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キリシタン大名たちは、ローマ教皇に忠誠を誓い、日本の「異教徒」と戦う「十字軍騎士」とされていったのである。
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投稿者 TORA 日時 2007 年 5 月 27 日 08:28:48: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
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キリシタン大名たちは、ローマ教皇に忠誠を誓い、日本の
「異教徒」と戦う「十字軍騎士」とされていったのである。

2007年5月26日 土曜日

◆冷戦、信長 対 キリシタン 5月20日 国際派日本人養成講座
http://blog.mag2.com/m/log/0000000699/108568308.html?c=new

(前略)
■4.東アジア争奪戦■

一方、スペインは大西洋を横断して西回りにアジアに至ろう と、コロンブスの船団を派遣し、アメリカ大陸を発見していた。東回りのポルトガルと、西回りのスペインが競合したので、ローマ教皇は地球を二分割して両国に支配を許す勅許を与えた。しかし、その解釈上の問題で、地球の反対側の地域では両方の勢力圏が重なりあう部分ができてしまった。そこにたまたま日本が入っていたのである。

日本に最初に到達したのは、天文18(1549)年のポルトガル の宣教師フランシスコ=ザビエルであった。ザビエルは、日本 を強力なキリスト教国家にしてポルトガルの支配下に置こうとした。

一方、スペインは1565年にフィリピンのルソン島を実力支配し、そこから中国、日本に触手を伸ばそうとしていた。ポルトガルの宣教師たちは、スペイン勢力がやってくる前に、是が非でも日本を植民地化しようと、信長に近づいていたのであった。


(中略)
■6.キリシタン大名への軍事援助■

キリシタン大名を得るための方策として、交易による利潤の他にもう一つの手段があった。軍事援助である。それを求めて、宣教師との結びつきを深めたのが、大友宗麟(そうりん)であった。

宗麟は豊後(大分県南部)を治めていたが、日本に最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルから直接、説教を受けており、キリシタン大名の中でも最も早くキリスト教に接した人物である。

永禄2(1559)年、宗麟は豊後の他に、豊前(大分県北部)、筑前(福岡県北部)、筑後(同・南部)の4カ国の守護職となり、将軍・足利義輝から「九州探題」に任命されたため、宣教師たちの期待も高かった。

宗麟はキリスト教の保護者を持って任じ、宣教師たちの布教活動を援助するとともに、その引き替えに軍事物資の提供を求めた。永禄10(1567)年、宗麟はマカオに滞在していた司教にあてて手紙を書き、中国地方を支配する毛利元就に打ち勝って、キリスト教を広げたいので、鉄砲の火薬の原料となる硝石の日本への輸入を禁止し、自分の領国にのみ販売するように依頼している。

■7.長崎と茂木の軍事要塞化■

天正7(1579)年に、東洋地域全域を所管する巡察師アレッサ ンドロ・ヴァリニャーノが来日すると、その指導にとってキリシタン勢力が急伸した。

大村純忠は、ヴァリニャーノの来日を機に、長崎(長崎港周辺部)と茂木(長崎市茂木町)をイエズス会の永久教会領として寄進した。

ヴァリニャーノは翌天正8(1580)年に、この長崎と茂木の地を、ポルトガル人を中心として軍事要塞化するように指示した。これに従って数年後には、同地は大砲・鉄砲などにより武装され、軍艦も建造配備された。

天正13(1585)年には、純忠の領土の全領民約6、7万人がキリシタンとなり、ここに完全なキリシタン王国が誕生したのである。

大村純忠の縁戚で、島原を領有していた有馬晴信は、当時、肥前東部(佐賀県)の龍造寺氏から度々攻撃を受けて、窮地に陥っていた。晴信はヴァリニャーノから洗礼を受け、その見返りとして、食糧不足に苦しんでいた4つの城で、多量の糧食と金子(きんす)を受け取った。さらにマカオからやって来たポルトガルの交易船から、弾丸に使う鉛や火薬の原料となる硝石を送られた。こうした軍事援助で、晴信は龍造寺氏との戦いで危機を脱することができた。

