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「おなじものを見ている」という感覚は幻想にすぎない
http://www.asyura2.com/0610/lunchbreak8/msg/146.html
投稿者 ワヤクチャ 日時 2006 年 10 月 14 日 19:31:08: YdRawkln5F9XQ
 

(回答先: 共同主観について一言! 投稿者 CCマーク 日時 2006 年 10 月 14 日 12:47:57)

第6廻京都哲学道場の私的レポート
http://www.geocities.jp/itikun01/hibi/zat18.html
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【第1廻】【第2廻】【第3廻】【第4廻】【第5廻】
【哲学道場オフィシャルサイト】

 ■文中に登場なさるみなさんのネームに就きまして■

 深草氏から要請がありまして、読みやすさを考慮し、文中に登場なさるみなさんのネームをなるたけ深草氏の報告と統一することになりました。就きましては、ここにネームの表を掲げさせて頂くこととします。

 このたびの哲学道場に参加なさったみなさん:
 深草氏、aryu氏、schizo氏、itikun(ぼく)。合計4人。

 schizo氏は、深草氏の報告においては「スキゾー(schizo)」氏という形で表記されています。
 なお、このたびから、まえまえのレポートにおいて「S代表」とお書きしていた崎山ワタル氏を「崎山氏」というふうに表記させて頂くこととします。

 誰もいません。
 誰もいないんです、なんということでしょうか。
 ともかく、順を追って書いていきましょう。
 2006年9月24日、午頃になるまで寝ていたぼくは、眼が覚めるなり急いで準備を始めました。この日、京都哲学道場の第6廻が催されることになっていたからです。その前日にも、數學道場あらため物理道場【註1】を深草先生【註2】とふたりで催していました。ので、ふつか連続で深草氏とは顔を合わせることになっていたのです。


【註1】物理がまったく素人である深草氏と、物理をちょっと学んではいるもののマジメにやったことがないこのぼくとが、よってたかってセンターレベルの物理を解きまくるという、よく分からない集まり。あたかも難解きわまる哲学を議論するかのようにして、ふつうの学生ならさっさと解いてしまうような物理の問題を、超初学者のための物理参考書を片手にチョウチョウハッシと議論する。

【註2】近頃このニックネームを使っていますが、ご本人が好ましいと感じられているのか否かは分かりません。


 実は、この時の物理道場において、深草氏はおっしゃっていました。明日の哲学道場は、どうも人の集まりが悪いようで、未だにはっきりしたことは分からないが、サイアクの場合だとふたりだけになるかも知れない、と。しかし、さすがにそんなことはそうそうなかろうと、ふたりとも考えていたのでした。
 誰もいません。アはははは。
 ぼくが出町柳に辿りついたのは、13時5分のことでした。ふだんなら、深草氏がそこらへんをうろついていらっしゃる頃合です。ところが、おられません。眼をそちこちにむけて探していると、ロッテリアの硝子を通して深草氏のお顔が窺えました。入ってゆくと、深草氏は喰べ物をすっかり胃におしこんでしまわれたあとで、おおきいサイズのドリンクをすすっておられるところでした。ぼくが坐るなり、
「誰もこんなあ。うーん」
 とのこと。もちろんしばらくは待ちますが、それでも誰もいらっしゃいません。崎山氏はちょうど鳥取。おひとかたには深草氏が架電してみましたが、都合でキャンセルなさるようでした。
「これは、悪い予想が当たってしまいましたねえ」
 と、ぼく。
「なまじひとりくるよりは、誰もこないほうがまだいいさ」
 と、深草氏。いくらか苦い感じです。ぼくはせっかくおしゃれ【註3】してきたのですが、それもあまりむくわれませんでした。


