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日本人移民排斥のテーマは、アメリカ合衆国が、海軍力で守るべき重要な国家の政策目標とされたのであった。 西尾幹二
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投稿者 TORA 日時 2007 年 5 月 06 日 16:36:09: GZSz.C7aK2zXo
 

株式日記と経済展望
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu143.htm
http://blog.goo.ne.jp/2005tora/
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日本人移民排斥のテーマは、アメリカ合衆国が、海軍力で守る
べき重要な国家の政策目標とされたのであった。 西尾幹二


2007年5月6日 日曜日

◆「国民の歴史」 西尾幹二(著)
http://www.sankei-books.co.jp/books/title/S99X3001.html

◆日露戦争の勝利の代償

話は変わるが、日本はなぜ中国と戦争をしてしまったのか。これはじつに不幸な戦争であったということはさんざん言われてきた。まさにそうである。日本は中国や朝鮮と手を取り合って欧米と対決するのが自然であり、多くの不幸や誤解を回避しうる道であったことはあらためていうまでもない。

日露戦争はある面で朝鮮や中国をロシアから守るという性格を持った戦争でもあった。もし、日露戦争で日本が負けたら、朝鮮は全土、ロシアの属領となっただけでなく、中国もまた確実に北半分をロシアに領有されてしまったであろう。

それでも日本は、当時朝鮮や中国と組んでロシアに当たるという作戦は立てなかったし、立てることもできなかった。前の項でその理由はくわしく書いたから同じことはもう繰り返さない。要するに日本は英米、とりわけイギリスの惚偲だった。逆からいえば、何をいちばん心配したかというと、日本人がアジア人の代表であって、白色人種対黄色人種の戦いの緒戦であるというふうに受け取られることをいちばん恐れていたのである。

当時の日本人には、自分の客観的位置がよく見えていたし、恐怖が与えた自己抑制の機能がうまくはたらいていた。白人社会を刺激するという意図などは考えられなかった。無邪気なまでに「脱亜入欧」の姿勢だった。しかし、それでも結果として日露戦争の勝利は、白色人種の社会にいちじるしい衝撃をリえたことはよく知られている。

世界を揺るがしたニュースであった。これはどの大ニュースは二十世紀の初頭にはほかになかった。あらゆる植民地の国々では人々が胸をうちふるわせて感動した。少年ネルーやガンジーが揺さぶられた話を読んだことがある。

インドネシア人は巨大なバルチック艦隊があの狭い海峡を通ってゆくのを見て、こうこれで日本はおしまいだ、日本はせっかく立ち上がったのにもうだめだ、と日本人に好意を持っていた彼らの多くは汲を流したそうである。が、ほどなくして日本大勝利のニュースが届いて、彼らは愕然とする。世界屈指の大国に、あの小さな国が勝つなどとは夢にも考えられなかった。

世界中は沸き立った。船でヨーロッパに出かけていった日本人は、立ち寄るアジアの港々で関税の役人その他に握手攻めにあい、大歓迎を受ける。日本人だと聞くと、手を取って東郷とか乃木という名前が出てくる。

心を強く動かされた者のなかに、アメリカ合衆国に住む黒人たちがいた。『カラード・アメリカン・マガジン』誌は、日本の行動の最も重要な点は、アジアとアフリカに考えるきっかけをつくったことだと書いた。ある公民権運動家は、日本が白人優位の人種神話を葬り去ったと主張して全米を演説して回った。

日本人と黒人は性質がよく似ているという意見が出てきた。戦っていないときの日本人兵士は、子どものように静かで、しかしいったん立ち上がると、死を美徳とする生活によって培われたその活力は、みなぎりあふれている。

ミカドの軍隊の睡眠時間はわずか三時間で、ほかの国の兵士には欠くことのできない食糧列車がなくても、みずからが魚と米を持ち歩きながら戦うのだ、などといった伝説が広がった。

ヨーロッパで最も大きく勇ましい国ロシアにとって、小国日本は絶好の餌食になるはずだった。ところが白人が有色人種を支配するという人種構造はけっして真理ではなく、ただっくられた神話にすぎないということを知らしめたことが、合衆国の黒人たちをなによりもまず興奮させ、日本人に強い同胞意識を抱かせたのである。

