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Re: 東欧崩壊・アフリカ難民関連サイト
http://www.asyura2.com/0610/asia6/msg/280.html
投稿者 パルタ 日時 2006 年 10 月 25 日 11:32:38: BeExvDE2jO5d2
 

(回答先: 北朝鮮の崩壊近しwww 投稿者 アメリカ言いなりでヤコブ病 日時 2006 年 10 月 25 日 02:32:35)

グローバリストのサイト(全ての意見に賛成ではないが)↓

(8) ねずみ講に揺れたアルバニア
<地産地消の国、アルバニア>福者マザー・テレサがアルバニア出身であることはあまり知られていない。そのバルカンの小国アルバニア、第2次大戦後エンベル・ホジャ指導のもとに独特の社会主義政策=鎖国政策をとってきた。1944年ムッソリーニのイタリアから独立を勝ち取ると、スターリンを崇拝していたホジャはアメリカをはじめ「西側帝国主義」とは外交を断絶、スターリンが指導する東側諸国と友好関係を結ぶ。 1953年にスターリンが死ぬと、その後継者でスターリン批判をしたフルシチョフとは対立し、ソ連と国交を断絶し、コメコンから脱退。1960年代には文革時代の中国と友好関係を結ぶ。1971年10月26日、国連で「中国の国連加盟と台湾の追放」を内容とした「アルバニア案」が大差で可決される。しかし1972年ニクソンの訪中を境として米中が接近すると、1978年には中国とも交流を断絶する。ここにおいてアルバニアの鎖国は完成する。国内に何千ものトーチかを築き外敵に備える。社会主義経済を徹底し企業は国営、300万人程度の小国で自給自足経済を貫く。個人が自家用車を持つことは認められず、自動車による交通事故・排気ガス公害は皆無、物流システムができていないため「身土不二」「地産地消」は当然、株式市場はおろか銀行さえなかったのでマネーゲームに走る者はいない。地域通貨信奉者が理想とする金利ゼロの社会。『スモールイズビューティフル』の世界であり、『縄暖簾社会の経済学』の世界であり、カール・ポラニーの『大転換』にしばしば登場するロバート・オーエンの世界、日本では農協関係者や生協関係者が理想とする「ロッジデール」の空想社会主義を目指す社会であった。コミュニストは言う「宗教は麻薬である」、それを憲法に明文化した「国家は一切の宗教を認めず、人民の間における科学的現実主義世界観を鼓吹するために無神論運動を支持する」(アルバニア人民共和国憲法第37条)。

 そのようなアルバニア、1985年4月11日エンベル・ホジャが死亡し、ラミズ・アリアが大統領に選出されると少しずつ変化の兆しが見え始める。徐々に鎖国政策を改め、開放経済へと政策転換する。鎖国時代には銀行もなく、国民は貯蓄や投資などの仕組みを知らないで過ごしてきた。開放経済、つまりごく普通の資本主義経済が始まって、1992年には銀行も設立された。そして政府の規制を受けない投資会社も設立された。それまで国民は「現金はタンスにしまうもの」と考えていた。そのタンスの中にあった現金の多くは投資会社へ向かった。銀行の金利が年利19%程度のとき、投資会社の方は月利8%、高い時には3カ月で100%といった、とほうもない高金利だった。
 資本主義以前の社会、世界経済から切り離された社会、地産地消の国だったアルバニア、そこでねずみ講投資会社が倒産し、暴動がおき、政権が倒れ、無政府状態になり、6000人規模の多国籍軍により治安が維持される、という事態が発生した。

