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21世紀を担う子供に対する、躾教育・道徳教育が必要不可欠であると言うこと。
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投稿者 PCOG 日時 2006 年 9 月 17 日 09:27:59: QQblZfjbsVI.6
 

21世紀を担う子供に対する、躾教育・道徳教育が必要不可欠であると言うこと。

今日の学校教育の荒廃は目に余るものがある。その原因及び対策について、検討してみる事にする。先ず根本は終戦後の教育にある。GHQ(連合国軍総司令部)所属のCIE(民間情報教育局)は、教育勅語を日本の教育界から抹殺した。それと共に、謙譲・節約・勤勉・正直・中庸・純潔などの、それまでに培われてきた日本古来の美徳も、日本の教育から姿を消すに至った。それと入れ替わって、誤った自由・平等の思想が教育界を支配する事になった。

本来自由とは、国家権力からの自由を意味するものである。当然の事乍ら、社会共同生活を維持する為に必要不可欠なルール内での自由で有る事を忘れてはいけない。吾人はこのような意味における、自由で寛容な社会を創っていかなくてはならない。平等とは、スタート位置の平等・機会の平等を意味する。学問やスポーツの成績にランクをつける事を否定したわけではない。スタート位置の平等・機会の平等は当然保障されなくてはならないが、また努力・精進する人を正当に評価する社会を創っていく事も必要である。

ところで、今日の子供の両親および同年代の教師は、「教育は自由放任に限る」「親と子は平等である」「友達みたいな親子が理想的」と思い込んでいるのであるから、子供を叱るという発想がどうしても出てこない。若者に迎合して、若者を躾る事が出来ない。親の人格、教師の人格、子供の人格、は何れも人格そのものは平等である事は言う迄もない。如かしながら、子供が一人立ち出来る迄は人生の先達としての立場で、子供が社会に順応し得るように育成指導するべきである。勿論、ここに述べている「躾」は、あくまで、迸る愛情に基づく躾であって、所謂「児童虐待」とは無縁のものである。

因みに、教育には忍耐や道徳(モラル)などを身につけるための、厳しさを伴う父性的な教育と、人を受け入れ愛することを学ぶ、優しい母性的な教育が必要である。如かしながら、今日の教育は、母性的な教育が強すぎて、父性的な教育が不足している嫌いがある。幼児期には、人の優しさや温かさを教える母性的な教育を主体とするべきであるが、子供はいずれ厳しい社会に出て行くことになる。社会の厳しさに太刀打ちできるような父性的な教育を受けていない子供は、年頃になっても社会に適応出来ず、自信をもてなくなり、徐々に劣等感が増幅されることになる。そして、そのような教育を与えた親や学校に対する反感が高まり、そのエネルギーが家庭内暴力や学校内暴力へと変化する。更に劣等感が爆発したとき凶悪犯罪に走ることになる。よって、子供が小学校入学以降は、父親・教師がもっと表面に出て、父性的な教育をすることが、子供の将来を考えた場合必要不可欠である。「優しいだけの親・教師は真に子供を愛する親・教師ではない」という真理を親・教師は片時も忘れてはならない。

戦前の思想が全て間違っていたわけではない。悪弊は当然捨てるべきであるが、日本人が祖先から受け継いだ醇風美俗は、大いなる資産として、吾人は之を子孫に伝承する義務がある。なお、戦前の教師は、国家権力の命ずるままに、率先して、その子弟を戦場に送り込んだという自責の念に対する反動が、あまりにも強すぎたために、戦後は、二度と同じ過ちを繰り返してはならないとの反省の結果が、軍国主義復活排除を盾に、国家権力の指示には、その善悪に関係なく全て反対の立場を日教組に採らしめたものと思料される。その結果今日に至るまでの間に、教職員組合(日教組・全教)によって道徳教育が破壊され、社会全体の子供に対する教育力の低下との相乗効果によって、「民主主義は公共精神(道徳)によって支えられている」という真理を認識し得ない倫理観の乏しい人間が大量に生み出される結果を招来した。

