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中国と日本人の軍隊に対する性格の違い
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投稿者 忍 日時 2008 年 2 月 09 日 21:23:09: wSkXaMWcMRZGI
 

(回答先: 仁王像さんが左翼に騙されていると 投稿者 忍 日時 2008 年 2 月 09 日 19:57:09)

 三笠宮氏が、日本の陸軍の行動の不可解のように見ているがそれは違う。当時、フリーメーソン活動をも無視しているし、共産党の毛沢東も、国民党の蒋介石も、両方とも欧米のフリーメーソンであり、更に、その司令塔は英国のサースン財閥であった。これは、海軍の捜査で明らかにされている。当時、一部の軍人しかこのフリーメーソンとユダヤ人の問題を考えていなかった。当時、皇室は英国に捧げてしまったのである。そうなると世界は見えなくなる。三笠宮も、結局は当時の満州における日本人の状況が全く分かっていなかった事を如実に表している。この問題は、日清戦争の時から、陸軍が中国人に受けた侮辱(猟奇性殺人)が、陸軍が中国に対する警戒心を持たせたのである。

◎済南事件◎
●田中・蒋会談
 (済南事件の前に、南京事件の時の残虐性を考慮しなければ分からない。其れについては上で説明している!忍)。
 既述の如く、昭和2(1927)年8月、蒋介石は国民革命軍総指令を辞職した。下野した後、彼は張群と共に9月末に来日し、11月5日、青山の私邸に田中首相を訪問、約2時間会談した。張群も同席した。会談の要旨は次の通りである(外務省『主要文書』下)。
 田中が蒋に説いた第一点は、此の際先づ長江以南を纒めるのが急務であり、「若し長江以南にしてまとまざらんか、其の間に共産党は成長すべし」と云うのであった。「先づ長江以南を纒め、基礎の確実なるを俟て始めて北伐に着手すべき方策は依然最善の道にして、之を行ひ得る人は貴下を措いて他に無し」と蒋への信頼を披瀝し、蒋が南方一帯の統一に専念すべきと要望した。
 次に田中は「列強中貴国に最も利害関係を有するものは日本なり。日本は貴国の内争には一切干渉せざるべきも、貴国に共産党の跋扈する事は断じて傍観し難し。此の意味に於て反共産主義の貴下(此の認識が大いに過ちが起こしている。共産主義は、マルクスが悪魔ダビデに依って、神を否定し、世界の国々を潰滅する目的で、そして最終的に悪魔ダビデ・ユダヤ王国を作る為に考えた戦略理論なのです。そして、其の母胎は、フリーメーソンなのです。フリーメーソン設立そのものも、悪魔ダビデに依って作られたのです。蒋介石は、其のフリーメーソンに所属しているのです。だから、反共産主義では無いのです。母胎其の物を大切にしているから、共産主義者なのです。此の辺りは、鬼塚五十一著『フリーメーソンとアジア大激震』と『フリーメーソンのアジア管理』に書かれている。何よりも中村粲著書自身も其の『大東亜戦争への道』にも同じ章で最初に「北伐を逆用したコミンテルン」で少し描かれている。其れなのに此の声明の認識過ちを質していない!忍)が南方を堅むる事は日本として大いに望む所にして、此れが為国際関係の許す限り、又日本の利権其の他を犠牲とせざる限りに於て貴下の事業に対し充分の援助を惜しまざるべし」と述べると共に、張作霖に対する日本の態度に就いて「世間ややもすれば日本が張を助くるものの如く称道するものあれど全く事実に相違す。日本は絶対に張を助け居らず。物資は勿論、助言其の他一切の援助をなし居らず。日本の願ふ所は唯々満州の治安維持にあるのみ安心あり度し」と確言した。
 蒋は、今直ちに北伐を行なふのでなく、南方を堅めてから後に北伐すべしとの田中の言に同感しながらも、革命軍の内容複雑にして、当時若し北伐を行なはなかったなら南方は分裂を免れ難く、禍乱はかへって南方に起る憂ひがあった為であると答へた。
 (註)会議に通訳として同席してゐた張群は、其の回想録で同会談に触
 れて「私の記憶によると、田中はかって張作霖は嫌ひだと素直に述べた
 事があり、張作霖の総参議である楊宇霆の方を支持してゐたやうだ」と
 記してゐる(『日華・風雪の70年ーー張群外交秘録』)。

