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JMM [Japan Mail Media] 「歴史認識の違い」 『レバノン:揺れるモザイク社会』 安武塔馬
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投稿者 愚民党 日時 2006 年 9 月 21 日 06:57:36: ogcGl0q1DMbpk
 

                             2006年9月19日発行
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JMM [Japan Mail Media]                 No.393 Extra-Edition2
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                        http://ryumurakami.jmm.co.jp/
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■  『レバノン:揺れるモザイク社会』 第37回
   「歴史認識の違い」


 ■ 安武塔馬 :ジャーナリスト、レバノン在住


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■ 『レバノン:揺れるモザイク社会』                第37回
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「歴史認識の違い」

○ 連続する記念日

 この季節、9月の中旬には中東とレバノンの現代史上、忘れられない事件の記念日
が連続する。2001年の9月11日は米国の同時多発テロ事件であまりにも有名に
なった。この事件は、その後アフガン戦争、イラク戦争、さらに米国の「拡大中東=
中東民主化政策」へとつながり、5年後の現在も中東全体を土台から揺るがし続けて
いる。

 1993年9月13日は、イスラエルとPLOが結んだ「パレスチナ暫定自治に関
する合意宣言」、すなわち「オスロ合意」の調印式がホワイトハウスで行われ、積年
の仇敵ラビン・イスラエル首相とアラファトPLO議長が歴史的な握手を交わした記
念日である。ラビンとアラファトは鬼籍に入ったが、実際にこの時の調印を行った脇
役二人…シモン・ペレスとマハムード・アッバース(アブ・マーゼン)は13年後の
現在も、それぞれイスラエル副首相、PA議長として…二人ともその影響力は著しく
衰えたが…現役で活躍している。

 私事で恐縮ながら、この時、私は日本の某NGOの現地駐在員としてパレスチナ占
領地に暮らしており、オスロ合意をめぐるパレスチナの世論の沸騰と分裂を間近に体
験する機会にめぐまれた。詳しくは拙HP中「パレスチナ関連未発表原稿」→「間近
で見たオスロ合意」をご参照いただきたい。テレビ朝日の「ニュースステーション」
の仕事で、先方はご記憶かどうかはわからないが、小宮悦子さんを友人の結婚式にお
連れした思い出もある。人間よりも羊やヤギの方が多い西岸地区の半農半牧の僻村
で、小宮さんが物怖じすることもなく村の女性たちの輪に入り込み、花嫁と楽しそう
に踊っておられたのが強い印象で記憶に残っている。

 オスロ合意は中東に9.11に勝るともおとらぬ大きな地殻変動をもたらした事件
だった。当時日本メディアの中でも、これが恒久的な中東和平への第一歩になるとい
う希望的観測が幅を利かせたが、結果はご存知のとおり。具体的な青写真も、執行力
も欠いたままの和平プランは、あまりにも脆かった。13年後のこんにちに至っても
パレスチナとイスラエルの和平への道筋はまったく見えない。

 なおオスロから三年後、1996年の9月13日にはレバノン南部で起きたイスラ
エル軍とヒズボッラー・ゲリラの戦闘で、ハーディ・ナスラッラーという若干18歳
の青年が命を落としている。無敵のヒズボッラーの指導者として今や神格化されるハ
ッサン・ナスラッラー議長の愛息である。

 政府高官の多くが様々な手段で子弟を兵役逃れさせるのが当たり前のレバノンで、
最愛の長男を戦場に送り「殉教」させたナスラッラーは、期せずして政敵たちからさ
えもある種の同情と尊敬を得るようになった。ナスラッラーはハリーリ元首相が暗殺
された後、「当時首相だったハリーリの強い希望で、政府はダーヒヤを走る道路を
『ハーディ・ナスラッラー通り』と命名した」という秘話を明かしている。若き殉教
者の名を冠したこの大通りは、その後ダーヒヤ随一の目抜き通りへと発展したが、今
度の戦争で灰燼に帰した。

