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安倍晋三は昭和の妖怪・A級戦犯容疑者・韓国賠償利権岸信介の孫
http://www.asyura2.com/0601/senkyo20/msg/390.html
投稿者 木村愛二 日時 2006 年 3 月 14 日 20:09:24: CjMHiEP28ibKM
 

争タ倍晋三は昭和の妖怪・A級戦犯容疑者・韓国賠償利権の岸信介の孫
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http://sv3.inacs.jp/bn/?2004100023549841019185.4916

姜氏がビデオの中で、(岸信介氏が絡んでいる)金大中拉致事件の全容解明を日韓友好のために墓までもっていくよと、日本に要求しないと述べていました。岸氏の孫ということ以外取柄のない「現在」の日本の戦争犯罪人安倍晋三氏は、韓国に賠償(日本が悪かったから経済協力として一応賠償したんでしょ)していると知っていながら、日本の植民地支配は正しかった派です。姜氏の知り合いの安倍氏が金大中氏の後継の(我慢強い)ノムヒョン氏に軽蔑されていることを、レクチャーしているかもしれません。

★参照 岸 信介
東京帝国大学法学部を首席で卒業、満州(現在の中国東北地方)に渡り、満州経営で辣腕を振るう。 「昭和の妖怪」「満州の三スケ」(満州の実力者、鮎川義介、岸信介、松岡洋右の総称)、「満州三角同盟」(満州の実力者、東條英機、岸信介、星野直樹の総称)と渾名される。 東條英機内閣でも、商務大臣などで2度入閣。戦後、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監。のち釈放されて自由民主党に入党。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B
岸信介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

岸 信介(きし のぶすけ、1896年(明治29年)11月13日 - 1987年(昭和62年)8月7日)は、山口県田布施町出身の日本の政治家。第56、57代内閣総理大臣。正二位大勲位菊花大綬章。
[中略]
出生から終戦まで

山口県吉敷郡山口町(現・山口市)に父・佐藤秀助 母・茂世の五番目の子(二男)として生まれる。中学3年の時、婿養子だった父の実家である岸家へ養子に出される。 旧制山口中学(現山口県立山口高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1920年(大正9)に東京帝国大学法学部独法科を首席で卒業(我妻栄、三輪寿壮らと同期)。農商務省(のち商工省に改組)を経て、1936年(昭和10)に満州国産業部次長に着任。満州開発五ヶ年計画の立案など、満州国の経済政策に辣腕を振るった。この満州時代に、関東軍参謀長の東条英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介ら、軍部や財界要人の知己を得る。

1941年(昭和16)10月に発足した東條内閣に商工大臣として入閣。この間、1942年(昭和17)のいわゆる"翼賛選挙"で当選し政治家としての一歩を踏み出す。1943年、日本軍劣勢への対応策として商工省が廃され軍需省へと改編。軍需大臣は東条首相の兼務となり、岸は軍需次官(無任所・国務相兼務)に就任。半ば降格とも思われる処遇は、東條との関係に溝を生じさせる。一方、1944年(昭和19)7月22日にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となる。宮中の重臣間では木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声があがり、木戸内相と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、東條内閣の倒閣と、戦争終結内閣実現の工作が密かに進められた。

同年7月13日、難局打開のため、内閣改造の意向を示した東條は、木戸内相から、東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求められる。東條は要求を受け入れ内閣改造に着手。しかし、既に岡田啓介と気脈を通じていた現職閣僚の岸が辞任を拒否、内閣総辞職を主張する。東條の側近四方諒二東京憲兵隊長が岸の自宅に押しかけ恫喝するも、岸は折れない。さらに申しあわせていた重臣らが入閣を拒否。やむなく東條は7月18日内閣総辞職を決意した。
[中略]
戦犯容疑者から復権まで

戦後、A級戦犯容疑者として逮捕、巣鴨プリズンに収監される。しかし、東西冷戦の激化に伴いアメリカが対日政策を大きく転換。戦後日本を「共産主義に対する防波堤」と位置付け、旧体制側の人物を復権させたため、岸は戦犯不起訴となり、東條英機らA級戦犯7名処刑の翌日に釈放となる。

