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三島由紀夫が王国を夢見た以上、さめざめとその現実を知らされる時でも、彼の世界はもはや崩壊しようがないのだ。
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投稿者 TORA 日時 2006 年 11 月 26 日 15:28:08: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
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三島由紀夫が王国を夢見た以上、さめざめとその現実を
知らされる時でも、彼の世界はもはや崩壊しようがないのだ。

2006年11月26日 日曜日

◆薔薇と海賊(三島由紀夫著) 10月30日 美的なもの
http://pepite.air-nifty.com/iubesc/2006/10/post_c48a.html

薔薇と海賊

「僕はひとつだけ嘘をついてたんだよ。王国なんてなかったんだよ」

 童話作家の楓(かえで)阿里子を訪ねてきたのは、30歳になるイノセントの青年、帝一だった。彼は、自分を阿里子の童話の中の主人公ユーカリ少年だと信じている。
 不思議な星からやって来て、密林に落ちたユーカリ少年。犬のマフマフを従えて、ユーカリ少年は海を目指し、恐ろしいジャングルをかきわけて進む。海にたどり着いたところで、マフマフが海賊たちに捕らえられる。ユーカリ少年は薔薇の短剣で海賊たちを退治し、マフマフを取り戻す。海賊たちを船底に押し込めて、船の帆をあげ、自分が王様となる王国に向けて航海を始める。
 そんな御伽噺の世界で生きる稀な青年の存在に、阿里子の心が呼応する。それは天性の無垢と、意志によって築き上げた純潔との組み合わせだった。
 阿里子は結婚しており、夫の重政との間に千恵子という子供をもうけている。しかしこの結婚や妊娠は、女学生だった阿里子を重政が公園の裏山で無理矢理に奪ったことに端を発する。
 翌日、犯行現場を見に行った重政は、その同じ場所で彼が来るのを待っていた阿里子の姿を認めて驚く。阿里子の顔は蒼白で、重政はまるで幽霊を見たように思った。そしてまた、このような聖(きよ)らかな女の顔をかつて見たことがないと、重政は感嘆し、それ以来、阿里子に永遠の恋をするのだった。純潔を失ってはじめてその尊さを知った阿里子は、自分を守るために、重政と結婚する。結婚当夜、阿里子はきっぱりと重政を拒み、その後も二人の間に肉の交わりはなかった。重政が女をつくろうと、阿里子はまったく意に介さず、ひたすら童話の創作に情熱を傾けるのだった。一度の行為によって誕生した娘の千恵子には、彼女の童話の中のニッケル姫と同じ服装をさせるという徹底ぶりで。
 阿里子にとって、自分の童話に全身浸かりきった帝一は拒めるはずもない存在だった。大人の年齢と、完全な純潔とを同時に持つ奇蹟的な青年と、童話を書き、しかし決して夢は見ずに、意志によって壊れた純潔を守り抜く女。
 たちまちにして二人は求め合い、童話の筋書きを頼りに関係を築く。帝一の澄んだ目を見つめていると、阿里子は自分が書いた童話の出来事がどれも本当のことのように思えてくるのだった。帝一は率直に力強く、正面切って彼女の創造した世界を評価する。むしろ童話の作者はこの無垢な青年のほうではないかと感じられるほどに彼は熱心に語り、阿里子は彼を通じて自らの童話の姿を知らされる。
 帝一は阿里子に言う。「僕はどこまでも行くんだよ。たくさんの雲が会議をひらいているあの水平線まで・・・・・・。僕と一緒に行けば大丈夫なんだ。いつまでも僕が先生のそばにいさえすれば・・・・・・。」

