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いじめを無くすためにまず私たちがすべきこと #1 #2 [ビデオニュース・ドットコム]
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投稿者 white 日時 2006 年 12 月 01 日 11:25:08: QYBiAyr6jr5Ac
 

□いじめを無くすためにまず私たちがすべきこと #1 #2 [ビデオニュース・ドットコム]

▽「いじめを無くすためにまず私たちがすべきこと(1)」

 http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20061130-01-0901.html

2006年11月30日
「いじめを無くすためにまず私たちがすべきこと(1)」
ゲスト:内藤朝雄氏(社会学者・明治大学助教授)
 再びいじめが社会問題としてクローズアップされている。前回と同様、今回も小・中学生のいじめ自殺がきっかけだった。今回は大臣宛に自殺予告の手紙が届くなど、いじめ問題が実はほとんど改善されていない実態を露呈している。今週のマル激では、なぜ人はいじめるのか。なぜいじめは起きるのか。いじめ発生のメカニズムを解くことで、いじめを無くすために短期的、長期的に何をすべきかを内藤氏とともに考えた。
 

学校の「聖域化」がいじめを生んでいる
神保 今ここに来ていじめの問題が急にクローズアップされていますが、この今の状況を内藤さんはどうみていますか。
 
内藤 基本的に起こっていることは昔と変わっていなくて、狭いところに朝から晩まで閉じ込められていて、暴力の被害を受けたり痛めつけられても、心理的な距離の調節ができないことが背景にあります。無理やりべたべたした共同体を強いられ、逃げることもできず、暴力を振るわれてもあまり警察沙汰とか裁判沙汰にできません。いつも学校の中で囲い込まれて、その中で教育の論理で処理されてしまって、非常に人間の尊厳とかが踏みにじられがちです。そういう現在の学校制度の中では、必然的にいじめが酷い状態で続くことが当たり前で、やっていることも全然長い間変わっていません。
ただしマスコミがある時パーツと取り上げて、「祭り」が起こって、また「祭り」が終わって取り上げられなくなって、また「祭り」が起こるというふうに定期的にいじめの「祭り」が起きるわけですね。そのときの「祭り」の御神輿・御神体が何故か自殺なんですよね。
 
神保 人が死なないとマスコミは取り上げないということですね。
 
内藤 人が死んでも死ななくても、子供たちが酷いことに遭っている点では同じで、自殺を御神体にして欲しくないと私は思います。いじめられて圧倒的に無力な人は、自分はこんなに酷いことをされて不当だと言って訴えるよりも、むしろ自分を殺すことで、これ見て悟れという、最後の逆転を目指すような自虐的な仕方しかできません。それはデュルケムの自殺論からずっとからある話です。
いじめというのは自殺という仕方で最後に抗議するものだという枠組み自体が酷い話で、自殺しなくても、もっと学校の頭を飛び越えて裁判沙汰、マスコミ沙汰、警察沙汰にして、学校なんてものはもっと簡単に離脱してもいいように、学校の重さを軽くすることで対処すべきです。
 
神保 なるほど。今回の一連のいじめ問題についての報道は、どうご覧になっていますか。
 
内藤 前回の「祭り」は、大河内清輝くんが自殺した時とか、その前の80年代の鹿川くんの葬式ごっこの時ですが、同じことの繰り返しです。識者と呼ばれる人たちが、子供を受け止めてあげなければとか、センチメンタリズムで涙を誘って、またそれで追い詰められた子供が自殺をする。
今までのいじめ研究の蓄積はなんだったのだろうかと思います。ほとんど無視されてきている。
また、マスメディアが、その発言する識者という人を選択する基準が非常に酷いです。例えば犯罪社会学とか分かっている人や、いじめ研究をこれまでやってきた人々を出さないで、普通の人にはできないような人生経路を辿って、何か情熱的に語る身振りで有名になった人をどんどん出して、それで心の問題にしていくという煽り方自体を止めた方がいいですね。
 
