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【森健兒「いま沈黙を破る」】 [日刊ゲンダイ]
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投稿者 white 日時 2007 年 5 月 08 日 18:34:39: QYBiAyr6jr5Ac
 

□【森健兒「いま沈黙を破る」】 [日刊ゲンダイ]

▽サッカー人として閉鎖状況打破のためはっきり発言する

 http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25274

2007年4月9日 掲載
サッカー人として閉鎖状況打破のためはっきり発言する

●2007年元日に母の死
 …サッカー人にとって「元日」というのは、特別に思い入れの強い日である。この日は「天皇杯サッカー」決勝戦が行われる。東京・千駄ケ谷の国立競技場に出向き、顔見知りと「明けましておめでとう」という挨拶もそこそこにサッカー談議に花を咲かせる――。
 2007年元日。日本サッカー協会特別顧問の森健兒には、この日が終生、忘れられない「特別な日」となった。
 午後0時半。天皇杯決勝・浦和―G大阪戦(午後2時開始)を観戦しようと川崎市内の自宅玄関で靴を履いたところだった。電話が鳴った。
「出掛ける時になって誰だろう」。そう思いながらも「ひょっとして」と一抹の不安がよぎった。
 受話器から女性の声が聞こえてきた。「ドクターに代わります」。その瞬間、すべてを把握した。
「93歳の母・玉代の死を知らせる電話でした。この日の午前9時、見舞いに出掛けた。顔色も良かった。1時間ほどして安心して自宅に戻った。父親が50年以上も前に亡くなり、女手ひとつで兄弟4人を育ててくれた。最後に元気そうな姿を見せてくれてうれしかった」
 1974年元日。国立競技場のベンチに座っていた。60年に三菱重工に入社。サッカー部のコーチとして天皇杯決勝・三菱重工(現浦和)―日立製作所(現柏)戦に臨んだ。2―1の勝利。73年の日本リーグ優勝と合わせて2冠を達成した。
●「自由にモノがいえない」
 …この年の春、日本サッカーリーグ(JSL)常任運営委員として、リーグ全体の運営に携わるようになる。86年にはJSLの総責任者、総務主事に就任。国際大会で負け続け、ドン底にあえいでいた80年代から、いち早く「プロ化すべし」を主張。旺盛な行動力でJリーグの礎を築いた。
 91年からJリーグの専務理事として川淵チェアマン(現サッカー協会会長)を補佐。98年からは日本サッカー協会専務理事を務めた。日本サッカーの隆盛を見守り、表も裏も知り尽くしている。
 しかし、02年日韓W杯を最後に表舞台から姿を消した。どうして今、あえて口を開くのか。眼光鋭く、決然とこう言う。
「日本サッカーのレベルアップ、自立、地位向上という『志』を高く持ってやってきた。日本人が海外に出ていき、五輪やW杯出場も当たり前の時代になった。しかし、今の日本サッカー界というのは、『自由闊達(かつたつ)にモノが言えず、閉塞状況に陥っている』印象がぬぐえない。これまで沈黙していたが、サッカーを愛する者のひとりとして、何が出来るのか、何をなすべきなのか。どうすれば日本サッカーが正道に立ち返るか。はっきり発言しなければ。そう決意した」


▽日本サッカー界の“会長には逆らえない”雰囲気がマイナスに

 http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25291

2007年4月10日 掲載
日本サッカー界の“会長には逆らえない”雰囲気がマイナスに

●ツルの一声で決まった人事
 06年6月。「ひとりのサポーター」としてドイツの地を踏んだ。「元協会幹部」としての立場ではない。02年7月、日韓W杯後に日本サッカー協会専務理事を辞してからというもの、サッカー界とは一線を画していた。
「修道高OBや友人と旅をしながら2試合を観戦したけど……悔しくなかった。ただ悲しかった」
 スコアレスドローのクロアチア戦。完膚なきまで叩きのめされたブラジル戦。スタンドで何を思い知らされたのか。
「ジーコの選択が失敗だった。ジーコの4年間で日本サッカーは停滞、いやマイナスを招いた」
 憤懣(ふんまん)やるかたなし、ではない。どこか「冷めた」風情が漂ってくる。
「日本の選手たちは《戦う集団》になっていなかった。02年日韓W杯から主力の顔触れは変わっていないし、それぞれが経験も積んだ。なのに1勝も出来なかった。原因は明確です。だから悔しくなかった。ジーコには代表監督としての指導力がない。これに尽きます」
 日韓W杯が終わり、トルシエ監督の後任人事は当時の強化委員長の後任候補リストを見たサッカー協会・川淵会長の「ジーコはどうか?」のツルの一声で決まった。
「ジーコは選手としての実績はあっても、監督としての経験はなかった。彼は“選手に自由”を与えた。《どうやっていいのか分からないから、選手に好きにやらせた》ということです。でも、そんなことはおくびにも出せない。彼は《サッカーの神様》ですからね。そんな監督を選び、ドイツ大会までの4年間を任せたことが大失敗だった」

