★阿修羅♪ > 戦争78 > 401.html
 ★阿修羅♪
Re: <南京虐殺>捕虜収容所はなかった(浅井久仁臣 グラフィティ) 【浅井さんが補足された補筆版をUPします】
http://www.asyura2.com/0601/war78/msg/401.html
投稿者 gataro 日時 2006 年 2 月 13 日 21:37:46: KbIx4LOvH6Ccw
 

(回答先: <南京虐殺>捕虜収容所はなかった(浅井久仁臣 グラフィティ)【10万超える捕虜を監視・管理できず、結局、処分する】 投稿者 gataro 日時 2006 年 2 月 12 日 16:10:05)

2006-02-13 11:47:39
http://blog.goo.ne.jp/asaikuniomi_graffiti/e/39d681a12b3a7c8ce72ef57ac95dcec5


 中谷孝さんにお会いしてきた。中谷さんは、かつて陸軍特務機関員として日中戦争に参加された経験をお持ちの方だ。敗戦後、復員されてからは、80代前半まで仕事に趣味にと忙しい毎日を過ごされ、自分の戦争体験を公的な場で発表することはなかったそうだ。それがある日、ひと回り年下の妹さんから「戦後60周年、今私たちが戦争を語らねば」と迫られてその体験を手記にまとめられたという。

 手記を読ませていただき、ぜひ一度お会いさせていただきたくなった。というだけでなく、中谷さんと共に「昔の戦争・今の戦争」と題した講演会をして、「戦争を知らない世代」に戦争を語り継ごうと思い立った。

 中谷さんは大正9年生まれで現在84歳。私の父と同じ年に生まれている。父は若くして他界しているから中谷さんと比べようもないが、中谷さんがあまりに矍鑠(かくしゃく)とされているのに驚いた。年齢から言って足腰の弱ったお年寄りを想像していたが、目の前に現れたのは背筋がピンと伸びた素敵な老紳士だったのだ。

 特務機関員と聞くと、映画「OO7」のようなスパイを想像してしまいがちだが、中谷さんは現地の情報収集と通訳が主な任務であったとのことだ。通訳の仕事の重要なものに、捕虜の尋問があった。また、住民と戦闘員との識別によくかり出されたらしい。中国人の場合、しゃべる言葉で「お里が知れる」から住民の中に紛れ込んだ戦闘員を見つけるのには中谷さんのように中国語の達者な人は貴重であったのだろう。

 南方で生死の境をさまよった元日本兵に比べれば、恵まれた戦地体験であったかもしれない。だが、口をついて出る事実の一つひとつが私には貴重に思えた。

 「陸軍には捕虜収容所が事実上存在しませんでした。一部の例外(注)はありましたが陸軍で捕虜収容所を持っていたのは日露戦争まででしょう。乃木将軍が武士道を尊重する人でしたからね」
 「つまりは、捕まえた現地人は敵と分かれば全て処刑していたのですよ。私もそこに立ち会いましたから間違いはありません。その殺し方も、新兵の“度胸試し”として行なわれる斬首もありました」
 「南京虐殺はなかったなんてバカなことを言う人がいますが、10万人を超える捕虜を抱えて陸軍はどうしたか、考えれば分かることです。1万人の捕虜を100数十人の兵隊で監視することは不可能ですし、またそれだけの人数の食料をどうやって確保するかといったことも深刻な問題で、結局は処分するしかなかったはずです」

 捕虜を殺すことは、国際法に違反することである。しかし、余裕を失っていた日本軍は日常的に殺していたようだ。その斬首場面などの描写を聞いていて、背筋が寒くなったが、中谷さんは「戦争になりゃあ、そんなことは普通ですよ」とさらりとひと言。

 予定していた2時間はあっという間に過ぎてしまった。もっと聞きたい話は山ほどあったが、今日のところはあきらめることにした。後日、中谷さんと、神直子と、それに私の3人が都内で講演会をやる予定なのでそれまでのお楽しみということだ。講演会の詳細は追って皆さんにお伝えする予定にしている。その時はぜひ皆さんも足を運んでいただきたい。

(注)一部の例外:南方戦線で相手が欧米諸国軍の場合、国際世論を気にしてか、捕虜収容所を設けていた。

筆者からの補足:中谷さんが言われるように、日本軍が多くの捕虜を長期にわたって収容していた実例はほとんど記録に見当らない。特に、中国の前線では収容所を設けず、いったん身柄拘束した現地の住民は尋問した後、戦闘員と分かれば銃剣による刺殺又は、斬首をした。疑わしき者を丁寧に取り調べる余裕もなく多くの場合、殺害した。そして、現地人を大量拘束した南京では扱いに困った指揮官は殺害命令を出し、多くの兵士が証言しているように、女子供を含めて非戦闘員と分かっていても殺した。

 中谷さんの指摘のように、日露戦争までは、軍部では国際的地位を得ようと、欧米での戦争慣習と国際法を考慮した、敵国捕虜の人道的保護政策がとられた。日露戦争では、日本軍は「ハーグ陸戦規則」などの国際条約を遵守して、交戦国の捕虜を人道的に扱っている。

 ところが、軍部特に陸軍の中には捕虜になることは屈辱であるという思想が根強く存在した。そのため、1929年に捕虜の取り扱いを細部にわたって定めた「俘虜(戦前の日本軍の中では俘虜と呼んだ)の待遇に関するジュ一ネーブ条約」に調印した日本政府に軍部が、「帝国軍人の観念よりすれば俘虜たることは予期せざるもの」との理由で猛反発、その勢いに押された政府は結局、条約に調印したものの批准することが出来なかった。

 そしてそれは、1941年、陸軍大臣であった東条英機が出した「戦陣訓」に集約されていく。その一節である「生きて虜囚の辱(はずかし)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿(なか)れ」はあまりにも有名だ(ところがその東条本人が、戦後占領軍に捕まり、物笑いの種となった)。

 軍隊内でも捕虜の取扱いに関する教育が行なわれたとの記録がない。それどころか、中谷さんが言われるように、満州事変以降、捕虜になった中国兵をゲリラや「匪賊(ひぞく)」として現地指揮官の独断で処刑することが普通になった。太平洋戦争でも、日本政府がジュネーブ条約の「準用」を約束したが、軍部がこれを無視、連合軍捕虜に対する取扱いも極めて過酷なものとなった。

 過酷な収容所生活を生き延びて帰国した欧米人達がその実態を明らかにしたことで、対日感情は悪化の一途を辿り、1950年代に欧米を旅した人たちは現地の人たちから憎悪の視線を向けられ罵声を浴びせられた。また、71年に訪欧した昭和天皇は、各地で反日行動にさらされることになる。

 証人が多く、力関係から言っても敵わない存在であった欧米に対しては素直にその罪を認めてきたが、アジア諸国に対しては、敗戦後しばらくはこうべをたれていたものの、時間の経過と共に「健忘症」が悪化、「南京虐殺は存在しなかった」「従軍慰安婦は自らすすんでなった」等と、残虐行為そのものを否定するようになってきた。

 次へ  前へ

  拍手はせず、拍手一覧を見る

▲このページのTOPへ HOME > 戦争78掲示板


  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。