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三木清、終戦後の9月26日に独房の寝台から転がり落ちて死亡していることが発見された
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投稿者 愚民党 日時 2006 年 4 月 30 日 13:21:46: ogcGl0q1DMbpk
 

(回答先: 戸坂潤、治安維持法によって特高警察に捕らえられ、敗戦の直前(8月9日)に長野刑務所で獄死した 投稿者 愚民党 日時 2006 年 4 月 30 日 13:09:48)

三木清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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三木 清 (みき きよし, 1897年1月5日-1945年9月26日) は、(西田左派を含めた上での)京都学派を代表する、兵庫県揖保郡揖西村(後の龍野市、現在のたつの市)出身の哲学者である。

目次 [非表示]
1 生涯
2 思想
2.1 大学・大学院時代
2.2 ドイツ留学時代
2.2.1 ハイデルベルク
2.2.2 マールブルク
2.3 パスカル研究
2.4 マルクス主義研究
2.5 批評
3 著書
4 翻訳
5 参考文献
6 外部リンク


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生涯
第一高等学校から京都大学に進み、西田幾多郎に師事する。大学在学中は西田のみならず東北大学から転任してきた田辺元や左右田喜一郎らからも多くの学問的影響を受けた。

1922年には岩波茂雄の資金的なサポートを受けてドイツに留学。ハイデルベルク大学でハインリヒ・リッケルトのゼミナールに参加し、歴史哲学を研究した。1923年にはマールブルク大学に移り、マルティン・ハイデッガーに師事。ハイデガーの助手カール・レーヴィットからの影響でフリードリヒ・ニーチェやセーレン・キェルケゴールの実存哲学への興味を深めた。

1925年、帰国し、翌年には処女作『パスカルに於ける人間の研究』を発表。1927年には法政大学文学部哲学科主任教授となった。同年12月に創刊された岩波文庫とも深い関わりがあり、巻末のマニフェスト「読者子に寄す」は三木によって書かれたもの。

羽仁五郎らと『新興科学の旗のもとに』を起こして、たんなる党派的な教条にとどまらないマルクス主義の創造的な展開も企てたが、1930年、日本共産党に資金提供をしたという理由によって逮捕され、転向をよぎなくされた。不当な有罪判決によって公式には教職に就けなくなった三木は、文筆をその活動の中心とせざるをえなくなった。

その後、ジャーナリズムで超人的な健筆を振るう日々が続くが、三十年代の後半には、後藤隆之助ら近衛文麿の友人たちが中心になって組織したブレーントラスト「昭和研究会」に積極的にコミットし、その哲学的基礎づけをあたえる作業も担当した。三木はその際、「協同主義」という一種の多文化主義的な立場を掲げることになったが、これは軍部の独走によって硬直する日中関係に対する日本の側からの新政策につながるものとして、いったんは期待をあつめたものの、中国の側からの知的応答もなく、現実的な力はもたないうちに、短期間に色あせた。

総力戦体制に対する抵抗と関与という両義的な態度は、同時代の転向知識人がかかえる二面性であるが、三木はその典型であった。すでに軍部と皇道右翼によって、マルクス主義はもちろん、自由主義者もまた、自立的な社会的活躍の余地を奪われていたが、そのような政治的に非常に息苦しい状況にあって、総力戦体制の効率化、合理化は、一面では、体制派の主流に対するある種の批判的コミットメントを可能にする最後の可能性と見えていた。しかし、「昭和研究会」は軍部や保守勢力によって敵視され、不本意にも解散をよぎなくされたため、やがてその流れは、大政翼賛会のなかに変質して取り込まれていく。そのことにより、総力戦動員の合理性に託して、なんらかの社会変革を遂行するという知識人の当初の期待は、たんなる戦争協力へといっそう変質していくことになる。

三十年代末から四十年代にかけては、抜群の語学力を生かして、ヨーロッパの最先端の知的成果を取り入れながら、マルクス主義をもより大きな理論的枠組みのなかで理解しなおす「構想力の論理」を企てていたが、未完で終わる。さらに最後には親鸞の思想にふたたび惹かれている。