●ジーコに任せたのが大失敗
 ドイツW杯後、ジーコ日本惨敗の検証はなされず、それどころか川淵の「オシム失言騒動」によってウヤムヤになった。
「まったく理解に苦しむが、なぜ検証が行われなかったのか。余計にジーコの4年間がマイナスだった――の思いが募る」
 だからこそ、長い沈黙を破って、はっきり物を言う気持ちになった。
「ジーコは前任者のトルシエと違い、五輪代表もユース代表(20歳以下代表)の指揮も執らなかった。日本人のヘッドコーチの入閣も嫌がった。協会サイドは、拒まれると“あぁ、そうですか”で簡単に済ませてしまった。ジーコは4年間で日本に何の遺産も残さなかった」
 ジーコ在任中、協会内部にもJリーグ関係者にも、そしてメディアの中にも「ジーコに任せて大丈夫か?」の声は多かった。しかし、表立つことはなかった。
「協会のトップである川淵会長が、ジーコに全幅の信頼を置いていたからです。会長には絶対に逆らえない。そんな雰囲気がサッカー界に充満している。このことも日本サッカーのマイナスになっていると強く感じる」


▽川渕会長お気に入りジーコ監督の批判は“タブー”の空気があった

 http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25317

2007年4月11日 掲載
川渕会長お気に入りジーコ監督の批判は“タブー”の空気があった

●協会内に盗聴器のウワサ
…聞いた瞬間は「まさか」と思った。
 2年ほど前、こんな話が耳に入ってきた。
「誰が悪口を言っているのか、誰が情報をリークしたのか、犯人捜しのために盗聴器が仕掛けられているみたいなのです」
 信じられない。タチの悪い冗談だと思った。しかし、そんな噂が流れること自体、日本サッカー協会の「風通しの悪さ」をよく物語っている。日本サッカーを愛する者として、協会の要職に就いていた者として、暗澹(あんたん)たる気持ちに襲われた。
 ドイツW杯が近づくにつれて、「ジーコ日本は苦戦するだろう」と思った。「日本サッカーはまだ駆け出しの存在」「ジーコ監督就任は失敗だった」「戦う集団になっていない」という危(きぐ)があったからだ。しかし、W杯本大会前、日本国内は浮かれていた。
「冷静に考えれば、決勝トーナメント進出は難しい。しかし、サッカー関係者やメディア関係者は『日本代表は苦戦必至』とは言えなかった。サッカー協会の川淵会長がジーコに全幅の信頼を寄せている。ジーコ批判は会長を批判することにつながる。ジーコ批判はタブーである。そんな空気に支配されていたからです」
 一部メディアは「ブラジルにも勝てる」と言い出した。サポーターもミスリードされ、一緒になって舞い上がった。その結果、どうなったか。
「実力以上に持ち上げられ、選手もジーコも浮かれてしまった。せめて川淵会長には、そんな状況を叱咤(しった)して欲しかった

●メディアも会長の言いなり
…しかし、日本サッカー界のトップは、何もしなかった。さらに「浮かれている場合ではない」といさめる人もいなかった。
「耳に痛いことを言うと疎んじられ、人事などで苦しい立場に追い込まれないとも限らない。健全な状況とは言えない」
 06年7月、「会長職は2期4年」の通例を無視する格好で川淵会長体制が続くことになった。日本サッカー界は、いよいよ「物言えば唇寒し秋の風」の状況になった。
「メディアの責任も重大です。《会長に対する批判報道が一切、出ない》状況はいかがなものか。なぜメディアは卑屈になってしまったのか。あるメディア関係者に聞いた。『特落ち(重大ニュースを一社だけ知らないこと)』をやられたところがある、と。川淵会長がもし、メディアをコントロールしようとして、特定のテレビ局や新聞社だけにしか情報を流さず、それが恐ろしくて会長の言いなりになっているとするならば、絶対に許されないことです」


▽川淵会長のオシム失言に“あっ、まただ”と思った 

 http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25319

2007年4月12日 掲載
川淵会長のオシム失言に“あっ、まただ”と思った

●自ら混乱を招き、仕切る
…「多かったね。私の周りにも。『あれはわざと言ったんだろ』って」
 ドイツW杯に惨敗。06年6月24日に帰国した際の会見の席上だった。
「新たな代表監督がオシム…あっ、オシムと言っちゃった」と協会トップが、史上最大のミスを犯した。以前から「後任は契約が内定するまで漏らさない」と宣言しながら、あまりに軽率な「オシム発言」だった。
「もっとも、Jリーグのチェアマン時代から、川淵会長は《いつも同じ》だった」。この《いつも同じ》は何を指すのか。
「自分から事態を混乱させ、そこにエネルギーを注ぎ、最後は自分で仕切る。エネルギーの無駄遣いとしか言いようがないが、Jリーグのチェアマンの頃から、そういう局面を何度も見てきた。あっ、まただ。いつものこと。そう思いました」

