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NHKスペシャル:ドキュメント北朝鮮 第2集 隠された「世襲」。キム・ジョンイルは拉致の張本人だす。
http://www.asyura2.com/0610/asia6/msg/442.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2006 年 11 月 10 日 15:48:42: 0iYhrg5rK5QpI
 

(回答先: 金正日操る5人の男 [AERA] 投稿者 white 日時 2006 年 11 月 06 日 22:20:47)

今年春放映されたもんらすいが、北朝鮮の権力構造をかいま見ることができたような力作だすな。

もと東ドイツのクラウスバーテル(東ドイツ駐北朝鮮副大使)や、元東ドイツ国際関係部朝鮮担当課長ホルスト・ジーベック、文化担当官として大使館に勤務していたヘルガ・ピヒト(女性。ホーネッカーの専属通訳をつとめ、キム・イルソンとの首脳会談にはすべて立ち会っていた)らの証言など生々しい。証拠に使われているのが東ドイツ関係の最高機密文書。

ほかに北からの亡命者では、若いころのキム・ジョンイルを知るファン・ジャンョプ(朝鮮労働党書記、亡命者中では最も地位の高い幹部、主体思想発案者とされる。もとキム・イルソン総合大学の総長)、キム・ヒョンシク(家庭教師、もとキム・イルソン総合大学の教授)、

ドキュメントでは、キム・ジョンイルがなすて、「社会主義国」では前例のない、権力の世襲が成ったのか考察するもんで、キム・イルソンの陰謀によってキム・ヨンジュ(イルソンの弟、党序列6位、後継者として東側では最有力視されていた)ば排除すて息子ば後釜さすえたっつてたす。んだから、1980年の第6回党大会ではすでにキム・ジョンイルが後継者とすて政権基盤ば確立すてたのに、中国の妨害で発表でけねがっただけ。やがて「書記」とすて肩書きばもったんだすがや、NHKスペシャルの報道では。

さて、証言さよると、キム・ジョンイルは毎日おやずが「党」さゆぐときは家で靴ば履かせて車さ乗せて見送り、帰ってくると出迎えた、っつな話だす。能力のないもんがよぐやる手だすな、会社でもおんだす。あんます頭はよぐねえが、下さ厳しく(この点は超一流だ)上さやさすい性分ば恥ずかしげもねぐ晒す人がおんでねの。ふんでおやずは、気配りのうまい(まわr4いから見ればごますりだべ)わが息子さ満足すた。

あっ、おらがこだらこつ言うとまたまた主観主義者みてぐ誤解さるっから、んだらばNHkさあさ断っとくども、引用させてもらいます。

以下引用だすが、映像はみなごぞんぢだすべ。おらはテレビのナレーションや朗読ばノートさ起こしたのよ。

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(前略)
絶対的な権力を誰がひきつぐのか。これが東側諸国の関心事であった。
東欧諸国では朝鮮労働党序列6位のキム・ヨンジュを最有力の後継者と見ていた。キム・イルソンは「朝鮮労働党」という「自分の作品」を誰が継ぐのか?彼は信頼できる家族しか後継なし、と決めていた。

元東ドイツ国際関係部朝鮮担当課長ホルスト・ジーベックの証言
「社会主義国では親子の権力継承はあるまじき行為と考えていた。社会主義において、後継者とは国家にとって、政治的にもっとも能力のある人物が選ばれるべきと考えていた。」

(ナレーション)前例のない権力の世襲。しかしその準備はすでに始まっていた。(60年代前半、軍を視察するイルソン、ジョンイル親子の写真)キム・イルソンはジョンイルが20代の頃から軍や党の視察に頻繁に同行させていたが、このことは常に秘密にしていた。

キム・ジョンイルを知る人物がアメリカに居た。一家の家庭教師をしていたピョンヤンの大学教授であったキム・ヒョンスクである。彼は亡命後2003年にアメリカへ移住している。
キム・ヒョンスクの証言
「キム・ジョンイルは大学に入学したときからキム・イルソンの後継者は自分だと考え、父親に熱心に尽くしていた。キム・イルソンが朝出勤するときは靴を履かせて車に乗せ、夜帰宅すると必ず出迎えた。外国にゆくときも同行し、随行員が十分に父を世話していないと強く叱っていた。キム・イルソンもそうした息子に満足していた。」