1945年、治安維持法違反の被疑者を仮釈放中にかくまったことを理由にして検事拘留処分を受け、東京拘置所に送られ、その後に豊多摩刑務所に移された。この刑務所は衛生状態が劣悪であったために、三木はそこで疥癬をやみ、また腎臓病の悪化とともに、体調を崩し、終戦後の9月26日に独房の寝台から転がり落ちて死亡していることが発見された。終戦から一ヶ月余が経過していた。

 たまたまこの三木の死を知ったアメリカ人ジャーナリストの奔走によって、敗戦からすでに一ヶ月余をへていながら、政治犯が獄中で過酷な抑圧を受け続けている実態が判明し、占領軍当局を驚かせた。旧体制の破綻について、当時の日本の支配者層がいかに自覚が希薄であったのかについての実例である。この件を契機として治安維持法の急遽撤廃が決められた。そもそも三木が獄中にとらわれていたことを親しい友人たちですら知らされないでいたことも、当時の思想弾圧の実態を表している。三木の死によって、1945年は、西田幾多郎、三木清、そして戸坂潤の三人の師弟が同時になくなるという、哲学にとっては実に喪失の大きな年となった。

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思想
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大学・大学院時代
三木は1917年の京都帝国大学入学から、ドイツ留学に出発する1922までの間に『哲学研究』誌上に四本の論文を執筆している。(「個性の理解」、「批判哲学と歴史哲学」、「歴史的因果律の問題」、「個性の問題」)これらの論文はいずれも新カント派哲学の立場から「個と歴史」の関係、「個と普遍」の関係について考察した論文である。高校時代から岩波書店の哲学叢書で新カント派哲学に親しんできた三木は、波多野精一から西洋哲学を学ぶためにはキリスト教理解と歴史研究が重要である、という示唆を受け歴史哲学を自身の中心的な研究テーマにしたようである。

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ドイツ留学時代
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ハイデルベルク
宗教哲学の波多野精一の紹介で、岩波茂雄から出資を受けた三木は、6月24日高校時代から親しんできた新カント派哲学の大御所リッケルトのいるハイデルベルクに留学を果たした。当時のドイツは、第一次大戦後の混乱がまだ続いており、ヴェルサイユ体制の下での戦後秩序の回復を目指していた時期であった。ドイツは、敗戦国として1320億金マルクの賠償金の支払いを命じられ経済が逼迫していた。そこにフランスのルール地方の占領が拍車をかけ、急激なインフレが進行していた。このインフレのため日本から送られてくる留学資金が潤沢になり、三木のみならず多くの日本人がドイツに滞在していた。(歴史の羽仁五郎、経済の大内兵衛、哲学ではカント研究の天野禎祐、後にハイデッガーについて学ぶ九鬼周造などがいた。)

ハイデルベルクでは古参の大御所から少壮の新進学者まで多くの人々と交わる機会を得た。ゲオルグ・ジンメル(George Simmel 1858-1918)の下で学び1919年のハンガリー革命に参加したが敗れてドイツに亡命していたカール・マンハイム(Karl Mannheim 1893-1947)、後にヘーゲル全集の編纂・刊行で著名になるヘルマン・グロックナー(Herman Glockner 1896-1979)、ギリシア哲学のエルンスト・ホフマン、ヴィンデルバントとリッケルトに師事したエミール・ラスク(Emil Lask 1875-1915)の弟子で後に東北帝国大学教授も務め、『日本の弓術』の著者でもあるオイゲン・ヘリゲル(Eugen Herrigel 1884-1955)らである。

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マールブルク
三木の当初の留学の目的は、新カント派の研究を進めるためであり、特に「リッケルト教授に就いて更に勉強するため」であった。しかし、日本にいる時からリッケルトの著作の殆どを原典で読んでいた三木は、リッケルトから新たな哲学上の発見が得られないと見ると、1923年には新進の学者で、リッケルトが「非常に天分の豊な男」と評したハイデガーのいるマールブルクへと研究の拠点を移した。