1953(昭和28)に自由党公認候補として衆議院議員初当選。1954年(昭和29)自由党を除名されると、新たに日本民主党を結成し幹事長に就任。かねて二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎、三木武吉らとともに、自由党と民主党の保守合同を主導、1955(昭和30)に新たに結成された自由民主党の初代幹事長に就任する。同年には左右両派に分裂していた社会党が再び合同し、これによっていわゆる55年体制がスタートする。
[中略]
1956(昭和31)12月、外務大臣として石橋内閣に入閣するが、2ヶ月後に石橋が病に倒れ首相臨時代理を務める。石橋により後継首班に指名され、同内閣総辞職後、全閣僚留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任。1958年(昭和33)4月25日衆議院を解散。同年5月22日の第28回総選挙で勝利し(自民党は絶対安定多数となる287議席を獲得)、同年6月12日に第57代内閣総理大臣に就任、第2次岸内閣発足となる。

岸の総理大臣在任中の特筆すべき最大の事項は、新日米安全保障条約の調印・批准と、それをめぐる安保騒動である。1960年(昭和35)1月に全権団を率いて訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意する。

しかし、帰国後の新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾。5月19日には新条約案を強行採決するが、国会外での安保闘争も次第に激化の一途をたどる。国会は連日デモ隊に包囲され、6月10日には羽田でアメリカ大統領秘書官ハガチーが群衆に包囲され、6月15日にはデモに参加していた東京大学学生樺美智子の圧死事件が発生する。反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。岸は「国会周辺は騒がしいが銀座や後楽園球場はいつも通りである」と事態沈静化を図るが、東久邇・片山・石橋ら3人の首相経験者が退陣勧告をするに及び事態はさらに深刻化する。

1960年(昭和35)6月15日と18日には、岸から自衛隊の治安出動を打診されていた防衛庁長官赤城宗徳がこれを拒否。一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と自殺を考えるところまで追い詰められたが、条約の自動承認と、アイゼンハワー米大統領の訪日延期が決定。「私のやったことは歴史が判断してくれる」の一言を残し、新安保条約の批准書交換の日の1960年(昭和35)6月23日、混乱の責任をとるかたちで内閣総辞職。辞任直前には暴漢に襲われ瀕死の重傷を負う。総理大臣在任期間は、歴代首相中8位となる3年を超える(2004年4月1日現在)。
[中略]
総理辞任後も政財界に幅広い人脈を持ち、愛弟子の福田赳夫と田中角栄による自民党内の主導権争い、いわゆる「角福戦争」が勃発した際も、福田の後見人として存在感を示した。1979年(昭和54)、衆議院解散を機に政界引退。晩年は御殿場市の別邸で悠々自適の生活を送る一方、保守論壇の大立者として、憲法改正などについて積極的な発言を続けた。1979年(昭和54)、笹川良一と共に第1回国連平和賞(人口問題研究への功績)を受賞。
[中略]
元首相の佐藤栄作は実弟。兄の佐藤市郎は海軍中将。長男の岸信和の妻仲子は元山口県議会議長で山口県政界の大物田辺護の次女。田辺は鮎川義介と従兄の関係にある。娘婿の安倍晋太郎は岸と同じく自民党幹事長を務め、その息子で岸の外孫に当たる安倍晋三も2003年(平成15)に自民党幹事長に就任、2005年(平成17)の第三次小泉内閣では、官房長官の任にある。ちなみに安倍晋三の弟岸信夫(参議院議員)は、岸信和の養子となって岸家を継いでいる。
[中略]
* 戦後政治史上において、吉田茂とは鋭く対立した岸だが、安保改定に当たっては、同条約締結時首相の任にあった吉田を敬し、大磯に隠棲していた吉田の元に度々足を運び、吉田もその都度丁重な礼状をしたため、家人をもって岸邸に届けさせたと言う(原2005)。

* その長い官僚・政治家人生の中で、満州の官僚時代に「満州の二キ三スケ」(1)と称せられ、首相辞任後なおも政財界に隠然たる影響力を維持して「昭和の妖怪」(2)と呼ばれるなど、数々の異名をとった事で知られる。

※(1)満州経営に大きな影響力を有した星野直樹(満洲国総務長官)、東條英機、鮎川義介、岸信介、松岡洋右を称したもの。
※(2)もともとこれは西園寺公望をあだ名したものだった。
[後略]
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季刊『真相の深層』04夏2号

自民党幹事長・安倍晋三の背後に潜む
異様な光景の北海道巨大霊園
山岡 俊介(ジャーナリスト)

 「政治家」「自由民主党(自民党)」「衆議院議員。山口県第4区。当選3回。党幹事長」「2世議員、父は故安倍晋太郎。また、母方の祖父は故岸信介。小泉政権以前は無名で政治的実績らしいものはなかった。北朝鮮の拉致事件で強硬姿勢を貫いたことで人気と知名度が上がったようである」「ふりがな:あべしんぞう」。「昭和の妖怪」の異名もあった官僚出身の利権政治屋、岸信介の閨閥である。

