★阿修羅♪ > 戦争83 > 121.html
 ★阿修羅♪
「アジア・太平洋戦争中の日本の海上輸送力増強策」 論文要旨 ・・・古川 由美子
http://www.asyura2.com/0601/war83/msg/121.html
投稿者 hou 日時 2006 年 7 月 30 日 11:04:27: HWYlsG4gs5FRk
 

pdf↓

http://www.econ.hit-u.ac.jp/~edu/jpn/degree/doctor/2004furukawa.pdf

「アジア・太平洋戦争中の日本の海上輸送力増強策」

論文要旨古川 由美子

本論文は、アジア・太平洋戦争中の日本の海上輸送力増強策から、戦時経済政策の特質と、その政策展開の矛盾の構造を探るものである。
これまでの輸送の研究では戦時期の海上輸送研究が遅れており、海上輸送と国内産業、及び鉄道輸送・港湾との関係が置き去りにされていた。
加えて、海上輸送が危機に直面した時の状況、物資輸送に関する対応の研究が遅れていた。
また、従来の戦時経済研究では統制のあり方や、戦時経済の大きな動向とその性質、戦前・戦中・戦後の連続・断絶が考察されたが、いわば戦時経済研究はやや行き詰まった感があった。

 そこで本論文は、戦時経済政策の新たなる解明を行い、戦時期日本経済の問題を探るため、問題発生とその問題解決の行動様式に着目し、戦時期最大の隘路であった海上輸送力増強政策の展開を考察する。考察の方法として、海上輸送力増強策を直接的船舶増加策である造船と、間接的船舶増加策である船舶使用節約・運航能率の向上・陸送転移・中国大陸中継輸送と日本海側輸送について見ていく。

 本論文での留意点は、海上輸送と各産業との関連・海上輸送と鉄道や港湾との関係を探り、戦時経済政策の特質とされている臨機応変の対応・本格的政策実施の遅延・政策の一貫性欠如の有無を見るとともに、海上輸送力増強政策の展開における矛盾の発生とその構造を捉えることにある。

====第1章====
太平洋戦争中の海上輸送の概況日中戦争勃発時よりすでに船舶は不足し、船舶を効率よく軍需関係物資輸送に使用するため、海運への国家統制が強化された。

●1942 年 3 月 24 日には戦時海運管理令が公布され、国が命令で日本船舶を使用できるようになり、船舶運営会がその船舶を運航することとなった。
戦時中の船舶は大き

<A船(陸軍徴傭船)、
<B船(海軍徴傭船)、
<C船(民需品輸送船)の三つに分けられた。
戦争中は戦局の激化とともにC船が軍部に徴傭されて、船舶数は減少の一途をたどった。

●1945 年 5 月 1 日になって日本船舶をすべて国家船舶としてひとつにまとめ、大本営に海運総監部が設置された。

戦争による船舶の損耗と、軍部の徴傭、A船・B船・C船三船の複雑な形態と船舶一元化につらなる過程は、日本がいかに船舶不足に悩んでいたのかを表していた。

物資輸送の状況は、
>「日満支」と「乙地域」ではC船が、
>「甲地域」では陸軍軍政担当地区ではA船が、
>海軍軍政担当地域ではB船が主に運航していた。

「甲地域」の輸送物資はボーキサイトが目立ち、
「乙地域」では石炭・米・穀類など、「日満支」からは銑鉄・非鉄などであった。
C船の物資輸送の推移を見ると約半数の輸送量を占めたのは石炭で、戦争末期に増加したのは塩・穀類・肥料であった。

●1943 年 7 月には、「乙地域」からの輸送を削って「甲地域」と「日満支」に集中する方針となった。

●44 年 12 月には「日満支」自給体制確立を余儀なくされ、

●45 年には大陸資源依存から脱却することを必要とされるに至った。

--------------------------------------------------------------------------------
Page 2
こうして戦局の悪化と船舶減少によって、占領地域の後退から海上輸送の範囲を次第に縮小していった。

