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治安維持法と小林多喜二虐殺  (小林の)死体をみた瞬間この恨みは一生涯忘れられぬ 江口渙 【たむ・たむ】
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投稿者 愚民党 日時 2006 年 4 月 29 日 00:14:22: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 共謀罪と治安維持法  【Neutralにいこう [[トリトメモナイシコウノナガレ]]】 投稿者 愚民党 日時 2006 年 4 月 28 日 23:50:36)

治安維持法と小林多喜二虐殺



http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/TIANIJIHO.html


 その原点を過激社会運動取締法案(この法案は、第1次世界大戦後のいわゆる大正テモクラシー運動に対する新たな政治的反動現象を意味した−−風早八十二『治安維持法50年』58頁)に有する治安維持法は、世界最大の悪法といわれ、“民主主義死刑法”とまで極言される程悪名高い法律であった。同法は、1925(大正14)年4月22日に共産主義、および無政府主義運動における特定の行為を取り締まる目的で公布され、同年5月12日施行された法律(大14法第46号)で、それは、大正デモクラシーの展開の一つの結実として制定された(男性)普通選挙法(大14法第47号)と引きかえに制定された、いわゆる『飴と鞭の政策』の表現であった(なお、小林幸夫「日ソ基本条約第5条と治安維持法」−−『京都大学人文学報告』第10号所収133頁以下は、治安維持法の成立を、ちょうどその頃締結された日ソ基本条約の成立に伴う日本国内の治安状況の変化等に求めるべきとしている。すなわち、日ソ基本条約の締結との関係でこれを把握すべきとするのである)。

 第1条は、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ10年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」と規定していたが、同法制定直後に配付された内務省の「治安法の条文適用釈義」によれば、国体に関しては、「我帝国は論ずる迄もなく万世一系の天皇の統治せらるる君主国体なり国体は歴史に基く国民の確信に依りて定まるものにして成典に依りて定まるものにあらす」との前提から、「国体の変革とは斯の如き国民の確信たる国体の本質に変更を加うるの謂にして君主国体を変じて共和国体者はサヴェート組織となすが如き一切の権力を無視して国家の存在を認めざるが如き之を要するに統治権の総攬者たる天皇の絶対性の変更の色彩あるものは国体の変革なりとす然して暴動を要件とせざる点に於て刑法第78条に定むる内乱罪の予備若くは陰謀と異るなり」と解釈、また私有財産については、「凡ゆる財産の私有を根本的に認めさる場合は勿論私有財産制度の存立を危殆ならしむるが如き財産の私有を否認する場合をも包含す然れども鉄道国有論又は土地国有論と謂ふが如き個々に指摘せられたる一切の財産の共有論は私有財産制度の根本的否認と見ること能はざるを以て本条に所謂私有財産制度の否認には非ず然れども共産主義的思想実行の一楷梯として之を論するものなるときは然りと解す何となれば其の主張の背後に直ちに財産全体若しくは私有財産制度を危殆ならしむることを目的とすと認定し得べき一切の生産手段の私有を否認するの希望を蔵すものなればなり」と解していた(鈴木安蔵『法律史』306〜307頁)。

 これらのことを目的として結社することを、第1条で10年以下の懲役、禁錮をもって罰し、第2条において、第1条の目的を以て「其ノ目的タル事項ノ実行ニ関シ協議ヲ為シタル者」に対して7年以下の懲役又は禁錮に処したのである。そして同法が、共産主義取締の名目で、思想、信条、言論、結社、集合の自由そのものを極刑をもって罰することを主眼においていたことは、後の歴史が証明するところとなった。

 とりわけ「協議」条項は、1926(大正15)年12月の京都大学、同志社大学をはじめとする学生社会科学研究会の検挙(いわゆる『京都学連事件』)で証明されたように、マルクス主義をはじめとする社会科学の研究そのものまでをも罰することを目的とするものであった(『京都学連事件』に対して、京都地裁は、1927〔昭和2〕年5月30日治安維持法第2条の「協議」該当事実を認定して、全員に有罪の判決を行う−−奥平康弘『治安維持法小史』70〜72頁)。