 北海道は札幌市中心部から南方に車で約30分走ると、異様な光景に出くわす。広大な敷地に、あのイースター島のモアイ像や、英国の巨大なストーン・サークルとソックリの巨石群が目に入るからだ。
 そこは「真駒内滝野霊園」の一画。同霊園の総面積は約30万坪、3万基以上の墓石が建っており、北海道一の規模を誇る。年間収入は、毎年新たに販売される墓石の永代供養料などで約30億円にもなる。総資産は200億円を下らない。
 同霊園を経営しているのは「中央公益札幌」なる社団法人。北海道庁の管轄だ。だが、実際には「たかをグループ」なる企業の元総帥・高橋幸雄なる人物が牛耳っているとされる。この社団法人の理事長は高橋の息子、他の理事は「たかをグループ」会社元社長など高橋人脈で占められているのだ。
 この霊園の存在が全国に知られるようになったのは1995年、後に破たんする東京協和信用組合と安全信用組合という2信組の経営危機が勃発した時だった。資金繰りが厳しい2信組は、高金利と縁故でもって預金をかき集めたが、計約18億円もの預金をしていたのが「北海道社会開発公社」(1999年6月に現在名に変更)だった。
 はるか離れた東京の“危ない”2信組への、公的性格の強い社団法人の不可解な巨額預金ということで、道庁議会でも問題とされ道庁は指導を行った。だが、真相は究明されなかった。
 2信組問題といえば、ほどなく、その運用を巡る背任容疑で、「イー・アイ・イー」グループ元総帥・高橋治則が逮捕されるが、地元事情通は証言する。
 「高橋治則は高橋幸雄を非常に慕っていた(同じ高橋姓だが親族ではない)。たかをグループ会社の役員に、治則が就いていたこともある。治則は“北海道の政商”と言われた故・ 岩澤靖の娘婿。その 岩澤が経営していた北海タイムス社の経営を高橋幸雄が引き継いだ。そういう縁から2人は知り合ったんだろう」
 高橋幸雄に関する疑惑は他にもある。北海タイムス社は高橋から山崎種三(背任罪で逮捕)に経営権が譲与された後に倒産したが、その山崎が、同じく高橋から経営権を譲り受けたのが南証券(破たん)だった。山崎からさらに南証券を引き継いだ平田浩一(業務上横領で逮捕)が持ち出した約30億円の顧客預かり資産の大半が闇社会に食われたとして、いま大型経済事件に発展しているのはご存じの通り。「高橋が介入した会社は資産を食われ、皆、最後には倒産、事件化している」(前出・事情通)のだ。
 そして現在、「中央公営札幌」自体にも疑惑が持ち上がっている。解説するのは、高橋の側近中の側近だった人物だ。
 「高橋は道内で3つのゴルフ場を経営していた『たかを観光』、商業ビル経営の『高雄ビル』という2つのグループ中核企業を倒産させ、その負債総額は1000億円にもなる。だが、以前から個人資産はすべて他人名義にしており、差押えを免れている。そして、最後に残った“有力企業”の霊園でも違法なことをやっている。実は以前から、密かに自分の息のかかった『耽群石材』という会社を中国に設立し、向こうの安い石材を高値で霊園に買い取らせて儲けているんだ。霊園の造園工事を引き受けているのは『恵央建設』、『オータカ建設』、『石英公社』といった会社だが、いずれも高橋の息がかかっている。そして、霊園の儲けのかなりが、彼の元に落ちる仕組みになっている。こうした巨額脱税などの疑惑には国税、東京地検、さらに中国政府も注目している」
 これだけでも驚きだが、この事情通はさらに爆弾発言をする。高橋は前述の破たんした「たかを観光」や「高雄ビル」の所有不動産の差押えや売却処分を逃れるため、民事再生法申請(「たかを観光」の方は和議)前後にめぼしい資産を次々とダミー会社に転売。その買取資金のかなりは、「札幌中央公益」の資金が流用されているというのだ。これが事実であれば、背任罪などの可能性も出てくるのではないか。
 「具体的不動産としては千葉県小見川町と関宿町のゴルフ場建設予定地、東京都港区内の高雄ビル本社が挙げられます。それぞれ北陸銀行が150億円、180億円、48億円の巨額融資をしていたが、いずれも高橋と極めて親しい橘田幸俊なる人物の関係会社に各々わずか数億円で転売されている。しかし、これら会社は購入動機が不明だったり、買収資金を持っているとは思えない」(元側近)
