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サイモン・ウィゼンタール 〜いかさま「ナチ・ハンター」
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投稿者 木村愛二 日時 2007 年 5 月 31 日 22:47:32: CjMHiEP28ibKM
 

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サイモン・ウィゼンタール 〜いかさま「ナチ・ハンター」

経歴詐称と卑劣なデッチ上げ

[実態にそぐわない評判]

 サイモン・ウィゼンタールは生ける伝説である。1980年 8月にはホワイトハウスの正式な式典で目に涙を浮かべたカーター大統領が、この世界随一の「ナチ・ハンター」に議会の決議による金メダルを贈呈した。1988年12月にはレーガン大統領が、彼を今世紀の「真の英雄」の一人だとして賞賛した。

 彼は西ドイツの最高の勲章の授与者であり、世界で最も重要なホロコースト組織の一つ、ロサンゼルスのサイモン・ウィゼンタール・センターは、彼の名を頂いている。

 彼は、1978年に晩年のローレンス・オリヴィエが制作したファンタジー映画『ブラジルからきた少年たち』と、1989年 4月にベン・キングスリーが制作したテレビ向け映画『我々の中の殺人者たち/サイモン・ウィゼンタール』の中で、へつらいの言葉によって描き出されている。

 ウィゼンタールの評判は実態にそぐわないものだ。「ホロコースト復讐の天使」として広く知られるこの男は、真実をなおざりにする無謀さに関しても実に豊富な記録の持ち主である。

 彼は戦争中の経歴についても嘘をついているし、戦後の「ナチ狩り」の業績についても虚偽の発表をしており、いわゆるドイツの残虐行為についても卑劣なデッチ上げ話を広めている。彼は明らかに道徳観念を欠いている。

詐欺的名称「ナチ・ハンター」

 ウィゼンタールの「ナチ・ハンター」としての世界的名声は、まったく事実に反している。彼の30年間以上の「ナチ戦犯」探しにおける最大の功績は、アドルフ・アイヒマンの居場所発見と逮捕に果たした役割だということになっている。

 アイヒマンは戦争中の親衛隊のユダヤ問題担当部門の統括責任者だった。彼は1960年にブエノスアイレスでイスラエル情報部員に誘拐され、世界中のメディアの注目を浴びた裁判の後にエルサレムで絞首刑に処せられた。

 しかし、アイヒマンを捕らえたチームを率いていたイスラエル当局のイセル・ハレルは、ウィゼンタールは逮捕に関して「絶対的に無価値」だったと明言している。ハレルは、「ウィゼンタールが逮捕以前に提供した情報はまったく価値がなく、それどころか時には誤導さえするマイナスの価値のものだった」と語っている。ハレルは、イスラエルの国内および国外の保安機関、モサドとシンベトの双方のトップを歴任している。

 さらに、有力なシオニスト組織であるブナイブリスの反中傷同盟の総合顧問、アーノルド・フォスターは著書『旧弊な男』の中で、ウィゼンタールはイスラエル機関がアイヒマンを逮捕する直前に、かれの所在位置を日本にしたりサウジアラビアにしたりしていたと記している。

 ウィゼンタールが演じた最も見せ物的な事件の一つは、シカゴのフランク・ウォラスという男を巻き添えにした。1974年12月10日付けの手紙で彼は、ウォラスが戦争中にポーランドのチェンストホーバとキエルツェで、「ユダヤ人をゲシュタポに引き渡した」と告発した。この手紙に刺激された合衆国政府は、ウォラスに対する捜査と法的キャンペーンを矢継ぎ早に行った。ワシントン・ポスト紙は、この事件の顛末を1981年 5月に特集しているが、その題は「ナチ党員と間違えられた男/裁判官、報道機関、検察局の魔女狩りが、いかにして無実の市民を戦争犯罪人に仕立てたか」であった。このアメリカ法律家協会が版権を持つ長文記事には次のような指摘がある。