 又蒋介石が共産党の軍隊内侵入に就いて「指揮官は別に恐るるに足らざるも軍隊内に共産主義者の侵入する事は寒心に堪へざるなり」と述べたのに対し、田中は同憂であると答へて「日本に於ける共産主義の蔓延は其の原因支部共産党の増長にあり。日本側より貴国の赤化(此の赤化を正しく受け取っていない。当時、明治の法では、「貞節の犯したる罪」の中で、「女」は問うけれど、「男」は問いていない。此の状態が共産主義である事を云っているのである。神の道義を破壊する人達を指している。日本の場合は、仏教で戒めている!忍)を常に八釜しく反対し居るは畢境自衛の為に外ならず」と、日本が支那の赤化を憂へるのは結局は自衛の為であると述べた。
 蒋は、田中総理の言の中に支那に於ける日本の利権を犠牲にするを得ずとあったが、「自分も支那に於ける日本の利益安全なれば支那の国利民福も亦た安全にして畢境両国の利害は共通なりと信じるものなり」と述べ、其の為には早く革命を成就し時局を安定させねばならないが、支那国民の排日は日本が軍閥張作霖を助けてゐるものと誤解してゐる為なので、日本は革命勢力を助けて支那国民の誤解を一掃する事が必要で、さうすれば満蒙問題も解決し、排日は跡を絶つであらうと述べた(此の排日運動は、フリーメーソンが仕掛けた事件であり、蒋介石はフリーメーソンに所属している!忍)。
 次いで「もし其れが列強に対する関係上日本が支那に何等の援助をなし得ずと云ふが如きは日支の特殊関係を没却せる言議にして取るに足らず。今や支那と交渉ある列強は数多きも、其の真に緊切なる利害を有するものは日露の両国に過ぎず。露国は此の意義の下に支那に干渉を加へたり、日本何んぞ干渉援助を加へ得ざるの理あらんや」と云ひ、「革命党たる自分が此の如く言をなせば売国奴として国民の怨怒を招くべきも閣下は自分が信頼する先輩為るが故、衷情を披瀝し閣下に訴ふるに過ぎざるのみ」と結んだ。
 驚くべし、ソ連が支那に干渉してゐるのだから、日本も干渉援助して欲しい、列国との関係上、日本が対支援助出来ぬと云ふのは日支の特殊関係を無視する議論で取る足らぬ、と国民革命の総帥たりし蒋介石が田中に打ち明けてゐるのだ。支那側の本心語るに落ちたと云ふべきか。もしこれが支那側の真情であるとしたら、例へば幣原氏の対支不干渉外交はどのやうに評価されるべきなのか。其れは支那(少くとも蒋介石の国民革命派)にとって、好ましいものであったのか。我々は日支外交関係の評価に於て180度の転換を迫られる事になり、忽ち途方に暮れてしまふ他ないのである。
 ともかく上の田中・蒋会談は、日支双方の素直な気持ちを知る事が出来ると共に、日支関係の決して単純ならざる事を痛感せしめる上で、誠に得難い歴史資料と云えよう。
 蒋介石は日本から帰って上海に着いた時、新聞記者会見で次の如く述べたと云ふ(山浦貫一『森恪』)。

 「我々は満州に於ける日本の政治的、経済的利益の重要性は無視しない。
 我々はまた日露戦争中の日本の国民精神の驚くべき発楊をも知ってゐる。
 孫先生も此れを認めてゐるし、又、満州に於ける日本の特殊的地位に考
 慮を払ふ事を保証してゐた。我々の革命が成功した暁には、其の鉾先は
 印度に向くであらう。我々は、朝鮮を使嗾して、日本に反対せしめよう
 とは思ってゐない」