ソウルで若いころのキム・ジョンイルを知る人物がいる。キム・イルソン総合大学の総長を務めたファン・ジャンョプである。彼は元朝鮮労働党国際担当書記であった。97年に韓国に亡命したが、亡命した幹部の中では最も地位の高い人物である。

ファン・ジャンヨプの証言
「彼は大学に入る前から、自分は政治家になる、政治は父キム・イルソンから学ぶ、と言っていた。叔父のキム・ヨンジャを排除するかも知れないが、まさか権力を掌握するとは想像もしていなかった。」

(ナレーション)バーテルは後継者をキム・ジョンイルと特定した。それはハンガリー大使館からもたらされた情報による。労働党の紹介で人事が議論され、キム・ジョンイルの昇格が取り上げられたとの未確認情報があった。キムジョンイルは党中央委員会の要職に就き、さらに宣伝・扇動部の責任者になった。バーテルはこの情報で、初めてキム・ジョンイルが党内で地位を高め始めていると認識し、キム・ジョンイルが次第に影響力の大きい役職に就いてゆくであろうと考えた。後継者として作られてゆくかも知れないと予測した。

73年9月、キム・イルソンはキム・ジョンイルを党の宣伝・扇動部の責任者に就任させた。(30代前半の姿の映像あり)当時のキム・ジョンイルの活動は外部には極秘。

宣伝・扇動部は国民の思想統制を担う重要な部署である。(70年代、韓国で傍受された北朝鮮の映像)宣伝・扇動部が進めた思想教育が記録されている。忠誠心を養うため、子供たちは10日以上かけてキム・イルソンが少年時代に歩んだとされる道をたどらねばならない。
(子供が宣誓している映像)
「敬愛するお父さん、キム・イルソン様を敬い、私達は忠誠の心をこめて、最大の栄光と感謝を捧げます。」

(思想統制運動で強化されたのがマスゲーム。1958年のマスゲームの映像あり)ソビエトのカメラマンが撮影したもの。キム・イルソンが取り入れた。
当時の子供たちの動きは単純で機敏な動きはない。全体の統制も取れていない。しかし70年代大きな変化が見られる。マスゲームはキム・イルソンへの忠誠の証と位置づけられ、数万人の子供が一糸乱れず動くようめいじられた。(映像はキム・イルソンと両脇に子供)

当時マスゲームに参加した人の証言(2000年韓国に亡命した人」
「当時のマスゲームの訓練は本当に厳しいものでした。私は背景板を担当していました。訓練中はトイレに一切行けません。ビンに用を足さねばなりませんでした。半年間勉強はまったくできませんでした。

キム・ヒョンシク(家庭教師)の証言(画像背景は1933.3.11というマスゲーム)
「背景版で最も難しいのは、キム・イルソンの顔の部分です。担当する子供たちは死ぬ思いで訓練しました。失敗してキム・イルソンの顔を汚すと、家族全員が処罰されるからです。キム・ジョンイルが思想統制を担当してから、国家全体、人民の全てがキム・イルソンに対する崇拝を強化しました。国家体制はこのようにして作られて行ったのです。」

(ナレーション)70年代中ごろに撮影されたと見られる親子の映像です。キム・イルソンは宣伝・扇動部の息子の実績を認め、さらに重要なポスト「組織指導部」の責任者に抜擢します。親子間の権力の継承はこのときから本格化してゆきます。

(ナレーション)朝鮮労働党の機関紙「労働新聞」です。74年2月14日これまで使われたことのない表記が登場しました。「党中央」。キム・イルソンを指す「首領様」と並べて用いられました。その後「党中央」の名で党の重要な指示が出されるようになります。

(映像)この頃のキム・ジョンイル総書記です。
現在北朝鮮は「党中央」の表現が登場した直前、キム・イルソン主席の後継者に選ばれたとしています。当時、その決定は明らかにされませんでした。

(ナレーション)東ドイツも権力継承の動きはつかんでいませんでした。文化担当官として大使館に勤務していたヘルガ・ピヒト(女性)です。ピヒトは60年、朝鮮語を学ぶためキム・イルソン総合大学に入学。のちにホーネッカーの専属通訳をつとめ、キム・イルソンとの首脳会談にはすべて立ち会っています。

ピヒトの証言
「党中央」とは不思議な表現でした。私達は当時問うの中心部という意味ではないか、または党中央委員会の省略した呼び方ではないのかと考えました。それが一人の人間を指すとは夢にも及びませんでした。」

