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私が参考にしたいと思ったドイツ近代史
http://www.asyura2.com/0601/senkyo21/msg/326.html
投稿者 たかす 日時 2006 年 4 月 27 日 15:35:58: ifeEPcYg7BdHI
 

日本政治を見る上で何か参考になればと思い、投稿しました。

【横濱茶店】本棚(ローズ・論文4)
http://page.freett.com/tyamise/field/rose/ron-4.htmlより転載
(貼付開始)
 ナチスの躍進 〜 ワイマール共和国の苦悩
この世界経済恐慌により、1930年初め社会主義者が政権を担当していたドイツは、大きな問題に直面することと成った。
というのは、社会主義政党と労働組合とは密接な関係にあり、党はその大衆的基盤を労働組合に求めていたのであるが、一方では議会における批判、他方では経済顧問からの圧力と、この双方の下で政権を担当している社会主義者たちは、失業者に支払われるべき総額を抑制しなければならず、これは必然的に労働組合員多数の支持を失わせることになり、また党を分裂させる危険をももたらしたからである。
そうした中で、久し振りに期待を集めて出現した社会民主党のヘルマン・ミューラー内閣は恐慌対策に悪戦苦闘した末、ついに1930年3月27日に崩壊する。
この理由は、議会において政府を支持すべき諸政党間の協調が長く続かず、労働組合と大半の社会民主党員が失業保険金の打ち切りを含むデフレ政策への支持を拒否したからである。
この様に、ミューラー内閣を崩壊へと追いやったのが、他ならぬ社会民主党自身であったことは党にとって悲劇と言うより他はないが、真の悲劇は、それが同時のワイマール共和国の議会政治の終焉であったことである。
事実、ミューラー内閣の後に出現したブリューニング内閣は、その以前の内閣と全く性質を異にしていた。これまでの内閣は、ともかく議会諸政党の連合関係によってつくられてきた。
しかし、大統領内閣を呼ばれるブリューニング以後の内閣には、もはやいかなる意味においても政府を形成しうる連合が存在しなかったのである。
ブリューニングが共和国の崩壊を食い止める最後の闘士としての決意を持って台閣に上ったことは疑いを入れない事であるが、彼はここで重大な誤算をしていた。
彼は第一に、議会が混乱に陥った時には、大統領の権威を高めることが国家の安定をもたらす所以であると信じていて、ヒンデンブルグ大統領にほとんど盲目的な尊敬の念を抱いていたのであるが、ヒンデンブルグは元来無思想な人間であった上に、彼の偉大な声望を利用しようとまわりに集まってきた共和国の打倒を策する右翼的政治家達の働きかけにより容易に動かされ、彼自身も右翼的な行動に出る様になっていたのである。
彼の第2の大きな誤算は、国会を解散することによって彼を支持する勢力が増大する事を期待したことであった。ところが、1930年9月14日の選挙は、1つの大異変であった。
恐慌の真っ只中に行われたこの選挙により、極左右派の両勢力ナチスと共産党が、1大政党として出現したからである。
投稿日時:2002/03/17 15:16:34
(貼付終了)
選択結果
http://home.hiroshima-u.ac.jp/ub033046/aa.htmlより
(抜粋貼付開始)
政治の世界
1章:(中略)
ドイツ帝国期の「近代化」
工業化の進展
先進的な社会保障制度→「福祉国家はビスマルクのドイツで誕生した」

ビスマルク:ドイツ帝国初代宰相。約20年間にわたって独裁的な権力をふるった。

第二帝政下での社会保障制度
1878年 社会主義鎮圧法
1881年 皇帝勅令
1883年 疾病保険法
1884年 年数保険
1889年 廃疾・老齢年金→1991年に帝国保険法に統合

ドイツ帝国の社会保障の特色
1.拠出と給付−就業時の賃金が基準
2.保険機関−労使共同の自主管理
3.強制加入

ドイツ帝国の政治体制
1.後発国型近代化−工業化と民主化の乖離
2.民主主義を抑圧する権威主義的体制
3.帝国議会の権限は制限されていたが、皇帝も次第に議会の意向を無視できなくなった。

ドイツ革命〜帝政の崩壊
(中略)
1918年12月
全国老兵評議会が議会制民主主義を支持
1919年1月
憲法制定。国民議会選挙で「ヴァイマル連合(社会民主党、民主党、中央党)」が多数派を
形成した。
1919年1月
ローザ・ルクセンブルクの殺害→社会主義革命路線の封殺