晴信はこの返礼として、ヴァリニャーノが自領に滞在していた3ヶ月の間に、領内にあった40を超える神社や仏閣をすべて破壊し、領民2万人を入信させた。さらに浦上(長崎市浦上)の地を、イエズス会の教会領として寄進した。

宣教師たちは、これらのキリシタン大名を経済的軍事的に支援する一方、毛利氏、龍造寺氏、島津氏など反キリスト教の大名とは交易関係すら結ばなかった。

■8.「十字軍騎士」となったキリシタン大名■

ヴァリニャーノは、キリシタン大名との政治的・軍事的連携 を強化する一方、布教体制の改革を進めた。セミナリオ(神学校)、ノビシアド(修練院)、コレジオ(学院)の3種類の教育機関を設け、日本人司祭の養成に努めた。

天正10(1582)年頃には、西日本各地に設けられた教会堂の数は大小合わせて200カ所、神父・神弟(日本人の伝道師)は75人に上り、急速な布教が進められた。信者数は京都から中国地方に2万5千人、大友宗麟の治める豊後で1万人、大村純忠・有馬晴信が支配する大村・島原・長崎地域に11万5千人、合計15万人ほどにも急増した。

この年1月には、それぞれの教育機関で育成した日本人子弟の中から優秀な4人の少年を選び出し、大村純忠・有馬晴信・大友宗麟の3キリシタン大名の使節として、ローマ教皇とスペ イン・ポルトガル連合国国王の許に派遣した。

翌年2月に少年使節たちはローマで教皇グレゴリオ13世に拝謁した。教皇が皇帝や国王を迎接する「帝王の間」で拝謁するという異例の栄誉を受け、3人のキリシタン大名からの親書を手渡した。

こうした儀式を通じて、キリシタン大名たちは、ローマ教皇に忠誠を誓い、日本の「異教徒」と戦う「十字軍騎士」とされていったのである。

■9.「我一生の不覚也」■

信長が安土城で宣教師オルガンチーノと会見し、「盗賊にして何かを得んと欲するか」と聞いたのは、こういう状況下であった。

天下統一を目指す信長は、当時中国の毛利氏と戦っていたが、その背後から九州探題・大友宗麟も中国を狙っていた。九州から京都を目指すキリシタン勢力と、京都を押さえ中国・九州へ と全国統一事業を進めつつあった信長とは、早晩対決が運命づけられていた。

『切支丹来朝實記』には、この頃の信長の心境をこう記している。

破天連方よりは便(たより)毎に今年は日本人何千人勤め、今年は何万人勤め入ると臺帳に記(か)きて、南蛮へ渡すとか。宣教師たちが貧民病者を慈しみ、尚(な)ほ此等(これら)の妻子眷属に一人前金一銭づつを與(あた) ふる等、弓矢を不用(もちいず)して日本を随(おと)さんとの謀事、然るに信長、南蛮寺の取沙汰、あやしき宗門の様子及聞(ききおよんで)、心の内には後悔しけり。

( 日本に駐在している宣教師からの報告で、今年は日本 人が何千人入信し、今年は何万人入信したかと、台帳に記して、本国のポルトガルに送っているとのうわさ。宣教師たちが貧しい者や病人を慈しみ哀れみ、それだけでなく妻子眷属に一人当たりの前金として一銭ずつ与えるなどして、弓矢を使わずに日本を征服しようと謀略を企んでいること。このため信長はキリストの教会内の活動や信者たちの怪しい所行について聞き及ぶ所があって、内心では後悔していたのである。[1,p8] )

さら『實記』が伝える所によれば、信長は前田徳善院玄以という仏僧に「自分は彼らの布教組織を破壊し、教会を打ち壊して宣教師たちを本国に返そうと思うが、どう思うか」と諮問したが、「もしそのようなことをすれば、たちまち一揆が起こることは間違いありません」と答えたので、信長は今まで宣教師たちを保護してきた政策について「我一生の不覚也」と漏らした。(続く)
(文責:伊勢雅臣)

