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岸は辞任直前に右翼に刺された。その時、目を虚ろに明けて周りの人達に吊り下げられていた。
http://www.asyura2.com/0601/senkyo26/msg/601.html
投稿者 新世紀人 日時 2006 年 9 月 15 日 12:28:24: uj2zhYZWUUp16
 

(回答先: 安倍の祖父「岸信介」とはどんな人?(東京新聞) 投稿者 happyblue 日時 2006 年 9 月 15 日 11:14:24)

傷がどの程度に深かったかは判らないが、強行方針と放心の有様とが奇妙にアンバランスな印象を与えるものだった。

http://www.ne.jp/asahi/masa/private/history/ww2/biblo/japan/ka/kishi.html

岸 信介(首相)
KISHI Nobusuke
(1896-1987)
−「昭和の妖怪」−

(20051121作成、20060307修正)

 1896(明治29)年11月13日、山口県熊毛郡田布施村(現、田布施町)に生まれる。酒造業を営む佐藤秀助の第五子で二男。岸家の養子となる。叔父に鮎川義介、松岡洋右、弟に後に首相となった佐藤栄作、安倍晋太郎は娘婿である。
 旧制山口中学(現山口県立山口高等学校)、旧制第一高等学校を経て、1920年(大正9)に東京帝国大学法学部を首席で卒業。農商務省に入省し、同省分割の際には商工省に勤務することとなる。1936(昭和11)年満洲国実業部総務司長として渡満、数年後総務庁次長となり、革新官僚として満州国の産業開発を主導し、その実力を遺憾なく発揮、東條英機などと共に満洲の実権を握る。「満州の三スケ」(満州の実力者、鮎川義介、岸信介、松岡洋右の総称)、「満州三角同盟」(満州の実力者、東條英機、岸信介、星野直樹の総称)と渾名される。1939(昭和14)年帰国、商工次官となる。1941(昭和16)年1月商工大臣と対立して辞職するが、東條英機内閣で商工大臣(1941(昭和16)年10月18日〜1943(昭和18)年10月8日)、1942(昭和17)年の翼賛選挙で衆議院議員に当選。商工省が改組され軍需省となるが、大臣は東條首相が兼任し、岸は軍需次官(1943(昭和18)年10月8日〜1944(昭和19)年7月22日)(兼無任所大臣)に事実上の降格となり、これがきっかけで東條と不仲となる。東条内閣倒閣運動の際には国務省軍需次官を退いて東条内閣倒壊の端緒をつくる。
 戦後、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収容される。1948(昭和23)年東條英機らA級戦犯7名処刑の翌日に釈放され、まもなく自由党に入党。1950(昭和25)年7月14日暴漢に刺され重傷を負うという不運に見回った。1953(昭和28)年に再び衆議院議員。その後、自由党を除名され、1954(昭和29)年日本民主党に参加し、幹事長となる。保守合同後、自由民主党の初代幹事長となる。1956(昭和31)年4月5日自由民主党総裁公選(第2回臨時党大会)で鳩山一郎に敗れる(得票4 鳩山394)。12月14日、自由民主党総裁公選(第3回臨時党大会)で石橋湛山に敗れる(得票251 石橋258)。1956(昭和31)年12月23日〜1957(昭和32)年2月25日石橋湛山内閣で外務大臣。1957(昭和32)年1月31日、石橋首相病気のため、首相臨時代行(〜2月25日)。石橋首相病気退陣後の1957(昭和32)年3月21日、第4回党大会・総裁公選で第3代自由民主党総裁に選出され、内閣総理大臣(第56〜57代、1957(昭和32)年2月25日〜1958(昭和33)年6月12日)となる。就任後、国民健康保険法や国民年金法など社会福祉政策を推進する一方、日米安全保障条約の改定を目指す。1960(昭和35)年1月19日、アメリカで日米安全保障条約(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約)に調印し、5月19日、新安保条約承認を衆議院本会議で強行採決するが、日米安全保障条約改正は、世論の激しい非難を浴び、安保闘争を激化させた。岸は「国会周辺は騒がしいが銀座や後楽園球場はいつも通りである」として事態の沈静化を図る。だが、東京大学学生樺美智子の死亡、東久邇・片山・石橋の3人の首相経験者による退陣勧告など事態が深刻化する。6月15日と6月18日、岸は防衛庁長官の赤城宗徳に対して自衛隊によるデモ隊の鎮圧の検討を命じるが、赤城は断固拒絶する。岸信介の政権延命のために自衛隊が使われること、岸がすでにアメリカに見捨てられたことを赤城防衛庁長官が知っていたことが拒否の原因であったという。一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と自殺を考えるところまで追い詰められた岸ではあったが、アイゼンハワー大統領の訪日延期の決定(6月16日)と参議院での批准議決がないままの条約の自動承認(6月19日)後に、一連の混乱の責任をとって内閣総辞職に追い込まれた上に辞任直前には右翼の荒巻退助の襲撃を受けている。
 1967(昭和42)年4月29日勲一等旭日桐花大綬章受賞、1979(昭和54)年8月に、国連平和賞を受賞。その後、岸は派閥を福田赳夫に譲り、1979(昭和54)年政界を引退。引退後も隠然たる発言力を維持、政界において娘婿の安倍晋太郎を自民党総裁にするための蠢動などはいかにも不気味な印象を拭いきれず、読売新聞から「昭和の妖怪」との異名を奉られた。1987(昭和62)年8月7日死去、享年91歳。著作 「青年に望む」「日本の進路と安保条約」「二十世紀のリーダーたち」「我が青春」「岸信介の回想」。

小川登氏の指摘のように、あれ以上やらせておいたら日本の政治はもっと酷い有様になっていた可能性がある。

結果として辞める運命にあったようだ。
尤も、それも当時の米国の望むところであったのかもしれないが。
右翼が刺した事には、「使い捨て」にする意思が働いていたのか、または「ほどほどにしておけ」との運命的な計らいなのか、興味深いところではある。

かなり後になってから、岸は米国から批判された事があった。
彼もうまく使われた人物だったのだろう。

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