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「強国」論―富と覇権(パワー)の世界史 中国製の火器は信頼性に欠け、敵よりも発砲する側のほうが危険だった
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投稿者 TORA 日時 2007 年 12 月 16 日 16:24:10: GZSz.C7aK2zXo
 

株式日記と経済展望
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「強国」論―富と覇権(パワー)の世界史 デビッド・S・ランデス:著
中国製の火器は信頼性に欠け、敵よりも発砲する側のほうが危険だった

2007年12月16日 日曜日

David S. Landes


◆「強国」論―富と覇権(パワー)の世界史 デビッド・S・ ランデス:著
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/30634390

◆なぜ「眠れる獅子」になったのか

イギリスがいま、朝貢に訪れている
朕の祖先の威光と美徳が彼の地まで届いていたに違いない
彼らの貢ぎ物はありきたりだが、朕は心から感じ入っている
珍品や自慢気に見せる道具の精巧さは語るに足るものではなく
貢ぎ物も貧弱だが
はるかな地からやってきたこの者たちに対し
朕の健康と統治が続くことを願って、寛大な返礼をしよう

乾隆帝がマカートニー使節団に謁見した折、詠んだ詩 
(一七九三年)

インド洋を航海し中国へ到達した十六世紀のヨーロッパ人は、初めて遭遇した、優越感たっぷりの中国人の態度に尋常でない驚きを感じた。「天の帝国」という呼び名がすべてを語るように、中国は自国を世界で一番すぐれた国家だと考えていた。つまり、国土の広さに始まり、人口、建国からの年月、歴史に至るまですべてが世界一で、文化的な業績にしても、道徳面、精神面、知性の面での卓越ぶりにおいても他に並ぶものはない、と自負していた。

彼らは、自分たちが宇宙の中心に位置していると考えていた。周辺では少数民族がその繁栄に魅せられ、それにあやかろうと接触を試み、敬意を表したり、朝貢に訪れたりして、信望を得ようとした。中国の皇帝は「天子」であり、天の意志を象徴する唯一神聖な存在だった。天子に奏上する少数の者は、三度ひざまずき、頭を九回地面に打ちつける三脆九叩頭の礼で畏敬の念をあらわした。それ以外の者は、天子の書いた手紙やその筆になるたった一文字にも叩頭した。天子が何かを書きつけた紙、袖を通した服、そして.彼の触れたもののすべてに神が宿るとされたからだ。

皇帝に代わって発言したり、政治を執り行なったりする内閣大学士たちは、儒学の教養と道徳を問う厳しい試験、「科挙」によって選ばれた。このような高級官僚たちは、より高度な(威信ある、完壁で崇高な)中国文化を体現した。その自負と傲慢さは位の低い者に対してあらゆる場面で露骨に行使されたが、低位の者はそれに対して「驚くほどの素直さ」と謙遜を示すだけであった。なかでも、朝の謁見ほど彼らの謙遜の競争を駆り立てるものはなかった。何百人もの廷臣たちは雨が降ろうと、寒かろうと晴れていようと、夜中からずっと戸外に立ちつづけて、皇帝の到着時に行なわれる恭順の儀を待っていた。彼らは時間を無駄にしているのではなく、彼らの時問は皇帝のものなのだった。官僚たちにとっては、時間に遅れるなどはもってのほかで、時間を厳守するだけでは足りず、時間を守らずに早く来ることがひたむきさの証明であった。

このように、文化的に自分たちが絶対優位であると確信し、少数民族への抑圧を続けた結果、中国は進歩を疎んじ、新しいものを採り入れることが下手な国家になってしまった。進歩を求めれば、安楽なこれまでの慣行に挑戦し、それにともなう反乱が起きただろう。海外から流入する知織や思想についても同様のことがいえた。実際、そこに学ぶべさものなどあっただろうか。こうして外来のものを拒絶する姿勢を取り、それを当然と考えながらも、中国は不安になった。それは、優越感のハラドツクスだった。優越感は本質的に不安定で儚く、それを守るためなら人は矛盾すら恐れない(今日のフランスは母国語の優越性を盛んに吹聴しているため、他国語からの、それも特に英語からの借用語がありはしないかと恐れおののいている)。だから、明朝は(自国の圧倒的な優位を確認しながらも)学びの対象として目の前にあらわれた西欧技術の挑戦に身震いしたのだ。