【註3】200円の帽子、フィフティ-フィフティに分けられたヘアスタイル等のこと。


 仕様がないので、出町柳を去ります。車でSU事務局にまでむかいますが、ここにも誰ひとりいらっしゃいません。そこで急遽、実施場所を変え、日曜大学キャンパスで行うことにしました。ふたりでもやるんです。ひとりでもやるそうです。深草氏の部屋でおちついたふたりは、共議の結果、先にaryu氏が催している「へっぽこ社会学派」の社会学ゼミに参加させて頂くことにしました。読書会で、ウォルター・ブロックの『不道徳教育』を扱われるということです。
 叡電で出町柳までもどって、そこからは歩きで実施場所であるところのほんやら洞【註4】にむかいます。辿りつくと、読書会は今しも始まろうとしているところでした。


【註4】京都の有名な喫茶店のひとつ。往時は左翼学生の溜まり場になっていたそうで、現在でもイデオロギィのかおりがかぐわしく匂がれる。店名は、つげ義春の漫画『ほんやら洞のべんさん』に由来する。「ほんやら洞」とは「かまくら」のこと。詳しくはサイトをご参照あれ。


 建前が哲学道場レポートということになっていますから、読書会に就いては詳しくは報告しません。ぼくはリベラリズム嫌いのアナーキズム好きでして、その意味でリバタリアニズム(国家の否定と契約の自由の尊重)には好感をいだきました。たいへんおもしろかったし、議論も有意義でした(哲学道場に比べると、よほど議論が脱線し難いようです)。『不道徳教育』という本は、経済学理論によって、社会悪とみなされている人達が実はヒーローであるということを論証するというもの。ぼくも社会悪を肯定することはよくありますが、だいたいが哲学論か精神論です。経済学理論によってこれをやってのけるというのは、斬新でした。「労働基準法は要らない」なんてのは、ぼくの前からの主張でもあります(男女雇用機会均等法は、契約の自由の原則によって否定可能です)。
 そんなこんなで読書会は終わりまして、ぼくと深草氏とは、ふたりで哲学道場を始めようかという話になりました。場所はぼくの家を予定しておりました。しかし、運のよいことには、aryu氏と、読書会に参加なさっていたschizo氏とが、哲学道場に参加してくださるというのです。実施場所を近くのマクドナルドに変えて、哲学道場は4人で催されることになりました。

