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【寺島実郎】日本人の脳力は何故劣化したのか【三井戦略物産研究所】
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投稿者 ダイナモ 日時 2007 年 2 月 11 日 15:56:35: mY9T/8MdR98ug
 

http://mitsui.mgssi.com/terashima/0301.html

世界 2003年1月号 連載「脳力のレッスン」

日本人の脳力は何故劣化したのか

 「脳力」という標題を掲げてこの連載を続けているが、改めて「脳力」とは何かといえば、物事の本質を考え抜く力を意味する。聞き慣れない言葉とは思うが、博物学者・南方熊楠が使っていた言葉で、私にとって気掛かりな言葉なのである。100年以上も前に大英博物館で働いていた熊楠は、古今東西の文献を読み漁り、数百冊ともいわれるノートを作成したという。そのノートさえ、当時の事情では持って帰ることもままならず、帰国後の熊楠は、故郷和歌山で沈思黙考、あの「南方曼荼羅」ともいわれる思想体系を創造したのである。コピー機もFAXも無い時代において、博覧強記ともいえる知識と情報を脳味噌の皺に刻み付け、それを搾り出すように作品に向かったといえる。
悲しみを込めていうが、百年前の日本人に比べ、我々の脳力はかなり劣化している。何故そんな思いが強いのかというと、五年をかけて新潮社の国際情報誌『フォーサイト』に連載してきた「一九〇〇年への旅」の後半「アメリカ太平洋篇」を「歴史を深く吸い込み、未来を想う――アメリカの世紀、アジアの自尊」として出版し、百年前を生きた先達の思考と行動を総括する作業を一段落させたところだからである。
 新渡戸稲造が『武士道』を英文で出版したのが1900年であり、この前後に内村鑑三の『代表的日本人』や岡倉天心の『東洋の理想』などが、同じく英文で世界に発信されている。夏目漱石や南方熊楠がロンドンで活動していたのも1900年である。私の新著では朝河貫一や野口英世などの生き方をも再検証したが、それぞれが時代を背負いながら重心の低い思索を深めていることを強く印象付けられた。

メディア環境という要素

 何故日本人の「脳力」は衰えたのか。まず、メディア環境の影響を指摘せざるをえない。我々は日常的に多様なメディア環境に身を置きつつある。新聞、雑誌など活字メディアに加え、テレビ、ラジオなどの電波メディア、さらにはインターネットなどの新しいメディア環境にアクセスする機会も増えている。「ユビキタス」などという言葉も登場し、「いつでも、どこからでも」情報にアクセスできる技術基盤は一段と整いつつある。
 テレビを観る視聴態度に「ザッピング」というのがある。チャンネルを切り替えるコントローラーを絶え間なく動かし、番組を渡り歩きながら観ることをいう。野球中継からバラエティー、ニュース、時代劇とサワリだけを巧みに渡り歩き、一つのチャンネルを10分と落ち着いて観ていられないというのが、現代人の傾向である。また、若者の生活を注視していると、携帯電話を握り締めるように生きており、絶えず友人とEメールの交換やおしゃべりを続けていることに気付く。しかし、間断なく繰り広げられる受発信にもかかわらず、納得いく濃密な意思疎通が得られないのか、落ち着きなく再び受発信を繰り返していく。現代人は思考を収斂させる機会のないまま、途方もない情報量の中に身を置くことになる。
 かつてテレビが登場してきた頃のメディア論は、テレビが人間の五感すべてで情報を包み込む新しいメディアであることを強調していたが、テレビ文化が定着して半世紀が経ち、現実にテレビ文化に身を置いた人間の思考様式が、「論理よりも感性」、つまり大づかみのイメージで情報を把握する傾向を強めていることは確かである。100年前の人間は、活字や直接顔を合わせている人間から情報を受け止めていたわけだが、テレビという映像メディアの前に身を置くにつれて「受身で間接情報を受け止め、考えない傾向」が定着してきたといえよう。そして、インターネットの登場に至るメディア環境の一層の高度化・複雑化を迎え、考える機会は一段と希薄になったのではないか。