○ 傷の記憶

 1982年9月14日はバシール・ジュマイエル暗殺事件が起きた日である。

 バシールはレバノン現代史上でも最も毀誉褒貶の激しい人物だ。キリスト教徒の名
門政党、カターイブ創始者で閣僚ポストを歴任したピエール・ジュマイエルの次男と
して生まれ、内戦勃発後はバラバラだったキリスト教徒の民兵組織を統合、レバノン
軍団(LF)へと育て上げていく。その過程でライバルのキリスト教徒民兵を粛清す
ることも辞さなかった。

 平和維持軍の名のもとで1976年にレバノンに駐留したシリアとキリスト教徒が
対立した時、キリスト教徒を引っ張ったのは当時まだ30歳にもならない若きバシー
ルだった。レバノンからシリアとPLOを追い出す夢と、大統領の座への野望を秘め
て、バシールはイスラエルとさえ積極的に協力した。1982年のイスラエル軍のレ
バノン大侵攻はこうして実現した。

 アラブの宿敵イスラエルと手を組んだことで、汎アラブの立場の人々にとってはバ
シールは永遠の敵役となった。その反面、自分をアラブとは考えないレバノンのキリ
スト教徒の多くにとっては、バシールは愛国の英雄である。

 バシールはイスラエル軍が取り囲むベイルートで首尾よく大統領に選出される。し
かし就任目前にベイルートのカターイブ本部もろとも爆殺された。ハビーブ・シャル
トーニという親シリア政党SSNPの活動家が犯行を自白して逮捕されている。軍事
的にイスラエルに敗退を強いられたシリアが、巻き返しを図ってバシールを消したと
いう見方が一般的だ。

 しかし、当時のLF支持者はシリアではなくパレスチナ人の犯行を疑った。その結
果起きたのが翌々日、9月16日に始まった有名なサブラ・シャティーラ難民キャン
プの大虐殺事件である。イスラエル軍が包囲する中、LFをはじめキリスト教徒民兵
組織が3日間にわたり「ゲリラ掃討作戦」の名のもと、キャンプ内で殺戮を欲しいま
まにした。この事件は世界を震撼させ、後にシャロン国防相(当時)の失脚につなが
る。虐殺自体は当時LFの情報局長だったエリ・ホベイカの犯行であることが確実視
されている。

 余談ながらこのエリ・ホベイカはその後、1985年にシリアと手打ちし、内戦終
了とともに親シリア・キリスト教徒政治家の重鎮として閣僚ポストを与えられている。
だがシリアで故ハーフェズ・アサド大統領が死去し、息子のバッシャールの代になる
とシリアの庇護を失い、2002年に何者かによってベイルート東郊外で爆殺された。
サブラ・シャティーラ事件について国際法廷でホベイカが証言することを恐れたイス
ラエルの仕業とも、CIAとの再接近をかぎつけたヒズボッラーの仕業とも言われる
が、真相は闇の中だ。

 今年の9月14日、ベイルートの教会でカターイブやLFの支持者が集まり、バシ
ール・ジュマイエルの追悼ミサと集会を行った。故人の遺児ナディーム以下ジュマイ
エル一族やジャアジャアLF司令官が参加したのは当然として、ハリーリ派の政治家
や、内戦中は激しくバシールと対立していたジュンブラート派の政治家も参加した。
一方16日前後にパレスチナ難民キャンプではサブラ・シャティーラ事件を記念する
集会やデモが実施されている。

 バシールという存在を歴史にどう位置づけるかと言うのは、まさにレバノンの歴史
認識問題そのものである。シリアの干渉排除とレバノンの主権回復を掲げる反シリア
連合にとっては、シリアと戦ったバシールは先駆者であり、イスラエルと協力したと
いうネガティブな事実はさして重要ではない。一方、イスラエルとの対決を最重視す
る親シリア勢力にとっては、バシールは決して許すことの出来ない裏切り者だ。

 靖国問題に見られるように、日本では60年以上前に起きた大東亜戦争の位置づけ
をめぐって、いまだに国論はまっぷたつに分裂し、政治テロさえ起きる(加藤議員宅
放火事件)。バシールの同時代者がまだまだ生きているレバノンで、国民の間に存在
する歴史認識の根本的なギャップを埋めるのは至難の業だ。

