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歴史の重さを忘れない一日【東京新聞】
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投稿者 そのまんま西 日時 2007 年 8 月 15 日 23:46:39: sypgvaaYz82Hc
 

歴史の重さを忘れない一日【東京新聞】
2007年8月15日

 きょう八月十五日は日本人には決して忘れられない、歴史の重さを実感する一日だ。過去を振り返りながら、未来を思い描く。世界各地にもそんな特別な意味を持つ日がある。「この日を忘れない」と−。

流血の5月 軍が群衆に無差別発砲 タイ
 一九九二年五月。タイの国民は「流血の五月」「残虐無比の五月」と呼ぶ。マヒドン大学平和構築研究所のコートム教授(64)は、仲間たちが銃弾に倒れた光景を忘れることができない。

 前年にクーデターを成功させたスチンダ陸軍司令官の首相就任に学生や知識人が猛反発。バンコクでは日増しに抗議行動が高まり、民主記念塔や名門タマサート大学がある王宮周辺には大勢のデモ隊が集まった。五月十七日夜、デモ隊と軍・警察が激しく衝突。十八日未明、ついに軍は群衆に向けて無差別発砲し、四十四人が死亡、負傷者は約三百人に上った。

 毎年、五月になると大学生たちが犠牲者を弔う法要を営んでいるが、コートム教授は「事件を風化させてはいけない」と「プッサパー(五月)財団」を設立、死亡した学生らの遺灰を納め、事件を後世に伝えるための記念施設の建設計画を進めている。

 タイの民主主義が始まった一九三二年六月二十四日も国民に広く知られている。立憲革命で専制君主制から立憲君主制に移行した日だ。民主記念塔は後のピブン内閣が建造。タイ民主主義のシンボルとなっており、反政府デモやメーデーの行進は必ず民主記念塔が出発点となる。

 昨年九月のクーデターにより事実上の軍事政権が続くタイ。年内の総選挙実施を目指しているが、十五年ぶりのクーデターが起きた「九月十九日」は将来、どのように国民の記憶に刻まれるのか。「非民主的なタクシン政権の終焉(しゅうえん)」か、それとも「軍部復活の日」か−。

  (バンコク・平田浩二、写真も)

ケネディ暗殺 今も謎に包まれる事件 米国
 「忘れられない日」で米国民にアンケートをとれば、米中枢同時テロ事件の二〇〇一年九月十一日を挙げる回答がおそらく圧倒的だろう。ただ一九六〇年代に青春時代を過ごしたベビーブーマーたちは別かもしれない。

 「最高なのは、ケネディの死んだ日を忘れることができたという夢だった」。米ロック歌手のルー・リードは曲「ジョン・ケネディの死」で忘れようとしても忘れられない日をこう歌っている。

 六三年十一月二十二日昼すぎ、テキサス州ダラスをオープンカーでパレード中だった当時のケネディ大統領は凶弾に倒れた。六〇年の大統領選で勝利し、四十三歳の若さで大統領に就任。「ニューフロンティア精神」を唱え、公民権運動に取り組んだ現職大統領の死はあまりにも衝撃的だった。

 当時、高校生だったジョン・チェフィ・ブリガムトン大学教授(59)も「あの日」の情景を覚えている。

 「車に乗っていて立ち寄ったガソリンスタンドで、ケネディが撃たれたとラジオか何かでやっていた。みんなが耳を傾けていた。その音は今でも鮮明に残っている」

 「支持率80%」。米民間調査会社ラスムッセンは七月、戦後歴代大統領の業績評価に関する世論調査を発表した。ケネディ元大統領への評価はいまだに揺らいでいない。暗殺を受け、副大統領から大統領に昇格し、ベトナム戦争に深入りしたジョンソン氏の支持率は45%。ニクソン氏は32%で最下位に沈んだ。

 事件の真相はいまだに謎に包まれている。オズワルド容疑者による単独犯行説を信じる米国民はほとんどいない。悲しみ、挫折感。事件にまとわりつく黒い雲が、「あの日」の記憶を人々に強くとどめさせているのかもしれない。