●何から何までウヤムヤ
…百歩譲って失言だとしても、重大な責任問題となる。次期日本代表監督に関してはトップシークレット。それを公の場で口を滑らした。
「サッカー協会のトップたるもの、失言したら責任を取るのが筋です。なぜ責任問題に発展しなかったのか? 川淵会長に異を唱える職員がひとりもいない。メディアも沈黙する。結局、何から何までウヤムヤになった」
 02年日韓W杯後、サッカー協会会長に就任した川淵は、不遜な態度が目立つようになった。いつの頃からか「ルイ14世」と呼ぶサッカー協会関係者も出てきた。ブルボン朝第3代フランス王。「朕(ちん)は国家なり」と宣言した暴君だ。
「ジーコ時代の4年を総括した上で虚心坦懐(たんかい)に腹をぶつけ合い、論議を重ねて次期代表監督を決定する。そんな手順がなぜ踏まれなかったのか。そういうことがないと組織のタガが緩んでしまう。本当に残念でならない」


▽川渕会長は「年間180回の講演で9000万」と噂になった

 http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25332

2007年4月13日 掲載
川渕会長は「年間180回の講演で9000万」と噂になった

 06年ドイツW杯の期間中、週刊誌による「反川淵」キャンペーンがスタートした。「講演料はすべて川渕企画」「協会職員である女性秘書が協会で川渕企画の帳簿を広げている」「協会を私物化している」――。
 講演料について「歴代会長も個人で受け取っていた。協会の慣例だ。何が悪い」と会長は反論した。
 これに長沼前々会長が「川淵会長以前は(会長職は)無給。生活の糧として講演料をもらった。職員を私的に使ったこともないし、慣例とはけしからん」と激怒した。
 02年日韓W杯の前。専務理事の森は、岡野会長(当時)に「お願いがあります」と話し掛けた。
 W杯後、Jリーグ川淵チェアマン(協会副会長兼務)が、有給の次期会長に就任することは既定路線。先立って「有給の会長、理事の取り扱いを理事会に諮るべきだ」と提言した。
「日本サッカー協会は100万人以上の有料加盟登録者に支えられている財団法人です(現在128万4676人=12日発表)。歴代初となる有給会長が、講演料をすべて川渕企画に入れたり、専用ハイヤーを使ったりでは具合が悪い。ルールを明文化すべきですと、岡野会長にこう話しました。講演料に関しては、協会に依頼がありながら、講演料はすべて川渕企画に支払われている。経理処理上においても問題があるのでは、と感じている」
 ともあれ、ルールは明確にされず、川淵は勝手し放題。というのも「講演料、女性秘書、ハイヤーまで協会内では《アンタッチャブル》になっている」からである。
 川淵は「講演料で私腹を肥やしている」疑惑に対して数字を並べて反論した。《02年から5年間で講演会136回。収入3719万円。1回当たり約27万円。この10年で3500万円を寄付》

●個人秘書が協会職員に
…Jリーグのバブル人気によって、川淵は「時代の寵児(ちょうじ)」 としてモテモテ。講演依頼が殺到して全国を飛び回った。
 93年のJリーグ開幕前、派遣会社から秘書がやってきた。現在の女性秘書だ。開幕後にJリーグ職員になり、02年からは日本サッカー協会職員となった。
 当時、彼女は「川淵専属秘書」としてスケジュールを独占管理。A4判サイズの川淵専用月別スケジュール表を机にしまっていた。そのスケジュール表に(講)と書いてあれば講演会。(G)とあれば趣味のゴルフ。月平均15回ペースで1日に(講)がふたつ書いてあった。「月平均15回で年間180回。1回50万として9000万円。謝礼が100万円の時もあった。年間で億を超えている」と噂になった。
 ともあれ、会長給与が1800万円、年間契約1500万円のハイヤーを独り占めして「協会の慣例。何が悪い」と居直るのはいかがなものか。
「会長として講演を受けているからには、講演料の一部を協会に入れるとか、明確なルールを早急に作るべきです。ルールがないからこそ、人としてのモラルが問われている」


