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薩長因縁の昭和平成史(4)/園田義明 [萬晩報]
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投稿者 white 日時 2006 年 10 月 08 日 11:03:18: QYBiAyr6jr5Ac
 

□薩長因縁の昭和平成史(4)/園田義明 [萬晩報]

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薩長因縁の昭和平成史(4)

2006年10月06日(金)
萬晩報通信員 園田 義明

 ■「使者」の正体

 開戦後の翌年6月、ジョセフ・グルー駐日米国大使は交換船で米国へと帰国することになった。この時、父同様にグルーやロバート・クレーギー駐日英国大使と親しくしていた松平恒雄の娘は、加瀬俊一を介して、グルーにはメッセージとともに長い交友関係の記念として宝石箱を、抑留生活がしばらく続くクレーギーには御殿場で手に入れた緬羊の肉を届けさせた。加瀬によれば、メッセージと宝石箱を受け取ったグルー夫妻は流れる涙のために顔を上げられなかったという。

 グルーに宛てたメッセージの内容は明らかにされていないが、松平は娘に対して「米英両国とも、国交回復の時が必ず来る。『お互い、その日を待ちましょう』と両大使夫妻に伝えては」との趣旨のアドバイスをしたとされる。

 もし、父のアドバイスがメッセージに反映されていれば、当時とすればこれまた大問題になっていただろう。なぜなら松平の娘は秩父宮妃勢津子であり、昭和天皇の義妹にあたるからだ。

 時は1928(昭和3)年1月18日。会津では「これで朝敵の汚名も消える」と三日三晩ちょうちん行列が繰り出されたという。この日、秩父宮雍仁親王と松平の長女・節子の婚約が正式に発表された。
 
 旧皇室典範に皇族の結婚対象になるのは皇族または華族と決められていたために、恒雄の実弟で子爵の松平保男の姪として入籍が行われた。また、本名の節子(せつこ)が貞明皇后の節子(さだこ)と同じ字だったため、畏れ多いということで結婚を機に伊勢の「勢」と会津の「津」をとって勢津子に改め、秩父宮妃勢津子となる。

 会津への想いは、宮家へ上がることが家族の自由を奪うことになるのではと泣いて悩み抜いた末に、養育係の口から出た「(家族)皆様、会津魂をお持ちでございます」の言葉に励まされ、結婚を決意したことからもわかる。

 秩父宮妃は女子学習院在学中に貞明皇后に見込まれ、結婚に至るいきさつには貞明皇后の強い推挙があったといわれるが、そこには明治維新時の旧会津藩に対する誤解を解きたいとの極めて聡明な貞明皇后のお心遣いが感じられる。

 秩父宮妃は自著『銀のボンボニエール』(主婦の友社)の中で「深い因縁」として樺山家との関係を回想している。学習院初等科時代からの親友であった樺山正子(後に白州次郎と結婚して白州正子)のこと、秩父宮妃の父・松平恒雄と正子の父・樺山愛輔がお互い信じ合い心を許し合った親友同士であったこと、毎年夏休みに富士山麓の樺山家の別荘で過ごしていたこと。そして、親友の父であり、父の親友でもある樺山が、貞明皇后の「使者」として事実上のまとめ役となったことなど。

 貞明皇后の「使者」と開戦直前の米国への「使者」は同じ人物だった。グルーが深い友情から敢えて名を伏せた日本人情報提供者とは樺山愛輔である。この樺山も実はメソジスト派のクリスチャンであった。

 ■貞明皇后の接木

 皇室とクリスチャンとの関係で見逃せないのが昭和天皇の母君、貞明皇后の存在である。ここで貞明皇后とキリスト教について、片野真佐子の『皇后の時代』(講談社選書メチエ)を参考にしながら紹介しておきたい。

 病状の悪化する大正天皇嘉仁に寄り添う貞明皇后は、1924(昭和13)年に8回にわたって東京帝国大学教授・筧克彦の進講を受け、その時の内容は後に『神ながらの道』としてまとめられた。筧はドイツ留学時にキリスト教と出会い、日本人の精神的救済のために日本におけるルターの役割を務めようとしたが、帰国後、日本独自の伝統や文化とキリスト教との相克に悩み、古神道に行き着くことになる。寛容性の根源に古神道を据え、日本人こそが世界精神の担い手であるとして、外教を自在に取り込んで古神道に接木しながら、西洋諸国全般に逆輸出すべきだとも説いた。

 この筧の教えから貞明皇后は独自の宗教観を持ってキリスト教に接することになる。その接点となったのが晩年に内村鑑三の弟子である塚本虎二の影響から無教会派クリスチャンとなった関屋貞三郎とその妻で日本聖公会聖アンデレ教会信徒の衣子である。関屋は牧野伸顕に強く推され21(大正10)年に宮内次官に就任、以後12年間宮内次官を務めたことから万年次官と言われた。しかし、先に触れたように皮肉にも児玉源太郎の娘を妻に持つ木戸幸一や近衛文麿ら宮中革新派らの策略によって33(昭和8)年2月に辞任する。