      ■      ■      ■

 本日のテーマは「オッカムの直知理論」です。レジュメはこちら。掻いつまんで説明いたしますと、オッカムはふた通りの「知」を想定しました。ひとつが「直知」で、ひとつが「抽象知」です。直知とは、眼のまえにある存在から得られた単純な認識のことで、眼のまえにぶあつい書籍があるなら「この書籍はぶあつい」という認識は直知ということになります。抽象知とは、言ってみれば想像のことで、眼のまえにないものに就いてわれわれがもつ認識のことです。眼のまえに書籍がないのに「××という書籍はぶあつい」という想像をめぐらせるなら、それは抽象知と呼ばれます。
 さてわれわれは、いかにして「じぶんが今、直知をおこなっている」ということを認識できるのでしょうか。オッカムはこの疑念に「『じぶんが今、直知をおこなっている』というじぶんの認識活動を直知する、つまり、直知を直知することによって、じぶんが今、直知をおこなっているのだということが分かるのである」と、答えました。これをチャトンさんが論駁。「〔『じぶんが今、直知をおこなっている』ということを、じぶんが今、直知している〕という認識が明証的であるためには、この認識をさらに直知することが必要になってしまうのではないか。要するに、直知1を直知2していることを知るためには、直知2を直知3せねばならず、けっきょく無限に明証的認識をもつことができなくなってしまう」ということらしいです。オッカムはこれに答えて「無限に直知をくりかえすことは不合理だから、そういうことはないのであって、直知されえない或る直知エックスにおいて直知のくりかえしは終わるのである」と、いうことを述べました。オッカムによれば「じぶんが今、なんらかの直知をおこなっている」という事実は明証的ですが、じぶんが今「なにを」直知しているのかということを知るためには推論が必要で、つまり「今、じぶんは直知認識をおこなっている→この直知認識はまえにあった直知認識とおなじであり、その時じぶんは花をながめていた→おなじ結果が起こるためにはおなじ原因が必要である→推論によって、じぶんが今、花を直知しているのだということを知る」という推論です。……
 深草先生がここまで説明を加えられたところで、さっそくぼくがツッコミ。もしぼくがツッコまなかったなら、他の誰かがツッコんでいたかも知れません。あからさまな誤謬が一点あるんです。『この推論がなりたつためには「おなじ直知認識がまえにもあって、その時じぶんは花をながめていた」という経験が必要ですが、この経験はいったいどうやって得られるんですかね』。深草氏も『そう、そこなんだよなあ』と、オッカムの理論に不足があることをお認めになります。かりにイデア界なんてものを考えるとして、その経験がア・プリオリ(=先天的)にイデア界で得られたというのならともかくとして、そうでないのなら、この推論は不可能です。不合理を先のばしにしているだけで、そもそもの不合理に説明がつきません。
 ここらへんから、ぼくは熟考に沈みます。あたまがうまく廻らないうえに哲学議論です。すこし熟考の猶予を取らないと、その場凌ぎの言葉を生むだけになりそうでした。ホントのところを言ってしまえば、まえの日にレジュメを配ってもらって、一日考えてから議論に参加したいぐらいです、ぼくの場合。
 深草氏とschizo氏とは、直知に就いてしばらく語り合っておられましたが、いきなり共同主観性論のお話になります。豈に恐るべき事実ならず也、ここのところ哲学道場は、どんなレジュメをもってきても崎山氏の共同主観性論の議論になるのです。しかも本人すらいらっしゃらないのに、強い磁場によってからめとられてしまったかの如くに、です。ことの起こりは、いったい直知とはどこまでを示す言葉なのかというお話でありまして、たとえば「この書籍はぶあつい」というのは比べるものがなければ意味のない言葉ですし、いわんや「この書籍はおもしろい」と述べるにおいてをや、この言葉には客観的事実は含まれておりません。深草氏は『この書籍はおもしろい、というようなことは直知ではない』とおっしゃい、ぼくは『そういうものも直知に含まれるのではないですか』と言います。schizo氏は『おなじ物をながめても、色を考える人は「赤い」ということを直知し、手触りを考える人は「ざらざらしている」ということを直知する。なら、ひとつの物からわれわれが単純認識する直知というものは幻想なのではないか』という意味のことをおっしゃいまして、ぼくと深草氏とは『それは、おなじ物をながめて生じた「違う」直知であって、直知が単純に物から与えられるというお話とは撞着しない』と、いうことを述べます。ぼくは考えがまとまったのでひとつ確認を申し出て『直知という概念がいったいなにを意味するのか、今よく考えてみたところなのですが、つまり直知というものは、われわれが与えられたナマの経験を解釈・統合することによって形作られる認識のことなのですよね』と述べました。と。『違うよ』と早くも深草氏がおっしゃいます。『直知とは「解釈なしに」形成された認識のことで、それをわれわれが言葉にする時、はじめて解釈されるんだよ』とのこと。ぼくのイメージでは、経験とは形のさだまらないどろどろのネンドのようなものであって、これを枠にはめること(=解釈)を通じてはじめて「認識」が形成されるのですが、深草氏、aryu氏、schizo氏のイメージはこれと異なっており、もともと形あるサイフやら書籍やらがはじめから「経験=認識」として与えられていて、これを言葉にする段にいたって遅蒔きながら解釈が現れてくるのです。すなわち、サイフと言うにしろ札入れと言うにしろ、書籍と言うにしろ本と言うにしろ、こういう言葉の違いのことを、みなさんは「解釈」と表現していらっしゃる訳ですね。ぼくのあたまの中には「解釈なしに形成される認識」なんてものは存在しませんから、ここでぼくはサジを投げることにきめました。『ぼくは「解釈なしに」形成される認識というものは存在しないと考えているから、このオッカムの議論とはハナからたもとを分かつことになり、直知だ抽象知だと言われても、このたびのレジュメに沿った議論はできそうもない』と。別に哲学道場はレジュメに沿わなくてもよい場ですから、ぼくの発言可能性が失われた訳ではありません(実際のところ、こののち「直知の直知」なんていう話題はいちども議論されませんでした)。
 で。ここにおいて、経験→解釈→認識というスタイルをもち、なおかつ論破不可能に近いウロボロスの蛇のような理論が華ばなしく登場するのです。
 それこそが、崎山氏の擁する「廣松タカ派」共同主観性論【註5】なのでありました。