◆自ら進歩の道を閉ざした中華帝国のプライド

皮肉なことに、初のポルトガル人来訪者とカトリツク宣教師たちはヨーロッパ技術の驚異のおかげですんなりと中国への入国を果たした。なかでも機械仕掛けの時計は、閉ざされた門戸を開く鍵となった。時計は十三世紀後半におけるヨーロツパの大発明で、規律や生産性に寄与しただけでなく、進歩を促し、機械、工学技術といった最先端の領域でも重要な役割を果たした。それに比較すると、水時計の機能は限られたものだった。

十六世紀の中国の官僚たちは、機械仕掛けの時計を、時間を計るだけでなく、面白く、見て楽しめる不思議な機械として受け止めた。音楽を奏でるものもあれば、人形が間をおいて自動的に動くものもあった。やがて時計は皇帝が何がなんでも手に入れたいと望む品物となり、皇帝の恩寵を得るためには披露すべきもの、つまり、熱心な廷臣が誰にも先を越されずに皇帝に見せなければならないものとなった。それは並大抵のことではなかった。この魔法の道具には技師が同伴しなければならなかったからだ。中国では、それまで外国人をマカオのような遠隔地に居留させ、中央までやって来ることをほとんど許さなかった。ところが、十六世紀の時計には付き添いの時計技師が必要だった。

中国人はもちろん置時計や腕時計が気に入っていた。けれども、ヨーロッパ人が同行してくることは喜ばしく思わなかった。ここで問題になったのは、中国文化が完壁だという考えと、物と人と神との関係だった。これらの装置を持ち込んだカトリックの聖職者たちは、いわば特殊な外交員だった。彼らは中国人を、三位一体説の唯一神を信じるローマカトリック教会の教えに改宗させようとした。その際、時計は二つの役割を果たした。一つは入国の切り札となり、もう一つはキリスト教の優越を示す証しにもなったのである。こんな素晴らしいものを制作し、特別な天文学や地理学の知識を持つ人々は、よりすぐれた道徳観念とより正しく、より賢い信仰を持っていると思われた。

イエズス会は、このことを証明するため、教会の規則と典礼を中国人の生活に合わせて拡大解釈した(たとえば、中国人が祖先の崇拝に使う文字を、キリスト教のミサを意味するものとした)。ヨーロッパの信徒たちもそれに倣った。哲学者であり、微積分学の考案者の一人、ライプニッツの言葉を引用する。

ペルシア人や中国人は、あなた方がつくったこの素晴らしい機械、いつでも決められた時刻に天空の正しい様相を示すものを見たら、何というだろう。彼らは人間の知性にはいくらか神がかったところがあり、それは特にキリスト教徒に伝えられていることを認識すると私は信じる。神がかった知性とは、天空の神秘、地球の壮大さ、そして、時問の測定のことである。

折に触れて、この論証が繰り返された。カトリックの宣教師たちは、偏見を持たない「改宗者」たちにヨーロッパの伝統でいう強硬な(「正しい」信仰以外を受けつけない)排他主義者でいるように勧める苦労をしたとはいえ、それなりの小さな成功を収めた。けれども、多くの中国人たらは、こうした主張が何を意味するのかに気づいていた。それは中国人が道徳の優越性を主張する事への攻撃であり中国の.うぬぽれに対する非難であった。

その結果、中国は西欧科学や技術を拒絶し、軽視しなければならなくなった。もっとも偏見なく好奇心旺盛に西欧の方法を追究し、もっとも熱心に中国人に伝えようとした康煕帝さえこういっている。「……たとえ西欧のやり方がわれわれのものと違っていても、また、それがわれわれのものより進んでいても、新しいものはわずかである。数学の原理はどれもすべて『易経』から引き出されたもので、西欧の方法は中国に起源を持っている……」

こうして楽観的で根拠のない杜会通念が広まった。そして、飽くことなく時計を手に入れたがった中国人は、それを娯楽物として、あるいは多くの品々同様、非実用的で、庶民には到底手の届かないステータスの象徴という、平凡な代物にした。近代以前の中華帝国には、時間を知る権利という観念がなく、時間は時を告げる権カ者のもので、個人的に時計を持っことはまれにしか許されない特権と考えられた。そのため、宮廷には時計をつくる作業場が設けられ、イエズス会宣教師である時計技師が国内の人材を育てるために雇われた。しかし、すぐれた指導者が不足し、営利を目的とした競争もなかったために、西欧の技師に匹敵するほどの能力を持つ中国人は育たなかった。中華帝国ではヨーロツパのような時計製造業は成り立たなかった。