 実は関屋にとって生涯の恩師となったのが児玉であった。その関係は台湾総督府時代に遡る。栃木県に生まれた関屋は東京帝国大学法学部卒業後内務省に入省、1900(明治33年)には台湾総督府参事官に就き、7年もの歳月に渡って秘書官としても児玉台湾総督に日夜仕える。この児玉を取り囲むように、関屋、後藤新平民政局長と思われる人物、そして当時殖産局長を務めていた新渡戸の4人が揃った台湾総督府時代の写真が関屋の二男である関屋友彦の『私の家族の選んだ道』(紀尾井出版)に残されている。

 友彦も母と同じ日本聖公会聖アンデレ教会信徒、三男・光彦は津田塾大学や国際基督教大学教授などを歴任し、その妻は日本YWCA(キリスト教女子青年会)会長として反核・平和運動に携わった関屋綾子である。この関屋綾子はスウェーデンボルグ主義の森有礼の孫であった。長男・正彦は日本聖公会司祭として活躍し、一時クエーカー教徒として普連土学園の校長を務めたこともあった。

 後藤は衛生状態の改善や教育の普及などの社会基盤の整備に尽力し、さらには農業改革の指導者として同郷の新渡戸を抜擢、新渡戸はあくまで「自発的であること」を尊重しながら精糖工業の振興に努めた。彼らが今日の台湾の基礎を築き、今なお日本と台湾を結ぶ友好の架け橋となっている。

 ここにも深い因縁がある。初代台湾総督を務めたのが樺山愛輔の父、樺山資紀である。すでに台湾時代の樺山周辺に近代教育の基礎を作った伊沢修二や人類学への情熱を胸に冷静な観察眼と温かい眼差しを持って未踏のアジアを歩き続けたフィールドワーカー・鳥居龍蔵の姿もあった。

 戦中、関屋衣子は貞明皇后を訪れる。衣子が「今のままでは日本が負ける」と言うと貞明皇后は「はじめから負けると思っていた」と語り、「もう台湾も朝鮮も思い切らねばならない。昔の日本の領土のみになるだろうが、勝ち負けよりも、全世界の人が平和な世界に生きていくことを願っており、日本としては皇室の残ることが即ち日本の基です」と力強く述べたという。

 ここで筧が日本人の生命観の真髄に迫ると評価した貞明皇后の御歌を記しておこう。

 八百万の神のたゝへし一笑ひ世のよろこびのもとにてあるらし

 貞明皇后こそが世界に誇る堂々たる平和主義者であった。樺山含めた薩摩系宮中グループも、そしてジョセフ・グルーもまた貞明皇后が英米に差し向けた使者だったのかもしれない。我が子への母君の想いが薩摩系宮中グループを「昭和天皇免罪工作」へと向かわせたのだろう。

 ■秩父宮妃とフレンド・スクールと三菱本家

 実は先に紹介した『銀のボンボニエール』には、戦後の日米関係と日本国憲法をも左右する更なる「深い因縁」も記されている。

 樺山愛輔が貞明皇后の使者として二度渡米したこと。当時秩父宮妃はワシントン市内のアイ・ストリートにある私立のフレンド・スクールに通学していたこと。フレンド・スクールがクエーカー教徒の学校であること。そして、フレンド・スクールに決めた理由は、父の前任者、幣原喜重郎のご令息がこの学校に通学されたことがあり、大変よい学校だという評判を両親が聞いていたことなど。

 日本国憲法をつくった幣原喜重郎のご令息とは長男・道太郎か、次男・重雄のことであろうか。これは非常に気になる。道太郎だとすれば、後におよそフレンド・スクール出身者とは思えない言動をするからだ。

 この秩父宮妃のフレンド・スクール入学には歴史に埋もれたままになっているクエーカー教徒の外交官、澤田節蔵の影響もあった。松平が駐米大使に起用された時に参事官として補佐したのが節蔵であり、『澤田節蔵回想記』(有斐閣)によれば、学校のことで迷っている松平大使に「クエーカーの学校の入学案内を取り寄せて大使にお勧めし、大使もいろいろお調べのうえ、お二人をこの学校(フレンド・スクール)に送られた。」としている。

 お二人とは当然松平の長女・節子と次女・正子である。次女は後に徳川義親の長男・義和に嫁ぎ、徳川正子となった。おそらく松平は澤田の推薦をもとに幣原と相談して決めたものと思われる。実は幣原と澤田は縁戚関係にあった。ここに三菱本家の存在が見出せる。

 澤田家の長男として鳥取に生まれた節蔵は、叔父に頼って鳥取中学から水戸中学に転学、ここでコチコチのクリスチャンであった母や叔父叔母の影響からクエーカー教徒となった。後に節蔵の妻となるのは薩摩出身で駐伊公使を務めた大山綱介の長女・美代子である。美代子も長らくローマに住み、帰国後は双葉女学校カトリックで学んでカトリック信者となる。