 もし蒋が是の通りの事を語ったとすれば、彼が滞日中に日本側要人と行なった会談の内容も、粗推察出来るであらう。

●我軍の警備を撤去させ、日本人を襲ふ
 田中首相との会談の後、蒋介石は、間もなく帰国し、翌昭和3(1928)年4月、再び国民革命軍総指令として第二次北伐の軍を進める事になった。北伐全軍総指令は蒋介石は間もなく帰国し、翌昭和3(1928)年4月、再び国民革命軍総司令として第二次北伐の軍を進める事になった。北伐全軍総司令官は蒋介石、参謀総長は何応欽で全軍百万は4個の集団軍から編成されてゐた。対する北軍は大元帥・張作霖が北京に在り、孫伝芳、張宗昌、張学良、楊宇霆等の指揮する7つの方面軍、兵力百万を擁してゐた。4月7日北伐宣言を発した国民革命軍(南軍)は、4月中旬には早くも包囲する態勢に入った。
 済南は山東省督弁公署の所在地で、場内及び商埠地よりなり、津浦、膠済両鉄道の交叉点に位するのみならず、黄河、小清河の水運があり商業が盛んであった。戸数約7万、人口約38万を有し、就中商埠地の人口は近来著しく増加し、諸外国人は多く此処に住み、邦人も総数2160人中1810人(内女829人)が此処に居住してゐた。
 ところが、革命軍の北上につれ、済南が俄かに危機に陥ったのである。第二の南京事件が発生しないと云ふ保証は無かった。現地からの出兵要請を受けた田中首相は、深く懊悩した末、遂に居留民保護の為已む無しと決心し、4月下旬済南に出兵した(第二次山東出兵)。南京事件の再発を防ぐ責任のある田中としては已むを得ぬ措置であった。
 我軍は済南城に隣接する商埠地(邦人の大部分が住む)に、東西二ヶ所の守備地区を設けて居留民を収容保護した。だが北軍が退却した後の5月1日、南軍(北伐軍)の入市と共に案の定、日本国旗侮辱や反日ビラ貼付等で粉議が頻発、市内は俄然緊迫の様相を呈するに至った。二日、南軍総司令・蒋介石より、治安は中国側が絶対に確保するので日本軍の警備を撤去されたいとの要請があり、蒋の約束を信じた我軍は夜を徹して防御工事を撤廃した。
 事件は我軍が警備を撤去した直後の5月3日朝に発生した。南軍暴兵が満州日報取次販売店・吉房長平方を襲撃掠奪したのが発端だった。南軍兵は駆けつけた日本人巡査にも暴行を加へた為、我が救援部隊が現場に急行するや、中国兵は忽ち遁走して兵舎に隠れ、其の中より銃撃を加へて来た。
 此処に於て彼我交戦状態に入り、中国兵依る乱射掠奪は一挙に市中に拡大した。間もなく両軍間に停戦の申合せが出来たが、中国軍は此れを無視し、白旗を掲げて停戦を呼びかける我が軍使さへ射殺する暴挙に出た。市内は凶暴な中国兵の為忽ち修羅の巷と化した(参謀本部『昭和3年支那事変出兵史』)「南軍鬼畜と暴れ狂ふ」「日本人は狂暴為る南軍の為盛んに虐殺されつつあり」ーー中国兵の暴状を5月4日付東京朝日新聞はかう報じてゐるが、各所で多数の男女日本人居留民が暴兵の手で惨殺されて行った。
 前出『昭和3年支那事変出兵史』に依れば、5月3日、4日の戦闘に参加した我軍の兵力は歩兵約5大隊、騎兵1小隊、野砲2中隊其の他であったが、其の中、戦死9、負傷32であった。又此の戦闘の間に、東西両地区警備隊は守備線外に離散してゐた我が居留民約280名を弾雨を冒して収容したが、12名(男10、女2)の居留民は3日正午頃、南軍の手に依って惨殺された。其の後5月5日、済南駅東方鉄道線路付近に隠匿埋没してゐた鮮血生々しい死体9を、6日津浦駅付近で1体を、9日には白骨と化した者2体を発見した。其の他南軍の爆弾によって負傷入院後死亡した者2体、暴行侮辱を加へられた者30余体、凌辱された婦女2体、掠奪被害戸数136、被害人員約400、被害見積額は35万9千円に達した(当時の金額!忍)。