▽川淵会長は協会のイメージダウンや誤解を招く言動は慎むべきだ

 http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25358

2007年4月16日 掲載
川淵会長は協会のイメージダウンや誤解を招く言動は慎むべきだ

●J催事にも出しゃばり
「ドイツW杯開催中に週刊誌が川淵会長の疑惑を追及したキャンペーンには、『サッカー界では前代未聞。(週刊誌に)扱われること自体、恥ずべきこと』と思いましたが、それよりも『高円宮妃殿下との週刊誌報道』には、ただびっくり仰天ですよ」
 当時、日本サッカー協会の専務理事として協会名誉総裁である故高円宮殿下、久子妃と韓国で行われた開幕戦を一緒に観戦したり、行動を共にすることが多かった。
 02年W杯後、サッカー協会のすべての役職から離れ、その年の11月に殿下が急逝された。久子妃が名誉総裁を継承されたが、ご一緒する機会は少なくなった。
「昨年12月のJリーグアウォーズで久子妃を久しぶりにお見掛けし、少なからず驚いてしまいました」
 グリーンのロングドレスで首元には3連の真珠のネックレス。ファッショナブルないでたちに出席者がどよめいた。
「会場で違和感を覚えたことがありました。妃殿下が挨拶をされている間、川淵会長がずっと側に控えていた。Jリーグ主催の表彰式です。日本サッカー協会の川淵会長よりもJリーグ鬼武チェアマンの役目ではないか、と思いました」

●疑惑報道は前代未聞
 3月に入って「女性誌が妃殿下と川淵会長を扱う」という噂が関係者の間に駆け巡り、サッカー界は騒然となった。
「女性セブン」(3月15日号)の表紙には「高円宮妃久子さまと川淵会長 前例なき『2人ゴルフ』『モンローダンス』」という見出しが躍り、衝撃的だった。
「女性誌の記事には、本当に驚きました。いずれにしても、気に掛かることがあります。他のスポーツ競技団体からの“やっかみ”です。サッカー協会は、日本体育協会に所属しているスポーツ団体の中で年間予算規模は突出して大きいし、人気面でもリードしている。名実ともにリーダーたるべきサッカー協会のトップと妃殿下とのプライベートな部分が、いろいろと報道される。世間に誤解を招いては、サッカーのイメージダウンにもつながりかねない。やはり厳に慎むべきでしょう」
 02年5月31日。韓国ソウルで行われた日韓W杯開幕式には高円宮殿下、妃殿下の姿があった。皇族の韓国訪問は、第2次世界大戦後初めてのことである。
「殿下はサッカーを通して日韓の懸け橋になりたい。そう強くお考えでした。立派な方でした」
 明日は、殿下との知られざるエピソードを紹介する。

▽高円宮殿下の流暢なスペイン語でのスピーチに驚いた

 http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25374

2007年4月17日 掲載
高円宮殿下の流暢なスペイン語でのスピーチに驚いた

●感動的なギター演奏
 99年6月、パラグアイで開幕した南米選手権にトルシエ日本が招待された。日本サッカー協会名誉総裁の高円宮殿下と妃殿下も現地に入られ、首都アスンシオンに到着した後、市内の南米サッカー連盟本部に直行して勲章授与式に出席した。
「日本を発つ時からお2人のエスコート役を任されました。授与式で南米連盟役員、ジャーナリストなど200人を前にお礼のスピーチをなされました。殿下の英語、仏語は何度かお聞きしていたのですが、いきなりスペイン語で、それも前口上だけでなく、最後までメモなしで堂々とお話をされました。同行した通訳は必要なかった。レオス南米連盟会長をはじめ、参列者全員が流暢(りゅうちょう)な挨拶に度肝を抜かれました」
 授与式後、歓迎野外パーティーが催された。殿下と妃殿下のテーブルをゲストが取り囲み、地元の人気楽団がやって来て演奏を始めた。
「楽団のリーダーが殿下とFIFAのブラッター会長にギターをプレゼントした。困惑気味の会長を尻目に殿下が、颯爽(さっそう)とプレゼントされたばかりのギターを奏で始められたのです。すると妃殿下が手拍子を取りながら歌われ、次第に居並ぶ人の大合唱となりました。感動的でした」
 後日談がある。南米選手権閉幕後、川淵会長はよく「ギターでバランバランと曲を弾かれてびっくりした」と周囲に話していた。森が苦笑しながら首をかしげて言う。
「はて? 野外パーティーで川淵さんは見掛けなかった。こっそり個人で来ていたのでしょうか?」

●突然訪れた殿下との別れ
 02年日韓W杯。殿下と妃殿下は韓国ソウルでの開幕式に出席。皇族の韓国訪問は戦後、初めてのことだった。
「W杯期間中、常に殿下と妃殿下とご一緒しました。殿下は韓国での3試合を含め、計18試合をご覧になりました。飾らない人柄でした。南米選手権で夜にレセプションがあり、僕は深夜0時にはおいとまするんだけど、殿下はその後も地元関係者とお付き合い。それでいて朝5時には起きて趣味のバードウオッチング。タフな方でしたし、それだけにスポーツ中での急逝には愕然(がくぜん)としました」
 02年11月21日。スカッシュの練習中に倒れ、47歳で逝去された。翌日赤坂御用地内の高円宮邸に弔問の記帳に出掛けた。
「宮務官に導かれ、思いがけず2階の奥の部屋に参りました。妃殿下とお嬢さまがおられ、白装束に包まれた殿下のご遺体がありました。妃殿下が気丈に振る舞われ、それが印象に残っています」
 サッカーを心から愛した殿下との別れだった。