交通政策を見ると、

●1939 年度交通動員計画実施綱領では、海陸輸送の総合的運用、船舶新造の促進、配船統制、港湾事業の合理化が記された。

●41 年度交通動員実施計画綱領には、船舶不足から鉄道へ輸送が転嫁されることが予測されるため、鉄道輸送力の強化と海陸輸送の一貫化、船舶新造の促進、港湾施設の整備、港湾能率の向上が含まれた。船舶不足と海上輸送力不足は早いうちから認識されており、主要な海上輸送力増強策はアジア・太平洋戦争開戦前に政策として挙げられていた。

しかし造船の推進・港湾荷役力の増強・陸送転移・大陸中継輸送という政策の本格的実施は、後手にまわった。各海上輸送力増強政策はなぜ実施が遅れたのか。これらの政策はどのように実施され、その結果はどうだったのか。以下、各施策について具体的に追っていく。


====第2章====

戦時中の造船政府は、

●1939 年の平時標準型をさらに簡易化した、戦時標準型による船舶の計画的造船を実施した。

●42 年 12 月までは戦時標準船と、それまでに発注されて工事中の船舶・続行船の工事が平行されていた。

●12 月のガダルカナル島攻防戦で船舶の損害が広がり、

●43 年には船舶増産の強化が急務となった。第 2 次戦時標準船は第 1 次戦時標準船より船舶の性質を落とし、より大量生産が可能な船型となった。戦時中の造船の現場を見るために、

43 年 12 月から 44 年 2 月まで実施された第 6 回行政査察(甲造船)の資料を中心に抜き出して見る。

行政査察の報告書では、船種がしばしば変更されていたこと、

施設拡張の困難、
トラックの不足、
鉄道との連絡不十分、
資材や副資材の入手難が記された。

労務では
夜間作業実施の不十分、出勤率、工員の通勤、未熟練者の増加、が指摘され、女子・囚人・俘虜・朝鮮人によって労働力の補充がなされていた。

行政査察実施後も、熟練工の不足や資材・副資材の入手難という隘路は改善されなかったが、
●44 年度の造船量は 1,582,400 総トンと、
●43 年度の建造量 1,124,210 総トンと比べて増加した。

第 2 次戦時標準船の中でも最も簡略化した船型は、【改E船】であった。改E船の建造は、既造船所以外の新規で簡易に新設された工場、東京造船所・播磨松ノ浦・三菱若松・川南深堀の 4 造船所で集中的に建造された。

これらの造船所は大量生産方式・流れ作業・ブロック建造方式を取り入れたため、かえって先端を行く工場となった。しかし労働力はおもに囚人を中心とした構成であったため、工事の疎漏が目立った。

さらに改E船は船質を落とし低速度の船で、船主や船員の評判は良くなかった。これら改E船は主に日本近海への配属が計画されたが、生産が軌道に乗ったのは1944年に入ってからであった。

その後、生産量を重視した第 2 次戦時標準船から、船質と速度を重視した第 3 次戦時標準船に切り替えたがすでに遅く、終戦までは第 2 次戦時標準船が多数を占めていた。

43 年に入って、鋼船だけでは船舶確保は不十分だとして、木造船にも重点がおかれるようになった。木造船も鋼船と同様、戦時標準型が決められ大量生産が目されたが、急な大量生産のために浸水するものも続発した。木造船は、甲造船の生産不調によって重視されたように、あくまでも甲造船の補助的なものであった。粗製濫造は、甲造船と同じ状況を呈した。戦争末期には鋼材の入手が激減して、新造よりも修理が優先された。鋼材節約のために合板船やコンクリート船が検討され試作がなされたが、利用されるには至らなかった。
--------------------------------------------------------------------------------
Page 3
====第3章====
船舶使用節約と運航の能率化製鉄業は船舶使用節約のため、石炭と鉄鋼石の使用を国内産へ移行せざるをえなかった。
しかし品質の低下から生産に支障を来たし、生産高は減少した。
船舶節約の観点から、輸送上少しでも有利な原料や工場へ生産が集中した。