ドイツ革命の帰結
革命は社会化や民主化の深化には失敗。
しかし、帝政的身分秩序の崩壊を決定づけたことの意義は小さくない。
大衆政治の土壌形成。

帝政から民主主義への移行過程で刻まれた「負の遺産」
1.諸勢力の残存
☆民主主義に忠誠心を持たない帝政時代の軍部が「国家の中の国家」として残存。
 (エーベルト・グレーナ協定)
☆「皇帝は去ったが、将軍たちは残った」−軍部を民主主義政府に忠実な僕(しもべ)にできず。
☆軍部だけでなく官僚、裁判官も帝政時代との隷属性を強く残していた。
 また、多くの一般国民も西欧民主主義に反感を持っていた。
☆ドイツ革命−精神革命なき制度革命にとどまった。
2.敗戦と共にやってきた民主主義
☆「負けとった民主主義」
☆ 七首伝説(「背後からのひと突き」伝説)
大衆の間に民主主義に対するネガティブな感情を強くした。

2章:ヴァイマル共和国の歴史(1919年〜1933年)
ヴァイマル憲法−自由主義的法学者プロイスが草案を作成。男女平等権・比例代表制等

統治機構の二元的性格
基本的に議院内閣制。しかし、直接選挙で選ばれる大統領に、強力な権限が付与していた。
「非常事態」における緊急立法権(大統領命令)の乱用
→議会制民主制を形骸化する恐れ

ヴァイマル憲法下の連邦主義
政治全体に対する州の影響力は低下
所得税等の直接税は国に取り上げられ、州の方が国の収入の分け前にあずかる
権限は強くなかったが、州の代表からなるドイツ国参議院の設置
→連邦思想の継続

斬新な人権保障規定−自由権に加えて社会権を憲法上初めて明記
→その後制定された諸憲法の規範

ヴァイマル共和国の時期区分
1.危機の共和国(1919年〜1923年)
共和国支持勢力が弱体な共和国
軍部の民主主義への敵対的姿勢
→カップ一揆(1920年3月)と共産党の蜂起(1921年3月)に対する
国防軍の対応の違い
「ヴァイマル連合」の急速な弱体化
1919年1月と1920年6月の選挙−ヴァイマル連合の得票率は76%から43%へ
1923年の危機
ルール占領(フランス、ベルギーに占領された)と大インフレーション
ヒトラーのミュンヘン一揆−司法もまた右翼に寛大
通貨改革の成功−レンテンマルクの導入→インフレの収束
(中略)
3.民主主義の崩壊(1929年〜1933年)
世界恐慌勃発時の政府−社会民主党のミュラーを首相とする5党連立内閣
→失業保険、財政問題で退陣(1930年1月)
次のブリューニング内閣−少数与党→議会と対立した場合は大統領命令に基づいて統治
1930年国会選挙の破局的結果−ナチ党の躍進
→ブリューニングは一層、大統領命令に依拠−議会主義的内閣から大統領的内閣へ
ブリューニングは世界恐慌下にあってデフレ政策を探る
→経済は悪化の一途
ブリューニングの失脚(1932年3月)−ヒンデンブルクの信任を失う
(中略)
3章:ナチ党の台頭
ナチ党の成立
第一次世界大戦後に初めて登場
ヒトラーの権威に従う指導者原理を基軸に展開

指導者原理:ある優れた人物を選び、その人物をリーダーとすること。
多数決原理に対抗するために採用された。

思想としてのナチズム
・反マルクス主義→ロシア革命の脅威に対する言動
・「生存圏」の要求
・「社会主義」的要求(ナチ党綱領11条以下)→伝統的右翼は掲げなかった要求
・ファシズムの「擬似革命」的性格→徹底した現状批判
→特定の社会層のみに依拠しない支持調整
・人種主義→歴史を人種間の闘争と見る世界観→反ユダヤ主義
・民族共同体の樹立

民族共同体:全ての社会階層が調和ある生活を送れる理想社会
      個人の立場の放棄を要求⇔「個人の尊厳」を基礎とするヨーロッパ思想

ナチズムの支持基盤−「危機の三階層」
・失意の中間層−没落すると右傾化したドイツ中間層の権威主義的性格
・社会に根を持たない失業者
・第一次世界大戦から生き残った失職軍人の集団

4章:
(中略)
第5章:ユダヤ人政策の推移:ホロコーストへの道
ヒトラーによる絶滅命令は文章の中では存在しなかった。
ではどのようにして開始されたか。

ヒトラーの反ユダヤ主義
・ヒトラーはヴィーン時代に反ユダヤ主義に傾倒
・ヒトラーの反ユダヤ主義→思想的に新しいものはなし
「反ユダヤ主義について」
・ 宗教的動機による伝統的反ユダヤ主義→フランス革命後は克服の方向へ
・「ユダヤ人の解放」後に生まれた新しい性格の「反ユダヤ主義」=「反セム主義」
・ アーリア人(ドイツ人)と非アーリア人(ユダヤ人)

