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今日の人間観や身体観そのものの問い直しが必要なのかも知れません。
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投稿者 張良 日時 2007 年 2 月 10 日 14:58:41: YeLj0JQdWAK.A
 

(回答先: 実に悩ましい問題/阿修羅に集う方々のご意見を承りたいところです。 投稿者 張良 日時 2007 年 2 月 03 日 15:15:41)


当然のことながら、臓器移植には臓器を提供する側と提供を受ける側があります。更に、移植手術を行なう医師に代表される媒介者の存在も不可欠です。

臓器売買の国家管理というフィリピン政府の考え方は、媒介者の立場からの議論と捉えられます。媒介者のあり方としてどのような姿が望ましいのかということでしょう。

もちろん此処には臓器移植そのものへの賛否という基本的問題があり、移植そのものを肯定する立場からは媒介者のあり方をよりよい姿にするための工夫や議論は当然のこととなりますが、否定する立場から見れば媒介者の存在も不要ですからそうした議論は無用の事です。

現実には、明確な賛否は別としてやむを得ない事としての対処が進行しているのではないかと思います。臓器提供を求める人がおり提供を承諾する人がいる時、媒介者のあり方が論じられるのは避けられないのでしょう。

しかし、そうした議論の行き先が金銭による売買の公認だという事態には、やはり割り切れない思いを抱かざるを得ません。労働力の売買によって成立している今日の経済社会においては当然の帰結と言えるのかも知れませんが。そして、自由な取り引きというタテマエにおいては、臓器の提供もその受け取りも当事者の自己決定が全てだということになるのでしょう。

臓器を提供する側の自己決定権は、自殺の自由や売春の自由そして奴隷労働の自由にも重なる事柄と言えます。そうした自由が果たして是認し得る自由なのかどうか、自由ということの意味を再度問い直さざるを得ないように思われます。

また、臓器の提供を受ける側は明らかに他人の犠牲によって苦痛を軽減し延命を図っています。人の命や身体というものをそうした手段によって永らえることにどのような意味を与えるべきでしょうか。手段を選ぶことなく果たされるべき価値があるのでしょうか。いや、価値ではなくエゴであって何ら恥じる必要はないと言って構わないのでしょうか。

今日の経済社会が成立する根底に臓器売買を容認する原則が潜んでいるとすれば、事態の進行は止め得ないのかも知れません。結局、今日の人間観や身体観そのものが問い直されることなしには、スッキリした結論は出ないのかも知れません。

ご意見をお寄せいただいた皆さんには感謝いたします。有難うございました。

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