(私のコメント)
NHKの大河ドラマなどでは戦国時代の武将が取り上げられますが、当時のキリスト教に対する描き方がきれいごと過ぎて、当時の戦国大名たちがどのようにキリシタン宣教師などに接していたかは、あまり重要には扱われてはいない。しかしキリシタン宣教師からもたらされる世界の情報は大名達にも大きな影響を与えた。

信長などもキリシタン宣教師と31回以上もの接見を行なっている。信長は当初はキリシタン宣教師をあつくもてなし布教を許していたが、次第にキリシタン勢力が広がるにつれて彼らの野望に気がつき始めた。日本がスペインやポルトガルの植民地にならなかったのは、決してヨーロッパから地理が遠かったからではなく、信長、秀吉、家康が早くからキリスト教の正体に気付いたからである。

すでにポルトガルはアフリカ沿岸からインドを経て東南アジアに至るまでキリスト教化して交易ルートの建設に成功していた。スペインも逆周りからフィリピンをキリスト教化して植民地支配した。残るは日本の争奪戦ですが、まずは大名からキリスト教化してキリスト教徒と非キリスト教徒に分断して争わせる事から始めるのが常道だった。

とくに長崎から大分にいたる北九州地方の大名がキリシタン大名となり武器や火薬の援助を得て勢力を拡大し始めた。このことからもキリスト教の布教だけが目的ではなく、植民地支配のための軍事勢力でもあり軍事と宗教とは密接に一体化したものとなっていた。

彼らはまず最初に宣教師を送り込んで情報を探り出して本国に送る。つまり宣教師は諜報員として重要な役割があり、現代でも諜報員はもっとも優秀で最も忠誠心の高い人材が担っている。日本人達は彼らの教義や科学知識に対する知識を知りたがり、信長なども積極的に宣教師からの情報を受け入れた。

信長はキリシタン大名に対しても最初は警戒する事はなかったが、北九州に建設されたキリスト教王国において、神社仏閣の破壊や僧侶の殺害追放は信長や秀吉に対して強い疑念を抱かせた。当時から日本では宗教と政治軍事は分離していたが、ヨーロッパでは宗教と政治軍事は一体であり、凄惨な宗教戦争が長い間にわたって繰り広げられていた。

つまり日本は当時から宗教と政治が分離した近代国家なのに対して、スペイン・ポルトガルは宗教と政治とが一体化した体制だった。当時のスペインは無敵艦隊を擁して世界の海を制圧していましたが、1588年のアルマダの海戦で破れたり、17世紀前半の三十年戦争などの新教と旧教の宗教戦争の影響で日本への軍事的な遠征が行えなかった事が幸運だった。

19世紀にも再びヨーロッパからの軍事的脅威が迫りましたが、アメリカが南北戦争で混乱したり、イギリスがクリミア戦争やボーア戦争などで戦艦などの大艦隊を送る事ができずに日本は欧米列強の軍事支配を免れることが出来た。しかし大東亜戦争では日本はアメリカの大海軍力に屈して、16世紀以来の欧米列強に対する抵抗も打ち砕かれた。

もし昭和の軍人達が、信長や秀吉のように宣教師から世界の情勢を知り注意深く行動していれば、欧米列強に屈する事はなかったはずだ。戦国の大名達は情報の重要性をよく認識していたから、敵とも言えるキリスト教宣教師からも情報を取り入れることが出来たが、昭和の軍人達は自分達の軍事力を過信して情報の重要性を認識していなかった。

現代では軍事力よりも情報戦の方が大きな意味を持っており、アメリカがイラク戦争で苦しむ結果になったのも、おのれの軍事力を過信して情報を軽く見たからだろう。信長や秀吉や家康が天下を取ることに成功したのも情報の重要性を認識していち早くキリスト教の危険性に気がついたから、キリスト教禁令を出してスペイン・ポルトガルの支配下になることを避けることが出来た。

「株式日記」も国際金融資本の危険性を分析して危険信号を発していますが、信長や秀吉的な情報に対する認識があれば、日本はアメリカのように国際金融資本に乗っ取られることはないでしょうが、キリシタン大名のような裏切り者がたくさんいる。小泉竹中内閣はまさに現代のキリシタン大名だった。


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