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「ネット君臨」問題が明らかにしたもの
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投稿者 white 日時 2007 年 2 月 25 日 13:45:09: QYBiAyr6jr5Ac
 

□「ネット君臨」問題が明らかにしたもの

▽「ネット君臨」問題が明らかにしたもの・前編【コラム】

 http://it.nikkei.co.jp/internet/news/index.aspx?n=MMIT11000008022007

「ネット君臨」問題が明らかにしたもの・前編【コラム】

 インターネットと人とのかかわりをテーマとした毎日新聞の新年連載企画「ネット君臨」の第1部が1月末に終わった。巨大掲示板「2ちゃんねる」で起きた「祭り」やネット依存の記憶への影響などネットの「負」の部分を取り上げた今回の連載は、ネット上でも話題となり、一部からは批判の声が上がった。取材班が開設したブログには多数のコメントが書き込まれ、記事に疑問を投げかけるブロガーもいたが、互いの議論は交わらないままだ。既存のマスメディアと、個人が自由に情報発信できるネットとの間で起きた「摩擦」は、メディアのあり方についてさまざまな問題点を浮き彫りにしている。(藤代裕之の「ガ島流ネット社会学」)
 「また死ぬ死ぬ詐欺ですかw」「NHKキタ――(゜∀゜)――!!!!」。
 連載1回目となる元旦紙面は、難病のため臓器移植が必要な家族らが行った募金活動に対し、2ちゃんねるで中傷やプライバシー侵害に当たるような書き込みが相次いだことを1面で取り上げた。記事は、2ちゃんねるで「匿名攻撃」を受けた家族の苦しみを「裸で歩いているような恐ろしさ」という声とともに伝える一方、2ちゃんねるユーザーに対しては、自らの誹謗中傷に「疑問を感じてはいない」と指摘している。見出しにも2ちゃんねる用語を使った。
 1面に続き2、3面にも展開されたこの記事に、ネットユーザーはすばやく反応した。多くの書き込みが行われたが、「内容が一方的でバランスに欠く」というのが主な受け止め方だった。
 記事はこの募金活動が2ちゃんねるで「祭り」になった背景について詳しくは触れていないが、2ちゃんねるでは、過去にもこうした活動で集まった「募金の使い道」や「活動を支援する団体」が不透明ではないかという批判や議論の書き込みがたびたび行われていた。ネット上での記事批判の多くは、そうした経緯が十分説明されていない点を問題にしている。
 社会問題を取り上げる良識的なブログとして知られる「あざらしサラダ」は、「失われていくもの」という連載第1部のタイトルを指して、「何が『失われつつある』ことを読者に訴えたいのかよく分からなかった。(中略)自分たちがこれまで握ってきた情報コントロールが失われつつあるマスコミの危機感しか伝わってこなかった」とコメントし、「ブログ時評」は「『筋の悪さ』に驚き、呆れてしまいました」と辛らつなエントリーをアップした。
 これだけであれば、ネット上でよくあるマスコミ批判で終わったかもしれないが、この後、毎日新聞から取材を受けた当事者が、取材の経緯を公開し記事の問題点を指摘していく。それは個人が情報発信できる時代ならではの展開といえた。
■取材を受けた本人がネットで反論
 記事では、募金批判の中心人物としてハンドルネーム「がんだるふ」氏のインタビューを掲載した。このインタビューは比較的短いもので、「書き込みには中傷や誤報がある」といった記者の問いに対し、がんだるふ氏が「ネット上の罵詈(ばり)雑言はノイズ。被害と感じるのは弱いからだ」などと答えている。
 ところが、がんだるふ氏は毎日新聞の特設ブログに「ここまで、恣意的に発言を処理されるとは思いませんでした。(中略)意図して、あのような記事のまとめ方をして実像をさらすというのは、報道の暴力にほかならないと考えます。報道に携わるものとして、深く反省する必要がありませんか?」と自ら書き込み、掲載された内容に異議を申し立てた。さらにミクシィの日記で取材時の状況や問題点を述べ、記者の実名を上げてやり取りを公開していった。
 がんだるふ氏は、ジャーナリストの佐々木俊尚氏のインタビューにも応じ、毎日新聞の取材を受けたときの様子を、「議論をふっかける感じで、失礼な態度だった。私の失言を誘い、言質をとろうとする質問が目立ってました」と述べている(CNET Japanの佐々木氏のコラム)。毎日新聞は記事中で、がんだるふ氏のことを「男性」ではなく「男」と表記したが、佐々木氏は同コラムのなかで、「『男』と表現するのは、その対象者が犯罪者かもしくはそれに準じるような反社会的人物であると新聞側が判断した場合に限られている」と、疑問を呈した。
 取材時のやり取りなどの事実関係は当事者しか知りえぬことであり、この場でどちらが真実かを判断することはできない。ただ、記事を批判するネットユーザーからうかがえるのは、この連載がさまざまな事象を寄せ集め、その要因がどうであろうと、「ネット=悪」というフレームに当て込んでいく取材手法で描かれた「ストーリー」になっていないかという不信感だ。
(次週の後編に続く)
[2007年2月16日]