神保 問題の解決につながるような議論は、「祭り」の中でもあまりされていないというわけですね。
ところで文部科学省が発表しているいじめの発生件数は、明らかに近年減ってきています。94年には6万件ぐらいあったのが、今は約2万件です。数字の上ではいじめは減っているかのようなデータにも見えますが、これについてお二人はどうご覧になりますか。
 
内藤 これは学校がどのように隠蔽したがっているかのデータのようなもので、いじめのデータとしてはなんの意味もありません。基本的に学校はいじめを認めたくないので、なかったとできるものならそうしたいわけですから。
その学校の頭を飛び越えて文科省がダイレクトメールで子供たちにアンケート用紙を配って回収するというやり方でなければ、現実に近い近似するような発生件数は得られないと思います。
 
宮台 一般的に、世の中がいじめ問題で沸騰しているときには、比較的いじめの報告を上に上げ易いです。しかしいじめが沈静化してきたという印象が社会的に広がるにつれて、にもかかわらず自分のところではいじめがあると言われたくないので、隠そうとする動機が増えます。
いじめ問題が起きると、メディアも含めて、いじめられる側に何らかの原因があったのではないかという探索は積極的に行われる一方で、いじめを支えているメカニズム、それはメカニズムにはいわゆる社会的なメカニズムもあれば人格的なメカニズムもありますが、そういう話は実はあまり話題にならないですよね。
 
神保 一方で、いじめもディテールを報じることで、そういうやり方もあるのかと真似されると、メディアは責任が問われるのが嫌なのでやめるという面はないですか。
 
内藤 私はディテールをどんどん報道すべきだと思っていますが、その際に必ず制度変革の提案や、いじめた奴をちゃんと処罰しなければならないことも報道すべきです。
被害者にとっては、学校に行くと加害者が学校にいること自体が、非常につらいことなので、被害者と加害者の教育権を考えた場合は明らかに被害者を優先すべきです。教育権よりも、暴力を受けないという人間の尊厳や人権の方が相対的に重いのです。だから加害者は対悪化し、思春期以降の場合はきちんと刑事罰を課す。そういうふうにマスコミが形を示し、正義がきちんとなされるという状況であれば、いじめられた子は、わざわざ自分を痛めつけること見せ付けなくて済むわけです。
 
宮台 警察を学校に入れたり、司法プロセスを教育に介入させたりすることは、僕も本当に大切なことだと思います。随分前に、いわゆる教師による体罰が問題になったときにも、僕はとにかく警察を積極的に導入すべきだと言いましたし、対照性や公平性の問題からも、生徒から生徒、生徒から教員に対する暴力についても、警察を導入するべきだとずっと言ってきました。
ところが実際には、司法的にむしろ教育というある種アジュール的な意味で甘やかされて、市民社会のルールが適用されません。なぜ市民社会であれば呼び出せる、警察や司法が使えないのか。その辺は何故だと思われますか。
 
内藤 学校と教育と子供というものが、神聖なものと位置づけられているからだと思います。神聖なるものとされた場合は、通常の市民社会の論理が解除されて、チェック機能が効かなくなることに漬け込んで悪い奴らがやりたい放題やる。
北朝鮮とか戦争中の日本もそうですけど、ある聖なるものの傘の下で最も不正や汚いことが蔓延しました。むしろそういう不正から人間を解放するためには聖なるものの傘を潰す必要があります。
 
宮台 興味深いのは、いわゆるリベラルといわれる立場の人に、学校の神聖性を積極的に唱える人が多いことです。学校は、ルールが支配するよりも、感情や情緒が支配するべきで、それは優しさ、思いやり、またはある種宗教的な包摂性や包括性を期待するべき場所にすることによって子供はちゃんと育つのだといったような議論が、繰り返し出てきています。
 
神保 聖域理論だと感情が支配する話は、やっぱり最後は教育勅語とかそういう話になるのですか。中学時代を思い出すと、柔道何段とかの体育科の先生が暴れているのをおさえようと思ったら警察以外無理ですよ。でも当時警察を呼ぶなんて考えもしなかったですよね。その聖域の源泉は何でしょうか。
 
