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私はなぜ共産党をやめたか  藤岡信勝のプロパティ『回心』はマイナーチェンジかメジャーチェンジか?
http://www.asyura2.com/0601/senkyo21/msg/126.html
投稿者 木田貴常 日時 2006 年 4 月 21 日 10:08:35: RlhpPT16qKgB2
 

(私のコメント)

《ーーーー湾岸戦争時の回心について》

なぜ共産党をやめたか、

それって、
なぜ共産党に入ったか、
なぜ共産党に居たか、

これが分からなければ、結局、「回心」の本当の意味、いや、本当の「回心」だったかは分からないよ。

朝4時まで息子、娘と語り合ったそうだが、
ということは、それまで、「共産党員のお父さん」ということを、子供達にも認知させてきたわけだよね。

まさか、
「共産党員のお父さん」の内なるプロパティをそのままにして、「共産党と闘うお父さん」という外向きのプロパティだけをチェンジした、というわけじゃ、なかろうね?

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(つくる会内紛についての前スレ、前々スレ)

怪メール事件(四)――八木秀次氏の犯罪の可能性を立証【西尾幹二のインターネット日録】
http://www.asyura2.com/0601/senkyo20/msg/1357.html
投稿者 木田貴常 日時 2006 年 4 月 19 日 16:01:04


怪メール事件(三)【西尾幹二のインターネット日録】
http://www.asyura2.com/0601/senkyo20/msg/1190.html
投稿者 木田貴常 日時 2006 年 4 月 14 日 10:11:09


あとは、芋づるをたぐってください。

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(古参)

西尾幹二のインターネット日録
http://nishiokanji.com/blog/
ーーオーナーも元気ですが、最近のコメント欄は見逃せませんーー
たとえば
http://nishiokanji.com/blog/2006/04/post_314.html#comments

つくる会東京支部掲示版
http://www.e-towncom.jp/iasga/sv/eBBS_Main?uid=5428&aid=2&s=1280
ーーたいへん議論が活発でしたが、藤岡さんが私信を横流ししたことが分かってから、住人は意気消沈のご様子ですーー

「新しい歴史教科書をつくる会」賛同者が続々脱落@議論板8
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news2/1143892632/
ーー左翼もサヨクも左翼趣味人も口をあんぐり、ことばを失っていますーーー

【資料】「つくる会」の内部抗争の歴史と今回の内紛
http://www.ne.jp/asahi/kyokasho/net21/siryou20060314.htm
ーー西尾権現も一目置いている石田三成いや俵義文さんの論考です(1ヶ月以上まえの)−−

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(新参)

藤岡信勝ネット発信局
http://blog.so-net.ne.jp/fujioka-nobukatsu

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(転載)

私はなぜ共産党をやめたか 

●002-06.4.19 私はなぜ共産党をやめたか
http://blog.so-net.ne.jp/fujioka-nobukatsu/2006-04-20

*私のブログの開設について、多くの方々からあたたかい励ましの言葉を頂戴しました。深く感謝いたします。

 4月11日朝、上野のホテルで岡野俊昭先生の講演をお聞きした。岡野先生はこの3月に千葉県銚子市立第五中学校長を定年退職された方で、日本体育大学を卒業、日本体操協会強化コーチとして選手の指導に当たり、国際的舞台で活躍された指導者である。8日に杉並の倫理法人会朝食会で教科書の話をした際に、参加者の中に私が岡野先生にお目にかかることを強く勧める方がいて、同会の上野の会合に参加させていただいたという次第だ。

 岡野先生のお話は、すべてのトピックが具体的な経験に裏付けられ、説得力があった。中でも強く印象に残るエピソードがあった。先生は平成11年4月からスペインのバルセロナにある日本人学校の校長として着任した。平成13年からは北米・欧州地区日本人学校長研究協議会会長に就任。この年のの9月11日にアメリカのワールド・トレード・センターに旅客機が突っ込むなどの同時多発テロ事件が起こった。

 岡野先生は、事件の直後に、上記の日本人学校長が集まった会合で、次のような話をされた。「私がアメリカの国防長官なら、旅客機に私の妻や娘が乗っていたとしても、直ちに撃墜する命令を下したであろう」。会場にはどよめきが起こった。岡野先生は残忍な人だというのである。帰宅して奥様に話したら、「他人に殺されるより、夫に殺される方がましだ」とおっしゃったそうだ。また、「人質として誘拐され、多くの人命がかかっているとしたらどうするか」というご主人の問いに、奥様は「舌をかみ切って死にます」と当然の事のように答えたという。

 このくらいの覚悟がなければ、危険な外地で多数の日本人をまとめていくことはできないと岡野先生は指導者の心構えをおっしゃるのである。この方こそ本物の教育者であることを私は確信した。だからこそ、3月末に先生が学校を去るとき、春休みだというのに大勢の生徒が自主的に登校し先生を見送ったのだ。岡野先生は、教え子や多くの方々に推されて、7月に行われる市長選挙に立つ予定である。何としても当選していただきたい。