(ナレーション)なぜ「党中央」という表現を使い、後継者の決定を明らかにしなかったのか。キム・イルソンの側近だったファン・ジャンヨプは「他の社会主義国の目を気にしていたからだ」と言います。

ファン・ジャンヨプの証言
「社会主義・共産主義を掲げる指導者が世襲で権力を息子に譲る。これでは完全に封建制のやりかたです。だから公にすることはできなかったのです。息子への後景は、既成事実として着々と進めていました。どうしてそうしたことを表に出せるでしょうか。

(ナレーション)この頃のキム・ジョンイルの発言をまとめた資料を入手することができました。労働党の幹部にだけ配布されていた内部資料です。(画面にテロップ「キム・ジョンイル 主体革命偉業の完成のために」)そこには組織指導部を率いる立場から、党の幹部に行った講演が記されていました。
(資料の朗読「党中央の意思は、すなわち首領様の意思である。そして、党中央の私道は、首領様の指導を実現するためのものだ」)

(ナレーション)首領であるキム・イルソンと同じ権威を持ち、後継者としての活動を始めると宣言したのです。キム・イルソンは息子のライバルであったキム・ヨンジャを政治の表舞台から追放します。とうの実権を掌握した息子は父とともにその支配を国の隅々にまで広げてゆきます。(キム親子の1975年12月撮影の写真が画面に出る)当時北朝鮮では新たなスローガンが掲げられました。キム・ジョンイルは生産性を上げるため思想や技術などの発信を図るよう指示しました。
大学を出た20代を中心に「算代革命小組員」と呼ばれる若者が全国の現場に配置されました。しかし彼らには別の使命が与えられていました。国内全ての生産現場で、党や警察とは異なる独自の監視網を作ることでした。およそ20万人の若者たちが、事実上キム・ジョンイル親衛隊として活動しました。

(ナレーション)地方の集団農場で活動していた親衛隊の一人です)画面は2002年韓国に亡命したものの映像)
元三大革命小組員(しょうそいん)の証言
「体制に不満を持つ人間を排除することが任務でした。われわれは巨大な蜘蛛の巣のような存在でした。全国の農村や過程にまで入り込み、人々が考えていることを全て洗い出し、ささいなできごとまで中央へ報告しました。党中央の意見に反したり疑問を持つ人間を見つけ出し、直ちに粛清しました。キム・ジョンイルは国内での権力を高める上で、われわれの力を大きく利用したのです。

(ナレーション)次の狙いは建国以来の彼岸、祖国統一へ向けられました。
(映像―――韓国パク大統領の映像。1974年8月、韓国パク大統領狙撃事件のフィルム)
韓国で革命を起こし、政府転覆を図る対南工作。70年代、北朝鮮では頻繁に工作活動を繰り返していました。私達は対南工作を実行していた工作員のメモを入手しました。メモが書かれたのは76年です。対南工作が誰の指示で行われていたのかが記されていました。

(資料(メモ)の朗読「党が命令する任務を正しく遂行するため、徹頭徹尾党中央の私道のみに依拠するべきである」)

(ナレーション)指示は党中央から出ていたのです。70年代に活動していた北朝鮮のもと工作員です(映像あり)。韓国に潜入し、対南工作を行う組織づくりを行っていました。

元北朝鮮工作員の証言と映像
「70年代半ば、韓国が警備を強化し対南工作が大変難しくなりました。そこである命令が出されました。北から南へ直接侵入する工作を減らし、日本を経由した対南工作が本格化しました。党中央の指示でした。」

(ナレーション)(画面に横田めぐみさんらの写真)77年秋から当時は原因不明の日本人拉致事件が相次ぎます。政府が認定した被害者は16人にのぼります。北朝鮮の工作員が日本人になりすまして韓国に潜入するため、日本のパスポートや日本語の教師が必要となり、拉致が行われたと見られています。

70年代後半、日本で対南工作にかかわった在日朝鮮人に接触することができました。男性は日本人の拉致には直接関係していないといいます。(映像。勲章を見せている)日本に留学していた韓国人を北朝鮮に連れ出し労働党から表彰を受けていました。

証言
「キム・ジョンイルの指導にこれっぽっちの疑問も持たない。(私道は)すなわち法律で、すなわち身を賭しても成し遂げる。これが原則です。無条件貫徹する。日本人を拉致することは当たり前。革命のためにはなでもする。」