▽大学入学のため、明日上京という夜に父が命を絶った

 http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25384

2007年4月18日 掲載
大学入学のため、明日上京という夜に父が命を絶った

●手作りで戦災孤児施設
 広島市・宇品港からフェリーで20分。瀬戸内海に「似島(にのしま)」がある。ここに終戦の翌年(1946年9月)に父・芳麿が「似島学園」(広島県戦災児教育所)を創設。原爆で家族を亡くし、街角をうろつく戦災孤児を引き取った。
「教員の父は戦時中、広島県庁に出向して体育指導員をしていました。45年3月も東京に転勤。幸い、東京大空襲にも8月6日の広島の原爆にも遭わないで済み、『生かされた命を身寄りのない原爆孤児に捧げる』と決意した」
 第1期生は34人。2年目には100人以上の原爆孤児が集まった。
「父は一日中、働いていた。トタンでつくった畳1畳くらいの容器で海水をたいて塩をつくり、それを背負って農家に行っては食料品と交換したり、県庁や市役所に陳情に出向いたり、すべてを似島学園のために捧げていた」
 私立修道中から修道高に進み、父から「勉強して東大を狙え」と言われた。
 ところが、53年10月の愛媛国体決勝で補欠の1年坊主が決勝ゴールを決めたことで、父の態度が一変した。レギュラーのひとりが体調を崩し、山梨・韮崎高との決勝戦に先発。0―0から終了間際、左サイドからクロスが入る。走り込んだ右ウイング・森がジャンプ。
「GKの上からぶつかるようにヘディング。ボールはワンバウンドしてネットを揺らしました。目から火が出た。頭というよりも、顔に当たって入ったゴールだった。それから父は『東大に行け』と口にしなくなった」

●母の大往生が後押し
 高校3年の時に主将を務め、11月に引退してから「1日14時間勉強」して慶応大経済学部に合格した。
「明日、上京」という56年4月7日、午後11時5分に父が自殺。青天の霹靂(へきれき)だった。
「父が公金流用の嫌疑で勾留された。取り調べを担当した刑事は『園長は悪くない』と同情的な見方をしてくれたが、釈放後『公職の立場にあって疑われただけで子供たちに済まない』と自ら命を絶った。同じ教員をやっていた母が女手ひとつで兄弟4人を育ててくれた」
 母・玉代は今年元日に93歳の天寿を全うした。志半ばでの父の死。その半世紀の後、母の大往生。
「日本サッカーの将来を憂い、沈黙を破った。母の死が後押ししてくれたのかも知れない」


▽昔の三菱サッカー部は年間予算ボール30個分で、遠征費はいつも前借り

 http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25401

2007年4月19日 掲載
昔の三菱サッカー部は年間予算ボール30個分で、遠征費はいつも前借り

 Jリーグを代表するビッグクラブ、浦和の年間予算は約60億円。前身の三菱重工サッカー部はかつて、「年間予算がサッカーボール30個」の時代もあった。
 慶応大4年でサッカー部主将を務め、1学年上の先輩、二宮寛(元日本代表監督)に「特別枠で三菱に来ないか」と誘われた。
 意地を張って断り、60年に経済学部推薦で入社した。
 三菱では産業エンジンの営業マンとして、忙しい日々を送った。サッカー部にも籍を置いたが、入社3年目には練習に出なくなった。
 64年東京五輪の翌年、日本サッカーリーグが創設されると、いきなり「現役」に連れ戻された。サッカー部員が足りなかったのだ。
「2シーズン選手登録したけど、試合よりも何よりも、まずはサッカー部の環境を改善せねば、と思った。日本リーグ以前の年間部費は10万8000円。それも使途が決まっており、ボールしか買えなかった。30個ほど買ったら底をつく。地方遠征には出張費を前借りして出掛けた。練習場は川崎市平間の健康保険組合の運動場を夜間借りて、庶務課に行って照明塔を付けた」

 当初、午後3時開始の練習時間を「仕事は午前まで。午後はフルに練習」とした。アマチュアリズム全盛時代において画期的だった。69年、日本リーグで無敵の東洋工業(現広島)の5連覇を阻止したのは、数年前まで「練習前にアンパンを牛乳で流し込み、骨身を削ってサッカーをやっていた」三菱サッカー部だった。
「旧態依然とした考え方では『トップアスリートが死んでしまう』と環境整備に精を出した」
 コーチ兼マネジャーとして74年には、初めて日本リーグと天皇杯の2冠を達成した。「これからは社業に専念する」と決意。異動時期と重なった。辞令が下りた。
 東京・巣鴨の三菱グループ所有の運動施設を大改造せよ――。三菱創業100周年の記念事業だった。ここでJリーグの目指す「地域密着型総合スポーツクラブ」を立ち上げる。プロリーグが開幕する19年前のことだ。


