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何処かに遺棄されたままの根本的な問題
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投稿者 如往 日時 2007 年 5 月 29 日 03:14:47: yYpAQC0AqSUqI
 

(回答先: ありがとうございます。注文しました。→ 色川大吉、「明治の文化」 (岩波歴史叢書) 投稿者 たけ(tk) 日時 2007 年 5 月 29 日 00:48:08)


 たけ(tk)さん、こんにちは、レスをありがとうございます。
 元来が遅筆のためになかなか兎レスというわけにはいかないことをご容赦ください。


 >如往さんの言わんとすることは、おそらく、たけ(tk)の言わんとすることと同じなので、逐語的にいちゃもんを付けていきたいと思います。

 たけ(tk)さんの精緻な思索ノートである【《たけ(tk)の思い込み》 http://wiki.fdiary.net/moikomi/】には定期的にアクセスしておりますが、別に開き直りで言うのではなく、特にたけ(tk)さん の“いちゃもん”は歓迎したと思います。

 >まず、タイトルの『国体・政体二元論を超えるためには?』の「超える」とはどういう意味なのだろうか?

 二元論を「超える」とは何かしらの統合化の理論もしくは新たなシステムの構築を探究するということですが、この場合の「国体」は明治憲法体制下において現出して来た特異な「政体」であり、現憲法体制の理想を追求していくのにあたり斯かる旧来の国体論には全く拘る必要はないとの見解を採っています。けれども、たけ(tk)さんが提示された「国体」の本来の姿を希求するような政治的問題意識(制度建設の主体意識)の形成において無論私を含めて現時点での日本人がどの程度成熟しているかは甚だ疑問であり、新たなシステムの土台を造るにあたっても地盤を均すことから始めなければならないと想っています。

 >>「政治学的には国体・政体二元論が終戦までの日本政治を考察する場合の論理的説明体系としては辛うじて有効」
 >司馬遼太郎の『この国のかたち』の中に、昭和5年以降、終戦までの間の日本を「別国」と呼んでいる(※5)。『統帥権』によって軍部が暴走していた時代は、本来の日本とは異なる「別国」だというのである。「別国」の期間においては、国体=統帥権=軍部の独裁=政体であって、国体一元論だったのだと思う。つまり「別国」の期間においては「国体・政体二元論が・・有効」ではなかった。「国体・政体二元論が・・有効」だったのは、別国より前の時代の法律理論においてであろう。

 「政治学的には国体・政体二元論が終戦までの日本政治を考察する場合の論理的説明体系としては辛うじて有効」は、『国体・政体二元論』を『日本政治を考察する場合』の『論理的説明体系』とするよりも、解析のための視座あるいは媒介理論と表現する方が誤解を招くことがなかったと反省しています。何れにせよ、私は日本に実質的に「国体」が存在したのかを疑問視していますが、為政者側が何らかの権威を便(よすが)として執政(摂政)する営為は日本だけのことではないと考えています。

 >>「国体そのものは神話を淵源とする仮構」
 >ここでいう「国体」は、俗信のほうの「国体」(b)ですね。俗信の内容のリアリティーは、ない。俗信を信じていた人々がいたこと、今も一部の右翼は信じている(と公言している)ことは、リアリティーが在る。

 「国体」が民話(≒俗信)の所産であるとは思われず、また神話も為政者による捏造的な意味合いの方が強いものと考えています。故にそこに何らかのリアリティー(汎用的意味性)を見出すこと(認識すること)は難しいのではないのでしょうか。

 >>「国体に関する存在論的考察」
 >ヒトはモノである。ヒトの身体の中に《思いこみ》が在る。ヒトは《思いこみ》によって語り、行動する。『国体』は《思いこみ》である。そもそも『憲法』も『憲法学』も《思いこみ》である。ヒトは『憲法』や『法律』や『神話』の《思いこみ》によって語り、行動する。ってな感じでよろしいでしょうか?

 存在論的考察にあたって《思いこみ》がparameterとして有効かどうかは問題がありますが、日本人の国民性には己の身体性を「国体」と同一視しようとする傾向があることは否めないと思います。とりわけそうした性向は明治期の教育や特に日清・日露の戦勝を契機にして政府による国威発揚のプロパガンダが奏功したことに伴なって顕著になったと見ています。
 寧ろたけ(tk)さんの探究に便乗するならば、存在論的考察は何故《思いこみ》が生じるのか、その原因を探求することから始まると考えています。

 >名宛人というのは、規制対象となる人々のことですか? 憲法の規制対象となる人々は統治集団であることは明らかでしょう?

 なるほど外見上は名宛人が規制対象である公権力(統治集団)といった構図になっていますが、現天皇は権能を有さないが公権力の権威になっていることには変わりがありません。したがって、実質的には名宛人を規制することは主権者たる国民が統治の象徴である天皇を縛ることであり、若いては国民が自身をも縛ることになるのを回避しようとする自己欺瞞性を孕んでいます。このことが全ての理由になっているとは断定できませんが、少なからず日本人にとって憲法の名宛人を言明できない原因になっていると考えています。

 >>「憲法の本義」
 >って? 立憲主義以外にあるのでしょうか?