▽「ネット君臨問題」が明らかにしたもの(後編)・嫌悪感の源泉はどこに【コラム】

 http://it.nikkei.co.jp/internet/news/index.aspx?n=MMIT11000022022007

「ネット君臨問題」が明らかにしたもの(後編)・嫌悪感の源泉はどこに【コラム】

 前編では、毎日新聞の新年連載企画「ネット君臨」の第一部が引き起こした出来事やネット上での議論について紹介した。新聞という既存マスコミ側による「ネット批判」に対して、さらにネット側から批判が巻き起こったことで、「やはりネットは…」と眉をひそめている方もいるかもしれない。一方、ネットユーザー側は「またマスゴミ(マスコミを皮肉る言葉。マスコミとゴミを掛け合わせている)が」と嘲笑し続ける…。このすれ違いにあるいくつかの要因を考えたい。(藤代裕之の「ガ島流ネット社会学」)
■「本当のこと」は読者が判断
 まず、ブログやSNSで個人が自由に発信できる時代が来たことを既存マスコミ側が理解していない(もしくは、頭では分かっていても肌感覚で理解できていない)ことがある。
 ネット君臨の取材班の一人は、連載前に「ネット取材考」と題した新聞のコラムに「(中略)相手が取材された内容を、直後にブログの日記やネットの掲示板に書き込む。新聞記者のかつての取材は1対1の関係だった。それが大きく変わり、記者個人の名前や取材の仕方が不特定多数の人々にさらされる。メディアもそういう時代を迎えたことを思い知らされた。記者は名刺を出すことさえ、ためらうこともある。それでも生身の人に会って話を聞くのが私たちの仕事だ。そうしなければ、本当のことを伝えられないと思う」と書いていた。分かっていたはず…にもかかわらず、取材相手にネット上で取材手法を批判され、記者の実名や名刺のコピー画像、電話でのやり取りまで公開されてしまった。
 前編でも述べたが、事実関係は当事者しか知りえぬことだ。しかし、取材される側がインターネット上のメディアという武器を持った時点で(その影響力は別にして)関係はイーブンになる。取材される側も自分の考えや意見、もう少し踏み込むなら「本当のこと」を伝えられるようになる。
 リテラシーの高い読者は、新聞の連載を読み、取材された側の反論を読み、さらに、この問題について言及しているブログや記事を読み、総合的に判断して結論を導き出す。「本当のこと」が何なのかはプロの記者ではなく、読者が判断することなのだ。
 情報源が新聞やテレビなどマスメディアのみだった時代であれば、記者が「本当のこと」を提示すれば、人々の多くが信じたかもしれない。しかし、今やそのような手法は、一歩間違えばフレームの押し付けとみなされる。記事の切り口、タイトル、取材源、座談会の人選…。記者や新聞社が提示するあらゆるフレームやアジェンダ設定が疑いの対象になる。
 ネットユーザーにとっては、記者の言う「本当のこと」や「正しいこと」は、一つのものの見方に過ぎない。繰り返すが、既存マスコミはメディアの変化を理解したつもりでも、その本質には気付いていないのではないだろうか。
■記者も舞台に上げられる時代に
 さらに言えば、これまでの取材が「1対1」という考え方にも違和感がある。私自身10年間記者として取材をしていたが、取材相手から愚痴や文句を聞くことが少なからずあった。強引なコメント取り、一方的なフレーム当て込みによる記事…。取材相手は記者の向こう側に多くの人々(つまり1対N)がいることを知っているし、怖いと感じていたはずだ。それでも、社会に広く情報を発信するには、マスコミに頼るしかなかった。