同様に、高慢、あるいは無関心という過失が、ヨーロッパの兵器に対する中国の態度を方向づけた。武器といえば娯楽物ではない。大砲もマスケツト銃も殺戮のための兵器で、権力を握るための道具だった。中国人にはこれらの武器を手に入れたい十分な理由があった。十七世紀、明朝は国の存亡をかけて戦い、北方のタタール人に敗れていた。この外患の時代、ヨーロツパの発明品があれば、勢力のバランスは逆転していたかもしれない。

けれども中国人は決して近代的な火器製造法を学ぼうとしなかった。さらに悪いことには、十三世紀ごろから大砲を知り、使っていた時代もあったのに、その知識や技術をいつのまにか失ってしまっていたのである。中国の町を囲む城壁や門には、台座があっても大砲がなかった。大砲など要らなかった。それは敵対する民族が大砲を持っていなかったためだ。けれども、中国は内外に敵がいた。ヨーロッパでは敵が弱いからといって武装しない国などなかった。それが生死にかかわる場合には、武装を最大にしたものだ。また、ヨーロッパの技術は発展途上のものであり、進歩がさらなる進歩を生んだ。進歩と後退の記録は、中国がヨーロッパとまったく違う歴史をたどったことを示している。

一六二一年、マカオのポルトガル人が皇帝の恩寵を得ようと四台の大砲の寄進を申し出たときは、砲だけでなく四人の砲手も一緒に送り込まなければならなかった。一六三〇年、中国はポルトガル人のマスケット銃兵と砲兵からなる分遣隊を中国勢として雇い入れたが、実戦の機会が訪れる前にその計画を取りやめた。それは、あるいは賢い決断だったかもしれない。なぜなら傭兵がやがては政権を苦しめ、権力を奪った例はこれまでに数多くあつたからだ。けれども、明朝の中国人は、ポルトガル人を教師として用い、のちには技師も兼ねたイエズス会宣教師たちに施設をつくらせ、大砲を鋳造させた。

宣教師たちのつくった大砲は、なかでも品質がすぐれていたらしい。その一部が二百五十年後、十九世紀に使われていたことが確認されている。けれども、中国製の火器は信頼性に欠け、敵よりも発砲する側のほうが危険というもっぱらの評判があり、短期間しか実戦に使用されなかった(中国の砲弾は泥を乾かしたものからつくられ、とにかくこの砲弾を使うと、発射時に砲口付近で強度の爆発を起こしたという話さえある)。概して、中国の権力者たちは火器の使用に難色を示した。それはたぶん、彼らが自分たちの武器を信頼できなかったからだろう。これらの武器が有効でなかったために、彼らは本当に恐れなければならないことは何なのか、わからなくなってしまった。おそらく、絶えず用いることによってこそ武器は進歩するのだろう。

これらのことはすべて、目的に応じて手段を選ぶ人間にとっては非合埋的なことに思われるが、中国人はそう思わなかった。ヨーロツパ人にとって戦争は、敵を殺し勝利を得ることだったが、国土が広く人口も多い中国人の考え方は違った。王朝のものの見方を述べた、匿名の人物の言葉を引用する。

…軍の敗北は、西欧の知識を取り入れるべきだという意見の技術面での根拠になったが、同時に、取り入れるべきではないという意見の心理的な根拠にもなった。中国人は本能的に、精神的な危機感を抱かずにすむよう、努カすれぱ勝てたかもしれない戦いに敗北するほうを選んだ。つまり、彼らは敗戦の屈辱には耐えられても、自分たちの価値を貶める行為には耐えられなかったのだ。…高級官僚たちは、経済的、政治的な問題はさておき、中国文明への脅威を感じていた。そうした問題の危険性を顧みず、この脅威に低抗しようとしたのだ。これまでの歴史で、中国人は自分たちの文化的な自尊心を捨て去る必要は一度として持たなかった。外国の支配者たちがつねに中国文明を取り入れてきたからだ。それゆえ、彼らの歴史には、こうした近代における危機を乗り越えるための指針は何も示されていなかった。 (P267〜P273)