また、限られた船の有効利用としては、
運航能率の向上が行なわれた。
港湾での船舶積揚げ、積降ろし作業は運航実務者(各海運企業)が作業にあたっていた。
運航能率向上のため運航実務者は少数に絞られ、
港湾荷役は軍隊化し、揚塔作業は軍部が指揮・監督した。
運航能率の向上策は、奨励金制度の導入・吃水線の引上げ(増積み)が実施された。
稼行率(船舶利用の回転率)を左右するものとしては荒天候や故障修繕による碇泊期間の延期、戦争危険、迂回航路、潮待ち、港湾荷役の問題があった。
荒天候待ちの割合は戦時中増加しており、これは戦時標準船の船質の低下による。

港湾荷役の増強のために港湾と陸上小運送業の単一会社が、重要港湾につき 1社に整備された。荷物の揚げ降ろしの方法は、船の出発を早めるため1942 年 11 月、総揚制を実施することにした。しかし荷主と倉庫業者の反発に合い、総揚制の一部の貨物での実施は 43 年 12 月からであった。港湾労務については荷役作業時間の短さ、食堂設置の必要性、労働者確保の問題があった。45 年に各都市の空襲が激しくなると、労働者の出勤率は低下し、荷役能力は激減した。

====第4章====

陸送転移陸送転移とは、海上輸送していた物資の輸送を、ここでは主に鉄道輸送に転換することを指す。

日中戦争勃発後、すでに鉄道にも軍需物資の輸送が増加していた。
1942 年 10 月 6日政府は「戦時陸運非常体制確立ニ関スル件」を閣議決定し、海上輸送力減退のため沿岸海上輸送貨物を極力陸上輸送に転換するとした。

 まず石炭を主に転移し、余った海上輸送力は「満支」、南方輸送に振り分けることになった。陸送転移は大きく完全転移と中継輸送の 2 つに分けられた。完全転移は鉄道の負担が大きいとされ、中継輸送も考慮された。中継輸送には主に阪神中継、関門・博多・長崎中継、日本海中継輸送が実施された。

 鉄道部門の対応を見ると、1941 年度から 44 年度の国有鉄道貨物輸送可能量は増加したが、輸送要請量はそれを上回った。輸送計画表では生活必需品関係の輸送が削られていた。
 物資輸送力の増強のために鉄道省は車輌・機関車の増強、貨車の大型化・無蓋化、線路容量の増加、操車場の拡充、貨車利用の能率化(増積みの実施)、旅客輸送の抑制・貨車航送の増強、ダイヤ編成の貨物重点化を実施した。

車輌新造も資材事情や生産能力により不可能と見られ、鉄道は陸送転移の増加によって過負荷状態となり、レールの破損や機関車の故障、事故件数も増加した。阪神中継輸送で大阪・神戸両港には、南方物資と国内からの中継物資が集中した。43 年から 44 年の滞貨が問題となり、それは陸送転移や中継輸送の実施に、これまでの荷役体制や港湾施設が対応しできなかったためであった。阪神中継輸送の実施は、港湾では海陸連絡施設の不備を表面化させ、阪神地区の輸送は海陸双方と、地場消費物資と中継物資双方が交錯し、複雑になっていた。
--------------------------------------------------------------------------------
Page 4
九州石炭輸送について、関門隧道開通は九州石炭の陸送転移を担った。
しかし山陽線の容量限界もあり、阪神地区への石炭増送のため、従来通り機帆船が多く利用された。さらに機帆船から曳船・被曳船と動員が徹底された。

 一方、北海道炭の輸送を太平洋側から日本海側へ変更する利点として、これまでの運航距離の短縮に加えて、運航能率が向上することがあげられた。室蘭・小樽両港では、日本海側への輸送が増加した。しかし揚地である東北では、東北線の輸送能力から他の物資、秋田米や木材の輸送の調整が困難であった。

戦争末期の 45 年 7 月、青函連絡船はすべて米軍の攻撃により全滅し、輸送は途絶えてしまった。陸送転移の結果を見ると、九州・北海道石炭の鉄道輸送量は増加した。主要な物資の陸送転移は、1944 年 1 月から 6 月にかけて多く、このころ陸送転移が最も実施された。鉄道のトンキロ数は大きく増加し、陸送転移によって鉄道が長距離輸送の負担を背負っていた。