誤解を招かないように付言すると、提言4で詳述している「政教分離」の規定は、宗教を厚く保護する規定である。宗教教育の禁止は、公立学校そのほか公立の営造物に対してのみ適用される。教育基本法(9条1項)も「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。」と定めている。従って、特定の宗教のための宗教教育・宗教活動を禁止しているのであって、子供に対して、道徳教育の基盤として、宗教を学問的に研究して教える事は学問の自由(憲法23条)に含まれ、憲法の保障するところである。なお、私立学校による宗教教育や家庭における宗教教育については、「政教分離」の適用はなく、道徳教育の基盤として、推奨されるべきである事は論を俟たない。

ここに吾人は、子供が成長して社会生活をなすに当たって、良好な人間関係を維持する為の潤滑剤として、躾教育・道徳教育が必要不可欠のものである事を肝に銘ずる必要がある。社会人教育の第一段階は、幼児期に基本的な躾つまり、「挨拶・返事・片付け」を徹底すれば、もうそれだけで、人間としての軌道に乗る事が出来る。「鉄は熱いうちに打て」「三つ子の魂百まで」の格言の如く、遅くとも小学校入学迄に躾をしないと手遅れになると言われている。社会人教育の第二段階は、小学校入学から中学校卒業迄の義務教育の期間に於いて、道徳教育を徹底して実施する必要がある。

それでは、ここで戦前我が国の教育の指針とされた教育勅語のうち、今日でも立派に通用する個所を抜粋する。

父母に孝に兄弟に友に、夫婦相和し朋友相信じ、恭倹己を持し博愛衆に及ぼし学を修め業を習い、以って知能を啓発し徳器を成就し、進んで公益を広め世務を開き、常に国憲を重んじ国法に遵い、一旦緩急あれば義勇公に奉じ云々。

「公」を偏狭な愛国心として捉えるのではなく、「公共精神・道徳・地球の平和」と捉えれば、今日でも立派に教育の指針として通用する。自分の国を愛する心は勿論大切であるが、「自分の国だけを愛する」といった、あまりにも偏狭な愛国心を持ってはいけない。日本国憲法前文に基づく国際協調の国是に悖る事になるので、日本国民として執るべき姿ではない。

終戦後、連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー(1880〜1964)が、日本から軍国主義教育を廃絶する為に設立したCIE(民間情報教育局)は、教育勅語が日本の軍国主義の温床であり、民主主義を阻んできた元凶であると考え、教育勅語を抹殺してしまった。如かしながら、東洋哲学に基づいた教育勅語の文言は、天皇主権主義に係る文言以外は、今日でも世界に通用する立派な教育の指針であり且つ道徳教育の指針でもある。軍国主義育成の道具として悪用された点に問題があったわけである。

如かして、教育の基本は、「愛情に基づく厳しさを伴ったもの」でなくてはならない。特に義務教育に携わる教師たる者は、通常の労働者としての意識を払拭して、よい意味のエリート意識を持つ必要がある。つまり21世紀の地球を宇宙の楽園にするかしないかは、今日の子供の教育の成果如何に懸かっている事を念頭に置いて、迸る愛情と情熱を持って命懸けで子供を教育する義務が有る事を認識する必要がある。子供の両親もまた然り。愛情を持って命懸けで、子供を躾る義務がある。なお、学校教育の荒廃は、社会全体の責任で有る事は論を俟たない。よって、吾人は子供が道徳に反する行動をとった際は、直ちに注意して止めさせる努力を怠ってはならない。

ここに、教育基本法の前文・1条・2条・9条を参考までに記載する。

前文
われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。

われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。

ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

第1条(教育の目的)
教育は人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

第2条(教育の方針)
教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。

第9条(宗教教育)
1.宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。
2.国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。