【註5】第2廻レポートに詳しい。


 深草氏はおっしゃいます。『崎山氏の共同主観性論においては、核をなす事実というものが存在しない。「おなじものを見ている」という感覚は幻想にすぎないとされる。これはオッカムの直知理論とまっこうから対峙するものだ』と。しばらくのあいだ深草氏は、崎山氏の共同主観性論に解説を加えます。またもよみがえるか不死鳥よ。まあ、それを言うならぼくの「特殊独我論」【註6】だって不死鳥なんですが。論破不可能性はおなじようなものです。aryu氏とschizo氏とは、解釈を経ない認識に就いて認めていらっしゃる訳ですから、もちろん共同主観性論を認めない立場です。ぼくは「事実の存在」を否定していますから、どちらかというと共同主観性論よりの物言いになります(でも共同主観性論者では「ありません」)。共同主観性論に就いては、まえにミネルバの袋鰻氏とも長い議論【註7】になりましたし、ホンットに強烈な理論なんですよねえ。


【註6】第3廻レポート、第5廻メモ書き、等に詳しい。

【註7】この論争は保管してある。


 aryu氏とschizo氏とは、共同主観性論を破壊しようとこころみて、それぞれに議論を提出なさいます。はじめはschizo氏。氏は「現実のもつ法則性」から、認識に核ナシとする共同主観性論にカーチェイスをいどみます。おっしゃるには『現実世界は疑いようのない物理法則をもっていて、科学で解き明かすことができる。それは、この現実世界が事実だからであって、もしわれわれがながめる現実と違う現実をもった人々が存在したら、その人々は必ず矛盾にみまわれる筈である。たとえば、1+1=3という認識をもっている人がいて、その人が「3gのまないと、量がたりなくて死んでしまう薬」を計るのに、1g+1g=3gなんてことをしていたら、実際は2gだから、のまされる人は死んでしまう』とのこと。しかし崎山氏は、おそらくこのような議論では、共同主観性論はまったくゆるがないと考えていらっしゃることでしょう。崎山氏を研究しつくしたとおっしゃる深草氏は、崎山氏が答えるであろう通りを予想して答えます。『それはわれわれの共同主観からながめているからそう見えるのであって、1+1=3と考える共同主観のなかでは、もちろん別の法則性がなりたっていて、論理的説明がつくようになっているのである(あるいは非論理の共同主観かも知れませんが)。もしかしたらその人々は、薬を2gしかのめなくて死んでしまった人を、まだ生きているとみなすかもしれない』と(このあたり、ちょっと記憶が曖昧)。schizo氏は、あるていど納得しておられたようです。
 続きましては、aryu氏が共同主観性論と一戦まじえます。氏は『共同主観性論が無誤謬・論破不可能であるとする意味が分からない。この世界が共同主観ではないことを示せば、すぐに「共同主観性論はただしくない」という証明ができるだろう。そしてそれは、たいして難しいことではない』というふうに主張。ぼくは『共同主観性論はまちがいなく「ただしい」。それは、共同主観性論が無矛盾に世界を説明しつくせるからである』ということを言いました。『「ただしい」の基準はそんなものだろうか』と、aryu氏。『違いますか?』と、ぼく。深草氏は『崎山氏は実用説だから、そうなるだろう。そうやって、共同主観性論は自己完結してしまうのだ。それはある種、独我論的である。共同主観性論を破るためには、もっと別の考えかたをしなくてはならない』と、おっしゃいました。
 それからも共同主観性論の議論は終わらず、このたびの哲学道場も共同主観性論一色になってしまいました。
 みなさんは、共同主観性論は実りが少ない、というお話をなさいます。共同主観性論では、ついに社会学の言うようなもろもろの議論に成果をもたらすことができず、あくまで論戦に破れないというだけではないか、と、おっしゃるのです。この批判は、ぼくの特殊独我論もあまんじて受くべきものですが、しかしぼくとしましては、哲学というものは「わたしには世界がこのように見えて疑いえないのだ」という表明にすぎないと考えていますから、成果が出る出ないとは別のレヴェルなのです。「なんの実りもないから哲学」だと、ぼくは考えています。けれども、崎山氏はまったく違う。崎山氏は実用説をとっていらっしゃるのですから、議論が実用的でなければならない。ですから、この批判を崎山氏がどう迎え撃つのかということには、ぼくも少なからざる感興を覚えます。