三木は、古典の解釈を中心として進められるハイデガーの演習に参加しながら新カント派的な「認識の対象としての歴史」に加えて「生の存在論としての歴史」、「生の批評としての歴史」という新たな歴史哲学研究の方法を学んだ。また、この頃ハイデガーの助手を務めていたカール・レーヴィット(Karl Löwith 1897-1973)と親しく交わった。マールブルクを離れてパリに移ってからも手紙で読書の指南を受け、ディルタイ、シュレーゲル、フンボルトや当時の流行思想であった不安の哲学や不安の文学に対する興味を喚起された。ニーチェやキュルケゴールなどの実存哲学、ドストエフスキーの小説などを耽読したのもレーヴィットの影響である。

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パスカル研究
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マルクス主義研究
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批評
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著書
1926年: 『パスカルに於ける人間の研究』岩波書店
1928年: 『唯物史観と現代の意識』岩波書店
1929年: 『史的観念論の諸問題』岩波書店
1929年: 『社会科学の予備概念』鉄塔書院
1931年: 『観念形態論』鉄塔書院
1932年: 『文学史方法論』(岩波講座『世界文学』所収)岩波書店
1932年: 『歴史哲学』(『続哲学叢書』の一冊として) 岩波書店
1932年: 『社会科学概論』(岩波講座『哲学』の一分冊として) 岩波書店
1933年: 『危機に於ける人間の立場 』鉄塔書院
1934年: 『人間学的文学論』(『文芸復興叢書』の一冊として) 改造社
1935年: 『アリストテレス形而上学』 岩波書店
1936年: 『時代と道徳』 作品社
1938年: 『技術哲学』(岩波講座『倫理学』の一冊として) 岩波書店
1938年: 『アリストテレス』 岩波書店
1939年: 『ソクラテス』 岩波書店
1939年: 『構想力の論理第一』 岩波書店
1939年: 『現代の記録』 作品社
1940年: 『哲学入門』 岩波新書
1941年: 『哲学ノート』 河出書房
1942年: 『続哲学ノート』 河出書房
1942年: 『読書と人生』 小山書店
1942年: 『学問と人生』 中央公論社
1947年: 『人生論ノート』 創元社
1948年: 『知識哲学』 小山書店
1948年: 『構想力の論理第二』 岩波書店
1949年: 『社会史的思想史』(「古代」を担当) 岩波書店
1950年: 『哲学と人生』 河出書房
1977年: 『語られざる哲学』 講談社学術文庫
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翻訳
マルクス、エンゲルス『ドイッチェ・イデオロギー』 岩波文庫1930年
デカルト『省察』 岩波文庫1950年
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参考文献
赤松常弘『三木清 哲学的思索の軌跡』(ミネルヴァ書房、1994)
荒川幾男『三木清』(紀伊国屋新書、1968)
内田弘『三木清―個性者の構想力』(御茶ノ水書房、2004)
大橋良介『京都学派と日本海軍』(PHP新書、2001)
唐木順三『三木清』(筑摩叢書、1966)
久野収/編『現代日本思想体系33 三木清』(筑摩書房、1966)
久野収『三〇年代の思想家たち』(岩波書店、1975)
佐々木健『三木清の世界』(第三文明社、1987)
高桑純夫『三木哲学』(夏目書店、1946)
町口哲生『帝国の形而上学』(作品社、2004)
宮川透『三木清』(東京大学出版会、1970)
宮川透『西田・三木・戸坂の哲学』(講談社現代新書、1967)
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外部リンク
三木 清:作家別作品リスト(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person218.html


この「三木清」は、哲学に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正して下さる協力者を求めています。

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カテゴリ: 日本の哲学者 | 1897年生 | 1945年没 | 哲学関連のスタブ項目

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