●酸鼻!日本居留民虐殺さる
 済南事件に於て、支那兵が我が居留民に加へた暴虐凌辱は言語に絶する悪鬼の所行であった。事件直後に惨死体を実見した南京駐在武官・佐々木到一中佐は其の手記に次の如く記した。
 「予は病院において偶然其の死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の
 極だった。手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加へ、或い
 は滅多切りとなし、婦女は全て陰部に棒が挿入されてある。或る者は焼
 かれて半ば骸骨となってゐた。焼残りの白足袋で日本婦人たる事がわか
 ったやうな始末である。我が軍の激昂は其の極に達した」(『ある軍人
 の自伝』)

 上の佐々木中佐手記は嘘でも誇張でもない。済南の日本人惨殺状況に関する下の外務省公電が此れを立証してゐる。

 「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿込みたるもの、顔面
 上部を切落したるもの、右耳を切落された左頬より右後頭部に貫通突傷
 あり、全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切落したるもの2」(5月9
 日田中外相宛西田領事報告)

 支那側の蛮行の模様に記録したものがある。其れは我軍及び警察と支那側の立会ひの下に済南医院が行った検視の結果である(小川雄三『済南事件を中心として』)。其の極一部を抜粋して、支那軍の殺人の手口の残忍非道ぶりを推察する一助ならしめよう。

 西条八太郎(28歳)
・……両手を縛り顔面を地上に引きずりし形跡あり。
・腰の中心より下部中央に向け貫通銃創あり。腹部射出口より約2尺ばか
 り小腸露出す。

 西条キン(24歳)
・全顔面及び腰部にかけ、皮膚及び軟部の全剥離。
・○○に約2糎平方の木片深さ27糎突刺しあり。

 大里重次郎(28歳)
・……死因は顔面の挫傷と脳底の骨折なり。此の状態より察するに棍棒や
 うの器具にて殴打されたる結果ならん。
・顔面挫傷と背部の刺傷は、周囲に出血夥しきに察するに、死者生存中に
 行はれたるものの如し。

 多平真市(34歳)
・右前頭部に骨折伴ふ挫創あり。玄能(大型金槌)様の器物を以て打撃せ
 るものの如く、頭蓋骨も美事に骨折を伴ふ。
・唇下部より臍に至る延長約2尺の切傷より小腸を露出す……。

 井上邦太郎(30歳)
・前頭骨・両眼・左上顎骨及び鼻を欠損す。
・両眼球全く無し
・顔面は鳶口様のものにて打たれたるものの如し。死因は顔面の惨酷なる
 挫創なり。

 藤井大次郎(40歳)
・広汎なる腹部の切創にて腹腔の内臓全部露出す。
・○○は根部より切断せらる。
・右眼球は見事に摘出せらる。

 宮本猶八(55歳)
・○○は鋭利なる刃物にて根部より切断せらる。

 高隈むめ(50歳)
・○○には深さ7寸の刺創あり(以下省略)

●国論沸騰、対支膺懲へ
 南軍の為に惨殺凌辱された日本人同胞の死体が我軍の手により発見されるに及んで、軍民の憤激は極度に達し、南軍膺懲の声が勃然とし起こって来たのは当然であった。
 5月5日、済南事件の真相が明瞭となり、南軍の対日軽侮の観念が濃厚で、我が軍隊に挑戦し、且つ居留民に残虐を加へた事実が判明するや各方面に多大の衝撃を与へ、国内に於ても期せずして積極的に膺懲論が擡頭するに至った。
 参謀本部も、国威を保ち、将来を保障せしむる為には、事実上の威力を示す他に途なしとし、済南派遣軍(第六師団)に事件解決の条件を指示し、此れに基づき第六師団は7日午後4時、12時間の期限付きで
 ?暴虐行為に関係ある高級武官の処刑。
 ?日本軍の面前に於て我軍に抗争したる軍隊の武装解除。
 ?一切の排日的宣伝の厳禁。
 ?南軍は済南及び膠済鉄道両側沿線20支里(12キロ)以外の地に離隔。