内藤 聖域というのは、例えば社会の変動の中である動物が絶滅すると別の動物がその位置を占めるというふうに、何か生態学的な絵柄が変わるみたいにできるものです。
例えば誰かが家族を聖域としようと法律を作って、家族が聖域になったわけではありません。一昔前は家族は聖なるものだったから夫は妻を殴っても警察は介入しないのが当たり前でしたが、ドメスティックバイオレンスがどれだけ酷いかを、人々にちゃんと啓蒙したお陰で、妻をボコボコに殴った男は逮捕されるようになりました。それで家族というものが冷たくなったかというとそうではありません。むしろ、家族は暴力から解放されて、より良いものになっていくだろうと思います。学校も聖なる位地を剥ぎ取っていく方が良くなっていくであろうと考えることができます。
 
宮台 少しだけ補足しますと、例えば共同体というと、普通日本以外の国では、ヴァナキュラーな(=その土地特有の)、ローカルな共同体をイメージするわけですよ。アメリカの場合はやや例外的で、宗教的な結社をコミュナルなものとして想像します。
ところが日本は、ある種そのヴァナキュラーなローカリティーをいかに解除して国民を集権的な権力の元に置くか、つまり、国民化することが大きな課題になったわけです。維新以降、岩倉使節団系の開明派と呼ばれる人たちが、学校の先生と生徒の関係を、いわば親と子の理想的な関係だと言い出しました。親と子の理想的な関係が日本の家族として元来あったというよりも、そういう幻想を国民に刷り込みながら、情緒的に動員してきたのです。
それと平行して、天皇陛下はその最も偉い先生、あるいは最も偉いお父さんというように、ある種情緒的な関係性の延長線上でイメージをさせていきました。つまり、田吾作を国民化するプロセスで、学校を感情のゲームの一つのモデルとして国民に示し、それのコロラリーの変異系として国民が田吾作ではなくて、国民になるために天皇陛下をお父さんとしてリスペクトするという、やはり感情のゲームを持ち出したと考えると分かりやすいですね。
 
神保 先程、宮台さんがリベラルの勢力の方々がどちらかというと教育を聖域化する傾向があるとおっしゃいましたが、教育にあまり政府とかを入れたくないという側面はないですか。つまり教育が聖なるものであるかはともかくとして、あまり政治的なものに左右されるべきではないというような要素はなかったのでしょうか。
 
宮台 ありましたね。もともと教職員組合の力は非常に強く、日本の55年体制下における左翼、左翼という意味でのリベラルの支配下にあり、ベトナム戦争やあるいはそれ以前も、反戦教育、平和教育が積極的になされていました。
それに対して、佐藤政権のときに、「望ましき人間像」などと言って、組合的な価値観とは別の人間像を提示しようとして失敗したために、冷戦体制化的な図式が、学校と政府との間に創造されていたました。そこには市民社会というものは登場せず、学校はリベラルの権益で、政府は右の権益というようなイメージでした。
 
内藤 そこに大きな悲劇がありまして、私は右でも左でもないリベラリストの独立勢力、つまり左翼ではないリベラルを作る必要があると考えています。日本の戦後の悲劇とは、右と左の全体主義者がありとあらゆる論点を独占しながら戦ってきたため、そのお陰で左翼でも右翼でもないリベラルが育たなかったことです。
戦後になって、学校を聖域にする意味もなくなったにもかかわらず、戦前の日本を理想化する右の動きと、政府から独立して学校を共産主義的な共同体にしたいという情熱を持った左翼の人々の勢力が非常に強くありました。いわゆる市民的な自由は、ブルジョワ的な自由だと嫌われて、結局右と左が対立する中で学校を作っていったため、市民的な自由や市民社会の論理というのは右からも左からも排斥されました。(PART2へ続く)