しかし、このことは同時に、逆に白人社会に衝撃とパニックを広げた。それがどれくらい大きかったかということは簡単に説明はできない。二十世紀の政治史における最大の出来事のひとつであった。輝かしかった日本の過去ということを言いたいために強調しているのではない。

それがやがて日本にとってどんなに大きく深刻な問題につながっていくかということを言っているわけである。アメリカにおける排日運動は、まさにこうした戦争のよは勝利がもたらした興奮の感情の余波にほかならない。

「黄禍(イエローペリル)」を最初に口にしたのはドイツの皇帝ヴィルヘルムニ世で、日本人に向けて述べられな言葉では必ずしもない。おそらく中国人が念頭にあった。しかし、日露戦争の結果、標的は日本に向けられた。ジャン.・ジョレスのようなフランスの有名な社会主義者ですら、黄色人種が地球の表面をやがて支配するのではないかという危機感を論説で表現する始末であった。矛盾そのものであった。

日本人がアジアの一角で成功を収めたことから、彼ら白人の目には、その背後に何億という中国人、インド人の影が見える。人種というテーマが露骨に登場したこの時代に、健気に努力していた日本人が、先頭を走っていたがゆえに、標的になったことは間違いない。

私はこのことが、深く深く第二次世界大戦につながっていると信じている。歴史の流れというものは、次第次第にひとつの道筋をつくっていき、必然的に避けられない方向に動いていくということを考えておかなくてはならない。

◆再びアメリカに「対日開戦論」

日本人移民に対するアメリカ黒人の考え方や感じ方は、そもそもどういうものであったであろう。日本の帝国主義的進出が報道されても、黒人の対日好意はべつだん下がらなかった。日本の経済発展は、アメリカ黒人の高い興味と賛嘆の感情を呼び起こした。

日本の急激な発展こそが、日本人に対する人種差別意識をよりいっそう高めているということも、黒人はよくわきまえていた。日本人移民のせいで黒人の仕事がなくなるのではないかと心配する連中もいるにはいたが、しかし『サバンナ・トリビューン』紙の論調によると、アメリカにとっての最大の脅威は、一日に三千人の割合で上陸してくるヨーロッパ系白人の移民であって、日本人移民の数などたかがしれている。もし、アメリカが生き残りたいのなら、ヨーロッパからの移民を制限せねばならない、と。

黒人による日本人擁護は、一般にきわめて盛んだった。日本人は人種平等、団結、自立のいわば広告塔だったからである。倹約と経済活動と工業技術をみごとに組み入れることに成功した日本人移民は少なくない。

その仕事ぶりを見た有名なある黒人は、世界中がやりたいと思っていることを、日本人は必ず人種の壁を越えてでもやってのけてしまうだろうと述べた。国の発展に大きく貢献した人種に対しては、その人種がなんであれ、世界中が敬意を表すという絶好の実例、それが日本人なのだとほめ讃えた。

カリフォルニアの農園から白人が日系移民を締め出そうと躍起になっていることを知って、それによって大量の働き口を手に入れることができると注目する黒人たちも、もちろんいるにはいた。しかし、あくまで日系人差別には反対の姿勢を貫いていた。

しかし、時間がたつにつれて、論調は少しずつ変わった。『アフロ・アメリカン』紙によれば、カリフォルニアには黒人の未来があると期待する一方で、日系人が犯した大いなる罪、つまり倹約と努力というものに、とてもかなわないという気持ちが彼らにのしかかった。

日本人がその能力を発揮した足跡を残せば残すほど、日本人にとってアメリカン・ドリームは近づいた。しかし、逆に白人はそれを嫌悪し、黒人もまた次第に日本人を妬むようになった(以上、レジナルド・カー二ー『二十世紀の日本人ーアメリカ黒人の日本人観一九〇〇〜一九四五』山本伸訳による)。