▽32億5000万円の大仕事を36歳の時に任された

 http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25417

2007年4月20日 掲載
32億5000万円の大仕事を36歳の時に任された

Jリーグの理念に先回り

 三菱創業100周年記念事業の一環としてグループ所有の運動施設(豊島区巣鴨)に「総合スポーツクラブ」を建設することになった。
 74年7月。36歳になる直前だった。60年の入社以来、産業エンジンの営業マンとしてバリバリ働いた。そんな時に、辞令が下りた。
「建設費だけで32億5000万円の大事業。“おまえにやってもらうことになっている”と言われてノーとは言えなかった」
 50メートル温水プール、体育館、トレーニング室の入った本館。多目的グラウンド。後にゴルフ練習場と武道館も併設され、財団法人・三菱養和会の運営する総合スポーツクラブとして現在、年間65万人が利用している。
 単なる「箱モノ」を造っただけではない。
「水泳教室、少年サッカー教室、体操教室を立ち上げ、軌道に乗せた。企業スポーツでも学校体育でもない、地域密着型のスポーツクラブを目指した。Jリーグが標榜する理念をいち早く推し進めた。いうなれば『Jクラブのモデルケース』があった」

 68年、ドイツに渡った。ドイツサッカー協会公認A級ライセンスを取得するためだ。
 かの地で総合スポーツクラブの素晴らしさを肌で感じた。
「デュイスブルクにあるスポーツシューレに2週間、寝泊まりした。広大な敷地に芝生のグラウンドが8面。白樺の林に囲まれている。陸上トラックや体育館なども備わっている。帰国後、『ああいった施設を日本にも造るべき。三菱でやりましょう』と話して回った」
 日本サッカー界の底上げにも貢献をした。
 全国ミニサッカー大会、全国選抜中学生大会、全日本女子サッカー選手権が行われたのも、三菱養和会のグラウンドだった。
「当時の日本サッカー協会には、各種大会を運営する資金もマンパワーもなかった。苦労も多かったが、Jリーグを立ち上げる際に随分と参考になった。そうそう、欧州サッカーやW杯を放映していた三菱提供のテレビ番組『ダイヤモンドサッカー』で中学生大会と女子選手権の決勝戦を流したらクレームが来た。これも懐かしい思い出です」


▽プロ化の筋道をつけてから川淵さんにバトンタッチした

 http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25440

2007年4月23日 掲載
プロ化の筋道をつけてから川淵さんにバトンタッチした

●プロの2文字を隠した
 74年から日本サッカーリーグ(JSL)常任運営委員を務め、86年にはJSLのトップ、総務主事に就いた。現在のJリーグでいえばチェアマンの役職だ。すぐ「選手のプロ化」に着手した。
「当時の日本スポーツ界は、アマチュアリズムを金科玉条とし、プロという言葉を発することもご法度だった。しかし、企業スポーツの枠組みの中では“世界に通用するトップアスリートは育たない。死んでしまう”と感じていた。総務主事になると同時に日本サッカー協会の理事に就任。協会の意思決定機関である理事会で意見を言うチャンスを得た。これを逃してはならないと思った」
 理事会に提案したのは「スペシャルライセンスプレーヤー(SLP)制度」だった。「CM出演などサッカー以外で収入を得てもOK」。SLPという新たな登録区分をつくって、「正真正銘のプロ」を誕生させた。
 ほぼ同時に「第1次活性化委員会」を組織。海外のプロリーグを研究しながら、日本リーグを将来的に「スペシャルリーグに改変していく」ことを答申した。
 もちろんスペシャルリーグ=プロリーグだが、スポーツ界の守旧派を刺激しないようにSLPと同様に「プロ」の言葉を避けた。

●チェアマンという神輿
 88年4月、三菱重工・名古屋航空機製作所の資材部長になった。激務のため、総務主事としてプロ化への陣頭指揮を執ることが難しくなった。
「すでにプロ化への道筋はついていた。総務主事の後任をお願いした川淵さん(現・協会会長)を初代チェアマンという神輿(みこし)に乗せ、日本サッカー界はJリーグ開幕に向けてガムシャラに走った」
 今でも「あのままプロ化推進の纏(まとい)持ちを続けていたら、日本サッカーはどうなっていたか」と思うことがある。そのたびに「同じ形に収斂(しゆうれん)していただろう」と確信する。
 確固たる自負心があるからだ。「私自身の生き様がそのまま、日本サッカーの変わり様と一致していた」――と。(敬称略)