 この経由会社の役員を直撃した。すると、ある役員はその事実を認めた。
 「まず霊園の工事資金名目で『恵央建設』に流し、そこから『ツーショー』、『六本木サテライト』というトンネル会社を経由させ、最終的に橘田の関係会社に裏から渡した。間違いない」
 さて、こうして検討してくると、高橋が極めてダーティーな人物であることはもはや疑いようがないだろう。ところが、何とこの高橋といまをときめく自民党幹事長・安倍晋三の2人を結ぶ接点があったのだ。その舞台はズバリ、問題の霊園だ。
 霊園の正面入り口を入ると、「還れ北方領土」のスローガンと、北方領土の地図が記された石碑が目に入る。その後方には3体の巨大な観音像がそびえている。そして、石碑の説明文の最後には寄贈者として故・安倍晋太郎元外相の妻との説明つきで安倍洋子夫人の名前が、また、中央のもっとも大きな観音像 の台座正面には「洋子観音像」と彫られているが、むろん、この「洋子」が安倍洋子を指すことはいうまでもない。
 これだけ見れば、外相として北方領土返還交渉も行っていた安倍晋三の父・晋太郎は、高橋の素性も同霊園の経営実態もよく知らないまま、関係者の紹介で、たまたま寄贈者として名を貸しただけとの言い逃れが可能かも知れない。洋子も事情は同様。
 だが、「札幌中央公益」の謄本の役員欄を閲覧すると、安倍洋子は1997年12月就任以来、現在も理事に就いている。しかも、道庁に確認したところ、就任している理事・監事には毎年総額4000万円の役員報酬が支払われているというように、実は両者の関係は、はるかに密だったのである。
 前出の元側近中の側近は、こう証言する。
 「観音像が建てられた(横の2体は今年に入って)のは1996年だったと思います。北方領土の碑の方は晋太郎さん存命(死去は91年7月)のころのものですから80年代後半だと思います。でも、もちろん寄贈というのは名目上だけ。実際はどちらも高橋の関連会社で作っており、しかも霊園側にリースしている。つまり、永遠に高橋側にリース料が入る仕掛けなんだ。そうそう、観音像の建立記念式典には洋子さんは出席していたし、その後の高橋の8月の誕生パーティーの席に、洋子さんが出ているのを目撃したこともある。いつもパーティーは霊園内のクラブハウスで行っているんだ」
 安倍家と高橋の関係はこれだけに止まらない。何と、高橋の中国人秘書(当時)の帰化問題で、安倍晋三の政治力を頼ったと思われる疑惑まで浮上しているのだ。その元秘書当人が、こう証言する。
 「私は97年12月に帰化しましたが、その手続きを安倍さんの秘書の紹介で、ある弁護士に頼みました。後で高橋が言っていました。“ヤメ検のとてもエライ人なんだ。300万円払っておいた”って。挨拶に伺う前、事務所に胡蝶蘭を送りました。また、訪ねる際、近くで“バリ”というブランドのネクタイを購入し、直にお渡ししました」
 証言は実に詳細だ。その弁護士とは、何と前田宏元検事総長だった。
 しかも、前出の元側近はこう断言する。
 「300万円も払ったのは、通常の手続きではまず帰化の認可が下りないからだ。彼女は以前、オーバー・ステイしていた」
 さらに決定的と思われる疑惑も飛び出している。裏献金に関してだ。まず、前出の高橋の元秘書が証言する。
 「高橋は私や複数の愛人名義で預金するといったかたちで、中国の銀行その他に巨額の裏金を隠しています。その一部は、港区虎ノ門の高雄本社ビル内の隠し金庫に保管し、必要に応じて裏献金していました。渡す場所は新宿は三越裏の鰻屋『Y』、銀座の料亭『K』などです。ただし、渡す相手は安倍さん本人ではなくM秘書。高橋自身も自分では持っていかず、運転手役のKさんに紙袋に入れて届けさせていました。帰化の際の弁護士を紹介してくれたのも松永秘書です」
 前出の元側近はその証言通りと認めた上で、さらにこう補足する。
 「高橋は猜疑心の強い男ですから、運転手に届けさせた後、必ず松永秘書に直に電話して確かめていましたよ。“あのお菓子、口に合いました”とかいってね。金額は数百万円から1000万円程度でしょう。そうそう、途中で頓挫しましたが、千葉県関宿町でゴルフ場開発をやった際、松永秘書を通じて農政局長に圧力をかけ、認可を早く取ろうとしたこともあった。これは晋太郎存命中の84年ごろのことだ」