 共同主観性論というのは、言ってみれば「社会」を前提条件として「なにもないところからいっさいの理論を構築する」ものです。これは独我論にも適用できる議論でありまして、独我論の場合なら「自我」を前提条件として「なにもないところからいっさいの理論を構築する」のです。この無謀さを評して、aryu氏は『どちらの理論も、まるで『不道徳教育』に描かれたリバタリアニズムのようだ』と、おっしゃっていました。共同主観性論は「社会→個人」の理論、独我論は「個人→社会」の理論です。ところがぼくの場合ですと、考えなければならないことは山のようにありまして、個人から出発しても社会を説明するところにまでは辿りつけません。また、それでよいのだと考えています。おなじように、共同主観性論も社会から出発して、今のところ個人を説明するにはいたっていないのではないか。共同主観性論は、個人を排除してしまうロジックなのではないか。こういうことを、aryu氏とschizo氏はおっしゃいました。つまり、共同主観性論は、個人を「いくつもの共同主観の重ね合わせ」というふうに説明するのです。「X氏」とは「Aカテゴリ、Bカテゴリ、Cカテゴリ、……Nカテゴリ」の重ね合わせにすぎない訳で、これではX氏の「X氏性」をただしく描出することはできません(註:××カテゴリ=××共同主観)。Aカテゴリに入っている者はX氏の他にも、Y氏、Z氏、と、おりますし、BカテゴリやCカテゴリに入っている者に就いても同様なことが言えます。それではX氏とは誰なのか。「他の誰でもない」X氏とは誰なのか。そういうことが分からなくなってしまうんですね。
 このようなことに就いて、深草氏は『それゆえ、崎山氏の共同主観性論には全体主義的、保守派的側面が見いだされるのではなかろうか』と、おっしゃいます。aryu氏とschizo氏とはセクシャリティの問題をもちだされまして『そういう理論は弱者を排外してしまう。性同一性障碍等、社会が抱えているセクシャリティの問題を、そういうカテゴリにカテゴライズしておいて、けっきょく無視してしまうのではないか。性自認の問題には「誰でもないわたし」こそが重要なのだ』と、憤慨しておられました。ぼくはしかし「わたしとは社会からの影響のよせ集めのことで、過去というものにすべてを規定されてしまった存在にすぎない」と、精神論的な意味合いで自由意志を排除していますから、ここでも共同主観性論の側に廻らざるをえなくなります。
 ……ところで、こういった話は「要素がひとりだけの集合」すなわち「たったひとりで作られた共同主観」というものを考えることができれば、なんの問題もなくなります。帰り道、ぼくは深草氏に「たったひとりで作られた共同主観」はなりたたないのかということを尋いてみましたが、深草氏は『ありえないだろう』と、おっしゃっていました。そのゆえんは、共同主観とはそもそも『他者とじぶんとの距離を確認し、それを学習して擦り合わせをする』というものだからです。つまり「他者」がおらねば共同主観はなりたちようもない。