 節蔵の弟である澤田廉三(澤田家三男)も日本キリスト教団鳥取教会(監督派)のクリスチャン外交官であった。廉三の妻となる岩崎美喜も結婚を機に念願かなって敬虔な聖公会信徒となった。結婚後の澤田(沢田)美喜は後に混血孤児救済で知られるエリザベスサンダースホームを創立する。

 岩崎美喜の父は岩崎久弥、祖父は三菱財閥創業者・岩崎弥太郎。つまり美喜は三菱財閥の本家にして第3代当主・岩崎久弥の長女であった。また、岩崎弥太郎の四女・雅子の夫が幣原喜重郎であり、澤田廉三との縁談を持ちかけたのは「加藤の叔父(加藤高明、弥太郎の長女・春路の夫)と幣原の叔父」だったと美喜は回想している。

 この三菱本家のキリスト教受容について、久弥の米ペンシルベニアでのクエーカー家庭での留学生活の影響があったと美喜は書いている。クエーカーが皇室と薩摩系宮中グループと三菱本家をつなぎあわせていた。

 余談になるが、澤田廉三・美喜夫妻の次男は澤田久雄、その妻は安田祥子である。今日もどこかで妹の由紀さおりとともに姉妹揃って美しい童謡を歌っていることだろう。

 ■澤田節蔵と松岡洋右

 1921(大正10)年3月3日、皇太子殿下(後の昭和天皇)をのせた戦艦「香取」が横浜港からイギリスに向け出港した。大正天皇の病状が悪化、宮中某重大事件も重なり猛烈な阻止行動もあったが、皇太子の識見を広めることを最優先に洋行が実現した。訪問先はイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、イタリア(バチカン含む)の欧州5カ国、日本の皇太子が外遊するのはむろん初めてのことである。

 艦上には供奉長として随行した外交界の重鎮、珍田捨巳(メソジスト派)、山本信次郎海軍大臣(カトリック)、そして澤田節蔵(クエーカー)の日本のクリスチャン・エリートが勢揃いしていた。バチカン訪問をねじ込んだのは山本信次郎だと言われている。

 それから4年後の25年1月19日、日本のクエーカーの父・新渡戸稲造は昭和天皇に進講している。この時の席次は『新渡戸稲造研究』第12号に記されており、摂政の宮(昭和天皇)と摂政宮妃と同じテーブルで新渡戸が対座し、新渡戸の左手に関屋貞三郎宮内次官、右手には珍田捨巳東宮大夫、奈良武次侍従武官長、入江為守宮太夫(東宮武官長)と並んで澤田の名前がある。この澤田は松平恒雄の参事官として米国出発直前の澤田節蔵だったと思われる。

 実はこの時牧野伸顕は関屋貞三郎に続いて、澤田を宮内省に転出させるべく幣原喜重郎(当時外相)を訪ねている。牧野もまた皇室とクリスチャンの接木役を担っていたのである。

 さて、珍田、奈良、入江、澤田の4名いずれも昭和天皇の欧州外遊に供奉しており、新渡戸を囲んだ同窓会のような和やかな雰囲気に包まれていたことだろう。新渡戸は当時事務次長を務めていた国際連盟に関する話を中心に進講し、昭和天皇は米国の動向を問いかける。彼らに待ち受ける暗雲が漂い始めた頃でもあった。

 昭和の戦争の出発点となった満州事変の翌32年、当時国際連盟の日本政府代表は松岡洋右(首席全権)、連盟理事長・長岡春一(駐仏大使)、佐藤尚武(駐白大使)の3名から成り、事務局長を務めていた澤田節蔵は代表代理となる。澤田は松岡の派遣を「わが国官界財界に顔がひろく、ことに当時実質上政権を把握していた軍部ともよく、政府としては彼を陣頭に立てて奮闘させようという考えがある」と見ていた。

 その日の早朝、松岡の命令で起草した電信案を手にした書記官が、澤田に発電してもいいかと聞いた。その電信案は「代表部の総意として事ここに至って日本は連盟脱退のほかなし、政府は断然脱退の処置をとるべし」というものだった。

 澤田はこの発信を中止させ3代表と澤田の4名で協議を行う。澤田は「日本が連盟を脱退することは自ら進んで世界の政治的孤児になることだ。」と主張し、この一大事に最後の決断はあらゆる情報を把握している政府が行うべきであり、政府も迷っているこの時に「出先機関がジュネーブの空気から指図がましいことをいうのは絶対に避けるべき」と言いたてた。

 しかし、松岡は日本のとるべき道は脱退以外にないとして一刻も早く発するべきと主張する。結局澤田の主張は葬り去られる。会議終了後、「澤田さんは温和な人と思いこんでいたが、今の会議では実に熱烈強硬そのもので実に驚きました」と佐藤に言わしめた。

 ブラジル大使を経て帰国した澤田は有田八郎外相の顧問として日独伊三国同盟も「ヒットラーのドイツと結ぶが如きは害多くして益なし」として強硬に抵抗している。この時同時に澤田が関与した「米国資本・満州北支誘導工作」が実に興味深い。ハリマン事件の教訓を生かした経済相互依存戦略が見出せる。

 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp


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