▽トヨタの賛同で実現したJリーグの企業名外し

 http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25455

2007年4月24日 掲載
トヨタの賛同で実現したJリーグの企業名外し

 天皇杯を2連覇中の浦和レッズ。06年にはJリーグとの2冠を達成した。年間予算は70億7000万円と、欧州を代表する列強と肩を並べるほどの大クラブに成長した。
 浦和の前身、三菱重工サッカー部でプレー。日本リーグ前の年間予算は10万円ほどだった。74年にはコーチとして日本リーグ、天皇杯を制した。OBの目には、後輩たちの奮闘が頼もしく映る。しかし、Jリーグ発足前、三菱サッカー部は路頭に迷っていた。
「三菱は《東京都》をホームにしたかった。希望していた江戸川陸上競技場が、収容能力の問題でダメになった。クラブ誘致に熱心だった浦和市の青年会議所が、同じ埼玉県の和光市に研究所があったホンダと話を煮詰めたが、結局ホンダがプロ化を断念。間隙(かんげき)を突いて三菱と浦和市で話がまとまり、浦和レッズが誕生した。三菱OBとして骨を折った甲斐があった」
 古河電工が母体のジェフ市原・千葉は、横浜市をホームタウンに狙っていたが、千葉県習志野市に方向転換。基本合意に達したが、一部地域住民の猛烈な反対にあった。
「Jリーグ開幕まで1年を切る92年5月だった。習志野市から断念の連絡がジェフ市原・千葉に入った。古河出身の木之本Jリーグ事務局長も、古巣の一大事にびっくりだった。91年2月14日に参加を希望する企業20社を10社に絞った後だし、『参加クラブのホームが決まらないなんてJリーグが赤っ恥をかく』と必死になって代替地を探し、市原市に決まってホッとしました」

 地域密着をうたったJリーグは「母体企業名を出さない」ことを目指したが、根強い抵抗にあった。初年度から「地域名プラス愛称」で統一出来たのは「ひょうたんから駒だった」と苦笑する。
「音頭をとった川淵初代チェアマンは、初年度から企業名を外す、とまで考えてはいなかった。予想に反して、トヨタが真っ先に“クラブ名にはトヨタのトの字も入れない”と言ってくれ、これが住友金属(鹿島)、マツダ(広島)といった他の企業に波及した。ラッキーでした」


▽トルシエ騒動で川淵さんは、“モリケンに邪魔された”と怒った

 http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25466

2007年4月25日 掲載
トルシエ騒動で川淵さんは、“モリケンに邪魔された”と怒った

●朝日1面に4段見出し
「すぐにデスクと担当記者を呼び、こんな記事がなぜ出るのか、と問い詰めた。返答は“上からの……”だった」
 7年前のことだ。2000年4月28日、朝日新聞の朝刊1面に《トルシエ監督解任 W杯ベンゲル氏に》の4段見出しがデカデカと載った。見た瞬間、「驚きというより、怒りに近い感情だった」と振り返る。
 98年仏W杯後、日本代表監督に就任したトルシエに対し、批判的な意見が日増しに強まり、00年に入ると「解任すべし」の雰囲気が高まった。
「トルシエとの契約は00年6月までだったが、契約のオプションに《アジア杯とシドニー五輪のグループリーグを突破すれば10月まで延長》とあった。9月のシドニー五輪、10月のアジア杯までに更迭できる明確な理由がなかった。しかし、一部協会幹部はトルシエを嫌っていた。例えばJリーグ担当の副会長だった川淵さん(現会長)は、“代表強化の日程をすべてに最優先しろ”と強烈にアピールするトルシエと激しく対立していた」
 当時、サッカー界には「メディアを使って世論を誘導する。これはアノ人の得意技」という話がまことしやかに流れた。

●追放勢力の独り相撲
 朝日新聞の1面報道の翌日、大仁強化委員長(現副会長)は、フランスに飛び立つ予定だった。イングランドの名門アーセナルで指揮を執るベンゲルに会い、後任監督を打診する手はずだった。
「大仁君は結局、渡仏できなかった。ベンゲルの周りに日本人メディアが群がり、接触できないので断念したのです。結果的に《朝日新聞上層部を巻き込んでトルシエ解任をもくろんだ》勢力の独り相撲に終わった」
 トルシエは留任し、アジア杯を制した。02年W杯では決勝トーナメントに進出した。「トルシエにも問題は多々あった。しかし、契約内容を履行しているのに解任するというのは、筋が通らない。それにしても川淵さんは“モリケンに邪魔された”と怒ったことでしょうね」――。


▽川淵さんはナゼ、岡野会長の足を引っ張るのか?

 http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25479

2007年4月26日 掲載
川淵さんはナゼ、岡野会長の足を引っ張るのか?