(フィルム。ファン・ジャンヨプへのイナタビュー)
問い「日本人拉致もキム・ジョンイル総書記の指示ですか?」
答え「言うまでもありません。当時国内国外全ての活動は彼の指示によって行われていました。」

(ナレーション)(2002年9月の日朝首脳会議の映像)キム・ジョンイル総書記は、拉致は盲動主義、英雄主義の工作員が行ったとして、自らの関与を否定しています。70年代末、パンムンジャンd撮影された写真です(画像。1977年に撮影されたキム・ジョンイル総書記)権力の世襲が最終段階に入っていました(ピョンヤンの映像)。
1980年、ピョンヤンでは10年ぶりの党大会が予定されていました。党大会は労働党の再考意思決定機関です。ピョンヤンの外交官のあいだでは、党の最高ポストである総書記にキム・ジョンイルが任命され、後継者として発表されると観測していました。
党大会の一月前、中国が後継者の選出について、ある見解を発表します(画像は人民日報)
中国共産党の機関紙「人民日報」です。二日間にわたって社説を大きく載せました。
(人民日報社説の朗読「共産主義で一人の指導者が全てを決めることは、封建制である。マルクス主義に完全に反する。個人が効消しはを指定する制度は最もあるまじき行為である」)

(ナレーション)人民日報は後継者を指名することは絶対に認められない、国を指導するものはすぐれた能力と実勢が党と人民により承認されなければならないとしたのです。
(映像―――1980年10月10日の第6回党大会)ピョンヤンでは第6回党大会開催日を迎えました。労働党の全国代表3220人が参加し、外国からも来賓が招待されました。(キム・ジョンイルの映像)公の場で外国人に姿を見せることのなかったキム・イルソンの長男キム・ジョンイルが初めて登場しました。大会では総書記に選出されませんでした。東側が予測した後継者の発表は行われませんでした。私たちは党大会の詳細な分析を行ったハンガリーの秘密文書を入手しました(画像は「ハンガリー 秘密報告書1980年10月30日作成」のテロップ)。大会に出席した情報員が作成したものです。

(秘密報告書の朗読「共産主義初の世襲政権キム王国が成立するという予測は裏切られた。総書記に選ばれなかった理由の一つは中国にある。人民日報が政権の世襲はマルクス主義に反すると報じたためである」)

(ナレーション)ハンガリーの報告から3週間後、キムジョニルが後継者になったという情報がチェコスロバキアの大使から東ドイツ大使館にもたらされます。労働党幹部から次のような発言を聞いたというものです。

発言の朗読「キム・ジョンイルはすぐれた指導力を備え、党を指揮する才能を持つ。彼はこれまでに中央と地方の党機構を指揮・管理し、大きな実績を積んでいる。労働党と人民はこの指導に納得し、運命をともにした」

(ナレーション)すぐれた能力を理由に党と人民が指導者として選んだという説明でした。

元ドイツ副大使クラウス・バーテルへのインタビュー。
「彼らのやりかたでした。重要な決定の通達には、こうした手段を使っていました。外交官の一人に話せばすぐに広まるきおとを知っていたのです。」

(ナレーション)これが北朝鮮による後継者発表と考え、バーテルらはベルリンへ打電しました。しかしベルリンでは指導者としての資質に疑いの目を向けていました。

元国際関係部朝鮮担当課長ホルスト・ジーベックにインタビュー
「キム・ジョンイルの能力に関する北朝鮮側の発表は、あまりにも大げさでした。キム・ジョンイルはすぐれた能力を持っている、党を指揮する才能があるなどと理由をあげつらっています。しかしどれ一つ事実に基づいて証明されていません。われわれは不安を覚えました。」

(ナレーション)(ソウル市内の画面)このころ勧告と北朝鮮の間で経済的な格差が開き始めていました。韓国は70年代後半から輸出さんぎょうに力を要れ、急成長を実現。チョン・ドハン政権が誕生した80年、韓国統一省は、国民一人あたりのGNPの格差は二倍と推定していました。
(画面は北朝鮮の土木工事へ)
北朝鮮では党の中央委員会書記となったキム・ジョンイル同志のもと、80年代に先進国入りするという目標が掲げられました。(画面れ六腑「わが党が決定すればできないことは何もない。党が作戦を立てっ命令を下した。もはや勝利も同然だ」)

