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国体・政体二元論を超えるためには?
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投稿者 如往 日時 2007 年 4 月 22 日 08:55:46: yYpAQC0AqSUqI
 

(回答先: 国体・政体二元論→神聖主権・世俗主権二元論 投稿者 たけ(tk) 日時 2007 年 4 月 21 日 03:39:54)


 たけ(tk)さん、こんにちは。
 日本国憲法と帝国憲法の相違点を国体・政体二元論によって読み解かれた、たけ(tk)さんの分析は非常に明快で大いに参考になりました。また、今後とも標題に関することではたけ(tk)さんのお智慧を拝借願えればと考える次第です。


 >この聖俗二王の制度を、主権論にあてはめるなら、聖俗ニ主権論、神聖主権と世俗主権、ということになる。神聖主権は祭祀(祭ごと)の最終決定者であり、世俗主権は政治(政=まつりごと)の最終決定者である。なお、神聖主権者は世俗政治に口を出さないことが重要である。政治関与すれば、政治的責任を負うことになり、その失敗の程度によっては放逐されてしまうからである。

 政治学的には国体・政体二元論が終戦までの日本政治を考察する場合の論理的説明体系としては辛うじて有効であると考えますが、国体そのものは神話を淵源とする仮構であり、何らリアリティーなきものと見做しています。そもそも国体に関する存在論的考察を欠いた、あるいは捨象したままの恰も屋上屋を架するような遣り取りに至ることに如何なる生産性を見出し得るのか疑問です。したがって、文化論的には国体・政体二元論をcontextにして日本国憲法を読み解くことまでは否定しませんが、法理論的には寧ろ政体一元論の世俗主権論で捉えるべきだと考えています。

 >それにたいして、政体は世俗的な権力組織のあり方である。憲法は世俗的な権力組織(政体)のあり方を法的に規制する法である。憲法を立てる意味は、権力の暴走から国民を護ることであって、共同体全体の黙示の規範意識を明文化することではない。

 近代の立憲主義憲法の本義について述べたものと解することができますが、立憲君主制とも目される日本国憲法体制においては名宛人を特定し難い側面があることは否めないでしょう。このことが憲法の本義に関する認識を不明確なものにしている原因になっていると考えています。また、それがinosisi80氏に見られるような思考停止的な憲法意識を生む素因にもなっているのではないでしょうか。

 >明治憲法の誤りは、天皇主権のタテマエを持ったために、世俗的な権力装置の分立の調整の規定が十分ではなく、実際、その調整がうまくいかなかったということである。すなわち、軍部の権力も分立していたので(統帥権の独立)、軍部の暴走を食い止めるための規定を欠いていたことである(軍部代表の内閣不参加で内閣が崩壊するという解釈が可能になってしまった)。

 天皇主権のタテマエをとりつつ、すなわち統帥権の総覧者は天皇であったものの、実際は上奏がないかぎり天皇は何も裁可ができないという矛盾を内包していたことが、展望を欠いた軍部の暴走を防ぐことができなかった遠因にもなっていたのであり、そうした設定が通用するのは精々終戦までのことで、戦前の時点でその有効期限が切れてしまっていたのではないかと観ています。

 >明治憲法では世俗主権と神聖主権の区別がなく、天皇に世俗主権も属する、というタテマエを採る。ところが、天皇は世俗の政治には関与せず、責任を持たないのである。その結果、世俗政治の最終的な統括責任者が誰も居なくなる、という現象を生じた。世俗政治を行う人々は、最終責任者でなく、天皇の輔弼なのであるから、天皇の気分を推測しながら政治を行う。その場の空気を読んで、天皇の気分を推測する、と言った風潮が生まれた。そしてその結果として、声が大きく、武力を持った機関が実権を握るという結果を生じたのである。

 気分というよりはよく謂われるように空気を読む政治といったほうが適切ではないでしょうか。日本人が何故そうした曖昧でファジーな状態を受容し、責任の所在が不明確なマネジメント・システムを設営してきたのか、疑問は尽きることがありません。けれども、世俗主権と神聖主権の狭間における調整機能は日露戦争頃までは奏効したものの、太平洋戦争期には最早通用しなくなっていたというのが実情ではないでしょうか。

 >従って、端的に世俗的な主権(世俗政治のあり方の最終決定権)は国民にあると宣言してしまえばよかったのである。そして、天皇が全く政治に関与しないという前提で、世俗的な権力組織の相互牽制のあり方を研究し、制度化すべきであったのである。

 結局は天皇主権を全面に持って来て世俗政治の雄である米国に対し戦をしかけて完膚なきまでに打ちのめされたというのが事の顛末ですが、何故、本来戦を司る存在ではない天皇を軍神化するような過ちを犯したのか、疑念を禁じ得ません。しかも、この点については今も尚総括がなされてはいません。

 >結論として、明治憲法よりも、日本国憲法のほうが、国体・政体二元論に忠実であると考える。

 つまり、ここに至っては表向きには国体は殆ど形骸化し、あるいは歴史の地中に埋設されてしまった観があります。必然的に、国体とは全く無関係に国民が世俗政治の理想を追求していっても全く支障がないでしょう。

 >なお、当然ながら、憲法で「主権」といえば、もちろん「世俗主権」のことを指す。

 とりわけ日本国憲法においては、「世俗主権」=「国民主権」であり、国民自身が憲法の実効性を自発的に担保していく任を負うものであると考えます。それと同時に、我々国民は自分達が憲法制定権力を有することについてもっと真剣に考えなければならないと思っています。

 また、会いましょう。

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