 コラムを書いた記者が感じたという恐怖は、取材相手がマスコミと接触する際にいつも感じていた恐怖と同じ。そこにも思いが至っていないのではないか。
 ネットでのマスコミ批判は理由なきものではない。静かに積み重なっていたマスコミへの不信感が、個人がメディアを持ったことによって顕在化しているに過ぎない。
 しかし、時代の変化に気付かないのは一部の記者や新聞社に限ったことではない。自身のみが「発信する側」であり続けていると思い込んでいるマスコミは多い。
 例えば、そのまんま東こと東国原宮崎県知事の記者会見は、県のホームページから動画共有サイトに転載され、多くのネットユーザーに閲覧された。
 映像に視聴者がテロップを入れることが出来るサービス「ニコニコ動画」では、「粘着して副知事の質問をするマスコミ」とのタイトルでアップされ、「この記者態度悪いな」「誘導尋問してんじゃねーよマスゴミが」「ブチ切れたらその瞬間だけ映すんだろうな、マジ腐ってる」と辛らつな批判の書き込み(テロップ)が並ぶ。
 いまや、記者も劇場の舞台に引きずり出されてしまっている。記者は劇を伝える観察者のままではいられない。言動だけでなく表情や服装も見られ、ユーザーによって判断される。しかし残念なことに、多くの記者たちは、このような変化に気付かぬままで、その姿はマスコミを批判するネットユーザーの格好の材料となっている。
■マスコミへの嫌悪感は「予想通り」
 世代間のメディア認識のギャップもある。
 最近出版された「情報メディア白書2007」(電通総研)は、各世代のメディア感について下記のように分析している。(抜粋)
 「(団塊世代は)リテラシーの高い人のみがメディアのある生活を享受できた。団塊世代のメディアリテラシーは情報を享受すること自体が知的・経済的優位を持っていることを意味した。新人類ジュニアは、旧来メディアという権威に対して静かな反乱をネット上で展開している。彼らの戦いは、旧来メディアの情報閉鎖性(知る権利の独占)に対する嫌悪感に起因するものであるとともに、団塊世代そのものに対する嫌悪感――勝ち逃げ世代であり『マス』である世代に対する、負け確定であり『マイノリティ』である世代の怨恨――が投影されたものである」
 メディアが貴重だった団塊世代はマスコミの主張をほぼ額面どおり受け取るが、1980年代に新人類と呼ばれた世代の子供たちである「新人類ジュニア」はそもそもマスコミの情報を疑ってかかっている。
 「ネット君臨」は新聞での切り口、論調をそのままネットに当てはめた。新聞の読者は中高年が多いが、ネットは30代から20代が中心だ。電通総研の分析が正しいとするなら、ネット上の反応は「予想通り」とも言える。
 しかし、既存マスコミが情報発信はマスコミによってのみ行われると考えてしまえば、「新聞で書けばオーソライズされるはずだ」という思い込みが生じる。そして、マスコミが設定した「マス」ではない考えやギャップを否定するために「摩擦」が起きてしまう。
 ネットによって個人が自由に情報発信できるようになり、多様な言論、考え方が顕在化した。それによって、マスコミのアジェンダ設定力は従来に比べて相対的に低下しつつある。マスコミのネットへの嫌悪感、感情的な批判は、その焦りの裏返しと言えなくもない。ネット君臨をめぐる議論のすれ違いは、日本における従順な「マス」という大きな幻想が消えかかっていることを示しているのかもしれない。
[2007年2月23日]

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