、すり替え明治天皇を作ったことをひたすら隠し、抹消するためでは無かったのか。神格化された天皇は、大東亜戦争に向かってひた走ることになる。
 
 
 
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