存在感を放つ人間との出会いの欠落

 自分の人生を振り返って、あるいは先達の人生を調べてみて、物事を真剣に考えようとするきっかけになったのは「人間との出会い」、つまり魂を揺さぶられるような生身の人間との出会いであることに気付く。その存在感の重みが、その後の人生にとって大きな刺激となるような「出会い」である。
 現代の若者と議論していて感ずるのは、それまでの人生において、両親や親族、先生、地域社会の隣人などにおいて、決定的な影響を受けた人物がいないということである。何年か前、高校を卒業したばかりの年代の学生にアンケート調査をしたことがあったが、「尊敬する人物は」という設問に対する答えは、スポーツ選手、タレントが大半で、中には「自分自身」などという者さえいた。不幸なことに、自分が目指したいと思う生身の先行モデルに出会うことなく大人になり、人間関係が極めて希薄なまま「未熟な自分の空間」に閉じこもることになるのである。
 戦後の日本において、人間の住む生活空間が大きく変化したことも影響していると思われる。家族構成の核家族化とも相関し、平均的日本人の住環境が団地、マンションなどになるにつれて、「扉を閉ざせば外は他人」という閉鎖空間に日本人は身を置くことになった。人間関係に煩わされず快適という面もあるが、「外の人間」との生身の人間関係は確実に希薄になった。程度の差はあるが、箱の中に閉じこもり、テレビが介在する擬似情報、間接情報で世界を認識する傾向を強めたのである。また、急速に加速した「クルマ社会化」も大きな影響を与えたと思われる。クルマも魅力的な閉鎖空間であり、一端ドアを閉めて身を置くと、外の社会は「何時ぶつかってくるかもしれない敵」であり、緊張して構える相手と化す。観察していると気付くが、クルマ社会に埋没している若者ほど他者との意思疎通が苦手であることが多い。
 生身の人間との濃い関係を失った人間は相談する人も友もなく漂う。メル友もおしゃべり相手にはなっても、ともに問題解決に立ち向かってくれる存在ではない。本来、教育とは体臭が匂うような至近距離において、若者を突き動かすような存在感を放つ「大人」がなすものであった。教壇に立つ教師だけではなく、親兄弟や親戚、学校や職場の先輩が熱い存在として、若者の未熟性を自覚させ、真剣に考える契機を与えたものである。「半面教師」さえも含め、明らかにそういう存在が無くなっているのである。

歴史軸と空間軸の中で

 つまり、我々はいかに物事の本質を深く考えることの難しい環境に生きているかということなのだが、それでも何とか「脳力」を取り戻す方法はないのであろうか。熟慮するに、人間が「脳力」を鍛える方法は、実は幾つかしかないように思われる。
 一つは「歴史軸」の中での自分の位置付けを確認する努力である。つまり、歴史の中で自分がいかなる時代を生きているのかを思考することであり、これには文献を読んだり、年長者と粘り強く面談する努力が求められる。過去の先人達が格闘したテーマや事実を確認するうちに人間は謙虚になる。何故ならば、自分が歴史の流れに身を置く「小さいが意味のある存在」であることに気付くからである。
 もう一つは「空間軸」の中での思索、すなわち広い世界の中で自分の生きている国や地域が如何なる特色を持つものなのかを確認する営為である。世界で繰り広げられる様々な不幸や不条理を知るにつれて、人間は自分がいかに恵まれており、機会に満ちているのかを知り、思考の重心が下がる。
 「歴史軸」「空間軸」などといっているのは、その中での思索を志向するにつれて、自らを相対化させ、客観的に物事を捉える傾向を強めるからである。「脳力」とは、無限の宇宙の中に相対座標を描くような営みであり、自らの自画像を客観視することはそうした知的営為への一歩なのである。そして、常に「現場」に立ち、現実世界に肉薄する中で、問題の抽出と解決に立ち向かうことである。

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