(ナレーション)生産現場では短期間でノルマを達成する200日戦争が始まりました。
外国に依拠せず、自力で全てを達成するというイデオロギー主体思想が強調され、大量の労働力が投入されました。完成した施設は積極的に海外へ航海されます。キューバのテレビ局に公開されました。市民向けの健康施設です(キューバ国営テレビの映像)、当時西側で流行していた健康危惧が設置されていました。およそ2万人の勤労奉仕で作られたとされる巨大な娯楽施設(マンギョンデ遊技場の映像)。高さが20メートルもある滑り台など、西側と同じつくりだと強調されました。

83年、北朝鮮は経済成長のデータの発表を突然とりやめました(画面「北朝鮮との貿易に関する情報」)。翌年東ドイツは、その経済運営を批判的に分析しました。
(情報の朗読「1983年北朝鮮の国民経済に大きな問題が浮上していた。対外貿易は前年比10パーセント程度マイナスと見られる。北朝鮮ではイデオロギーが最優先とされている。経済の合理性を十分に採用しない自己中心的な運営がなされている」)

(ナレーション)報告書は当時の東ドイツ大使の情報をもとに作成されました。ピョンヤンに駐在していたカール・ハンツ・ケルンです。

ケルンへのイナタビュー。
「北朝鮮の経済政策は非生産的でした。自己の力で全てをやり遂げられるというイデオロギー・主体思想にもとづいて運営されていたのです。その結果、経済の発展が阻害されました。全ての国民がが自力で目標を達成できると錯覚していたのです。(主体思想塔の映像)

(ナレーション)キム・イルソンjの主体思想をたたえる高さ170メートルの塔です。建設におよそ1万人が動員されたとされ、キム・イルソンが生きてきた2万5千5百50日と同じ数の石が積み上げられました。
(1982年4月撮影の親子の写真)
完成した塔を見学する親子です。このとき70歳を迎えるキム・イルソン。キム・ジョンイル同志はすぐれた指導力を発揮した、と息子を称賛します。この大衆度運を可能にした理由について、東ドイツの外交官が分析していました。群の駐在武官ホルスト・ローマンは自ら現地を回り情報を収集しました。
ホルスト・ローマン「ある朝鮮人が私にこんな発言をしました。「よき朝鮮人は4時間の睡眠で20時間働くことができる。それがわれわれが目指すべき理想の朝鮮人である。」思想教育にお結果だと考えました。当時この国では人口の8割が40歳以下でしたが、生まれてからずっと思想教育を受けてきたのです。そのためキム・ジョンイルがん命令する党の指示に不平不満を持たないのは当然でした。」

(国際オリンピック委員会総会の映像)
(「1981年9月、1988年のオリンピックの開催地はソウルにきまりました」との発表の映像)

(ナレーション)国際的な地位の向上を目指す韓国はオリンピックの開催権を獲得します。オリンピックの準備を進める韓国と北朝鮮との格差は、83年およそ3倍にまで、拡大していました。南野躍進にキム親子は焦りを募らせたと見られています(ラングーン事件、1983年10月、映像)

(ナレーション)ミャンマーを訪れた韓国の大統領チョン・ドハンを狙ったテロ。チョン・ドハンは北朝鮮と国交のある非同盟諸国などにオリンピック参加を呼びかけていました。ミャンマー政府は、北朝鮮の軍の工作員の反抗と断定しました。東ドイツの文書は、当時秘密工作は全てキム・ジョンイルが指揮していたと指摘しています。

ファン・ジャンヨプは証言しています。
「キム・イルソンはわが国の最高指導者はキム・ジョンイルだと語るようになりました。85年以降のことです。キム・イルソンはうまく自分の権力を息子に移譲しました。それ以前も親子二人の共同政権でしたが、85年から金ジョンイルはキム・イルソンを上回る存在となったのです」

(ナレーション)1985年6月の「ファンジャンヨプの書簡」のテロップ)これはキム親子の指示で、当時国際担当書記であったファンジャンヨプが東ドイツに送った書簡です。

書簡の朗読「ソウルオリンピックは単にスポーツの問題ではありません。朝鮮半島で社会主義と資本主義のどちらが優位か、わが国の運命を決める重要な政治的問題です。オリンピックへの参加はわれわれの革命に大きな障害となる2つの朝鮮を認めることになるからです、社会主義陣営
一致団結し、南の単独快哉に反対すべきです」