「1977年 1月、合衆国政府はシカゴ市民のフランク・ウォラスを、第 2次世界大戦中のポーランドで残虐行為を犯した疑いで告発した。それ以降、この定年で引退していた工場労働者は、自らの無実を証明するための裁判費用として 6万ドル以上の借金を抱える羽目に追い込まれた。彼は法廷に座り、ナチ占領下のポーランドで生き延びた11人のユダヤ人が次々に証言するのを聞かされた。それらの目撃証言によると彼は、子供、高齢の女性、若い女性、せむし、その他の人々を殺したというのだが、……

 圧倒的な物的証拠は、彼がナチ党員の戦争犯罪人ではなくて、ポーランドにいたことさえないことを示している。

 ……ヒステリア状態に達した憎しみと嫌悪の雰囲気の中で、政府は無実の人を迫害したのだ。

 1974年に有名なウィーンの『ナチ・ハンター』こと、サイモン・ウィゼンタールは、ウォラスを『戦争中にポーランドのチェンストホーバとキエルツェのゲットーでゲシュタポの命令に応じて何人ものユダヤ人を引き渡したシカゴに住むポーランド人』だとして告発した」

 換言すれば、サイモン・ウィゼンタールのウォラスについての「報告」なるものは、実際には何の根拠もない単なる空騒ぎの噂にしかすぎなかったのだが、この「ナチ・ハンター」は先頭に立って彼を告発し、葬り去ろうとしたのである。

 1978年 4月、この事件が審理されていた時期にウィゼンタールはシカゴを訪れてインタヴューに応じ、ウォラス事件を自分の手柄だとして誇った。「いかにしてナチ・ハンターはウォラス発見を助けたか」というのが日刊紙、サンタイムズの大見出しであった。ウィゼンタールはそのインタヴューで、彼が「今までに人違いをした事件は一つもない」と語り、「私がそのようなミスをするのを待ち望んでいる人が何千人もいることを知っている」と付け加えた。

「キエルツェの虐殺者」として誹謗中傷され、肉体的にも襲われたりした男は最終的に、自分が戦争中のドイツで平和な農場労働者として暮らしていた事実の立証に成功したのだが、それはひとえに、心身ともに消耗し果てる裁判闘争の末であった。このウォラス事件に関するウィゼンタールの無責任で勝手気ままな振る舞いは、彼の調査者としての肩書きの信頼性を永久的に傷付けるに充分なものだったはずだ。ところが、かれのテフロン加工の鉄鍋のような世評は、それさえもしのぎ切った。
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嘘の連続、「人間石鹸」のデマゴギー

メンゲレに関する間違い

 ウィゼンタール神話の多くは、戦争中のアウシュヴィッツで「死の天使」という呼び名が付けられた物理学者、メンゲレの追跡に基づいている。

 何度も何度もウィゼンタールは、メンゲレを追い詰めたと主張していた。ウィゼンタールは、彼への情報提供者がペルー、チリ、ブラジル、スペイン、ギリシャ、またはパラグアイの様々な場所で、巧みに逃げ続ける物理学者を「見た」とか「惜しくも捕らえ損なった」とか報告していた。

 すれすれまでの追跡の一例は、1960年の夏に起きたという。ウィゼンタールは、メンゲレがギリシャのちいさな島に隠れていたのだが、ほんの数時間の差で取り逃がしたと報告していた。彼は、自分がその裏付け調査のために雇った情報員から、この話が始めから終わりまで間違いだったという報告を受けてからも、細部の尾ひれまで仕上げた話にして広め続けた。

 メンゲレはパラグアイの首都、アスンシオンの、いちばん立派なレストランで食事をする習慣だと、ウィゼンタールは1977年に語った。彼の想像によれば、メンゲレは一群の武装したボディガードとともに黒いメルセデス・ベンツで市内を乗りまわしていた。

 1986年になるとウィゼンタールは、メンゲレが少なくとも1984年 6月までパラグアイに潜んでいたことは「 100パーセント確実だ」と発表し、西ドイツにいるメンゲレの家族が正確な居場所を知っているはずだと告発した。しかし、事実が判明してみると、ウィゼンタールは完全に誤っていた。その後に決定的な立証がなされたが、メンゲレはブラジルで長い間、人に知られることなく貧乏暮らしをした末、1979年に死んでいた。