 しかし、帝一は童話のユーカリ少年のように勇敢ではなかった。彼にはユーカリ少年の持つ「薔薇の短剣」がなかったからだ。反対に帝一はこの「薔薇の短剣」に脅かされていた。それというのも、帝一の世話をする額間という名の狡猾な後見人が、帝一のこの童話への傾倒を利用して、物語に出てくるのとそっくりな薔薇の短剣を作り、それを帝一に与えずに自分が所持することにより、帝一を思うままにコントロールしていたからだ。童話の中で薔薇の短剣の威力を知る帝一は、その美しい剣を振りかざして命令する額間に逆らうことができなかった。
 ところがある時、この薔薇の短剣が帝一のものになる。彼は歓喜し、自分がいよいよ王国の王になることを確信する。王国までの航海を阿里子に語って聞かせる。彼は地球ばかりではなく、あらゆる星の王様になるのだと言う。しかしこうして得た勇気も、再び「薔薇の短剣」を失うことにより、彼の中からすっかり抜き取られるのだった。

 帝一「船の帆は、でも破けちゃった。帆柱はもう折れちゃったんだ」
 楓 「その帆を繕うのよ。私は女よ。裁縫はうまいわ」
 帝一「だめだ。もう帆はもとに戻らないんだ」
 楓 「でも空には新しい風が光っているわ。手でつかむのよ」
 帝一「(手をのばして空気をつかむ)だめだ、指の間から風が逃げちゃう」
 楓 「でも太陽の光りが私たちを助けるわ」
 帝一「日はもう沈んじゃった」
 楓 「月がのぼるわ」
 帝一「月は冷たい」
 楓 「それから波が、ねえ、帝一さん、お魚たちが私たちの船を運ぶんだわ」
 帝一「お魚の背中は弱いよ」
 楓 「でも百万のお魚の青い背中が私たちの船を運んで行ってよ」
 帝一「阿里子・・・・・・」
 楓 「え?」
 帝一「僕はひとつだけ嘘をついてたんだよ。王国なんてなかったんだよ」


                         ※

 マフマフを従えた密林の冒険。海とたくさんの金貨と短剣の油と髑髏と革の帯と女奴隷の匂いがする海賊たち。彫金の薔薇を鞘につけ、柄にルビーを嵌め込んだ美しい薔薇の短剣。帆をあげる海賊船。珊瑚礁の上に眠っている小さな風たちが集まって、海賊船の帆をふくらます。風にふくらむ帆を、朝日が金色に染める。王国に向かう航海のはじまり。
 帝一は、そんな物語の中で生きているはずだった。けれども彼が、「僕はひとつだけ嘘をついていたんだよ。王国なんてなかったんだよ」と言い切るとき、それまで帝一を支えていた世界は論理的に崩れ去る。それは同じく、帝一と阿里子を結ぶ絆の崩壊でもある。
 人生の虚妄は、実際的な人の目から見た場合、単にその字のごとくむなしさをしか意味しないのかもしれない。しかし虚妄は機会さえあれば生き延びる。そして多くの場合、人を生かす力すら持っている。
 この劇の場合、帝一という存在、あるいは帝一と阿里子との関係を成り立たせていた虚妄が、根底から否定される。けれども、実はそうではないことに気づくとき、私はいっそう深い悲しみを感じずにはいられないのだ。
 つまり、それは単なる虚妄ではなく、寄って立つ足場のないことをあらかじめ認識された虚妄であるということだ。王国なんてない、という認識のもとに、帝一が王国を夢見た以上、さめざめとその現実を知らされる時でも、彼の世界はもはや崩壊しようがないのだ。

 死をすでに決意していた三島は、「僕はひとつだけ嘘をついてたんだよ。王国なんてなかったんだよ」というセリフに、何を感じ、涙を流したのか。
 ある人は、彼がそれまで住んでいた豪奢な御殿が明るい光に照らされたときに、朽木の建築だったことが明るみになり、人生の虚妄が消え行くことを知ったからだという。また、「自分のひとつだけの嘘」が、その時にわかったからだと言う。
 しかし私はそうは考えない。彼は朽木の建築に涙を流しはしないし、自分の嘘に気づいて感じ入ることはない。なぜなら、彼は朽木を使って絢爛豪華な建物を構築する精神の豊穣さを持っていた。そしてその嘘は、彼の認識の範疇にあるものだった。
 彼がいた場所は、真実を知って崩壊する虚妄の世界ではなく、あらかじめ、虚妄を虚妄と認識した上で築いた悲しい王国の中だった。そのことは明確に区別されなければならないし、そうでなければ、彼の涙にも、その死にも、近づくことは許されないだろう。

