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〈部落解放運動が隘路に入っていった理由〉 宮崎学 × 安田好弘 × 魚住昭 (MouRa「直言」)
http://www.asyura2.com/0601/social3/msg/190.html
投稿者 月読 日時 2006 年 6 月 10 日 14:55:18: ydTjEPNqYTX5.
 

http://moura.jp/scoop-e/chokugen/special/060607/s02/content02.html

宮崎:その人権の問題で言いますとね、僕が常に言ってるのは、戦後の部落解放運動に関してですが、人権を目標にした運動は成立しないと主張しているんだ。たとえばマイノリティに対する多数派の差別があったとした場合は、それは少数派の人権ということで主張していくわけですよ。ところが、これが逆転してましてね。じゃあ多数派の人権はどうなるんだと聞かれた場合に、マイノリティの人権ということでは多数派の人権の主張には抵抗できないんです。たとえば、部落問題でいうと、部落における改良住宅みたいなのができて、安い家賃で入れると。ところが、同和地区指定のすぐ隣にあるマンションの値段からいうと、それは3分の1、4分の1の値段なんです。多数のほうは、「俺たちは差別されてるじゃないか」と言えないのかと。多数派をマイノリティが侵害してるんじゃないかというような理屈がね、人権を軸にするとそういうふうになっていってしまうわけですよ。だから、僕は戦後の部落解放運動を見た場合に、一番言えるのはですね、人権を求める運動をやったらそうなってしまう。「反差別闘争」だったらわかると言うんです。多数派が少数派を差別した、けしからんと。それはそれで理屈としてあるんです。ところが、多数派も少数派も合わせて大きい「人権」という屋根を持ちましょうと言った瞬間に、少数派の人権がなくなっちゃう。なんで、こんなことばっかり繰り返しているんだろうと。これが実は今になってね、部落解放運動が隘路に入っていった真実の理由だと思いますよね。

魚住:今まで差別されてきた人間がね、多少特権を得てどこが悪いんじゃと、宮崎さんがよく言ってるけど、まったくそのとおりだと思うよ。そこで、人権という共通の土俵を設定するから、ややこしくなるんだよ。

宮崎:だから、もっと言うとね、差別されている人間が闘って、ある種の特権を得るとした場合、特権を得る代わりに差別を認めてやってるんですよ。逆に言うと。それでバランスを取っているに過ぎない。それが、「お前たちは特権があってけしからん」というのは理屈としてあるんですよ。それなら、「わかった。じゃあ特権を手放すから差別するのはやめてくれよ」というふうな切り返し方、反差別闘争であればそれが成立するんだけれども、「やはり人権でございますね」とか言ってると、それはもう全然ダメなことになります。結局差別はもっとひどくなる。

安田:ここまで話が進むと、ちょっと宮崎さんに話を聞いてみたいんだけど、マルコム]とかキング牧師とかいて、キング牧師が演説するわけですよ。演説した中身っていうのは、自分は夢を見ると。白人と黒人が同じテーブルについて同じ飯を食う時を私は夢見ているんだと。その彼の公民権運動からすると、宮崎さんの言ってる話と全然違う。それはどう思うの?

宮崎:「丘の上の陽の当たった家で……」ってやつでしょ? 夢はいいんですよ。でも夢に過ぎない。僕はそう思いますよ。今、ほとんどのところは実際こうなんじゃないですか? 「人権の行き届いた明るい社会を」ということになるんだけど、実際はそうじゃなくて、人権が行き渡ったことに「なっている」社会であって、実際には差別なんて未来永劫あるんですから。だから、それは「なかったことにしときましょう」みたいな話が前提になっているのは、やっぱり欺瞞ですよ、それは。だから、差別されている側はずっと反差別の闘いをやるしかない。未来永劫。それによって社会としてはバランスが取れていくだろうと。

魚住:だけど、キング牧師の公民権運動というのが、人権という「夢」がひとつの運動の広がりの源泉、原動力になってきたというのがありますよね。そこから公民権運動は、要するに白人も黒人も同じ人権を持っているんだから、差別されない平等な社会を作りましょうね、っていうのが白人の社会のある部分を動かして……。