 ぼくは、なんとなく共同主観性論者にされかかったので『事実の存在を否定する者がすべて共同主観性論者であるというのは心外だ』という意味のことを述べました。特殊独我論は、むろん共同主観性論では「ありません」。ところでぼくは、事実を否定している者はわりあいに多いと感じているのです。そこで言ってみました。『ミステリ作家には共同主観性論者が多いのではなかろうか。たとえば京極夏彦の妖怪シリーズで憑物おとしをしている京極堂は、ことなる共同主観と共同主観との橋わたしをしていると解釈できないか』。ムラ社会というのは、つまりひとつの共同主観です。ムラ社会という共同主観から別の共同主観(ムラの外部、異界、マレビト、ケガレ)に足を突っ込むのが、いわゆる「トランス」であり、妖怪体験である、と。京極夏彦(いやむしろ民俗学)を共同主観性論から読みなおすことは可能です。思えば、既に『姑獲鳥の夏』からして、京極堂は「事実は存在しない。過去は社会的了解だ」みたいなことを言っていましたし、共同主観の相違がそのままトリックになっているものも多い。また、竹本健治はデビュー作『匣の中の失楽』において、色のクオリアが人によって違っている可能性に言及し、そして「そのような可能性を考えるのは『意味がない』ことだ」というふうに、クオリアという事実の存在をバッサリ切り捨てています。綾辻行人も『時計館の殺人』の中で、時間は社会的に了解された構築物にすぎない、というようなことを書いていた覚えがあります。そもそも、笠井潔や法月綸太郎を悩ませた「後期クイーン問題」なるものは、それこそ「ミステリにおける事実とはなにか」という問題に他なりません(そして論理は無謬であるかという疑い。それゆえゲーデルの不完全性定理なんかが絡んでくるのです)。hiropon氏は、麻耶雄嵩の『夏と冬の奏鳴曲』こそが、後期クイーン問題に対する廻答のひとつであろうと、ミクシィでぼくの日記に頂いた書き込みでおっしゃっていました。――
 と、と。すみません、おおきく脱線してしまった模様です。共同主観性論に就きまして、あとひとつ。深草氏はこうおっしゃっていました。『崎山氏の共同主観性論によって「説明がつかない」事実がひとつだけ存在した』と。『それは、ビデオ屋にアダルトビデオを借りにゆく時、われわれがいだく「恥かしさ」である。ビデオ屋の女性店員は、日にいくらもアダルトビデオを借りにくる客をながめているから、そのおおぜいの客のひとりにすぎないじぶんのことなど、強く印象に残している訳がない。それなのに「恥かしい」。じぶんの入っている共同主観のことはじぶんで分かっている筈だし、それなら女性店員がじぶんを意識していないことも分かっている筈なのに、なにゆえかわれわれは羞恥心をいだくのである』。深草氏は、これが崎山氏の共同主観性論を切り崩す端緒になりうるかも知れない、と、おっしゃっていました。しかし、よく分からないというのが正直なところです。
 ぼくの特殊独我論は、個人に始まり個人に終わります。ですから、社会のことを説明することはできないし、その必要もありません。全般的に「社会」にヒッカケないと話が進まない共同主観性論は、いくらかぼくの趣味とは離れているようです。
 ここらでレポートも終わりにしたいのですが、あともうひとつ。こちらは(既にすっかり忘れていらっしゃったでしょう!)オッカムの直知理論。ぼくは「解釈を経ない認識」を認めませんから、ぼくにとってすべての認識は、オッカムいわゆる抽象知であるということになります。ところが、ぼくには「眼のまえにあるものに対する認識」と「想像による認識」との違いが分かります。ということは、オッカムが想定した直知と抽象知とのあいだの差異、これとおなじ構造をもつ差異が、ぼくの認識のなかにもある訳です。これはいったいなんなのか。ぼくの認識がすべて抽象知であるとすると、ぼくは抽象知A(オッカムが直知と呼んだ抽象知)と抽象知B(オッカムが抽象知と呼んだ抽象知)と、このふたつの抽象知をもっている訳です。しかも、この違いはハッキリしており、明証的にぼくに与えられています。おかしなことです。
 そもそも、オッカムの「抽象知」という概念にも誤謬があるのではないでしょうかね。

      ■      ■      ■

 ではまあ、このたびのレポートはこのぐらいで。哲学道場に参戦してくださったみなさん、どうもありがとうございました。またの議論を楽しみに。ではでは。


【深草氏による報告はこちらです】


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