教育基本法は、終戦後、当時の日本を代表する有識者8人の委員で構成された、教育刷新委員会の手で作成されたものであり、教育の憲法とも言えるものである。個人の尊厳、個性の確立、は民主主義の基盤をなすものであるが、個人にあまりにも重きを置き過ぎると、自分自身だけの為に生きる事になる。公の為に生きる必要がある事を忘れてはならない。個人が社会を構成するわけであるが、また社会あっての個人でもある。「民主主義は、公共精神(道徳)によって支えられている。」この「真理」を吾人は、日本国憲法の前文・12条・13条及び教育基本法の文言の中から汲み取る必要がある。教育は、人間を洗脳・マインドコントロールする力を持った「もろ刃の剣」である事を吾人は肝に銘ずるべきである。

因みに、文部大臣の諮問機関である中央教育審議会が1998年にまとめた「心の教育」に関する報告書は、社会全体の子供に対する教育力の低下を指摘したが、その原因は、利己的・享楽的・刹那的・拝金的な「大人社会自体の精神の荒廃」にあると分析した。正に、「正鵠を射たもの」と受け止める事が出来る。

最後に、日の丸・君が代問題に付言する。1998年6月のサッカーW杯では、フランス迄応援に駆けつけた日本の若者が、顔に日の丸をペイントし、君が代を大合唱する姿が見られた、これは日本チームを応援しようとする情熱の自然な反映であり喜ばしい事である。日本が今後国際協調を基本姿勢として発展をなすに当っては、国旗・国歌は必要不可欠のものである。

如かして、日の丸・君が代には過去の軍国主義の悪いイメージが付きまとう点などに問題があるので、この際国民の気分を一新するためにも、21世紀に通用する、新しい国旗・国歌を国民からの公募により制定して、堂々と且つ親しみの心をこめて、学校等の公共の場所並びに各家庭で、どしどし使用し且つ歌うように、強制ではなく自然な形で仕向ける必要があると思料される。

さて、国家が公式の国旗・国歌を持つ事は、自然な姿であり喜ばしい事である。如かしながら、慣習に従い使われて来た国旗(日の丸)・国歌(君が代)が、必要にして充分なる審議が尽くされる事無く、そのまま性急に「国旗国歌法」として法制化された事に対しては、絶対反対の立場を執らざるを得ない。その理由を次に列挙する。

1.日の丸・君が代は、過去の軍国主義・ファシズムのイメージを髣髴とさせる嫌いがある。そのまま法制化する事は、絶対平和主義、国民主権主義、人権尊重主義、など近代民主主義のあらゆる理想を盛り込んだ日本国憲法を戴く日本国民にとっては、全く耐え難い愚行であるとしか思えない。

2.特に、天皇崇拝を謳った君が代の歌詞は、将来的には好むと好まざるとに拘わらず当然消滅すべき運命にある、前時代的な国家の組織形態としての君主制、を賛美する内容である。

3.日の丸が風になびく姿は、実にシンプルな美しさを示す。然しながら、日本はそれを先頭に立てて、アジアの諸国を踏みにじったのだ。国旗はやはり、隣国の人々からも愛されるものでなければならない。

4.国際協調主義のもと、地球(世界)平和達成のリーダーたるべき日本であるから、地球(世界)各国の有識者から賞賛されるような新しい国旗・国歌を、原則として国民からの公募により且つ時間をかけて、じっくりと検討したのち決定して、日本国民の合意と祝福のなかで法制化がなされるべきである。

なお、「国旗国歌法」に係る「日の丸・君が代の強制」の違憲性について、憲法19条(思想及び良心の自由)の立法趣旨に仮託して論述する。近代国家に於いては当然の原理である「国家は、人の内心、個人の自由な価値判断には、無干渉・中立でなければならないと言う原理、所謂、中立国家の原理」を、特にわが国では、宣言する必要があった。何故ならば、従来日本では、天皇が政治的世界においてのみならず、精神的・道徳的世界においても、最高の権威であると考えられており、人の内心に対しても強い影響力を認められていた。つまり、天皇の意思によって、真善美が決定され、国民はそれに服従しなくてはならない、とされていた。この悪弊を払拭する目的で、憲法19条が立法されたものである。