第三帝国期のユダヤ人政策
・海外移住促進(パレスチナ地方など)
・1935年のニュルンベルク人種法(ユダヤ人、第一種混血、第二種混血)と
移住促進政策の関連(ユダヤ人をドイツにいづらくして移民させる立法)
・1938年には挫折→ユダヤ人政策の過激化→1938年11月「水晶の夜」
・移住政策は困難を増しながら、なお継続

ホロコーストの開始
・第二次世界大戦、特に独ソ開戦時の影響
・追放先が未確定、膨大な数のユダヤ人を抱え込むことによる手詰まり状況
→ホロコーストへ
・1941年7月、ゲーリング、ハイドリヒにユダヤ人問題「最終的解決」の準備を委任
・1941年夏から秋にかけてー「最終的解決」が「追放」から「絶滅」への転換
・1942年1月ヴァンゼー会議→ホロコーストの組織化へ

6章 ナチズム体制下の政治と社会

@独裁と民衆
ナチズムの記憶
・日常生活から見た第三帝国→自発的支持の調達に成功
「観喜力行団」
・ドイツ労働戦線(ロベルト・ライを指導者)
 →労働組合解散後に組織された労盗協調団体
・その付属機関で労働者の余暇を組織・助成→観劇、スポーツ、旅行など
・ナチズム体制の大衆的浸透に寄与
完全雇用の実現
・1933年7月 失業者600万人→1936年には完全雇用状態に
・ナチズム体制=ヒトラー・シャハト体制
・「経済の独裁者」シャハト→国立銀行総裁、経済相、軍事経済全権委員
・公共事業(アウトバーン等)+再軍備
・シャハト、この資金調達に手腕発揮
・37年に失脚
→36年に完全雇用の実現後赤字を続ける再軍備を減少させようとした
→ヒトラーと対立→首に
・シャハトの人生→テクノクラート的合理性がはらむ問題性

A「安楽死」政策  ※現在使われている安楽死とは違う
強制的断種から「安楽死」へ
・1933年遺伝的根絶法(強制的断種法)
・第二次世界大戦勃発後、「安楽死」政策の実行へエスカレート
 →実施本部の所在地から「T4計画」と命名
※T4とは、ベルリンのティヤガルテン通り4番地
・ホロコーストの連関(銃殺からガス室へ)
・41年8月ヒトラーは「中止命令」→実際は1945年まで継続
・「安楽死」政策の受容→近代社会の「常識」との関連(生存競争)

ナチズム−「狂気」と「合理性」がない交ぜ
・ホロコーストや「安楽死」政策の「狂気」
・ナチズム体制を支えた科学者、テクノラートの「合理性」
・「あの頃は良かった」という民衆の記憶
ファシズムの恐ろしさ
→ノーマルな日常生活の傍らで抑圧機構が制度化

6章:ナチズム体制下の政治と社会
Bナチ健康帝国
ナチのタバコ撲滅運動
・肺がんとタバコの因果関係を世界で最初に実証したのは
ナチ・ドイツ(1930年代後半)であった。
・「健康は義務である」というナチ世界観
 →タバコは民族を弱体させる害毒とみなされた。
・ヒトラー政権と科学者の共同戦線
・「排他的健康ユートピア」実現の場としてのナチズム
・「安楽死」政策と「健康は義務である」という国家目標の内的連関に注目
・「日常的な科学の実践」と「残虐行為の日常実践」が共存しうることを、
 われわれは認識する必要がある。この両面を理解することで何が見えてくるだろうか?

Cヒトラーの教育政策
ヒトラーの掲げた教育原則
・『吾が闘争』第二巻 国民社会主義運動 第二章国家
 全教育活動の目的は真に健康的な身体の養育向上>知識注入
 歴史教育の目的は、国民的誇りの喚起である。
・教科書−時代とその歴意識を映す鏡
ロベルト・ライの言葉
・ナチ・ドイツでは、なお私生活を送りうるのは眠っている間だけのことだ。

練習問題「ヴァイマル共和国と第三帝国期のドイツ政治史について共和制、ファシズムという
観点を中心に略述しなさい。」

ヴァイマル共和国は、憲法で男女平等権や比例代表制、また世界で初めて社会権を明記した。
議会では、議員内閣制を採用した。しかし、直接選挙で選ばれる大統領には
強力な権限が付与しており、このことは議会制民主主義を形骸化する恐れがあった。
(中略)
「民主主義の崩壊」の時期では、社会党のミューラー首相が財政・失業問題で退陣し、
ブリューニング首相がデフレ政策の失敗により、ヒンデンブルク大統領の信任を失い退陣した。
(中略)
1932年にナチ党は第一党となり、1933年には大統領命令によるヒトラー政権が樹立し、
第三帝国期に突入した。
(中略)
とはいえ、この時期には残虐なことのみが行われたわけではなく、失業者600万人の完全雇用実現、
タバコ撲滅運動等が行われ、悪政のみであったわけではないということも事実である。
Copyright (C) 2004 祐, All rights reserved.
(貼付終了)

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