を要求したが、先方が事実上此れを拒否した為、我軍は支那軍の立てこもる済南城砲撃に踏切った。但し砲撃対象を司令部と城壁に限り、又無用な流血を避ける配慮から安全地帯と避難路を指定した為、支那軍は夜陰に乗じて城外へ脱出、再び北伐を続行、我軍は11日、抵抗無く済南城を占領した。

 以上が済南事件の概要である。中国側史料は、事件は「北伐を妨害する為の日本側の計画的挑発」とし、「日本軍の防備撤去は日中両軍の接触を容易にし、衝突を惹き起こす為の謀略であった」と迄書いてゐる。防備撤去が中国側の要請だった事を都合よく忘れ、又蒋の言葉に信頼した日本軍の善意は見事に悪意に磨り替へられてゐる。僅か3千5百名の日本守備隊で十万を越へる南軍の北伐を阻止出来る訳も無く、又北伐妨害が目的ならば最初から南軍の入市を阻止したであらうし、済南城砲撃の際、南軍の退避路を用意する必要も無かった筈だ。
 済南事件は結局、外交交渉に移される事となり、幾多の紆余曲折を経て、翌昭和4(1929)年3月28日漸く解決した。
 我国の現行歴史教科書も筆を揃へて、事件は日本軍の「北伐干渉」が原因だと書いてゐる。中国は5月3日を「国恥記念日」として排日に利用したが、日支何れが挑発したのか、偏見無き観察者には明らかであらう。

●現地外交官の所感
 事件は日支何れかが挑発し、何れに責任があるのだろうか。現地の藤田(英介)青島総領事は事件後の5月23日、次の様に語ってゐる。
 「南軍は5月1日から2日午後に掛けて約5、6万済南に到着し、商埠
 地と場内の各地に分営してゐた。此れより先、北軍が退却するや南軍の
 便衣隊が現れたので居留民を我軍の警備地区に移し警戒した。然るに蒋
 介石は二日我軍に

  ?南軍に於て絶対に治安維持の責任を持つ故日本軍は直ちに撤退
  されたし
  ?日本軍に於て南軍を敵視せざる以上警戒区域の設置は必要無き
  故、防御物を撤退されたし

 と要求して来たので、我軍は蒋介石の声明を信頼して軍の防御施設を撤
 去した。其れにも拘らず翌三日我が居留民家屋に南軍兵士が侵入し来っ
 たので、此れを制止せんとするや却て発砲した。何人が事件の端を開い
 たかは極めて明瞭であり、責任は全部南軍にある。
  然も此の衝突が最初から組織的に計画されてゐた事は

  ?掠奪と殆ど同時に商埠地各所で一斉に銃声が起り、忽ち大混乱
  の巷と化せしめた事実
  ?彼等が手榴弾を所持してゐた事
  ?掠奪されたのが悉く日本人家屋であって支那人は殆ど其の厄に
  遭はなかった事

 等から推して最初より日本人を目標とせる事疑ひない(当時、蒋介石等は
 フリーメーソンに所属している事から其の点で関係はどうか調べ直した方
 が良いかもしれない!忍)。
 ……我軍の砲弾は彼等南軍のゐる督弁公署、城壁等を目標とし、在住支那
 人家屋には何等の被害を与へなかったので、商民等は日本軍の砲撃は正確
 なるによって被害の無かった事に感謝してゐる。
 ……日本軍があれだけ商埠地を警戒して居りながら彼等が掠奪行為をなす
 と云ふ事は、彼等の本体を暴露せるものに外ならない。即ち彼等に残忍性
 が如何に強いかも此処に於て分る。我等は支那兵が斯くの如く残忍性を逞
 しうし、排外熱を煽動するに於ては国民として晏如としてゐる事は出来な
 い。一大決心を要するのである」