憲法19条(思想及び良心の自由)
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

ここに、国家の組織形態・統治形態としての君主制を認めると言う事は、「人間は生れながらにして、その身分には上下がある。」と言う事を肯定する事になり、その事は取りも直さず、人種の差別、身分の差別、職業の貴賎、等の非人道的な差別概念を生み出す制度を容認する事になる。「人の上に人なく、人の下に人なし。」とする民主政治の平等主義は、本来君主制とはなじまないものである事を、吾人は認識する必要がある。

例えば、米国の白人優越主義の秘密結社クー・クラックス・クラン(KKK)の活動に見られるように、一部の白色人種の心の中に、今日でも強く根付いている有色人種に対する差別概念を払拭する為には、英国や日本等に前時代的な残滓として未だに現存する君主制を地球上から廃絶させる必要がある。

そもそも特定の家系に連なる人間を、ただその血筋ゆえに生まれながらに尊いと考えるような不合理を押し通す体制のもとでは、逆に特定の血縁集団に属する人間がその血筋ゆえに無条件に卑しいものとして差別され排除される結果になるのも当然の理である。日本に於ける同和問題の抜本的な解決も、君主制の廃止無くしては有り得ないと言う事である。叙勲における官尊民卑の等級差別や等級による人格差別、実力主義を阻む権威主義、等何れも亦然り。

更に、神道の祭主である天皇を日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると定めた憲法の規定そのものが、政教分離の原則に反するものと言わざるを得ない。君主制は、日本における民主主義の成熟を阻害する要因であることに日本国民は覚醒するべきである。

誤解を招かない様に付言すると、飽くまで思想家としての立場で、天皇と政治との分離の必要性を述べたものである。つまり、国民主権主義を謳った日本国憲法1条の立法趣旨に基づいて、国家の組織形態・統治形態を捉えて見た場合における、君主制(象徴天皇制)の否定であって、天皇並びに天皇家の否定ではない。吾人は日本国民として、条理上「君主制に基づく自由権侵害の桎梏から解放された天皇・皇族の人格、並びに文化としての天皇家の存在」を尊重すべきである事は、論を俟たない。

なお、女性の天皇や、天皇の自発的な退位を認める皇室典範改正の動きが見られるが、近代的民主主義思想の根底たる、自由及び幸福追求権をも含む個人人格尊厳の理念からも、人道的な見地からも、進歩的な思想の台頭であると評価出来る。「退位の自由・天皇制の廃止」をも含んだ21世紀に相応しい進歩的な皇室論議が展開されることが期待される所以である。

ここに、天皇・皇族を生涯に亘って、制約で雁字搦めの囲いの中に閉じ込めて自由を剥奪する事は、21世紀の今日に於いては正に人権(自由権)侵害そのものである。天皇・皇族の人権を守る為には、憲法を改正して、天皇・皇族に係る第一章の規定を全て削除する。天皇を政治から完全に縁を切って、宗教法人である神道(靖国神社)の祭主とすれば、慰霊は万全のものとなり、天皇・皇族の人権も保障される。総理が敢えて参拝する必要もなくなり、政教分離の原則も確立する。

即ち、憲法を改正して天皇・皇族に関する規定を外して、天皇・皇族と政治とを完全に分離する。天皇・皇族は文化的存在として残る。如かして、天皇家は国家予算(宮内庁関係予算約190億円)に依るのではなくて、宗教法人あるいは財団法人として、天皇家を支えたい人達が支えるのも一つの方策ではないかと思料される。

更には、菊の紋章をブランドにした株式会社を設立して市場に参入する方策も考えられる。ブランドイメージに基づく会社の発展が約束される事は必定である。勿論、天皇及び皇族の意思が最大限に尊重されるべきであることは当然である。例示として、天皇・皇族が菊の紋章の清酒・製菓会社を設立して、代表取締役・取締役若しくは大株主になれば、信奉者の協力で事業は安定して、東証一部上場は間違いない。日本国民としての天皇・皇族の生活は経済的にも極めて安定したものとなり、21世紀の人類にとって一番大事な「自由」を満喫できる。彼等も人間としての最高の幸福感を味わうことが出来る。

