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ガザのパレスチナ人がガンにかかるということ(BellaCiao)
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投稿者 kamenoko 日時 2007 年 3 月 12 日 07:32:08: pabqsWuV.mDlg
 

 06年1月13日にBellaciaoに掲載された記事です。

 筆者Luisa Morgantiniは欧州議員
 82年からパレスチナ問題に関心を持ち、88年より平和を望むイスラエル・
 パレスチナ双方の人々を繋ぐ活動に従事。

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ガザのパレスチナ人がガンにかかるということ
http://bellaciao.org/it/article.php3?id_article=12043


 生き続けたかったFatma Barghouthの話

12月24日、Fatma Barghouthは29歳で亡くなった。 
彼女を襲った乳癌が脊椎に移転したためだ。 

ガザ市内の墓地に埋葬された。 亡くなった別の女性2人と一緒に。
ガザで死ぬ人が多すぎるため、埋葬場所が足りなくなっている。 
彼女の家族は、土地にもう少し余裕のあるJabalia 難民キャンプの
墓地に埋葬したかったが叶わなかった。 その朝、イスラエル軍と
武装パレスチナ人グループとの間で発砲があり、イスラエル軍の
大砲と空爆によってJabalia の墓地に続く道が破壊されたために。

彼女の臨終の苦しみは、これまでの人生と同じく単純なものではなかった。

ファトマが最初に乳房のしこりに気付いたのは03年4月。 
朗らかな笑顔に大きな黒い瞳、パレスチナ伝統服にイスラム教の
それではない農民の被り物をつけた26歳のファトマは、美しく
生きる喜びに満ちた女性。 あらゆる不運、権威主義、蹂躙と戦う
勇気をもっていた。

治療を受けるために通っていたイスラエルの病院のこと、
Physicians for Human Rights(イスラエル当局のパレスチナ人に
対する保健衛生分野での迫害・差別と戦うイスラエルの組織。
以下PHR)の医者たちの献身的な活動を書こう。 
彼らがいなければ、重い病気にかかったパレスチナ人は治療を
受けられず、もしくはイスラエルの専門病院にかかれなかっただろう。

ファトマに関しては、これらの努力が実を結ばなかった。

ガザ北部とイスラエルを隔てるErezのチェックポイントで、
化学療法を受ける機会がどれほど剥奪されただろう。 痛みを
こらえながら、イスラエルに続く鉄の門が開くのを、何時間も
ひとりで待たされた。 イスラエル法廷を介して得たものも含めて
ファトマは必要な許可証すべてを携えていた。 
Tel Hashomerの医師たちは、Erizの係官に彼女が化学療法を受ける
必要があることを保障し、通過させるよう電話で交渉した。 
しかしチェックポイントの当局と兵士たちが耳を貸さないことが
何度あっただろう。

ファトマは彼らの顔すら見られない。自分の檻に座って身を隠し、
テレカメラを通じて観察する彼らを。 ここを通過せんとする
パレスチナ人や外国人にはイエスかノーしか聞き取れない、
高みからガーガー音をたてるスピーカーを通じたヘブライ語による
命令の声だけを聞いていた。 

治安上の理由
チェックポイントの兵士がそれだけを言い続ける間に、悪性腫瘍は
ファトマの体を蝕んでゆく。

彼女の苦難の道はしかし、武力占領者イスラエルの野蛮な壁や、
慈悲の心に欠ける国境兵士や警察官によるものだけではなく、
専門医療設備に対するパレスチナ側の諦めの気持ちと不足にも
よるものだ。

ファトマは乳房のしこりに気付いた

最初にそれを発見した03年4月15日、ガザのShifa病院でレントゲンと
バイオプシー検査を受けた。 10日後に出た結果は思わしくないもの
だった。 再びバイオプシー、そして2週間後に医師は良性のしこり
’線種’のため心配に及ばないと言った。
6月、ガンは広がりファトマはさらに2つの塊に気付いた。 数度の
懇願の後に医師はしこりの除去に同意し、2週間後婦人科で除去した
しこりは良性だったと告げられた。

しかしガンに蝕まれつつあったファトマの体に、手術後もしこりが
あらわれる。
8月、Shifa病院医師のプライベートクリニックでも、問題はないと
告げられた。「ブラジャーがきつすぎるのだろう」。 
頑固なファトマは彼女を手術した医師に再びバイオプシーを依頼。 
今回の結果は明らかに、増殖しつつある悪性腫瘍の存在が診止められた。

ガザの病院で9回の放射線治療を受けたファトマは、イスラエルの
Tel Hashomer 病院にかかることに決めた。 バイオプシーの結果を
送ると、できるだけ早く来るようにとの返事が来た。