 私はこの話に深く感動し、涙を抑えることが出来なかった。こうした生死にかかわる話題を、人は軽々しく口に出来るものではない。人前で話すことができるということは、本当に覚悟ができている場合に限られるということを私はよく知っている。というのは、私もまた同類の体験をし、それが私の思想的転機と深く関わっていたからだ。私は岡野先生の話を他人事として聞くことはできなかったのだ。

 時は平成3年(1991年)の湾岸戦争の時期にさかのぼる。あのとき、日本も血を流す覚悟で自衛隊を派遣すべきかどうかが社会的論争になった。私が当時読んだ様々な分析・評論の中で、自分の心の中を見透かされたような衝撃を受けたものがある。野田宣雄「湾岸から日本に放たれたミサイル」という短い文章である。『文藝春秋』の1991年3月号に載った。野田氏は、戦争がもつ不思議な倫理的作用についてのマックス・ウエーバーの発言を紹介したあと、この作用は過去のものになっていないばかりか、湾岸戦争で再現されたとして、次のように書いていた。

 「湾岸戦争でアメリカをはじめとする多国籍軍の兵士たちが生命を犠牲にするようになって以来、日本人の多くが深刻な精神的負い目を心のうちに抱え込んでしまった。いうまでもなく、多国籍軍の兵士たちが日本人も共有する価値と利益のために命を捧げているのに、日本人だけは平和憲法を盾に安全圏に身をおいたままだからである。/つまり、そこでは、平和憲法を掲げて戦争で手を汚そうとしない者たちが、侵略阻止という大義のために現に戦場で生命を危険にさらしている者から、鋭く倫理性を問われているのである。/もちろん、今回の事態のもとでも、なんら心の負い目を感じてはいないと言い張る日本人もいるだろう。しかし、そんな人々は倫理感覚のまったく麻痺した鈍感な人々であるか、さもなければ、自分の本当の感情を偽っているにすぎないだろう」。

 この文章は私の肺腑を射抜いた。まさに湾岸から私めがけてミサイルが飛んできたのである。なぜか。私は「自分の息子を戦場に送ることができるか」という問題で煩悶していたからである。私にとって自衛隊を派遣することに賛成するかどうかは、他人事ではなく、まさに愛する息子を死の危険にさらす覚悟が出来るかどうかを自らの心のうちに反問することだったのである。

 湾岸戦争の体験を通じて、憲法九条の評価が逆転したのは、上記の問いに直面した私にとっての論理的・必然的な帰結だった。今まで私の中で理想として美化されていたものが、まことに醜いものであり、戦後日本人の道徳的堕落の根源であると思うようになった。平成3年は、私の思想的回心の年となった。それは遅すぎるという批評をする人もいる。しかし、思想的転換に締め切り日があるのだろうか。今日も、明日も、何らかのきっかけで、学校ですり込まれた憲法九条の欺瞞に気づく人が生まれているはずだ。それでよいのだ。それぞれの人の内部で必然性があれば、何一つ恥じることはない。

 湾岸戦争の最中に、私は「自衛隊は参戦すべきだ」と家族の前で漏らしたことがあった。娘と息子は当時高校生であったが、「お父さんは軍国主義者になった」と言っているという話を家内から聞いた。私は、しっかりと時間をとって子供たちに話をしなければならないと決意した。19世紀の社会主義の歴史から説き起こして、明け方の4時くらいまで語り明かした。子供たちは納得してくれた。娘は「わかった」と言い、「お父さん、若いね」と言った。

 この年、8月からアメリカに在外研究員として1年間滞在することになり、それを機会に共産党を離党した。詳しくはこの後に掲載する文章を読んでいただきたい。私は共産主義の悪ははるか前から分かっていた。しかし、憲法九条の呪縛にとらわれていたが故に、何も活動しない惰性党員ではあったが、離党する決断にまでは至らなかった。というのも、現在の共産党は、共産主義の教義ではなく、一国平和主義を信じている人々を政治的基盤としている。今、日本共産党に残っている人の99パーセントは、共産主義を信じているのではなく、突き詰めて言えば憲法九条の呪縛から抜け出せないでいるのだ。

 こういう事情が分からないと共産党と有効にたたかうことは出来ないだろう。憲法九条は「自虐史観」と表裏一体である。だから、「自虐史観」の歴史教育を破壊することは、とりもなおさず共産党の存在根拠を奪うことになるのだ。以上のことが理論的に分かっていれば、私が平成13年まで共産党に在籍したなどということがありえないことはおのずから理解できるはずである。

 *以下の文章は、西尾氏のブログに投稿したものである。自前のブログができたので、改めて掲載する。

■私の党籍問題について

 西尾幹二氏の4月8日付けブログ「怪メール事件(一)」で、私の日本共産党の党籍問題が取り上げられている。私自身とつくる会の名誉のために、ここに正確な事実を明らかにしたい。

 湾岸戦争(1990−1991年)で目覚めるまで左翼だったという前歴を私は今まで一度も隠したことはない。党歴について語らなかったのは、あえてその必要もなかったからである。1990年8月の湾岸危機の勃発は、憲法9条を理想化していた私の思考枠を根底から破壊するものだった。この時期、産経新聞を読むようになり、1991年の前半に急激に思想的転換を遂げた。