因みに、現在の日本の国家組織形態は、象徴天皇制という独特の機構も認められているから、立憲君主制と議会共和制の妥協形態と捉えるのが妥当である。

それではここで、日本に於ける君主制廃止つまり天皇制廃止の必要性を要約すると次のとおり。
1.人は生まれながらにして、その身分には上下があることを肯定するこは、民主主義の理念に反することになり、人権差別の元凶となる。
2. 天皇制を温存していると、天皇は権力者の傀儡として利用されて、思想統一の道具とされる。
3.特定宗教である神道の祭主である天皇が、日本国の象徴であり国民統合の象徴とされるのは、日本国憲法が定める政教分離の原則に反する。
4.宮内庁関係予算、毎年約190億円は、税金の無駄使いである。
5.21世紀に於ける天皇制は、天皇・皇族の人権〈自由権)の侵害を醸成する。

憲法1条(天皇の地位・国民主権)
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

ここに、非人道的な差別概念を地球上から完全に払拭して、地球上に究極の平和を招来する為の理想社会である、地球共和国を設立する為には、外面的には提言2で論述しているように、国家主権の及ぶ領土の境界を示す国境の廃止並びに君主制の廃止、内面的には、提言5で論述しているように、人間が正しい人生観・世界観を持つ事なくしては、不可能である。

因みに、今日の時点で言える事は、終戦後、帝国憲法の改正手続きに依るのではなく、天皇制を廃止して、国民主権主義にふさわしい、議会共和制に基づいた新憲法(平和憲法)を制定公布するとともに、新しい国旗・国歌を制定して、すっきりした形で、地球(世界)の範とされる民主主義国家体制を創るべきであったにも拘わらず、米国首脳の指示により、当時の連合国軍最高司令官であったダグラス・マッカーサー(1880〜1964)が、日本占領政策を平穏裏に且つ効率的に実施するため、昭和天皇(1901〜1989)を懐柔利用した事が、禍根を残す結果を招来した原因であると思料される。最高戦争責任者である昭和天皇は、極東国際軍事裁判(東京裁判)では起訴されることもなく証人として出廷することもなかった。

よって、提言1で論述したように、憲法改正に係る日本国民の政治的自覚が高まりその結果、憲法改正に止まる事なく、例えば議会共和制に基づいた新憲法(平和憲法)制定の気運が醸成されたと仮定した場合、日本国民は、「国民の直接選挙により選ばれた大統領制を採用して、大統領に強力な権限を持たせる、つまり、大統領に行政権の首長としてのみならず日本国の元首としての地位を与える。」若しくは「議員内閣制を採用して内閣総理大臣に同様の地位を与える。」この二つの、国家の組織形態の何れを選択すべきかの命題に直面する事になる。政治的自覚のより一層の成長が日本国民に期待される所以である。

なお、森内閣に代わって、2001年4月26日小泉内閣が発足したが、小泉純一郎首相は最高の主権者である国民が選んだ首相を、主権者ではなくて象徴に過ぎない天皇が任命する首相公選制を主張している。前時代的であり且つ民主主義の成熟を阻害する象徴天皇制(君主制)を未だに墨守する消極的な姿勢は嘆かわしい限りである。

首相公選制を提唱するのであれば宜しく象徴天皇制を廃止して、国民の総意に基づく新憲法を創設して、例えば、国民の直接選挙により選ばれた大統領制を採って、大統領に行政権の首長としてのみならず、日本国の元首としての地位を与えることにより、21世紀における民主主義国家としての成熟を促進する創憲の姿勢(日本の国家組織形態の構造改革)を忘れてはいけない。

時代の大変革期に求められているのは、解決すべき問題を無理に既存の国家の組織形態に当てはめる努力ではなく、国家の組織形態そのものを新しい時代に適応したものに作り変える努力である。日本国民がこの真理に目覚める日の早からんこと期待する所以である。

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