 ところで、当局の「協議」の解釈は次のようなものであった。「協議とは二人以上の者の特定の題材の下に意思の交換を為すことを謂ふ或一人が本来の目的を以てその実行に関し意見を述べたるに対し相手方が何等之に対して明示又は黙示の意思表示を為さざる場合は本件に所謂協議に非ざるものとす、協議の方法に制限なきを以て集会して協議を為すと文書に依り協議を為すと或は他の方法に依りて為すとを問はす又相手方の数の多少を問はさるものなり然れとも協議の相手方は特定することを要す……実行に関し論議為したることを云ふ必しも意見の一致を見たることを要せさるなり又可能性ある実行そのものに就て論議すれは足り必しも其手段方法に就て具体的事項に亘り論議するを要せさるなり……協議は煽動又は教唆と謂ふか如く他人の自由に影響を及ぼすことを要せす故に協議を受けたる者其の協議と関係なく既に実行の決意を為したる場合にも仍ち協議の相手方とすることを得へし」(鈴木前掲書307頁)。

 また第3条は、「第1条第1項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ実行ヲ煽動シタル者ハ7年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」と規定し、煽動に対しても協議と同様の刑罰を科したが、「煽動とは感情に訴へ自由なる意思に特殊の刺戟を与ふることを謂ふ単に流布又は宣伝と云ふが如く或る事項を公衆に伝播するに過きさる程度のものは之を包含せす」としながらも、「煽動の方法に制限なく故に言論に依ると文書に依るとを問はす然れとも相手方は不定又は多数たることを要す但し必しも現に不定又は多数人に対して之を為すことを要せす特定の一人に対して之を為したる場合と雖不定又は多数人に影響を与ふべき情況に至り且つ犯人に於て之を認識するに於ては即ち煽動と謂ふことを得へし」(鈴木前掲書307〜308頁)とし、決定的に教唆と異なる所は、煽動した相手方が、現にそれを実行しない場合でも煽動行為自体が既遂になることであった。

 最も注目すべき条項は、第5条(「第1条第1項及前3条ノ罪ヲ犯サシムルコトヲ目的トシテ金品其ノ他ノ財産上ノ利益ヲ供与シ又ハ其ノ申込若クハ約束ヲ為シタル者ハ5年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス情ヲ知リテ供与ヲ受ケ又ハ其ノ要求若ハ約束ヲ為シタル者亦同シ」)であった。同条項は、必ずしも国体変革や私有財産制を否認する政党や運動に参加せず、またそれらの目的をもって協議ないし実行の煽動をしなくとも、これらの運動をしている人達を、その心情から、あるいは人道的な人情や同情心から、はたまた知人、親族関係から生活費等々の金品を与えたり、宿泊や集会等に便宜を計った場合等に対して、その者を逮捕、処罰することを可能にする条項であったが、それはいわゆるシンパを弾圧し、反体制はいうに及ばず反政府運動そのものの根幹を絶とうとする目的を含んでいた(鈴木前掲書308頁)。

 この条項の当局の解説は、「之等の行為に付き認識を有するのみならず第1条1項及前3項の罪を犯さしむることの目的が之等の行為を為すの動機たらさるへからす」となっていた(鈴木前掲書308頁)が、認識・動機の拡大解釈により根こそぎシンパを取締ったことは、極めて明白な歴史的事実である。

 

特に、治安維持法の適用について特筆すべきことは、当局の無制限な拡大・類推解釈によって、共産主義者・無政府主義者のみならず社会民主主義者、自由主義者、平和主義者はいうに及ばず、容共者でなくとも、多少なりとも反体制、反国体的思想を持つ者や運動をする者、単なる研究者にいたるまで根こそぎ逮捕・検挙し、いわゆる警察間の“たらい廻し”により裁判にもかけず、無制限に拘留した事実と、侵略戦争遂行の過程において、これを積極的に運用し、当局と一体となってすべての自由を否認した裁判所(裁判官)の役割である。

 

また、こうした治安維持法の運用によって国民の間に恐怖感が生成されたが、ファシズムと一体となった権力の恐怖政治は、国民をして『自己規制』に向かわせるのであった。治安維持法の怖さの大きな部分は、この国民の自己規制であったといっても決して過言ではないのである。

 

さて同法は、「疾風迅雷的」に行われた1928(昭和3)年3月15日の日本共産党に対する大弾圧(いわゆる『3・15事件』−−約1,600名の逮捕484名の起訴−−鈴木前掲書309頁。それは、「近来における未曾有の事件」であった−−大原社会問題研究所編『日本労働年鑑』第10巻〔昭和4年版〕568頁。なおその事実経緯については、松本清張『昭和史発掘』第2巻所収「3・15事件」参照)でその威力をいかんなく発揮し、ついで同年4月10日には、1900(明治33)年制定の治安警察法(明33法第36号)が共産党の影響下にあった労働農民党、日本労働組合評議会を結社禁止処分(内務省訓令第498号警視総監宮田光雄宛−−「その管下結社労働農民党、結社日本労働組合評議会、結社全日本無産青年同盟は治安警察法第8条第2項によりこれを禁す その旨主管者に伝達すべし右訓令す 昭和3年4月10日 内務大臣鈴木喜三郎」−−『日本労働年鑑』第10巻〔昭和4年版〕334頁)にしている(いわゆる『4・10事件』)が、ここに治安警察法と治安維持法が表裏一体となって自由に対して“猛威”をふるう歴史的事実をみることができる。