アルバニアねずみ講関連略年表  
西暦  元号  月 日  出来事
1985(60) 4.11 エンベル・ホジャ死亡
1989( 1) 2.23 NATOに加盟
1996( 8)10. - ベリシャ会見で民間投資会社の資金は清潔な金であると主張
1997( 9) 1.16 ブローラで投資会社の支払い停止がきっかけとなってネズミ講に反対する市民 のデモが始まる。
1997( 9) 1.19 野党指導部に率いられた市民3000人近くティラナで警官と衝突
1997( 9) 2. 6 ヴローラで3万人以上がデモ
1997( 9) 2.12 民主党本部をデモ隊が襲う。
1997( 9) 2.15 ベリシャ、ネズミ講にあやまりがあったことを認める。
1997( 9) 2.28 民主党96年5月以来始めて社会党と会談、社会党暫定政府設置、早期選挙要求
1997( 9) 3. - 57人の学生のハンスト
1997( 9) 3. 1 アレクサンダー・メクシ首相を辞任、ティラナでもデモ警官と衝突
1997( 9) 3. 2 サランダで暴徒化した市民が武器庫を襲い、商店などの略奪始まる。 人民議会非常事態宣言。戒厳令
1997( 9) 3. 6 ジロカカストラで兵舎が襲われる。
1997( 9) 3. 7 解放勢力、ベリシャの恩赦案を拒否、辞任要求
1997( 9) 3. 8 解放勢力南部アルバニア、ジロカストラなどで権力掌握
1997( 9) 3. 9 イタリア外相とアルバニア政府の会談、国家和平条約 ベリシャ、全政党による連立政府樹立。
1997( 9) 3.10 ヴローラ解放勢力、武装解除に応じるが武器は拡散。
1997( 9) 3.11 バシュキム・フィノ(社会党)和解政権誕生。暴動北部にも拡大
1997( 9) 3.13 政府外国による介入を要請。社会党指導部出獄
1997( 9) 3.14 イタリア特使フラニツキ、戦艦上で政府代表と会談
1997( 9) 3.16 ベリシャ、ファトス・ナノ社会党党首を釈放
1997( 9) 3.27 全欧安保会議、多国籍軍の派遣を承認。
1997( 9) 3.28 ヴローラ出港の小型船ラダ4がオートラント沖でイタリア戦艦シビッラと衝突、52人の難民が死亡。
1997( 9) 4. 2 イタリア首相とアルバニア首相の会談
1997( 9) 4.13 プロディ伊首相ジロカストロへ、フィノ首相会談
1997( 9) 4.15 アルバ作戦、イタリア軍アルバニアに展開
1997( 9) 4.21 ナポリターノ伊内務相とアルバニア側の会談
1997( 9) 4.27 (〜5.4)2000人近くの難民がプーリアに到着
1997( 9) 5.30 フランコ・アンジオーニをアルバニア特別委員長に。
1997( 9) 6. 2 ティラナで4件のテロ事件27人負傷
1997( 9) 6. 4 ベリシャにむけて手榴弾が投げられるが不発
1997( 9) 6. 7 アルバニア政府、多国籍軍の駐屯を3ヶ月延長することを要求
1997( 9) 6.11 難民船から、イタリア海軍に発砲事件
以下略
http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/global.htmlより抜粋

ソマリアの難民問題
 では初めにソマリアという国の解説をしていきます。
 今、ソマリアを実行支配している政府はありません。実際に暫定政権はあるのですけれども、それは首都の一部だけを統治しているだけで、実際にはソマリアという国そのものは依然として無政府状態です。だから、私がソマリアへ行ったときも、ちょっと危ない目にもあったりして、怖い思いをしました。
 何が一番怖かったかというと、いわゆる群集心理です。こういうことがありました。ソマリアの中で、反米集会、「アメリカ出ていけ」という集会をやっているんですね。そのとき、人々が熱狂的になっているのです。その反米集会は大体1000人とか2000人規模で行われます。それを私は近くで見ていました。なぜ中に入って行かなかったかというと、私が行く1週間前にジャーナリストが撲殺されたのです。なぜそうなったかというと、そのジャーナリストは、車でそういう集会の中に入って写真を撮ったのですね。相手は本当に生きるか死ぬか、食料が届くか届かないか、あるいはアメリカに家を爆撃されて、身内にもたくさん死亡者が出ている人たちの中で、パチパチ写真を撮っているわけです。現地では、カメラ一つ奪っても、家族が何年も暮らせるというような状況です。それに無政府状態ですから、警察とか裁判所とか病院などは全然ないのですね。そういう中で、海外から来て、カメラを持っているジャーナリストはあまりおもしろくなく見える。結局車から引きずり出されて、撲殺された。5人殺されたのです。それを私は知っていたので、そういうところに入っちゃいけないなと思って、遠くから見ていたのです。同じように車で、ガードマンを付けて。そうしたら知らないうちに取り囲まれていたのですね。そのときに、車をゆすられるわけです。この手で結局引きずり出されて殺されたのかな、これは絶体絶命だなと思っているときに、運良くアメリカの装甲車が反米集会の鎮圧に来たんですね。ちょうどそれと出会って、引きずり降ろされて殺されずにすみました。熱狂した群集心理というのは止められない。そういうことをひしひしと感じました。