▽「いじめを無くすためにまず私たちがすべきこと(2)」

 http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20061130-02-0901.html

2006年11月30日
「いじめを無くすためにまず私たちがすべきこと(2)」
ゲスト:内藤朝雄氏(社会学者・明治大学助教授)
「いじめ」の本質とは
神保 なるほど。日本には特殊な歴史的な経緯というか文脈があるということですね。
そもそもいじめの定義というと堅苦しいのですが、何かコンセンサスのある定義はあるのですか。
 
内藤 いじめという言い方は80年代半ばに日本語として流通した言葉です。それ以前は、「いじめる」とか「弱いものいじめ」という言葉はありましたが、これはいじめだと問題化する言葉は新しい流行語です。しかも運用によって意味が定まる自然言語なので、定義は、むしろ自然言語の様々な家族的な類似性の中から何をしたいかという目的に応じて可能性を汲み取る仕方で、操作的に定義するしかないのです。
私の定義では、最広義と広義と狭義という三つの使い勝手に応じてありますが、最広義では「実行的に遂行された嗜虐的関与」です。嗜虐というのがコアにありまして、相手の苦しみを享受し、相手の苦しみを目的にしなければ、やはりいじめではないでしょう。「実行的に遂行」とはどういうことかと言うと、戌の刻参りなんかで夜中に藁人形に釘をカンカン打っても、いじめではないということですね。
 
宮台 楽しむということと、実際に相手が苦しむということ。これはおもしろい定義ですね。例えば、戌の刻参りのような呪術は、昔の共同体的な社会の場合、吉本隆明が言っているように実効的な苦しみを生み出す可能性がありました。つまり本当に病気になってしまったりする現象があったわけです。今ではもうそれは滅多にないですからね。
 
内藤 だからクスクス笑いとかシカトとかいうのは、学級制度のない、広い人間関係で自分が心理的に距離自由に調節できる場合には、戌の刻参りと同じでなんの効果もありません。例えば大学でシカトされたら、もっと楽しい人と付き合えばいいだけなので、シカトは何の意味もありませんが、学級制度という非常に狭い中で人とべたべたしないといけないから、シカトやクスクス笑いが実効的な遂行になるんですね。
さらに、「いじめ」の広義は、「社会状況に構造的に埋め込まれた仕方で起こる実効的に遂行された嗜虐的関与」です。社会的に構造的に埋め込まれたものなので、例えばある奴がある奴をボコボコに殴るにしても、道端で知らない人殴るのとは異なり、学級制度の中では次の日も行かなければならない。しかも警察を呼べない。裁判沙汰にできない。先生に言うと仲良くしなさいと言われる。
さらに学級制度の下ではもっと意義深いのが、(狭義のいじめの定義である)「集合性の力を当事者がリアルに体験するような仕方で起こる、社会状況に構造的に埋め込まれた実行的に遂行された嗜虐的関与」です。その群れの力をリアルに感じるというのは、一番確信的に重要な問題であって、群れた人々の力があるからやってしまうわけです。
 
神保 その群れとは傍観者でも良くて、皆でいじめるのではなくて、ただ見ているだけでも群れというわけですね。
 
宮台 僕は小学校のとき6回転校しましたが、例えば東北から関東に来るとか、関東から関西に行くと文化が違うわけですよ。そうすると、基本的にコミュニケーションのルールが違うわけです。実際に遊びの呼び方も全然違う。そうすると例えばクラスの誰かと誰かが目を見合わせて笑っただけで、僕は被害的な感情になり傷つくわけですよ。内藤さんがおっしゃった「狭義のいじめ」の共同体や集団の力を使うことの微妙さは、まさにこの関係性にかかわるものなので、リアルな関係なのか、関係妄想なのかっていう線引きが難しいのです。
しかし、僕が転校生だったから抱いたある種の被害感情は、後から考えると関係妄想に見えるわけです。実はそこに重要な問題があって、訴えてもそれは気のせいだよっていうコミュニケーションが実際あり得るのです。
 