一九〇六年のサンフランシスコ学童隔離事件に際して、アメリカ海軍は対日作戦計画を策定し、いわゆるオレンジプランの概略をまとめ上げたことは前に述べた。アメリカ政府の政策の基幹をなすモンロー主義や、それとまことに矛盾する外国に向けられた門戸開放政策への要求と並んで、これまた再び矛盾する日本人移民排斥のテーマは、アメリカ合衆国が、みずからの海軍力で守るべき重要な国家の政策目標とされたのであった。

そして一九〇八年に、いわゆる「白船」事件が起きた。しかし、この三年間の日米危機がいちおうの解決をみたのは、移民問題のほかに差し迫る政治的案件がなかったからだといえるだろう。ところが一九一三年、再びアメリカには、日米戦争に備えて軍艦三隻を動かそうという開戦説が浮かび上がる機運が盛り上がったのである。それは外国人土地法の制定をめぐっての二番目の日米危機であった。

外国人土地法とは、日本人移民一世のように、アメリカ市民権を取得できない資格剥奪者は、土地所有権をも奪われるという、きわめて露骨な、日本人を狙い撃ちした立法であった。ヨーロッパ系の移民労働者にはもちろん適用されない。大統領はウィルソンに代わっていて、彼が理想主義者としての仮面の裏で、いかに露骨な人種主義者であったかということは、先に国際連盟について論じた際に言及している。

ウイルソンは日本政府からの強硬な抗議を受けて、日本は戦争を予定しているのではないかと憂慮し、ワシントン政府はさながら開戦前野を思わせるかのごとき緊張した空気に包まれた。

海軍作戦部長ブラッド・リー・フィスク少将は、このカリフォルニア土地法を絶好の開戦理由として、日本がフィリピンとハワイを奇襲するであろうから、対日戦争は十分に起こりうる事だと主張して、日米戦争に備えて軍艦三隻を派遣するよう提案した。もちろん、ウィルソンの判断でこの海軍の強硬案ば退けられはした。そしてアメリカ政府を襲った開戦説はまもなく立ち消えとなった。

◆有色人種の希望の星

第一次大戦の戦後処理をしたパリ講和会議において、日本政府代表が人種平等に関する提案、いわゆる人種差別撤廃法案を提出した背景は、以上に詳細に述べ立てた推移に基づくのである。

同じ頃アメリカの黒人たちも、国際会議において人種問題が初めて採り上げられることに色めき立った。黒人たちはパリ講和会議ヘアピールする準備に取りかかり、日本政府をサポートする考えだった。四人の著名な黒人が会議に先立って日本使節団を訪ね、世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくすことに尽力をしてほしいという嘆願書を提出した。

国際連盟にではなく、日本政府に嘆願書を出すという点において、興味深い注目すべき時代の性格が表現されている。全米平等権利同盟は、さらに代表をパリに送り込もうとしたが、しかしアメリカ政府に妨害され、わずかに日本の代表にインタビューすることが可能になっただけだった。ウィルソン大統領にも面会を求めたがあっさり断られた。(P566〜P571)


(私のコメント)
大東亜戦争の歴史的な評価については、未だに定まってはいませんが、東京裁判史観に洗脳された人にとっては日本は戦争犯罪を犯した犯罪国家であると学校などで教え込まれてしまった。しかし明治維新以来からの流れを分析すれば、日露戦争と大東亜戦争は白人対黄色人種の戦争であり、二つの戦争はよく似ている。

戦前のアメリカは白人優先国家であり、世界一人種差別的な国家であった。「株式日記」でも以前に「優生学」について書きましたが、アメリカはその優生学の本場であった。ナチスドイツはアメリカの優生学を手本にしたに過ぎない。


◆優生学 ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%84%AA%E7%94%9F%E5%AD%A6

《 ドイツと共に、優生学思想を積極的に推し進めた国はアメリカである。優生学に基づく非人道的な政策を採っていた、と来れば、一番に想起されるのはやはりナチスだが、実は、アメリカの方が優生学的な政策を実施していた期間は長い。また、そのような政策を始めたのも、アメリカの方が早い。優生政策の老舗は、アメリカだと理解した方が事実に沿っているのである。断種法は全米30州で制定され、計12000件の断種手術が行われた。また絶対移民制限法(1924年)は、「劣等人種の移民が増大することによるアメリカ社会の血の劣等化を防ぐ」ことを目的として制定された。この人種差別思想をもつ法は、公民権運動が盛んになった1965年になってやっと改正された。 》