 直接の関係はないのかもしれないが、三島由紀夫は『重症者の凶器』という評論の中で、次のような文章を書いている。
 「盗人にも三分の理ということは、盗人が七分の背理を三分の理で覆おうとする切実な努力を、つまりはじめから十分の理を持っている人間の与り知らない哀切な努力を意味している。それはまた、秩序への、倫理への、平静への、盗人のたけだけしい哀切な憧れを意味する」
 『薔薇と海賊』を彼の涙を前提に読み返した時、なぜか私の脳裏にこの文章が浮かんだのだった。

「薔薇と海賊」の本読みの舞台


(私のコメント)
日本と言う国は天才的な才能を持つ人物にとっては非常に生きにくい国なのだろう。自分の才能を発揮しようとすればするほど、まわりの日本人達は彼の才能に嫉妬してぼろくそに貶そうとする人が多い。ある程度芸術的な鑑賞能力のある人なら三島由紀夫の才能を評価しますが、多くのほとんどの日本人には、発狂して市谷の駐屯地で自殺した作家ぐらいにしか見ない。

ほとんどの日本人は三島由紀夫の小説も戯曲も読んだ事もないだろうし、読んでもそのすばらしさを理解できない。私は学生時代に小説のいくつかは読んでも良さは理解できなかった。むしろ文化評論の方が面白くて本を読んだり、実際に講演を聞きに行ったりしていた。

昨日はたまたま三島由紀夫の「憂国忌」で舞台女優の村松英子と共演者による本読みの舞台を見させてもらいましたが、男優の大出俊さんが「三島由紀夫の文章の美しさに酔ってしまわないように注意したい」と言っていましたが、戯曲のような舞台でこそ作家としての才能が生かされたのだろう。

三島由紀夫が生きていれば今は81歳になるはずですが、天寿を全うしていれば平成の近松門左衛門になれたことだろう。それがなぜ自衛隊の市谷の駐屯地で切腹自殺したのか、芸術を理解できない凡人達には狂気の沙汰としか見えないのだろう。「薔薇と海賊」と言う戯曲は自決する一ヶ月前に上演されていたもので、戯曲を見て三島自身が涙を流していたという。

彼の中の夢の世界と現実とが乖離してきて、それが極限に達した時に彼は夢の中の世界に行ってしまった。「薔薇と海賊」の戯曲も夢の世界と現実の世俗との間をさまよう阿里子は現実を夢の世界にしてしまう。帝一が「僕はひとつだけ嘘をついてたんだよ。王国なんてなかったんだよ」と告白しても、阿里子は「私は夢など見ていませんわ」と最後の一言を残す。

現実と空想の世界を彷徨えるのは想像力豊かな芸術的才能を持った人間にしか出来ない事ですが、凡人は彼らを狂人呼ばわりして葬り去ろうとする。日本では、だから天才は早くから潰されて凡人だらけの世界にしてしまうのですが、学校などでも「いじめ」にあって不登校になったりする。

日本では東大を出たような秀才は非常に高く評価されるのですが、天才的才能を持つ人が日本にいても評価されず、海外で評価されてはじめて日本でも認められるといったことが多い。それだけ日本には天才を評価できるだけの見分ける能力のある人がいないということなのです。

長引く日本の停滞は、教育が秀才型の人間ばかり作り出して、天才型の創造性のある人間を養成しなかったことに原因があるのだろう。日本が貧しい頃は秀才のほうが役に立ったのでしょうが、豊かな日本になって、天才型の時代の壁を破る才能が求められている。

三島由紀夫は「自分のやる事はどれも25年早すぎる」と漏らしていたそうですが、あれから36年たっても憲法は改正されず、防衛庁は防衛庁のままだ。私が核武装を叫んでも狂人扱いされて、凡人達から笑われる。天才は先を見すぎて、日本では基地外扱いされてしまう。

しかし天才のいない日本はあまりにも寂しい。


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