 平成3年(1991年)8月から翌年の8月までの丸一年間、私は文部省の在外研究員としてアメリカ合衆国に派遣された。家族ぐるみで渡米する前に、私は所属していた日本共産党を離党した。それは私の意思と合致していたと同時に、共産党の規則に従ったものでもあった。それには次のような事情があった。

 1970年代のことと記憶するが、韓国で太刀川という人が国際的なトラブルを起こすちょっとした事件があった。この人がたまたま日本共産党の党籍があったために、日本共産党はかなり不利な立場に立たされた。そこで、これ以後、長期にわたって海外で活動したり生活したりする党員は離党させる規則がつくられた。

 1年間の在米体験は、みずから獲得した新たな立脚点の正しさを確信させるものとなった。日本に帰国してから、私は自分が属していた支部の責任者に、「考えが変わったので党をやめる」という意思表示を行った。その人は特に引き留めもせず、私の意思を了解した。それ以後、ただの一度も党の関係者と接触したことはなく、また党の側からも私を呼び出したりしたことは一切ない。ついでにいうと、私の妻も地域支部所属の党員だったが、上記と全く同じ時期に、同じ手続きで離党した。

 私が歴史教育の改革に取り組む前に明確に離党の意思表示をしたのは、その後の言論活動が日本共産党の方針と鋭く対立するのは明らかであったから、「反党分子」などのレッテルを貼られ除名されるのを予め避けるためであった。実際、従軍慰安婦問題などについてのその後の私の言論活動に対する共産党の攻撃は熾烈を極めたが、私は党を除名されていない。私が先に離党していたからである。

 西尾ブログには、上記の私の離党の経過について間違っている箇所があるので指摘しておきたい。西尾ブログは、私の発言として《帰国後も離党のままにする旨口頭で東大の主任教授に伝えた》と紹介し、《東大教育学部が共産党と人事面で一体となっていた恐るべき実体を今にして知ることが出来た》と書いている。私は「私が属していた組織の責任者に」離党の意思を伝えたとお答えしたのだが、「私が属していた組織」という言葉を西尾氏は、大学の学部の学科やコースなどの「組織」と混同したらしく、「責任者」が「主任教授」に西尾氏の頭の中で変換されてしまったようだ。東大教育学部が共産党と人事面で一体となっているなどとは全くの事実無根である。

 また、西尾ブログには、次のような記述もある。《入党や離党が「口頭」でできるものなのか、入離党の規律は90年代には査問もなく、そんなにあっけらかんとしたものになってしまったのか、いまだに私にはよく分らないし、謎である》。私の学生時代には党員証というものがあった。ところが、党員証の紛失事故が頻発し、ある時期から党員証などの証明書を発行することはしなくなった。少なくとも私が所属してきた組織に関する限り、共産党は文書主義をほぼ完全に払拭していた。だから、私は文書で離党届を提出したのではない。口頭で伝えたあとは、責任者が上部機関に対して報告し、そこで何らかの処理が行われたものと思われる。しかし、それ以後のことは私は関知しない。

 「査問」についていえば、党員の身分のままで「反党行為」と称される行為をしたと推定される人物についてはなされるかもしれないが、自分の意思で離党する者には「査問」などあり得ない。昔は離党者に対して執拗な説得が行われた時期があるようだが、そんなことをすると「共産党はいったん入ると離党の自由がない」という噂が立って、新規に入党する人がいなくなるということで、離党者への執拗な説得はしてはならないことになっていた。西尾氏の記述は、戦前や戦争直後の共産党に対するイメージや知識で現在の共産党を見ているもので、実体とはかけ離れている。

さて、そこで、今回の発端となった差出人不明のファックス文書であるが、3月8日に西尾氏宅に届いたという文面を読むと、これがガセネタであることは簡単に見破ることのできるシロモノである。例えば、《H10 東大大学院教育学研究科教授》とあるから、この年、教授に昇進したという意味なのだろうが、これは全くのデタラメである。私が教授に昇進したのは、平成3年6月で、私の人事記録で簡単に証明できる。私の教授昇進が平成10年だとすると、平成8年に刊行した『教科書が教えない歴史』に著者である私の身分を「東大教授」としているのは経歴詐称ということになる。

 この一行だけで、「警察・公安情報」と称するこの文書がいかにひどいガセネタであるかがわかる。その他の行もほとんどすべて間違いだらけである。この文書の最大の眼目は、《H13 日共離党》の一項であろう。そうすると、この年まで私は日本共産党の党員で、いわば私は共産党のスパイであるかのようなイメージになるが、スパイは既存の組織を弱体化したり破壊したりするために活動するものである。ところが私は、自由主義史観研究会や「新しい歴史教科書をつくる会」などをゼロから立ち上げてきたのである。

 こんなガセネタを流してまで私を貶めることに利益を感じている人物がいることになる。しかし、このような卑劣な方法は断じて許されるものではない。私自身とつくる会の名誉のために、この問題を徹底的に明らかにする。(4月10日午後)

2006-04-20 00:27  nice!(0) コメント(3) トラックバック(1)

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