(私のコメント)
かつては大帝国としての繁栄を誇った中国がなぜ17世紀頃から停滞してしまったのかは歴史学者の課題ですが、現代の中国においてもそれは克服できているのだろうか? ケ小平の改革解放以来の経済政策は外国からの技術と資本の導入によって経済発展は成果を上げている。しかしそれは自立的なものではなく、三十年近く経った今現在でも外資の導入を招き入れなければならないのはどうしてだろう。

ヨーロッパからの近代工業文明は絶え間ざる技術開発競争によって支えられていますが、このような事は真に民主的な政治体制が根付いていないと出来ないのではないかと思う。中国の共産党一党独裁体制と改革開放政策はいずれ構造的に軋轢をもたらすだろう。

アメリカの親中派は中国が経済発展すれば民主化が進むという論理で中国に対する経済援助を進めていますが、民主化の動きは天安門事件で止まってしまった。自分に不都合な情報は遮断してしまい、インターネットの自由な使用も厳しい検閲体制で制限が加えられている。共産党の一党独裁体制が情報によってひっくり返されるのを恐れているためだ。

ランデス教授は「強国論」において中国がなぜ「眠れる獅子」になったかを、機械式時計を例にあげて説明しているが、中国の皇帝は「天子」であり、その権力は絶対であったから、その手に触れるものはすべてに神が宿るとされた。その権威を保つ為には自分達の文化が絶対優位にでなければならなかった。だからその権威を保つ為には外からの情報を統制することによって保つ必要があった。

カトリックの宣教師によってヨーロッパの機械式時計はもたらされましたが、それは真っ先に皇帝に献上されましたが、機械式時計を動かす為には技師が必要だった。しかしヨーロッパ人の技師を受け入れるわけには行かず、機械式時計を受け入れる為には人と神との関係の問題にも影響を与えるものであり、機械式時計を受け入れる事は天文学や地理学の知識において優れている事は、道徳観念においても優れている事になり、中国人にはそれは受け入れられないものだった。

結果的に中国は西欧文明を受け入れられないものとなった。もちろん中国に時計技師を招きいれて時計技師を育てようとしましたが上手く行かなかったようだ。なぜ手先の器用な中国人が時計職人になり時計製造業が成り立たなかったのだろうか? 同じようになぜヨーロッパ製の兵器を国産で作る事に失敗したのだろうか?

十三世紀頃は中国人は大砲を使いこなしていた。ロケット兵器なども中国人の発明であり、どうしてその伝統が現在の中国に生きていないのだろうか? それは中国という概念は地理的なものであり、中国人という民族は存在していない。かつての王朝の興亡は様々な民族の侵略によって打ち立てられては滅亡していった。そして民族文化もその度に滅亡して滅んでしまったのだ。

大明帝国は漢民族の王朝でしたが、世界に大船団を送ってアメリカ大陸や南極大陸なども発見するなどヨーロッパの大航海時代よりも先を行っていた。しかし永楽帝の死後、タタール部族の侵略に苦しみ内憂外患のために17世紀に滅んでしまった。しかしなぜ明はヨーロッパの時計や鉄砲や大砲などの機械工業品を作る事が出来なかったのだろう。

同じ頃の日本では種子島に鉄砲が伝来して、瞬く間に鉄砲や大砲を国産化して日本国中の諸藩の兵力として使いこなしているのに中国ではそれが出来なかった。ランデス教授の「強国論」では中国製の火器は信頼性に欠けて使い物にならなかったと言う事ですが、日本でできた事がなぜ中国では出来ないのだろうか?

それは西欧文明を取り入れる事は、自分達の価値観を否定する事になり、それは戦争に負ける事よりも受け入れられない事なのだ。中国人たちは自分達の文化と自尊心を捨てさせられる事はありえないのだ。それに比べると日本人は戦争に負ける事で自分達の文化を否定して自尊心も捨ててしまった。

だからこそ欧米の文化も積極的に受け入れて、女たちは米兵にすがって身をささげ、そして憲法も改正させられて二度と軍隊を持たないと宣言した。まさに中国とは正反対の対応ですが、誇りとプライドを捨てない中国と、何もかも捨ててしまう日本とではどちらが良いとも言えないのですが、自国の文化と自尊心の不滅を信じているから何もかも捨てることが出来るとも言える。要するに文化が違うから日本と中国とは違うのだ。


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