神保 つまり「いじめ」を非常に平板に言うと、まずいじめている側が「楽しむ」という要素があり、それが「構造的に埋め込まれた」ということなので、日常的に、あるいは学校が典型でしょうが、一過的なものではないという要素があり、それから「集団」という要素があるわけですね。
ところで「いじめ」は、英語ではやっぱり「bully」ですか。ニュース原稿レベルでは基本的にはbullyです。ただbullyというと必ずしも今内藤さんがおっしゃった、皆でそれを見て楽しむ要素はあまり感じられなくて、一過的なものでも十分にbullyになる感じはします。たまたますれ違った人にするだけでも、力関係にあって優位にある方が弱い方をやっつけるようなのもbullyです。
ところで、「いじめ」自体は、日本固有のものなのでしょうか。あるいは、日本に固有の要素はあるのでしょうか。
 
内藤 基本的にいじめは世界に普遍的で、日本固有ではなくどこにでもあります。
 
宮台 ただ、先程「いじめの」英語訳がうまくフィットしなかったことにもみられるように、実際に起こっている現象は、特殊といえることがたくさんあります。
「ハブにする」は「省く」からきていますが、一度はぶかれたら、二度と回復できないような、一元的あるいは単一的所属しかない場合には、はぶいたらこれは直ちにいじめになるわけで、このメカニズムは万国普遍です。
しかし現実問題として、はぶかれたら他にもう行き場がないような環境があるかどうかについて、日本の小学校、特に中学校というのは非常に特殊な場なのです。文部科学省によるいじめの発生件数をみると、中学校で極端に増えているのに対し、他のOECD加盟国の国では、大体小学校5年生6年生がピークで、中学校になると著しく減ります。
しかしこれは日本の国民性が特殊なのではなく、今日本にしか置かれていないある種の条件、あるいは日本しか使っていないプログラムがあるからこうなるというふうに考えた方がいいのです。では、欧米と比較したときに、なぜ日本だけが、中学校のいじめが多いのでしょうか。
 
内藤 世界は欧米と日本ではないので、アジアやアフリカの国々のなかには、おそらく日本並みのところもあるかもしれませんが、一般には、人は幼児状態の延長にある身分的な環境の中で保育されている状態から、第二次成長以降になると市民的な状態に移されていきます。なるべく自由と自己責任という枠の中で、普遍的なルールによって動くようにしておく必要があるのです。
ところが日本では、小学校から中学校に上がるときに、その真逆をやってしまうのです。つまり、先輩後輩とか、お前は生意気だとか、身分的な従属を示すために制服を着せることをやるので、本来ならば市民的な状況にすべきところを、反市民的な、身分的な共同体関係を強烈に強めるのです。
しかもおもしろいことに、中学校三年生になっていじめの件数が減るのは、受験勉強のせいなのです。日本の馬鹿な教育評論家たちが、受験が子供を損なうとか詰め込み教育が子供を悪くするとか、いじめですら詰め込み教育のせいだと言っています。しかし、むしろ共同体の強制の方が圧倒的に有害で、受験勉強という個人が地道に勉強して共同体と離れて努力する業績主義になると、いじめは減るのです。
 
宮台 おもしろいですね。ちょっとそれに関係する話をしますと、学歴社会は日本でよく批判されますが、僕はこれはおかしいと思うのです。多くのヨーロッパの社会や、アメリカもそのコアなエスタブリッシュメンツでは、階級的共同性が重要になるわけです。つまりコネクション、共通感覚やハビキスです。そうすると、学歴をいくら積んでも基本的にネットワークに入れない人間が出てくるわけです。
他方、日本では、特に維新以降の近代化のプロセスで旧帝大的エリーティズムが非常に重要視されました。これは貧しくても学歴を積みさえすれば、高級官僚や軍人さんの偉い人になれて、社会的なリスペクトも得られるし自尊心も満足できるということです。
そういう部分を理解しないリベラルや左翼の人たちは学歴社会を批判します。社会学者から見ると、学歴社会批判をすることは、エリーティズムを含めた、ある種のコネクションや共同性、簡単に言えば学歴を積んでも入れないような何ものかを肯定することに結びつきやすいのです。受験競争は確かに辛いです。学歴競争は確かに辛いです。しかし他につらいことはないかということです。
 