(ナレーション)ベルリンでは急遽党の幹部が集められ、対応が競技されました。当時東ドイツは東西両どいつの共存を認める2つのドイツ政策をとっていました。
(元国際関係部 朝鮮担当課長 ホルスト・ジーベックの証言「北朝鮮の立場は理解できました。しかし同じように分断された国家としては、われわれのほうが現実的でした。朝鮮半島に2つの国があることは議論の余地がありません。2つの朝鮮を認めない彼らの考え方は非現実的でした。」
(ピョンヤン、1986年10月の映像)

(ナレーション)東ドイツがオリンピックボイコットの要請を受けた翌年、最高指導者ホーネッカーがピョンヤンを訪問します。当時東ドイツは経済の建て直しのため西側の塔史を必要としていました。ホーネッカーとキム・イルソンの二人だけの会話をヘルガ・ピヒトが通訳しました。

ピヒトの証言「ホーネッカーはキム・イルソンに直接こう伝えました。「東ドイツはソウルに選手を派遣しなければならない。国家の差権のため、国威発揚のため、ボイコットはできない。」二人は互いの政治路線を理解し、それを妨げないことだけを確認しました。そして会談が終わりました。キム・イルソンは無言でした。」

(ナレーション)当時、北は勧告とオリンピックの共同開催を協議していました。しかし東ドイツは北の狙いはほかにあると分析していました。

(画像テロップ「朝鮮情勢の発展に関する情報」 1987年1月30日作成) 
「情報」の朗読「櫓印ピックに関するこれまでの発言から判断するに、北側は共同開催の意思はない。彼らの目標はソウルオリンピックの妨害と見られる」

(映像「大韓航空機爆破事件。1987年11月のテロップ」)

(ナレーション)ソウルで第24回オリンピックが開催されました。参加したのは、当時史上最多の160の国と地域。北とキューバなどを除く社会主義の国々が選手団を派遣しました。東ドイツは288人の大選手段を送り、国威信を世界に示します。オリンピックをきっかけに社会主義国はあいついtで韓国と国交を樹立、韓国の優位は決定的となります。

(画面は、北朝鮮建国40周年記念式典 1988年9月9日)

(ナレーション)祖ルルオリンピックの1週間前、ピョンヤンで建国40周年の式典が開かれていました。国民はソウルでオリンピックが開かれることを知らされていませんでした。式典では社会主義建設の成果が高らかに謳われていました。パレードは100万人のピョンヤン市民が動員されました。このとき、韓国との格差は4倍にまで膨れ上がっていました。キム親子は友好国である社会主義国を招待しました。東ドイツが派遣した代表団は5人でした。

(ベルリンの壁の映像、1989年11月)

(ナレーション)翌年ベルリンの壁が崩壊。冷戦が終結しました。東ドイツの最高指導者として君臨したホーネッカーは市民への発砲を命じた疑いで逮捕されました。のちに亡命先のチリで死亡します。

(ルーマニアの映像へ)

(ナレーション)壁の崩壊は、ルーマニアにも伝わります。キム・イルソンと親交を深めていたチャウシェスク。軍による処刑の映像(処刑された姿の映像が流れる)は世界に配信されました。

(ピョンヤンの映像)

(ナレーション)このニュースは北朝鮮では伝えられませんでした。
このとき国内で何が起こっていたのか。
その詳細を知る人物が来日しました。朝鮮人民軍で舞台の指揮を執っていた幹部です。
キム・ジョンイル書記の同行を間近で目撃していました。

朝鮮人民軍元幹部の証言「東ヨーロッパに留学していた軍人たちが突然粛清されました。キム・ジョンイルは、自分がルーマニアのチャウシェスクと同様、軍により処刑されるのではないか、と恐怖心を抱いていたのどだと思います。キム・ジョンイルはこんな言葉を使うようになりました。「あなたたちはw私の新任がないと肉の塊のようなものだ」。忠誠を尽くさない幹部は無慈悲に粛清されました。新たな狂犬政治のはじまりでした。」

(映像。人民軍創設60周年記念式典、1992年4月)

(ナレーション)92年4月人民軍創設60周年の式典です。キム・ジョンイル書記はかつての親衛隊員を軍の幹部に登用。差公式間の地位を父キム・イルソンから譲り受けていました。このとき、わずか4秒の肉声を世界は始めて耳にするのです。

(映像。テロップ「英雄的朝鮮人民軍将兵に栄光あれ」)

このあと軍が全てに優先する得意な軍事国家を作り上げ、体制の強化につき進んでゆきます。

終わり


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