このような状況からすれば日露戦争に勝った日本と、人種差別国家であるアメリカとが衝突するのは必然であり、歴史事実を見てもアメリカにおいて日本人を対象にしたと思われる露骨な人種差別法案が作られていた。大東亜戦争にいたる原因の一つとして1913年の外国人土地法が作られ、1924年には排日移民法まで作られた。


◆大東亜戦争の根本的原因を考察する 日下部晃志
http://www.mskj.or.jp/getsurei/kusakabe0601.html

《 1906 サンフランシスコ市教育委員会、日本人・コリア人学童の隔離教育を決定
1907 サンフランシスコで反日暴動
1908 日米紳士協定(日本が移民を自粛する代わりに、排日的移民法を作らないことをアメリカが約束)
1913 カリフォルニア州で排日土地法成立
1924 絶対的排日移民法

 以上のようになる。当初は主として西海岸で、州単位での立法であったし、守られなかったが日米紳士協定を結ぶ余地はあったのだ。しかしながら、24年の絶対的排日移民法は連邦法で、これは別名「帰化不能外人移民法」ともいい、日本移民は禁止されたのである。これが何を意味するだろうか。まず、アメリカ社会の根底に日本人に対する差別があったことであろう。確かに、移民の受け入れについては、各国の自由に任せられるべきだが、ヨーロッパからの移民は受け入れるが、非白色人種の移民は受け入れないということは、どう解釈しても人種差別である。経済の面からみると、日本にとっては労働力の供給先を失ったということである。そのため労働力が過剰になり、新たな移民できるような場所を大陸に求めざるをえなくなったのである。アメリカがホーリー・スムート法によって関税障壁を設け、世界恐慌を誘発したのが1930年で、日本が満州事変を起こしたのが1931年ということを考えればわかりやすい。大恐慌とそれにより発生した失業者をどう解決するかという問題を抱えた日本が満州に目を向けたことには、こういった背景もあったのである。 》


このような戦前における日米関係は人種差別をめぐる摩擦があり、大東亜戦争の一つの原因となったことは明らかだ。しかし学校教育における歴史教科書では人種差別撤廃を目指した戦争であるとは一言も教えられていない。あくまでも日本は侵略戦争をした犯罪国家と教えられている。

しかしそれではなぜアメリカで強制収容所が作られ、日本人と日系人が収容されたのか? なぜ広島と長崎に原爆が落とされたのかについての納得できる理由が見つからない。このような見方をされないようにアメリカは東京裁判で侵略国家と日本を断罪して、アメリカを民主主義をもたらした解放者と位置づけている。

しかし戦前において日本人を対象にした排日法が軍事的緊張までもたらした事実もあり、なぜ日本が勝ち目のない戦争に踏み切った理由として考えれば、一種のアメリカに対する人種暴動だったのだろう。暴動は警察や軍などに鎮圧されるのが普通だから、なぜ勝てる見込みのない戦争をしたかという質問は、大東亜戦争が植民地解放や人種解放戦争であったという見方をしていないからだ。

中国や韓国が日本に対して植民地支配はけしからんとか、侵略戦争で酷いことをしたという歴史カードを突きつけてきますが、背後で煽っているのはアメリカだ。この事は従軍慰安婦問題がアメリカで対日非難決議がなされようとしている事からも伺われる。アメリカにとっては日本が戦争犯罪国家でなければ困るからだ。

大東亜戦争が植民地解放と人種差別解放の戦争であったとするならば、アメリカはそれを弾圧した国家という汚名を着ることになる。しかしアメリカも数十年後には白人よりも有色人種が多数派となり、黒人の大統領も誕生しようとしている。そうなれば大東亜戦争に対する評価もアメリカでも変わってくるのではないかと思う。


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