神保 なるほど。コネとか生まれとかで決まってしまう要素が強くなってしまうのですね。かえってそっちの方がどうにもならないですね。
 
内藤 こういうふうに左翼の悪口を言うと、今これだけ右翼が強くなってタカ派の世の中になっているときに、さらにタカ派の味方をすることになるという言い方があるのですが、実は全く違います。今、何故これだけタカ派が強くなっているかというと、対抗する勢力が左翼という馬鹿な人々に独占されてきたからで、日本の右傾化を阻止するには、左翼はもうクビにしなければいけないのです。左翼をクビにして、右でも左でもないリベラリストの独立勢力を日本の右傾化を阻止する勢力として育成しなければならないのです。
 
宮台 歴史的な経緯から言いますと馬鹿な左翼にほどほど嫌気が差した人間たちが出ていた場合に、彼らの受け皿がないので、馬鹿な右翼に行ってしまうのです。
 
神保 なるほど。日本では中学校でいじめが増えるという話に少し話を戻したいと思います。そもそも何故人は人をいじめるのかについては、どういう説明がなされているのでしょうか。
 
内藤 それは何故人が人を愛するのかとか、何故人が幸せになりたいのかのように、答えることができない問題ですが、悪質ないじめが蔓延する場合、その大きなメカニズムを占めているであろう一番真っ黒な部分についてはモデルを作ることができます。
他人を完全にコントロールすることで、私の言う「全能の感覚」を享受しようとするタイプの社会的な様式は、真っ黒な部分のモデルとして有効ではないかと思います。
 
神保 人が人を愛するのと同じようにとおっしゃいましたが、これは誰でも人間は持っているもので、放っておけばいじめてしまうものですか。
 
宮台 柳田邦男が、昔から日本の共同体における子供の位置付けは、非常に特殊なものであると言っています。柳田邦男はイギリスとかアングロサクソンを主に比較対象にしていますが、特にアングロサクソンでは子供の時には、むしろ家畜と同じように徹底してしつけをします。しかし、第二次成長、つまり昔で言うと通過儀礼の後になると、自己決定と自己責任のルール、つまり自由な人間をルールで契約して社会を営もうとする世界に持ち込むので、むしろ社会は彼らを解放するのです。
しかし日本はそうではなくて、子供には子供の楽園みたいなものを享受させて、通過儀礼の後大人の共同体に入ります。それは大人の共同体で、子供のときのルールは通じないよということで、むしろ締め上げるのです。これは欧米と全く逆向きで、もちろん日本の武家社会のあり方とも密接に関係します。
昔は通過儀礼のビフォアとアフターということで、比較的社会を単純にイメージできました。大人の共同体というのはこういうものだと共有されたイメージが農民、町民、あるいは武士ごとに存在していたからです。しかし、今日では、大人の共同体が何なのかということについて合理可能な、あるいは誰もがコミットメットできるようなモデルが既にありません。
他方で、昔ながらの先輩後輩、制服を着ろ、校則を守れといった締め付けは昔ながらにあります。昔だったら問題にしなかったそういった子供に対する扱いが、様々なストレスフルな状況を生み出すということはあります。
 
神保 内藤さんも本の中で書かれているように、いじめは日本だけでのことではなく、学校は大きく「教習所的型」と「共同体型」の二つのタイプに分けることができ、日本はラディカルな共同体型だそうですね。両者の違いについて、お話いただけますか。
 
内藤 例えばドイツとかフランスは、学校は勉強をするところだと位置づけているため、子供は学校以外でも色んな所で色んな人と付き合っています。学校でシカトをされたからといって、自殺をすることではありません。学校が甘いかというとそうではなくて、勉強は厳しく、人間関係は緩いわけです。
 
宮台 分かり易く言えば、多元的所属ないし、多重的所属を許容するかどうかということなのです。ヨーロッパの場合は許容しています。日本の場合は維新以降の近代化の戦略もあって、単一帰属、あるいは単一的な帰属を強いるのです。だから学校以外に行き場所がないのが子供たちの状況です。
 