 此れは軍人の言葉ではない。現地駐在外交官の素直な所感である事に注意を向けたい。支那軍の暴虐に対して積極論を主張したのは、一人軍部のみでは無かった事が分かるであろう。

●「日本軍に感謝」一外国人の手紙
 次の書面は事件当時済南在留の一外国人が済南医院長の牧野博士の許に寄せた書面を、更に同博士から福田師団長の許へ翻訳して送られたものである。日支両軍の戦闘を目撃した一外国人の所感ではあるが、中立的立場からの発言として貴重な参考資料と云へよう。
 「去る5月3日午前10時、済南府に於て不意に射撃が勃発せし当時、
 余は何故に此の射撃が行はれたるかを知らなかった。しかし余は考へた。
 『恐らくは南軍が、何等かの方法に於て日本人を攻撃せるに非らずや』。
 何となれば5月1日以来、日本人に反対する教唆の宣伝ビラは、各街路
 に、貼出され、しかも益々猛烈なるものありしが故である。南軍は恐ら
 く彼等自身が非常に優勢にして、日本軍に対して戦闘を開き得るものと
 想像したに違ひない。……余自身兵役にありしが故に、日本兵の態度に
 より、一目此の戦争の勝利者たる事を知った。余は日本兵の突進し来た
 れる態度を見し時、心中非常なる喜びを感じた。……日本兵は甚だ困難
 の立場にありながら、日本人独特の強行的突進によって多数の支那兵を
 混乱せしめた。余は此の光景を見て、直ちに教育ある軍隊と、支那人の
 烏合の衆との間に、明瞭なる差異を認むるを得たのである。余が路上に
 於て他の欧州人より聞き及びたる事実である。
  尚日本の砲兵は、盛んに城内を攻撃した。しかも攻撃に際し、如何に
 慎重に、且つ正確に照準したりしかは、攻撃の跡を見て、直ちに此れを
 認むる所である。即ち日本兵は支那の民衆を如何にして傷つけざらんか
 に非常なる努力を払ってゐる。
  余の感ずる所に於て、当日済南府には約2万の南軍が存在してゐたに
 拘らず、約6百(東部地区の兵力のみならん)の日本兵に恐れをなし、
 恰かも野兎の如く遁走した。彼等は戦争前に於て大言壮語せし手前も憚
 らず、意気地なくも斯く2、3の日本人の為に直ちに圧迫されてしまっ
 たのである。当地に居住する欧州人にとりては、日本軍隊の済南に到着
 せし事は非常なる幸福であった。余の感ずる所によれば、南軍は唯日本
 人のみならず、総ての外人を攻撃せしならん。此れは一人余のみならず、
 多くの他の欧州人より余の聞きし所である。日本兵が総ての欧州人の生
 命財産を保護したる事に就いては、吾々欧州人は感謝の念を禁ずる事が
 出来ないと共に、自国民及び他の外国人の生命を保護せんが為に永久に
 此地に眠れる約50の忠勇なる日本将卒に対しては、自づから哀悼の念
 を禁ずる事が出来ない」