 

「3・15事件」の直前の同年2月20日には、(男性)普選法による日本における第1回選挙(第16回衆議院総選挙)が行われ、約49万の投票が無産政党に集まり、この中の約19万票は、共産党の合法政党たる労働農民党(40人立候補2人当選)に集中した(『日本労働年鑑』第10巻〔昭和4年版〕320頁)。

 

しかしこの程度の結果、あるいは当時の共産党の力量からみて、日本の国体に影響を与える程の力を共産党を中心とする勢力が持ってはいなかったことは明白な事実である。それにもかかわらず行われた3月15日の大弾圧は、いささかでも「天皇の国家統治の大権」、「主権的統治者としての天皇の大権」にとって危険なものを一切排除しようとする思想の表われであり、権力に対するすべての批判を封殺し、権力に忠実なイデオロギーを“臣民”の中に植えつけようとしてなされた恐怖の政治そのものであった。

 

換言すればそれは、治安維持法を背景に逮捕、拘留、刑罰という国家権力の政治的権力(暴力)によって国民を黙らせる恐怖政治の表現であったと同時に、それは、日本ファシズムが来たるべき侵略戦争に向けて一切の障害物を除去するために行ったものであり、すべての自由の圧殺の下で遂行された侵略戦争の“序曲”であった。

 

しかも政府は、その目的をより一層強化するために、治安維持法の改悪に着手し、1928(昭和3年)4月の第55議会にその『改悪案』を提出したが、議事混乱(日本の歴史上はじめて実施された、男子普通選挙において行われた警察による未曾有の選挙干渉問題が混乱の中心であった)により審議未了となるや、6月29日、明治憲法8条1項が「天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス」と規定することを根拠に、いわゆる緊急勅令(命令の形式で法律と同等の効力を持つ)をもって、しかも『緊急』なる用語を拡大解釈し、その改正を断行し(勅令第129号)、即日施行したが、緊急勅令公布に対する政府(司法大臣原嘉道は三井の顧問弁護士から司法大臣に就任した−−鈴木前掲書311頁)は、次のとおり声明した。

 

「我国における共産党一味は過般の検挙によりその跡を絶つに至らないのみならず事件の中心人物いまだ縛につかぬものすらある、これ等は依然露国国際共産党の指揮を奉じ我が国体変革なる売国的大罪の遂行を継続することは容易に推知し得べきところであつたが、議会閉会後各地に発見されたる証拠によれば彼等は議会開会中より今日に至るまで全国革命なる不ていの企図を遂行するため各種の怖るべき行動を続け居ることは確実である……よつて政府はこれに対応するため緊急処置を取るの必要を認めこゝに治安維持法改正の緊急勅令の御裁可を奉請するに至つたのである」(奥平康弘解説『治安維持法−−現代史資料(45)』179〜180頁)。

 

ところで同法改悪の第1点は、旧法1条の構成要件を国体変革と私有財産制度の否認とに分離し、国体変革の指導者に対しては死刑、無期、若しくは5年以上の有期懲役と刑罰を加重したことであり、その第2点は、新たに国体変革を目的とする「結社ノ目的遂行ノ為ニスル行為ヲ為シタル者」に2年以上の有期懲役を科したことである。これにより、権力が危険と判断するすべての人を合法的に逮捕、処罰することができる根拠ができたわけであり、ここから、「マルクス主義、社会主義に共鳴するものについて、彼が食事するのも、歩くのも、『目的遂行ノ為ニスル行為』とみなしうる」という驚くべき検事発言が派生する(鈴木前掲書311頁)が、この発言は、ものの見事に治安維持法の性格を表現しており、この方針の下に同法は適用されてゆくことになった。さらに、同法は、太平洋戦争の前夜の1941(昭和16)年3月10日に全面改正が施され、法律第54号として新たに誕生し、刑罰をより強化するのであった。

………………………………………………………………………………………………………………

 