 気紛れにやりとりされた命の許可証

許可証を得る手続きとチェックポイントの悲劇はここから始まる。
調整事務局宛に3回提出したヴィサ要請は、すべて無視された。

11月13日、ファトマはPHRに介入を依頼し、Rafi Waldan教授から
11月25日に緊急面談の約束を得る。 PHRは緊急訴訟手続きで
法廷に持ち込むことにした。
ファトマの弁護士は、Carmeli-Arnon法律事務所のYossi Tzur 。 
12月12日、法廷からTel Hashomer病院との治療協定付きの
許可証が届く。

少なくともひとつの障害が取り除かれた。 
しかし苦難の旅は始まったばかり。
病院に通う度にイスラエル人医師が仲裁に入らなければならない
という有様で、それでも通過が許可されるまでチェックポイントで
何時間も待たされた。

家族の付き添いはなかった。
家族の誰に対しても許可証が下りなかったからだ。
04年1月のある日、彼女はチェックポイントで追い返された。 
Yossi Tzur弁護士が再び行動を起こし、新しい許可証と翌日の
診察予約が与えられた。 朝早くチェックポイントに着いた
ファトマは13時まで待たされた。 ようやく病院にたどり着くと
婦人科はすでに終わっていた。

2月9日、ファトマは病院で腫瘍摘出手術を受けることになった。 
Erezに着いたのは早朝で、17:30までたったひとりで待たされた。 
イスラエル人医師たち、弁護士、’Kolistael’紙の
Carmela Menashe までが仲裁の電話をかけたが、ファトマの許可証を
持ったイスラエル女性兵士は食事担当に回されており、誰も
その兵士の代理をできないとのことだった。

18:30 ようやく通過が許されたファトマは病院に向かい、翌日
手術を受けた。 その2日後に外科医から、ガンがあちこちに
転移しているためvasectomy手術を受ける必要があると告げられる。 
医師らはせめて家族の誰かひとりにでも許可証を出すよう幾度も
要請したが、ファトマはいつもひとり。 厚い支援を受けながらも、
誰も彼女の言葉を話さない病院でひとりぼっち。孤独の中で不安と
怒りと痛みに立ち向かっていた。

退院、ガザに戻る。 3月25日、放射線治療の予約。 
許可は下りず、ガザを離れることが許されなかった。 
2週間後の治療の時には通過が許された。 次の予約は25日後。 
ガザとイスラエルを頻繁に行き来するのは不可能。 
PHRの医師たちは、彼女と別の乳がん患者のために、治療期間の
イスラエル滞在許可を願い出るも拒絶!
再び法廷に持ち込むしか方法はなかった。
イスラエル人のグループ、“One in nine: Women for victim
of breast cancer”も加わった請願が受理され、2人の患者に
イスラエル滞在許可が下りる。 しかし治療に5ヶ月を要する
彼女に与えられた滞在許可は1ヶ月。 PHRの尽力でファトマは
メンバーの自宅に滞在(違法で)。

 3万シェケルを払えば、ファトマの死に目に会えるかもしれないね

ガザに戻る。手術は非常に上手くいったように見えたが、
1ヵ月後にガン細胞が再び現れた。ファトマの症状は悪化し、
背中と足に強い痛み。 7月22日、母親とともに救急車で病院に
運ばれたファトマのガンは背骨に転移しており、そのまま入院。
症状はさらに悪化。 家族に会いたい。 PHRがイスラエルDCOに
緊急要請し、父親と2人の姉妹の通行許可が届いたのは8月2日。 
45歳に満たない兄弟たちにはその可能性すらない。

しかし父親と姉妹さえその日に駆けつけることができなかった。 
Erezのチェックポイントで何時間も待たされたあげくに、
国境警察は保証金としてひとり3万シェケル(およそ84万円)の
支払いを求めてきたのだ。 Yossi Tzurの要請で妥協の姿勢を
みせたイスラエル警察は、保証金を2万シェケルに引き下げる。 
家族にその額の支払いは不可能だ。

 再び訴訟 8月9日に許可が下りるがまだ通過できず

彼らを止めた国境警察に対し、今回はイスラエル国会議員も
介入したが、ガザに送り返された。 

申請から3週間後、2人の姉妹はついにファトマと母親の元へ。 
通行が認められなかった父親はガザに留まる事を余儀なくされた。 
イスラエル兵士によると治安上の理由で。

医師団から看護師まで、婦人科スタッフをあげてファトマに
献身的に尽くす。
一連の治療を終えて力を取り戻したファトマは、Shifaの
病院で化学療法を続けるためにガザに戻る。

パレスチナの保健相が非常に高価な治療費の支払いと、
必要な医薬品のShifaの病院への受け入れに同意したのが
それからひと月後。
しかしファティマの症状は悪化し、呼吸困難に陥る。T
el Hashomer病院の医師は、とにかく戻ってくるようにと告げた。