●日本、国際連盟に覚書提出
 外務省は5月28日、国際連盟加盟諸国の参考に資する為、覚書を連盟事務局に提出した。以下其の一部を抜粋する。
 ?最近蒋介石の率ゐる南軍より北進して済南に向はんとするや、日本が
 済南在留2千の居留民保護の為同地に派兵したるは支那の現状に照らし、
 止むを得ざる自衛の措置たる事云ふ迄もなし。然るに上派兵に拘らず、
 南軍兵士が日本人の家屋を掠奪せるに端を発し、同地に在りし南軍は日
 本派遣軍及び居留民を随所に攻撃し、日本居留民十数人(女子を含む)
 を虐殺し百余戸を掠奪したる為、日本軍として居留民保護の為実力を行
 使するの余儀無きに至るは誠に遺憾に堪へざる所なり。
 ?済南事件の経過を通じて下記諸点は特に注意の要あり。
  イ、事件は南軍兵士が日本居留民の家屋を掠奪し、且つ之が救援に赴
  ける日本兵を射撃せるに端を発せる事。
  ロ、事件前、南軍幹部は繰返し治安維持の責に任ずべき旨を述べ、日
  本軍の防備撤去を要求し来り、日本軍は事件突発の前夜此れを撤去し、
  又一旦安全地帯に引揚げ居りし居留民中にも帰宅せるものありし事。
  ハ、事件が上防備撤去の直後発生したる事。其の発端と時を同じくし
  て各方面の支那兵一斉に日本軍を攻撃し、居留民に対する迫害掠奪を
  開始したる事。此等迫害掠奪の目的が殆ど日本人に限られし事等の諸
  事情に徴し、本事件は支那側、少なくとも下級者間に於て計画的に行
  ひたるの印象を与へたる事。
  ニ、日本側は屡次困難を冒して支那側と連絡を取り停戦を協議せるも、
  其の都度支那側の命令徹底せざる為戦闘続行の止むなかし事。
  ホ、支那兵は便衣隊を交へ、随所の家屋の掩護により乱射したる為、
  日本軍は最も困難なる状況の下に市街戦に従事せる事。
  ヘ、事件発生直後、支那兵が日本居留民男女に加へたる蛮行は、其の
  残虐云ふに忍びざる程度のものありし事
  ト、7日第6師団長のなしたる要求は12時間の期限を付し、殆ど南
  軍側に於て熟慮回答の余裕なかりし事を非難するものあるも、当時の
  状況は極めて逼迫し、第6師団長はもし時日を遷延するに於ては南軍
  の詭計に掛かり、居留民は勿論軍隊自身も非常なる危険状態に陥るの
  恐れありと信じたるものにして、支那側従来の不信に鑑み上警戒は当
  然なりしこと。

 上の覚書は日本側の国際社会に向けての公式な立場表明であり、簡潔且つ抑制された行文の裡に事件の責任の所在を的確に指摘してゐる。支那側が如何なるデマや逆宣伝を試みようとも、公正な観察者にとっては、事件の責任が日支何れの側にあるかは火を見るよりも明らかであった(事の真相は、誰が計画を立てたのか追求する迄は、謎の儘である。此の『大東亜戦争への道』を著作した中村粲氏の論文でも、単なる支那側の暴動しか受け取らない様に感じる。外交官は計略のある犯行である事を指摘している。そして、防備撤去は、支那の責任者であった蒋介石によって行われた其の直後に事件が起きた事から中国の謀略を感じられる。其れが中国一国の問題であるかどうか。此処で裏で操ったフリーメーソンが見えて来るのである。其のフリーメーソンに依って作られた国際連盟を信用して良いかどうか!忍)。