 私の捉えている近代の立憲主義憲法の本義とは、「主権者(国民)の自由(生存の自在性を担保)と公共の福祉に資するべく、統治権授権の対象たる権力機関、即ち立法(国会議員等)、司法(裁判官等)、行政(公務員等)にたいする権力の制限規範及び授権規範」になります。

 >>「天皇主権のタテマエをとりつつ・・、そうした設定が通用するのは精々終戦までのことで、戦前の時点でその有効期限が切れてしまっていた」>そうとも思えない。戦後政治における無責任性も、象徴天皇制を「天皇主権のタテマエ」にすり替えて、統治集団にとって都合の良い無責任政治を享受してきたからではないか?

 有効期限の延長、すなわちGHQの手によって天皇制の延命措置がなされたことは周知の如くですし、それが日本の真の自立性を阻害している要因にもなっていることは謂うまでもありません。

 >>「気分というよりはよく謂われるように空気を読む政治といったほうが適切ではないでしょうか。日本人が何故そうした曖昧でファジーな状態を受容し、責任の所在が不明確なマネジメント・システムを設営してきたのか」
 >これは「天皇主権のタテマエ」だけが原因ではないだろう。しかし、「天皇主権のタテマエ」が一つの原因、もしくは、結果の一つであるだろう。たけ(tk)が原因として考えているのは、論語の素読をやめたことではないか、と見ている。江戸自体から明治の政治家は、論語・大学の精神を学んでいた。そこでは、《空気》に流されないことこそが君子たるゆえんと見なされていた。しかし、君子の自律を勧める「修身」が、滅私奉公・忠魂玉砕の精神にすり替えられ、盲目的な忠魂主義が宗教的熱狂で流布されるに及んで、誰も《空気》に逆らうことができなくなった。

 外来思想の流入の経緯と日本人の思想的基盤の脆弱性については上記でも示した疑問とも重なり、私自身は本質を把捉し切れてはいませんので、しばし論及を保留させていただきたく存じますが、敢えて愚見を申し上げれば為政者群(官吏)の教育に論語・大学の精神がどの程度反映されていたかが着眼点になるかも知れないと想っています。

 >>「世俗主権と神聖主権の狭間における調整機能は日露戦争頃までは奏効したものの、太平洋戦争期には最早通用しなくなっていた」
 > 太平洋戦争期というのは「別国」の時代ですね。しかし、「別国」の前の時代でも、世俗主権と神聖主権の狭間に調整機能などなかった。「天皇主権のタテマエ」では調整機能になりえない。日露戦争頃までに問題が生じなかったのは、調整機能があったからではなく、憲法に調整機能がなかったにもかかわらず、問題が表面化しなかった、というに過ぎない。

 具体的には問題が生じなかった原因に外力の比較的緩慢な流入を、あるいは問題が表面化なかった理由に国民の従順性を挙げることも可能ですが、総じて徳川幕府から明治政府まで継続された摂政の合議体制のようなものが調整装置として機能していたのではと推測する外はないと考えた故のことです。ただし、たけ(tk)さんの見解は概ね首肯できるものです。

 >そのための一つの方策として、天皇崇拝の一部の国民に対しても、天皇崇拝から立憲主義にいたる思考様式を提供する必要がある。 たとえば、(天皇崇拝の一部の国民に対して)「天皇は、国民に対して、主権者として国政の最高責任を国民に授権した。だから、国民は自らを律して、主権者にふさわしい能力をもつように努力しなければならない」とかいう言説を用意しておくのは、どうだろうか?

 そもそも天皇崇拝の一部の国民は主権を欲したりあるいは自身に主権意識が生成することなどを是とするのでしょうか。それよりも広汎に一般民衆にたいし立憲主義の法意識を涵養する必要があり、特に立憲君主制ではなく共和制(民定憲法下の)に近づけることを見据えていなければならないと考えています。斯くなる理想を掲げつつ彼是と思索を重ねているものの、自身の能力や残されている時間からみてどうやら私の代では前件の問題ですら解決をみることは難しいと思っています。

 ところで、まとはずれのおせっかいさんが紹介されている色川大吉著『明治の文化』は勿論ですが、社会心理学の見地から日本人について論考したものでは南博著『日本人論―明治から今日まで』(岩波書店1994年)があり、総括的ではありますが近現代における日本人の意識形成を探っていく上でのガイド役を果たしてくれるかも知れません。
 また、憲法論議とは少し逸れるかも知れませんが、宗教を生んだ環境・風土の差異から人々の意識形成の根本原因を探った鈴木秀夫著『森林の思考・砂漠の思考』(NHKブックス1978年)は、基本的な認識とは謂え日本人について考察する上での多くの示唆を与えてくれるものでした。

 また、会いましょう。

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