 新しい許可証 

9月5日、ファトマが過去に違法でイスラエル入りした記録がある
と主張するチェックポイントの兵士は、彼女を通さない。 
その問題は19時近くに解決。丸1日をチェックポイントで費やした。 
放射線および化学療法は9月14日より始まるはずだった。 
PHR、医師団、ガザのイスラエル人医療コーディネーター・
ワインバーガー氏による急ぎの接触。許可証が出るとの確約。
DCOが許可証が下りたことを伝えて来たのは、14日の17時30分。
しかもファトマの分だけで、付き添い人と救急車には下りなかった。 
ファトマが自力で歩ける距離ではない。
病院に行けなかった。

許可証再申請の手続きへ。
パレスチナ人コーディネーターは、イスラエルが申請書を
受け取らないという。
9月19日、申請書が送られた。

事実はこうだ。 ヘブライ歴新年の祝のため、9月15日は全ての
チェックポイントが閉鎖された。ガザの側は、”悔恨の日作戦”と
呼ばれる侵略以降9月一杯閉鎖されていた。

 1人の人間の死が、死にゆく誰かを助けることがある

9月27日、イスラエル人女性医師の代表団がガザのイスラエル指令官に
ファトマの通行許可に便宜を与えるよう直訴に赴くも、長らく待た
された後に、出てきたのはいち士官だった。

翌日、ファトマとその母がチェックポイントに到着。17時まで待たされる
間、ファトマは地面に伏せていた。そこには椅子も体を支えるものも
なかったからだ。 ようやく書類のチェックが終了すると、兵士は
ファトマに服を脱ぐように命じた。セキュリティ装置が胸部に異物を
関知したというのだ。 命令に従いつつ、ファトマは手術後にシリコンを
埋めたことを説明しようと試みた。 すると別の兵士が出てきて、
服を脱ぐ事は禁じられているとアラビア語でわめきたてる。
今受けた命令を説明しようとするも、暖簾に腕押しだ。
ファトマは母親とともに追い返された。
DCOはPHRに、ふたりの女性がチェックポイントを通過できなかった旨、
伝えた。

手続きからやり直し。
9月29日朝、やっと許可書が整った。同じ病院で治療を受ける他の患者と
ファトマを乗せた救急車は、Erezに向かってBeit Lahiyah 通りを走って
いた。軍事作戦で度々停止。16時半の段階でまだ停められていた。
Erezに向かう試みは今回も阻まれた。17時半、救急車は乗員とともに
ガザに引き返す。

全てのルートが閉鎖され、また禁じられていたために、Tel Ashomer病院
から薬品を送ることもできなかった。

10月4日 許可書がまだ出ない。
ファトマはガザの病院に運ばれた。そこの酸素テントの下でガン患者が
亡くなったため、残された2日分の化学療法にファトマに回された。

 赤十字は撃たないと、彼らは言っていなかったか?

1週間後、DCOはPHRに通達してきた。パレスチナ人医療コーディネーター
Ahmad Abu Razaの許可書申請書を提出せよと。しかしNuseiratの難民
キャンプにいた彼は、戒厳令により足止めをくっていた。
翌日ガザに到着するも、ファトマの許可証は申請できない。なぜなら
イスラエル側のファックスが壊れているという。 PHRの医師によると
これは実話。 彼らはイスラエル側にAhmadと電話で話を進めるように
促し、話合いは行われた。しかし許可だけでは充分でないという。

10月14日、もはや自力で立つこともできないファトマを運ぶ救急車は、
しかひ破壊された道を走れない。 

破壊された道を走れる唯一の車輌。PHRは赤十字の車輌を探してきた。
13時、Erezに向かってAbraj al-Awdaを通過中の赤十字車両を
イスラエル狙撃兵の銃弾を受けた。 19時、チェックポイントに
向かって再び走り始めた。

最初の化学療法開始から1ヶ月が経過。
ファトマの苦しみは終わった。 04年12月4月、彼女は永遠に目を閉じた。

ファトマの家族と数百万のパレスチナ人の苦しみは続く。

06年1月1日、Erezのチェックポイントにひとりの男性がいた。80歳を
越えていただろうか。幾本ものチューブ、車椅子。Tel Ashomer病院で
治療を受けるために、午前一杯妻と鉄の門の前で待たされていた。 
車椅子が問題だそうだ。セキュリティ上の問題。 しかし彼は
車椅子から降りることも話すこともできないのである。 我々は
イスラエル士官に電話をかけた。懇願した。これは人道上の問題であり、
なににせよ我々(イタリア人18人がいた)は彼が通過するまでここを
動かないと伝えた。 数時間後、数10本の電話の後、門が開いた。
私を抱きしめる夫人のおひさまのような笑顔。

怒り、心の痛み、憤りを必死の思いで押さえつけた私は、
イスラエル士官にお礼を言った。

私は自問自答する。
こんなことがいつまで続くのだろう?
この人権侵害を、国際社会はいつまで看過するのか?
この質問がレトリックであることを私は知っている。

06年1月13日(金) ルイザ・モルガンティー二記

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