神保 一応アメリカやイギリスは、あとスウェーデンとかも共同体型とされているのですね。
 
内藤 欧米と日本ではなくて、アメリカ型とドイツ型があるのです。日本は、アメリカ型の一番極端なやつです。非常に皮肉なことが起こっていて、アメリカとかイギリスとかのいじめ対策を日本が逆輸入して、子供たちに「ペアカウンセリング」とかいって仲間内でいじめを解決させたり、裁判をさせたり、話し合いをさせたりしています。しかし、いじめの加害者と被害者をつき合わせて、教員が話し合いをさせると、さらにそれが吊るし上げのいじめ祭りになるのです。
そういうやくざに十手を持たせるような、とんでもないことがあるにもかかわらず、イギリスとかアメリカは先進的な良いことをやっているだろうと真似すると、実は日本が最先端なのですからさらに酷いことになるわけです。だから同じ欧米というふうにではなくて、ドイツやフランスのようなタイプか、アメリカ、イギリス型かをきっちり分けた方が良いですよね。
共同体主義のテーマでいうとアメリカは世界の中では、ヨーロッパのドイツやフランスと比べると共同体主義的ですが、日本の共同体主義程度はもうべらぼうに高いので、アメリカやイギリスも、日本から見るとなぜか市民社会的に見えるぐらい、極端に日本の学校は共同体主義的なのです。
 
神保 これはどうも話をしていくうちに、日本の学校は過度に共同体主義を強いていることにいろいろな原因がどうもあるようだという話に行きそうな気配ですね。先程宮台さんがおっしゃった、岩倉使節団云々ということ以外で、何か現代の社会において日本の教育がそういう共同体主義をいまだに踏襲、継続している正当性の議論、論理はあるのですか。
 
内藤 機能的に考えると百害あって一利なしで、経済にとってもマイナスですし、市民的な自由にとってもマイナスです。つまり日本が成熟した先進国としての民度を持つのにマイナス要因ばかりなのですが、続いているわけです。歴史的に、右と左の勢力が社会的なオピニオンの勢力を独占していたために、こんな馬鹿なことやめようという勢力が強くなかったのです。右翼も左翼も全体主義が好きなんですよね。そういう意味で、学校の共同体主義をやめようというのと、右と左やめようというのは実は繋がっています。
 
神保 学校共同体主義の本質とはすばり何でしょうか。教育基本法ですか。それともカリキュラムですか。その学校共同体主義を主張する人がいたとして、それの後ろ盾は何でしょうか。
 
宮台 後ろ盾と言いますか、先程内藤さんがおっしゃったように制度的惰性態ですし、社会的な理論で言えば組織の自己運動、あるいは自己保存というメカニズムです。つまり社会的全体性の観点から見た場合は機能を果たしているかは別問題として、制度やシステムや意味論が、自己運動的に残っていくということだけです。それはボールをポンと転がしたら転がっていくというのと同じことが起きているのです。
もう一つ重要なことは、内藤さんは右も左も全体主義だったとおっしゃいましたが、僕の言葉で言えば、右は崇高なる精神共同体への所属を持って尊厳となす思想で、左は暖かい感情共同体への所属を持って尊厳となす思想なのです。
自らの尊厳、自己価値は、自分や自分が培ってきた経験が決めるという発想をする人たちは今でも非常に少ないです。
自己決定的な人間が増えると、組織にとっても国家にとってもいいことであるはずなのですが、短期的には和を乱す奴、ノリを乱す奴、あるいは企業的、集団的アイデンティティを脅かす奴といった悪印を張られて、排斥をされるということが起こるわけです。
内藤さんがおっしゃる意味での右的全体主義や左的全体主義ではないものを目指す場合には、良き人間のあり方についてのイメージが、結構重要な機能を果たします。何かに所属することをもって尊としという尊厳観から、自由にならなければならないのです。そこに実は一番大きな難点があるのかもしれませんね。(PART3へ続く)

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