 実際のところ、ウィーンのウィゼンタール「記録センター」に溢れていたメンゲレ・ファイルの数々は、まったく役に立たない情報の寄せ集めにしかすぎず、ロンドンのタイムズ紙の表現を借りれば、それらは「彼の自己満足的な神話を維持するだけで、本当にメンゲレの消息について決定的な回答を得たい人々にとってはほとんど無意味なものばかりだった」。

 イスラエルの元パラグアイ大使、ベンジャミン・ヴァロンでさえも、1983年に、この詐欺的なメンゲレ・キャンペーンについて次のように慎重な批判をしている。

「ウィゼンタールは彼がメンゲレを追い詰めたという声明を周期的に出すが、それは多分、彼の活動の資金集めのためであって、メンゲレの名前は常に格好の宣伝材料なのだ」


「人間石鹸」

 ウィゼンタールは、数あるホロコースト物語の中でも最も下品な部類に属するデマゴギー、すなわち、殺したユダヤ人の死体から石鹸を製造したという罪をドイツ人に負わせる作り話を広め、それに権威を与える役割を果たした。

この作り話によると、ドイツ製の石鹸に浮き彫りされている「 RIF」という文字が、「純粋のユダヤ人の脂肪」の略称だというのである。これは実際には「国営工業用脂肪供給センター」の頭文字だった。

 ウィゼンタールは、1946年に発行されたオーストリアのユダヤ人社会の新聞、「新しい道」の一連の記事を使って、この「人間石鹸」伝説を売り込んだ。彼は「 RIF」と題する記事で、こう書いている。

「『石鹸のための輸送』という残酷な言葉が初めて聞こえてきたのは1942年の暮れだった。[ナチス・ドイツ支配下の](ポーランド)総督府政府内からの情報だが、工場はベウツェックのガリシアにあるということだった。1942年 4月から43年 5月までの間に、90万人のユダヤ人が工場の原材料として使われた」。死体が様々な目的の原材料に仕分けされたのち、ウィゼンタールによれば、「そのあとに残った脂肪の残留物が石鹸の製造に用いられた」。彼はさらに続ける。

「1942年以後、総督政府内部の人々は、 RIF石鹸が何を意味するかを非常によく知っていた。この石鹸について考えることにナチと全国政府部内の彼らの情婦たちが覚えた喜びは、文明化された世界では信じがたいものであった。彼らは石鹸の一つ一つに、魔法の力でそこに閉じ込められたユダヤ人を見出だし、第 2のフロイド、エールリッヒ、アインシュタインに成長するのを妨げえたと感じていた」

 もう一つ、1946年に発表した「ベウツェックの石鹸工場」という題の想像力溢れる記事では、ウィゼンタールは次のように、大量のユダヤ人が死刑用電流のシャワーを浴びて抹殺されたと申し立てていた。

 親衛隊員に突き飛ばされ、駆り立てられたラトヴィア人やウクライナ人は、開かれたドアを通って「浴場」に入った。一度に 500人が収容可能だった。「浴場部屋」の床は金属性で、上からはシャワーの栓が垂れ下がっていた。部屋が一杯になると、親衛隊員は床の金属板に5000ヴォルトの電流を流す。それと同時にシャワーの栓から水が注がれる。短い悲鳴が上がって、処刑は終了する。シュミットという名の親衛隊主任物理学者が、のぞき窓から犠牲者たちの死を確認する。第 2のドアが開いて「死体運搬隊」が入り、素早く死者たちを移動させる。これで次の 500人の受け入れ準備完了となる。

 今日では名のある歴史家で、ユダヤ人の死体が石鹸の材料になったとか、ベルツェックであろうとどこであろうとユダヤ人が電気処刑されたなどという物語を受け入れるものは、皆無である。


食い違う身の上話

 ウィゼンタールのことを書いた文章は山ほどあるが、彼が戦争中にドイツの支配下で何をしていたのかについては、いまだに明確になっていない。彼は 3つの別々の記事で、戦争中の自分の活動について、どうしようもないほどに相矛盾する身の上話を語っている。