宮崎:それは運動論の問題と……。

安田:戦略の問題と、それからハートの問題というのは違いがあるかもしれないね。

宮崎:僕が言うのは、確かにキング牧師が言ったように、黒人も白人も平等なんだと仮にあったとして、その理屈は一部では白人もそれを認めざるを得ない。そういう事態が白人にとっても便利な理屈かもしれない。だから、僕はこう言うわけですよ。君たちが「人権」と言う以上は、それをじゃあ「こうしなさい」ということはありえると思う。民主主義社会はいい社会だと言うのであれば、民主主義的にはどうなんだ、と切り返していくための、言ってみれば方便として人権とか民主主義っていうのは成立しうる。それ自体が運動の目的、骨組みには絶対になりえない。それをやったら相手と同じになってしまう。そこであっという間に終わりですよ、それは。

安田:議論を振ってしまって申し訳ないんだけど、「人権」という言葉に何を呼び込んできたかということも重要なことだったと思うよ。今、日本の中でこれほど人権が蔑まれている理由の一つに、人権の中に何も折り込んでなかったし、その中へ何も実現しようとしなかったことがあるんじゃないかと思う。「人権」という言葉の貧困さは、僕たちが人権に対して、貧困にしか対応していなかったからなんだろうね。本当は、人権というのは、実はもっと少数派の、宮崎さんが言ってるように、抵抗運動の中で闘われているそのものが人権だと。殺すか殺されるかのせめぎ合いの世界だと。ところがそうではなくて、「お互い愛しましょうね」とか、徒競走で1等、2等はやめましょうねとかの話に人権がすり替えられてしまったからね。

宮崎:それで言えばね、「ひとにやさしい社会」になるわけなんだけど、冗談じゃねぇ、オマエにやさしい社会だろうと(笑)。オマエが気持ちのいい社会のことを言ってるんだろうと。それはひとによって違うんだということがあるわけですよ。現実的にね。だから、僕はそういうふうに言うのにね、戦前の場合、水平社運動というのは、いろんな過程で分解していくわけだけど、一番迫力のある理屈は「一君万民」です。天皇の下に赤子はみんな平等なんだと。「じゃあ、俺は被差別部落民で、お前は大臣様だけど、同じなのか? 違うだろう。おかしいじゃねえか」というのがあったわけ。今は一君が民主主義になったり、人権になったりしただけの話なんですよ、それは。だけど、戦前の水平社運動の中で、一番運動が進んだのは、軍隊の中における反差別闘争なんです。

魚住:だから、一君万民思想でね、天皇の赤子だから、と。

 
http://moura.jp/scoop-e/chokugen/special/060607/s03/content01.html
 
宮崎:兵隊としてもっと闘うには平等にやってくれと。これは有効性があったにはあった。しかしながら、よく考えると一君というところはあるんですよ、それは。僕は、民主主義、人権なんてそんなもんだろうと思ってる。お前たちが一君だという以上は、一君万民だろうと。そういう理屈ね。つまり対抗的論理として、もっと言えば方便としての民主主義とか人権とかならありえるけど、本来的にはありえない。ずっと闘っていくしかないんですよ。

安田:本当に「人権」があるとしたら、その説明も、そうすることの弁明も必要ない、ただやるだけしかないんじゃないかな。戦略とか戦術とかね、そんなものは必要ない。戦略とか戦術というのはやっぱり政治であって、つまりそれは多数派か少数派か、力があるかないかっていうだけの単純な話なんです。

宮崎:人権派弁護士批判としては、そういうことがあるんですけども……。

安田:少なくともはっきりと言えることは、過去において「人権派弁護士」ってのはエリートでありね、スマートだったんですよ。切れ者だったんですよ。そしてエキスパートなんですよ。そういう人たちでないと人権派弁護士にはなれなかった。一生懸命司法試験受けてもなかなか受からなかった人たちは、人権派弁護士にはなれない。それが現実だったんです。