●我が国民に痛恨を残す
 済南事件の発端と経過を知る者にとっては、非が日支何れの側にあるかは最早論ずる迄もなかろう。支那一般市民にも相当の犠牲者の出た事が事実であるとしても、其の責任は、日本を侮蔑し、停戦協定を破って挑発行為を継続した支那軍が負うべき事は明らかである。紛争の原因は常に支那側が作り出し、其の結果に対する責任は日本が負はせられるといふ不公平を歴史は示してゐるが、此の済南事件にも、其れは当て嵌まるやうである。
 先の南京・漢口両事件に続く今回の済南事件の蛮行は、日本国民を驚愕せしめると共に、軍民を問わず日本人全般の胸中に深い憤激の情を惹き起さずにはおかなかった。日清戦争に於ける支那兵の残虐行為は既に見た通りである[此の事に就いては、中村粲氏が次の様に述べている「明治28年2月22日付報知新聞に掲載されたフランスのフィガロ紙記者カレスコーとイリュストラシオン紙記者ラロー両名の従軍記の中で中国軍に就いてはかう書く。『翻って清軍を見よ。日本軍卒の一度彼等の手に落つるや、あらゆる残虐の刑罰を以て此れを苦しむるにあらずや。或は手足を断ち、或は首を切り、睾を抜く。其の無情、実に野蛮人にあらざればよくすべきの業にあらず。しかして日本はこれ有るに拘らず暴に酬ゆるに徳を以てす。流石に東洋君子国たるに愧ぢずと云ふべし』とーー。中国側の軍記は乱れに乱れた。牙山で我軍に敗れて平壌に退いた清軍は、朝鮮人に対して掠奪、強姦、虐殺を恣にし、清軍の行く所、人民は悉く町や村を捨てて逃避する有様で、流石の李鴻章も『髪、天を指す』と打電する程激怒した。明治27年9月、平壌での敗退を李鴻章が清廷に報告した上奏文によれば、清軍は日本軍の首を取った者には銀30両の懸賞金迄賭けてゐた為、『兵は協力血戦し、生捕り及び首を取れる者200余名、銃殺者は数計り知れず』とある(王芸生『日支外交60年史』第2巻)。賞金を賭けて兵を戦はせ、兵又賞金目当てに敵の首級を求めるーー此れを支那では古来『殺良冒功』(良民を殺して賞金を貪る)と云ったが、此れは最早近代戦では無い。文明以前の部族間の血闘である。同じく27年11月18日、旅順北方の土城子に斥候に出た我が将兵11名が、中国軍に虐殺された様を現忍した秋山好古騎兵大隊の稲垣副官が書いた手紙には『敵は我軍の屍に向って実にいふからざる恥辱を与へたり。死者の首を斬り、面皮を剥ぎとり、或は男根を切り取り、胸部を割きて入るるに石を以てす。此の様を見て誰か驚かざらん』とある。此の稲垣副官が書いた手紙にある様な凄惨な迄殺害方法は、此れ以後、大東亜戦争に至る迄、無数の日本人に対して実行されたのである(ベトナム戦争以降、中国共産党に指導されたベトコンも同じ様な残虐な刑を行われている!忍)。もう1例を挙げる。明治28年1月30日、我軍が威海衛の趙北嘴砲台を抜き、敵が逃走した後の兵営に入って見ると、藁包みがぶら下げてあった。開いて診ると日本人の首級が7つ入って居り、何れも鈍刀で斬ったらしく、5、6刀から十数刀を加へた事が斬り口から分かった。首級は両耳を穿って紐を通し、或は魚を串刺しにしたやうに口から喉に紐を通し、持ち運び易くしてあった。此れは前日、斥候に出た第6師団歩兵第13連隊所属の7名の将兵である事が判明した(長谷川伸『日本捕虜志』上)。中国軍隊の余りに残忍な戦闘方法の結果。明治27年9月、京城に入った山県有朋第一軍司令官は次の如き布告を麾下将兵に出さねばならなかった。『(敵に対しては)軍人と雖も降る者は殺すべからず。然れども其の詐術にかかる勿れ。且つ敵国は古より極めて残忍の性を有せり。誤って生捕りに遭はば、必ず酷虐にして死にまさる苦痛を受け、遂には野蛮惨毒の所為を以て身命を殺害せらるるは必然なり。故に決して敵の生捕りする所となるべからず。寧ろ潔く一死を遂げ、以て日本男児の名誉を全うすべし』此れこそ、捕虜と為る事を禁じた我国最初の訓令である。以後、大東亜戦争終結に至るまで、戦場の日本人は此の精神に殉ずる事になる。中国軍の暴虐が、軍紀森厳な日本軍に如何に深甚な衝撃を与へたかが分かるだらう。我軍をして『生きて虜囚の辱めを受けず』の悲壮な決意をなさしめた中国軍の蛮行ーー実に建軍以来、最初の本格的な対外戦争で我軍が経験したものは、大陸民族のかくの如き惨鼻残虐の行為なのであった」と云う事である。尚、所謂「旅順口事件(左翼関係は虐殺事件と見ているが)」の反論も中村粲著『大東亜戦争への道』に著述している!忍]。実に残忍非道は支那兵の通性なるかは思はずには居られないのである。
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