 陸送転移の実施は鉄道輸送力の限界と同時に、港湾における海陸連絡施設の不備、小運送能力の必要性を浮き彫りにした。さらに、これまでの輸送のやり方を複雑化した。また陸送転移は、国策的発動が遅いとも指摘された。また、鉄道輸送力の限界から海上輸送力に結局は頼らざるをえなかったことは、海上輸送力の節約を狙った陸送転移政策は、その成果を挙げることはできなかったことを示していた。

海上輸送と陸上輸送の各々の輸送能力の限界は、互いにその負担をかけ合っていた。

====第5章====
大陸中継と日本海側輸送海上輸送距離の短縮は、日本と中国大陸・朝鮮半島との輸送にも実施された。中国大陸東北部からは塩・原棉・石炭・非鉄・大豆・鉄鋼、朝鮮半島からは石炭・鉄鋼・米などの日本への輸送が重視された。

これらの物資を朝鮮半島南部まで陸送し、釜山・馬山・麗水・木浦などの港から、門司・博多・阪神・瀬戸内海へ輸送した「南鮮中継」が陸送転移と同時期に開始された。

しかし戦局の激化によって輸送経路は北部に移動し、朝鮮半島北部の清津・羅津・雄基・元山の港から、日本側は新潟・伏木・酒田・敦賀などの日本海側港湾を利用する「北鮮中継」が実施された。

華北交通・満鉄・朝鮮鉄道ともに陸送転移によって輸送キロ数が増加し、対日転嫁輸送と一般物資輸送の競合が見られた。

朝鮮の港湾は機械化が遅れており戦争末期には滞貨が増加し、大豆や高粱は積まれたまま腐敗した。
日本海側港湾は当初の運航能率向上の点から、
●1944 年は大陸中継輸送の受け入れ港としての意義が加わり、
●45 年には日本海港湾の強化が実施された。
●45 年 4 月運輸通信省の日本海側港湾施設緊急整備策では、強化港湾として船川・秋田・酒田・新潟・富山・伏木・七尾・敦賀・舞鶴が記され、後にはそれらの港湾に浜田・境港・宮津・仙崎・萩・油谷湾が利用された。

 戦争危険から輸送された物資を揚げる港は太平洋側から日本海側へ、しかも各地の港湾へ分散された。こうして、戦時中の日本の海上輸送は軍部による船舶徴傭、戦争被害という戦争の影響を大きく受けた。戦時経済における海上輸送の重要性は明らかであり、生産活動と密接に繋がっており、陸海の連結部分である港湾の役割は大きいものがあった。

海上輸送力増強策として、造船・船舶使用節約・運航能率の向上・港湾荷役・陸送転移・大陸中継輸送が実施されたが、成果は挙がらなかった。
--------------------------------------------------------------------------------
Page 5
やや造船に重点が置かれてはいたが、これら対策はほぼ同時に並行して考慮され、造船に関して資源・施設・労力に限界があることを認識していたと思われる。
戦時経済政策一般に見られる性質、本格的政策発動の遅延・臨機応変・一貫した政策の欠如という点は、海上輸送力増強策にも存在した。

 臨機応変は造船では量から質への転換、陸送転移政策の実施、日本海側輸送利用に見られ、本格的政策実施の遅れは戦時標準船の本格化・陸送転移政策開始・日本海側輸送利用の遅れがあった。

これらは同時に戦局の推移によって変化したため、政策の一貫性欠如となって現れ、戦時機日本経済の限界を示していた。

●政策展開上での矛盾は、造船政策による船質の劣る【改E船】の生産が、運航能率の低下をもたらした。
陸送転移では鉄道や港湾への負担を増加させ、輸送体系を複雑とした。

こうした矛盾は、日本経済の弱い部分に負担をかけていたといえる。

しかも、直接的増加策よりも、間接的増加策のほうが、矛盾は顕著に現れていた。

今後の課題は、政策展開上で発生した矛盾の克服にどのように対応していったのか、矛盾の発生は日本経済のどのような性質を現しているのか、そして政策展開上の問題への対応は、戦前・戦中・戦後を通じてどのような関連があるのかについて探ることである。

 次へ  前へ

  拍手はせず、拍手一覧を見る

▲このページのTOPへ HOME > 戦争83掲示板


  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。