「猿芝居」。そんな言葉が脳裏をかすめた。
 02年Jリーグは、日韓W杯開催のため日程のやりくりに難渋した。
「Jリーグ専務理事だった木之本君が各クラブと何度も折衝しながら、苦労して日程を決めた。Jリーグ担当副会長の川淵チェアマン(現会長)も了承済みだった」
 Jリーグの実行委員会が開かれ、ここで承認されることになっていた。
 議長を務めた川淵チェアマンが途中、「別室のトルシエと相談してくる」と退席した。
「しばらくして会議室に戻ると“オレがトルシエに頼んだ。納得してくれたよ”と胸を張った。日程の原案は出来上がっている。なぜ芝居がかったことをしないといけないのか。理解に苦しんだ」
 実行委員会に当時の岡野会長(現名誉会長)が出席した。懐に「チェアマン殿」と書かれた封書を忍ばせていた。実行委員会の雰囲気が「代表強化よりもJリーグ優先になりかねない」と懸念した岡野会長は「日韓W杯成功のために協力して欲しい」といった趣旨の書き物を用意したのだ。
「結局、それを出す必要はなかった。でも、日本サッカー界のトップがなぜ、チェアマンにおもねるようなことをしなければならないのか。実は協会専務理事として働きながら、川淵さんが岡野会長の足を“引っ張っているとしか思えない”と感じることが少なくなかった。02年W杯の後、川淵次期会長は既定路線だった。正直言って“一緒にはやれない”と思った」

 理由は他にもある。ある月刊誌が「川淵チェアマンと専属女性秘書」の関係を邪推する記事を掲載した。
「雑誌の編集長と懇意のモリケンが仕掛けたと、川淵さんが吹聴しているという話が耳に入った。編集長とは一度も会ったこともないのに失礼な話だと思った。日韓W杯を最後に協会専務理事を辞することを決めていた。それから沈黙を守ったが、日本サッカー界の閉塞状況に黙っていてはいけないと思った」

▽このままでは川淵さんも日本サッカーも不幸になる

 http://gendai.net/?m=view&g=sports&c=040&no=25494

2007年4月27日 掲載
このままでは川淵さんも日本サッカーも不幸になる

閉塞感漂う日本サッカーの将来を底憂う
●ギャラ振込みは川渕企画
「日本サッカー協会は自由闊達(かつたつ)にモノが言えない状況にある。協会職員が口ごもるのも分かる。人事などで苦しい立場に追い込まれないとも限らない。だからこそ、あえて口を開くことにした」
 06年、某週刊誌が「講演料はすべて川渕企画に入る」「協会職員である女性秘書が協会内で川渕企画の帳簿を広げている」と追及。「協会の私物化ではないか」と一大キャンペーンを展開した。
「Jリーグが立ち上がった当初は、川淵さんも若手の先頭に立って頑張った。93年にJリーグが開幕してから2年ほど経ったころ、“ギャラの振込先が94年の途中から(個人名義の口座が)川渕企画に変わりました。ご存じでしたか”とラジオ局の社員から聞かされた。寝耳に水だった。この頃から、独断専行が目立つようになった」
 忘れられない思い出がある。96年10月。佐賀県の鳥栖スタジアム。低迷する鳥栖フューチャーズ(現J2鳥栖)の視察に訪れた際、試合前夜にスタジアムに足を向けてみた。一番乗りを目指す熱心なサポーターが地べたに座り込み、気勢を上げていた。
「カセットコンロに置かれた鍋をサポーターに交じって一緒につつき、酒を酌み交わしながら語り合った。私だけでなく、かつては川淵さんも純粋だった。しかし、今は“裸の王様”かも知れない。このままでは川淵さん自身も、日本サッカー界も不幸になる」

●日韓W杯後、「辞めてくれ」
 93年5月15日。その日の夜、Jリーグ開幕戦で開会宣言を行う予定の川淵が、朝から落ち着きがない。宣言文を「忘れたらどうしよう」と不安に襲われていた。結局、二つ折りのカードに宣言文を書き込み、読み上げることにした。
「スポーツを愛する多くのファンの皆さま」。冒頭の言葉を聞いた瞬間、感動が胸に広がった。「本物の言葉」と思った。
 02年日韓W杯後、川淵新体制に移行する。協会専務理事室で「辞めてくれんか」と言われた。「お好きなようにどうぞ」と答えた。
 以来、沈黙を守ってきたが、愛する日本サッカーの閉塞状況に黙っていてはいけない――。今、この連載を終えるに当たり、その思いがますます強くなっている。

《もり・けんじ》 1937年8月13日、広島県福山市生まれ。私立修道中、高から慶応大。60年三菱重工入社。88年名古屋航空機製作所資材部長。90年日本液体水素社長に就任。91年Jリーグ専務理事。96年Jヴィレッジ取締役。98年に日本サッカー協会専務理事に就任した。02年7月に協会専務理事、Jリーグ理事、日本体育協会理事をすべて退任。現在、日本サッカー協会特別顧問。


▽関連記事

波紋広がる川淵キャプテンの「プライベートでご一緒」軽薄発言 [ゲンダイ]
http://www.asyura2.com/07/bd47/msg/800.html
投稿者 white 日時 2007 年 3 月 10 日 02:26:57: QYBiAyr6jr5Ac

「木之本興三・Jリーグへの遺言」に見る川淵の人間性 [川渕企画.com]
http://www.asyura2.com/07/bd48/msg/552.html
投稿者 white 日時 2007 年 4 月 24 日 00:24:54: QYBiAyr6jr5Ac

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