 ところでヒズボッラーのナスラッラー議長は17日、第五次レバノン戦争の「戦
勝」祝賀大集会を22日にダーヒヤで開催すると発表、国民に広く参加を呼びかけて
いる。

 戦争を「歴史的勝利」と位置づけるヒズボッラーと、「ヒズボッラーの独走の結果
起きた国民的惨事」ととらえる反シリア連合。第五次レバノン戦争で、レバノン国民
の間にはまたしても新たな「歴史認識」の食い違いが生まれた。

○ 第二の戯画問題へ発展か?

 今度の戦争やバシール・ジュマイエルどころか、中世の十字軍の歴史的意義につい
てさえ、レバノン国民の間では根本的な認識ギャップが存在し、容易に埋められそう
にない。

 イスラーム教徒にとって十字軍は言語道断の侵略者である。しかしキリスト教徒、
とりわけカトリックのマロン派の中には、アラブ人、イスラーム教徒こそキリスト教
が先に根付いていた地域に後からやってきた侵略者であり、従って十字軍は解放軍だ
ったという根深い考え方が存在する。

 日本史で言えば十字軍の時代とはおおよそ元寇の時代(最後の第8回十字軍出兵は
1270年。文永の役は1274年の出来事)。元寇が侵略行為であったのかどう
か、日本国内で深刻な論争が起きたということは寡聞にして知らない。ましてや、元
寇を理由に現代のモンゴルを敵視する日本人など私は会ったこともない。しかしレバ
ノンや中東では十字軍をめぐる論争や、十字軍を理由にイスラーム世界や欧米世界を
敵視する論説と言うのは、未だに日常の現実として存在するのである。

 この違いはどこから来るのであろうか?

 考えられるのは、元寇はたった二度の単発的な試みであり、しかも失敗に終わった
という点だ。もし一部なりとも元が日本の国土の占領に成功し、「日本モンゴル帝
国」を打ちたてていたら状況は大きく変わっていたに違いない。仮にその後「日本モ
ンゴル帝国」が解体消滅したとしても、モンゴル人を始祖とする日本人とそれ以外の
人々の対立は長く日本史に影響を及ぼしたであろう。

 十字軍の場合は200年程度で終了した。しかしその後もキリスト教徒世界とイス
ラーム世界の対立はかたちを変え、プレーヤーを変えながらも続いた。「反テロ戦
争」を十字軍になぞらえるブッシュ米大統領の不用意な発言が飛び出てくる土壌はそ
こにあるのであろう。

 ローマ教皇ベネディクトス16世がドイツにおける神学講義で、「イスラームは布
教に暴力を用いている」という趣旨のビザンツ皇帝発言を引用、イスラーム世界から
激しい反発を招いている。残念ながらこれまでほとんど教会が襲われたことがなかっ
たパレスチナでも、西岸やガザで教会が放火されるなど、「あくまでも古い文献から
の引用であり、自分の考えではない」という教皇の釈明にも関わらず、この事件は第
二のムハンマド戯画事件へと発展しかねない勢いだ。

 多宗派が混在するレバノンは、「文明間の対話」の先進国。対話が失敗して「文明
の衝突」を経験したこともたびたびだ。ただでさえ国内の緊張が高まっている今、教
皇発言問題が新たに宗派紛争をもたらすことがないよう、祈るばかりである。

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安武塔馬(やすたけとうま)
レバノン在住。日本NGOのパレスチナ現地駐在員、テルアビブとベイルートで日本
大使館専門調査員を歴任。現在は中東情報ウェブサイト「ベイルート通信」編集人と
してレバノン、パレスチナ情勢を中心に日本語で情報を発信。
<http://www.geocities.jp/beirutreport/> 著作に『間近で見たオスロ合意』『アラ
ファトのパレスチナ』(上記ウェブサイトで公開中)がある。
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【発行】  有限会社 村上龍事務所
【編集】  村上龍
【発行部数】128,653部
【WEB】   <http://ryumurakami.jmm.co.jp/>
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