 裏献金が事実なら、安倍の首が飛ぶこと必至の大スキャンダルだ。そして、この元側近は「万一、訴訟になれば必ず証言に立ちます」と断言するのだ。
 それにしても、いかなる経緯からこうした蜜月関係が生まれたのだろうか。前出の高橋治則が安倍晋太郎と親交があったことから、その紹介との指摘もある。だが、さる事情通はこう証言する。
 「どういう縁かは知らないが、高橋は80年代始め、ゴルフ場会社『大洋』の杉尾栄俊と知り合った。杉尾は故・小佐野賢治に繋がる人脈の人間で政界のパイプが太かった。だから高橋は一時は安倍だけでなく、中曽根康弘や森喜朗にも裏献金していた。
 高橋はバブル時代、東邦生命の太田清蔵(故人)に資金を仰いでハワイのホテルを複数買収したが、その前の持ち主が小佐野だったのはそういう縁からきている」
 そこで杉尾社長に取材申込みをしたが梨のつぶて。だが、杉尾がかつて政治力を誇っていたのは事実。例えば、89年度の政治資金報告書によれば杉尾は小渕恵三(240万円)、渡辺秀央(同)、浜田卓二郎(60万円)、綿貫民輔(36万円)、森喜朗(24万円)に献金していたことがわかる。
「数ある代議士とのつきあいのなかでも、高橋が安倍さんと特に親しくなったのは、松永秘書との関係からだろう。高橋は北海道陸別町、松永秘書は池田町出身と近いから」
 この松永秘書、晋太郎時代には確かに秘書をしていたが、晋三の秘書ではない。それでも「秘書」と呼ぶのは、現在は洋子の秘書をしているから。晋太郎時代の千代田区麹町の事務所を拠点に、毎日、洋子の渋谷区内の自宅にお出迎え、そして常に同行している。その洋子は故・岸信介の娘。最近は晋三の妻・昭恵の立場を思って余り表に出ないが、晋三に対しもっとも影響力を持っていることは間違いない。
 それにしても、なぜ、洋子は「中央公益札幌」の理事に就任までしたのだろう。
 「高橋はこの霊園の創業者ではない。羽振りの良かった81年に30億円の持参金を持って理事入りし、ほどなく牛耳るようになった。ところが、いまでは『たかをグループ』はバブル崩壊の波をもろに受けて崩壊寸前。最後の拠り所がこの霊園なんだ。で、洋子さんが理事に就いた97年12月という時期に注目して欲しい」(地元事情通)
 グループ最大の中核会社「たかを観光」が和議申請したのは1998年3月。洋子が理事に就いたのはその直前である。そして、前述したように、霊園の資産をトンネル会社経由で橘田なる人物の関係会社に流して買い取らせることで、資産処分逃れを本格化させるのもこれ以降のことなのだ。
 実はこの時期、理事に新たに就任していたのは洋子だけではなかった。まったく同日付で谷部龍二、岡田茂も就任していた。
 谷部は元熊本国税局長で、いわずと知れた“ノンキャリ国税OBのドン”。国税庁はむろん、大手広告代理店を通じてマスコミにも大きな影響力を持っており、まさに今回のような疑惑潰しには持って来いの人物。一方の岡田は東映代表取締役会長。実はこの岡田と懇意なのが、資産処分逃れの片棒を担いでいるとされる橘田なのだ。
 昔、東映の大株主に「愛時資」なる会社が名を連ね、仕手筋ではないかと話題になったが、その代表を務めていたのが橘田。来る者拒まずの岡田は、そうした縁から橘田と知り合い、現在は完全に取り込まれてしまっているようだ。そして橘田本人が、資産処分逃れの論功行賞というしかないだろう、2000年6月に至り、あろうことか安倍洋子等と仲良く霊園の理事に就いているのだ。
 だが、これだけで驚いていてはいけない。闇人脈を追う社会部記者はこう絶句する。
 「橘田という男は92年末、山梨県内のゴルフ場隣接地買収を巡り、国土法違反で広域暴力団の山口組系後藤組幹部等と共に逮捕されている人物ですよ。愛時資は稲川会系企業とも取引があった。そんな人物と、時の幹事長の実母が同じ会社の役員に就いているだけでも問題でしょう」


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