さて、1945年10月4日のGHQ指令に基づき、10月5日司法省は、全国の検事局と刑務所あてに、即時政治犯を釈放すべき旨を電報と文書で通告した(全国検察庁長宛司法省刑事局長の通牒「政治犯人ノ身柄釈放ニ関スル件」−−竹前英治『占領戦後史−−対日管理政策の全容』123頁)。これにより釈放される者は、受刑中の者約150人、裁判中の者では公判中30人、予審中10人、逃亡中数名、捜査中の者では未決収容中20数人、警察拘置中5人、拘留停止10数人、それに保護観察中の者2千数百人を加えれば、約3,000人に達した(毎日新聞社編『毎日年鑑』1946年版283頁)。このころアメリカの新聞や日本の新聞に政治犯釈放関係の記事が掲載された。特に次の『ニッポン・タイムス』の(同盟通信の流した)「府中刑務所訪問記」は、獄中における政治犯に対する過酷な取調べの実体を明らかにしている(竹前前掲書124〜125頁)。

 

「……7人の日本共産党員がしばり首にされ、200人が警察の取調べ中に拷問で死んだ。多くの女性は取調べのきつさに耐えかねて死を選んだ。約200人が栄養失調とひどい仕打ちのため死ぬ……」。

 

また1945(昭和20)年10月7日付『朝日新聞』は、「血に彩られた゛特高゛の足跡−−『文化も人権も蹂躪』−−言語に絶する拷問」と題して次のように報じた(『朝日新聞縮刷版〔復刻版〕昭和20年下半期』196頁)。

 「特高警察の歴史は血に彩られた日本社会運動の歴史である。この秘密警察制度は初め社会思想取締りに主眼を置いて全国に網を張りめぐらしたが、昭和7年6月27日、従来警視庁総監官房内にあつた外事、特高、労働、内鮮の各課が併合されて特高部として独立するに及んでその網は一層強化された、この警察制度の用いた武器は今次撤廃された治安維持法その他の法令であるが、実際の運営は、しばしば法規を越えて行はれた、取調べにあたる警官は言語に絶する拷問を用ひ、遂に死に至らしめた例も少くない、警察留置中斃れた左翼の闘士岩田義道氏の歯を食ひしばつたデスマスクは特高警察の一面を語る姿である、彼らが一度狙ひを定めれば事実の有無を問はず留置され、警察から警察へといわゆる盥回しが行はれた、共産主義者が受刑中歯を治療費用を支払つた友人までを検挙、裁判に附した事実は、如何にこの制度が実際常識の範囲を越えて活動していたかを物語るものである」。

 

さらに1945(昭和20)年10月16日付『朝日新聞』は、プロレタリア作家小林多喜二の拷問死について、小林の友人江口渙の「(小林の)死体をみた瞬間この恨みは一生涯忘れられぬ、死ぬまでにはいつか必ず復讐してやろうと思つた、あゝいふ現実をみては最早階級闘争などどいつた理屈を抜きにして個人的なはげしい憎悪にかはる自分の気持ちをどうすることもできなかつた」との前置から、次のような談話を掲載した(『朝日新聞縮刷版〔復刻版〕昭和20年下半期』214頁)。
 