宮崎:今言われたように、僕たちは「人権派弁護士」を十把一絡げにして批判してるんだけれども、果たしてメディアなんかが今批判している弁護士、たとえば安田弁護士とかは、かつては人権派弁護士と名乗ったことは一度もない。

安田:うん、無縁でしたね。

宮崎:本人が「人権派」だと名乗ったことのない人間を「人権派弁護士」というふうに言うことは、差別用語であると。私は「人権派」などというそんな軟弱なものではないんだと言ってるとしたら、それは差別用語じゃないか、というようなことはやっぱり言ってやるべきだと思うんだけど。この人たちに対してはね。

安田:この人たちって誰を言うの?

宮崎:批判している人たち。

安田:もともと、「人権派弁護士」ってのは、自称した人たちはいないからね。自由人権協会っていう社団法人があるけど、その人たちも含めてね、「自分は人権派」だと言った人たちはいないでしょうね。誰も、いろんな人たちの弁護をやってきたわけだし、「人権派」だけで食ってきたわけではないからね。しかし、少なくともはっきりしてるのは、人権派=ステイタスとされていた時期があったのは確かなんですよ。

宮崎:どのくらいの時期まであったんです?

安田:そうだなあ、1980年代まででしょうね。日弁連の人権委員長の役職が重視されて、委員長の席が激しく争われたり、人権委員長を務めないと会長にはなれないとかね。

宮崎:‘80年くらいにはまだあったの? 

安田:ありましたね。「人権派弁護士」の頂点たる人が最高裁判所の裁判官になることもあった時代だったんですよ。

魚住:週刊新潮とか文春がね、「人権派弁護士」とか「人権」を叩く。あれはある意味では正当な部分もあるんだよね。さっき、安田さんが言ったように、「人権」っていうものの、貧困さ。「人権」と言ってきた人たちの貧困さ。その貧困さと「人権」というもののステイタスのギャップというのがずっと広がってきて、明らかにどこから見ても違うじゃないかと。言ってることとやってることがね。

安田:あまりにも落差があるよね。

魚住:あるでしょ。だからね、「人権派」批判というのは、僕は正当だとは思わないけど、相当な部分で当たってるところはあるんですよね。

安田:でも、僕は今回、不思議なことに新潮には批判されてない。なんでだろう?。やっぱり、僕は「人権派弁護士」ではないんでしょうね。

宮崎:そりゃ、内容証明送るべきだね(笑).。名誉毀損事件の時にね。お前たちだって、「人権派」を使うだろうと。十把一絡げにするんであればね。その中の人間を使ってるじゃないか。言った以上は、それはやめるんだなと。そういうことをキャーキャー言ってるわけ、こっちは。そういうレベルのことに関しては、あいつらは非常に弱いんですよ。この間はね、今まで「人権派弁護士」批判をやってきた人たちとは違う人たちがやってるんだよね。

魚住:今までやってきた人たちってのは?

安田:新潮でしょ、サンケイグループでしょ。でも、今はそうじゃないんですよ。「人権派弁護士」を批判してこなかったヤツらがしているんだよね。

魚住:誰?(笑)

安田:読売とか、毎日とか、テレビ朝日もそう。既存のマスコミですよ。彼らが、新潮とかサンケイグループに、2周も3周も遅れて登場してきたんですよね。耐震偽装のヒューザーの小嶋社長批判に典型的に表れていますよ。むしろ、新潮とかサンケイグループのほうが冷静で客観的なような気がしますね。

宮崎:最初からそういう問題意識を言ってたもんね。新潮と、正論は教育してるね。

宮崎:あいつはやっぱりどうしても無罪にしないといけないということかね(笑)。

安田:いきなり、話が変わってしまったけど、小嶋社長のインパクトはものすごいよね。
この時代では珍しいよね。こういう人が、このバカな時代にいたんだ、と。

宮崎:でも、ああいう人をたくさん作ってるみたいな気がするけど。この間のいろんなとこで。

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