 なぜソマリアで問題が起こったかというと、“アフリカの角”というのは石油の輸送経路のところに当たるんですね。だからその利権をめぐっての大国の争いがあって、ソビエトやアメリカが介入してきました。ところが1991年のソビエト連邦の崩壊とともに、軍事均衡を取らなくてもよくなって、結局大量の武器を残したまま、アメリカが撤退するんです。そこで、今までアメリカの支援を得ていたバーレ大統領が、アメリカの後ろ盾をなくした結果、部族の不満が噴出して、内戦になったわけです。
 ソマリアの首都モガディシオの空港には、PKO(国連平和維持活動)が介入しています。アメリカ軍中心のUN(多国籍軍)です。主な目的は援助物資の護衛です。なぜなら、輸送機がソマリアに着いて、貧しい人のところに物資が輸送されるのですが、その途中で、援助物資が強奪されるからです。当時の新聞の報道でいうと、70%の援助物資が強奪されたということです。その強奪された援助物資はどうなるかというと、武器を買う資金にするわけですね。だから、援助すればするほど武器が出回るという悪循環が起こっていました。援助物資を輸送する車は、絶対に途中で止まらないのです。僕が見ていたときも、二人くらい轢かれているのですが、絶対に止まらない。止まると全部強奪されてしまうからです。何百万人と飢餓状態にありましたから、それをまず助けるため、その援助物資がしっかり送られるための平和維持活動なのです。
国際化と人権
http://www.manabi.pref.aichi.jp/general/10001994/0/kouza/section3.htmlより抜粋転載


アフリカ難民の状況-2005年6月発表-
http://www.unhcr.or.jp/ref_unhcr/world/africa/index.html

カクマ詳細情報
エチオピア内戦

1960年代から70年代に、ソマリア、エリトリアとの間で紛争が繰り返された後、1974年には労働党がクーデターを起こし、エチオピアは共和制となった。原因は73年におこった干ばつの被害が大きかったことが挙げられる。続いく1987年の憲法改正によってエチオピア人民民主共和国が誕生し、社会主義の道を進むことになった。名目上は国家議会が存在したが、実際の権力は大統領であるメンギスツに集中した。
その後も紛争と飢餓が続き、エチオピアからは100万人規模の難民が流出した。エチオピア北部のティグライェン族からなる反政府勢力が団結し、エチオピア人民民主革命戦線EPRDが結成された。1991年5月にEPRDFは、メンギスツ(国外へ逃亡)の政府を打倒し、7月には新しい国民会議と暫定政府を設立した。その後1993年には新たな憲法が制定(94年実効)され、正式にエチオピア政府が発足して今日にいたっている。
http://home.a04.itscom.net/refugee/P1MAMAKAKUMA/KAKUMA.htmより抜粋

エチオピア
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/5502/east/0141.html

平成元年
年次世界経済報告 各国編
経済企画庁
I 1988〜89年の主要国経済
第11章 ソ連・東欧:ソ連,89年経済は減速へ
http://wp.cao.go.jp/zenbun/sekai/wp-we89-2/wp-we89-01b02.html

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