  (ワシントン・小栗康之、写真も)

11・9ポグロム ユダヤ人迫害の引き金 ドイツ
 ナチズムの復活阻止を国是とするドイツでは、ナチスによる本格的なユダヤ人迫害の引き金となった「水晶の夜事件」が起きた一九三八年十一月九日を記憶に刻む。

 この事件は、同日夜から翌十日未明にかけ、ナチスの突撃隊員らがドイツ全土でユダヤ人の商店や住宅、ユダヤ教教会を襲撃、放火したもの。ドイツ全土で約九十人のユダヤ人が殺害され、約三万人が強制収容所に送られたとされる。ユダヤ人の追放政策に憤ったユダヤ人青年が、パリでドイツ人外交官を殺害した事件を口実にしたものだった。

 路上に砕け散った窓ガラスが月明かりに輝いていた光景から、「クリスタルナハト(水晶の夜)」と呼ばれているが、近年では美化した表現だとして、破滅を意味するロシア語で、ユダヤ人への残虐行為を指す言葉を用いて「十一月ポグロム」と呼ぶことが多い。

 毎年この日には、ドイツ各地のユダヤ教教会で追悼式を開催。昨年の中央式典では、ドイツ南部ミュンヘンに新たに建設されたユダヤ教教会の開所式も併せて行われた。

 ユダヤ人を強制収容所に送り出す拠点となったベルリン西部グリューネバルト駅では、州警察学校の生徒らがロウソクを献灯。市内各区でも、放火されたユダヤ教教会跡地で式典を開催する。

 だが、ドイツ東部フランクフルト・アン・デア・オーデルでは、昨年の記念日、記念碑に手向けられた花束が荒らされる事件が起きた。捕まった十五歳から二十四歳までの十六人はネオナチに傾倒していたという。記憶の継承という課題に、今年も式典を予定するベルリンのテンペルホフ・シェーネベルク区役所の担当者は「中身のない儀式にしないため何をすべきか考えているところです」と話している。

 (ベルリン・三浦耕喜、写真も)

解厳記念日 長く続いた弾圧の時代 台湾
 台湾では今年、法律の定める新たな記念日が加わった。七月十五日の「解厳記念日」。二十年前の一九八七年のこの日、三十八年間余と世界でも異例の長期にわたった戒厳令が解除された。

 終戦後、国共内戦の激化や、国民党政権による台湾人虐殺事件「二・二八事件」(四七年)を経て、台湾に戒厳令が敷かれたのは四九年五月。独裁政権が「共産党スパイの摘発」を名目に民衆を取り締まる「白色テロ」の時代が長く続く。

 当時の治安当局は「百人を誤って殺しても、一人も逃がすな」という過酷な方針だったとされる。冤罪(えんざい)による処刑や投獄が相次ぎ、受難者は二十万人にも上るといわれる。

 七一年の国連“脱退”をはじめ、七二年の日台断交、七九年の米台断交と、国際社会での台湾の地位が揺らいだ七〇年代は、独裁政権の権威が揺らぎ始めた時代でもあった。七九年十二月、雑誌「美麗島」の関係者を中心とする「人権大会」開催の動きには力で対応したものの、民主化の流れは止められなかった。

 この「美麗島事件」に被告や弁護団としてかかわった人たちは、新たな政党、民進党の結成に進む。八六年五月には戒厳令解除を公然と求める集会も開かれた。

 そして訪れた戒厳令解除。だが、弾圧の法的な枠組みは残っていた。思想・言論の自由を制限した刑法の条文が修正されたのは九二年だった。

 長く暗い弾圧の記憶は今も台湾の人々の心から消えていない。政治的な言動に対するためらいもまだ根強い。「解厳記念日」の制定にあたり、行政院(内閣に相当)のスポークスマン、謝志偉氏はこう述べた。「あの時代、人々は自分で自分を束縛するようになった。われわれは心の中の戒厳令から、解放されるように努力しなければいけない」−。

  (台北・野崎雅敏、写真も)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/newworld/CK2007081502041237.html

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