「小林が捕まつたのは昭和8年2月19日で……小林はすでに1年も前から地下に潜つてゐて地下から中央公論に『党生活者』という創作を発表し、しかもその内容が捜査に躍起となつてゐた特高ののろまぶりを嘲笑するものであつたし、また彼の最大傑作といはれた小説『1928年3月15日』は拷問暴露小説であつたから官憲が小林を憎むこと一方ならず、それだけに検挙後の拷問が人一倍はげしかつたことが容易に想像された。小林らを取調べ拷問したのは中川警視庁特高係長と築地署特高主任(氏名失念)、警視庁特高係の須田巡査部長、山口巡査などで、2年ほどして出所してきた今村に話によると、彼らは小林にいきなり『お前は共産党員だろう』とたたみかけ、小林が『そうではない』と昂然と答えると『何、この野郎、自白しなければするやうに締めてやるから』といふので、小林が今村を顧みて『かうなれば最後だ、お互いしつかりやろうぜ』と励ました、これを聞いた彼らは一斉に桜のステッキや野球のバットで小林を殴りつけたり、金具が裏についた靴で体を滅茶苦茶にふみにじつたりした、そして小林が気絶すると留置場へかつぎ込んで捨てて行つた、間もなく小林は寒気で意識を取戻し『俺はとても苦しくてこれ以上生きてはいられぬ、死んだら母にそのことを伝えてくれ』と遺言し『便所へ行きたい』と訴えたさうである、そこで留置人がみんなで便所までかついで行つたが、肛門と尿道から血だけが出て便所が真赤になつた、そして連れ帰つて十分もすると死んだといふことであつた、血の便が出たのは靴のまゝでふみにじられて明らかに腸出血をしたからだ、引渡された死体は拷問虐殺の証拠湮滅のためその時は綺麗に血が洗はれてあり、築地署の説明は心臓麻痺で急死したといふことであつた、寝台車で阿佐ヶ谷の自宅へ連れて帰り、安田博士(渋谷の開業医)指揮で同志が立会つて死体の検査をしたが、驚くばかりに蒼ざめた顔は烈しい苦痛のあとを残して筋肉の凹凸がひどいため到底平素の小林とは思えぬほどであつた、殊に頬がげつそりとこけてひどく眼が窪んでゐる、そして左のこめかみには一銭銅貨大の打撲傷があり、それを中心に数箇所の傷痕があつた、首にはぐるりと一まき深く細引の跡がくい込んでゐた、余程の力で締めたらしく、くつきりと細い溝ができ、皮下出血が赤い無残な線を引いゐた、左右の手首にも同様円く縄のあとがくひ込み血が生々しくにじんでいゐた、帯を解き着物をひろげてズボン下を脱がせた時、余りのむごたらさに思わず顔をそむけた安田博士は、同志一同に『これですこれです』と沈痛な口調で告げた。」 

 

10月5日内務省は、全国の地方庁特高課に対してその機能の停止を命令し(1945〔昭和20〕年10月7日付『朝日新聞』−−『朝日新聞縮刷版〔復刻版〕昭和20年下半期』196頁)、続いて10月13日には、内務省官制・警視庁官制・地方官官制を改正し(勅令第567号)、そのうちから特高警察に関する条項を削除したが、これにより、内務省警保局は大幅な改組となり、警視庁では、特高部・検閲課と外事課が廃止された。その結果、全地方庁の警察首脳部106人と特高関係者4,800人が休職処分となった(『内務省史』第1巻527頁。なお、警察庁警察史編さん委員会編『戦後警察史』は、この部分が全く欠落している)。

 

 特高廃止の新聞報道を見た高見順は、「特高警察の廃止、−−−胸がすーッとした。暗雲がはれた想い。しかし、これをどうして連合軍司令部の指令をまたずしてみずからの手でやれなかつたのか。−−−恥かしい。これが自らの手でなされたものだつたら、喜びはもつと深く、喜びの底にもだもだしているこんな恥辱感はなかつたのろうに」と記した(『敗戦日記』335頁)。また高見は、雑誌『ライフ』に掲載されたムッソリーニの死体写真をみて、「情婦と共に逆さにつるされている。見るに忍びない残酷さだ。私はムッソリーニに同情を持つている者ではない。イタリー・パルチザンのムッソリーニへの憤激にむしろ共鳴を感ずる。しかしこの残虐さは−−。日本国民の東条首相への憤激は、イタリー国民のムッソリーニへのそれに決して劣るものではないと思われる。しかし日本国民は東条首相を私邸からひきずり出してこうした私刑を加えようとはしない。日本人はある点、去勢されているのだ。恐怖政治ですつかり子羊の如くおとなしい。怒りを言葉や行動に積極的に現わし得ない。無気力、無力の人間にされているところもあるのだ。東条首相を逆さにつるさないからといつて、日本人はイタリー人のように残虐を好まない穏和な民とすることはできない。日本人だつて残酷だ。だつて、というより日本人こそといつた方が正しいくらい、支那の戦線で日本の兵隊は残虐な行為をほしいままにした。権力を持つと日本人は残酷になるのだ。権力を持たせられないと、子羊の如く従順、卑屈。ああなんという卑怯さだ」と記している(『敗戦日記』334〜335頁)。

 

きわめて正鵠を得ているが、それなるがゆえに、日本においてはイタリーをはじめとするヨーロッパ各国のようなファシズムに対する抵抗運動は皆無であったのである。

関連資料

1.侵略戦争

2.無条件降伏−敗戦

3.降伏文書と宮様内閣

4.マッカーサー・ポツダム宣言・衝撃写真

5.東条の自殺と井上成美

6.日本の徴兵制(招集令状)

7.特攻

8.大本営

9.財閥解体

10. 教育改革


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