ソ連の技術者か、工場の機械工か

 1948年に行われた尋問でウィゼンタールは宣誓の上、「1939年から41年の間」、彼が「ソ連の主任技術者としてリヴォフとオデッサで働いていた」と断言した。しかし、1967年に出た彼の自伝『我々の中の殺人者』では、1939年 9月半ばから41年 6月までの間、ソ連支配下のリヴォフにいて、そこで「ベッドのスプリングを製造する工場の機械工として」働いていたと主張している。

 1941年 6月にドイツがガリシア地方を掌握したのち、ウィゼンタールは一時期、リヴォフの近くのヤノフスカ収容所に収容され、そこから数ヵ月後にドイツ支配下のポーランドの東方鉄道の修理作業部門と提携関係にあるリヴォフの収容所に移送された。

パルチザンの戦士?

 ウィゼンタールの生涯の次の断片、1943年10月から44年 6月までは、最も漠然としており、彼自身のこの時期に関する記述は相互に矛盾している。1948年の尋問でウィゼンタールは、リヴォフの収容所から脱走して「タルノポル=カメノポドルスク地区で作戦中のパルチザン集団」に加わったと語っていた。彼は、「1943年 6月から44年 2月半ばまではパルチザンだった」と語り、彼の部隊は親衛隊の「ガリシア」師団や独立のパルチザン部隊などのウクライナ軍と戦っていたと言明していた。

 ウィゼンタールは中尉、その後に少佐になり、掩蔽壕や要塞線の建設に責任を負っていたと語った。彼は、このゲリラ(と思われる)部隊を、ソ連によって創設され、その管理下にあったポーランド共産党の軍隊、人民軍の一部だとほのめかしていた。

 彼は、彼とその他のパルチザンが1944年 2月にリヴォフに潜入し、そこで「人民軍グループの友人に匿われた」と語った。彼のグループは1944年 6月、ドイツの秘密軍事警察に逮捕されたという。

 ウィゼンタールは1949年 1月、ほとんど同じ供述を宣誓の下に行っている。彼は、1943年10月早々に収容所から脱走し、43年10月 2日から44年 3月までの 8ヵ月間、「森林地帯でパルチザンとしてドイツ軍と戦った」と語っていた。その後、彼は1944年 3月から 6月までリヴォフに「潜伏」していたというのだ。

 ウィゼンタールは1967年の自伝の中で、以上とはまったく異なる物語を展開している。そこでの彼の記述では、1943年10月 2日に東方鉄道の修理作業から逃げたのち、様々な友人の家に隠れて暮らし、44年 6月13日にポーランドとドイツの警察に発見され、収容所に連れ戻されたことになる。彼はまったくパルチザンへの参加や活動に言及していない。

 1948年の尋問および1967年の自伝の双方によれば、彼は1944年 6月15日に手首を切って自殺を図った。ところが驚くべきことに、彼はドイツ親衛隊の医者たちによって死の淵から救い出され、親衛隊の病院で回復したのである。彼はリヴォフの収容所に止まって、しばらくの間は「 2倍の食料配給を受け」、その後、彼の自伝によれば様々な種類の労働収容所に移送された。彼はその後の、戦争の終わるまでの混沌とした残りの期間を、いくつかの収容所を転々として過ごし、最終的にはマウタウゼン(リンツの近郊)収容所で1945年 5月 5日、アメリカ軍によって解放されたという。

 ウィゼンタールはパルチザンとしての英雄的な過去を創作したのだろうか。それとも、のちになって、共産党の兵士としての記録を隠蔽しようと図ったのだろうか。それとも、実際の身の上話はまったく異なっていて、事実を認めるのが恥ずかしいのだろうか。

 ウィゼンタールは自ら進んで戦争中の圧政者たちのために働いたのだろうか。

 この告発は、自らもユダヤ人の家系に生まれ、オーストリアの社会党の長年の指導者であり、オーストリアの首相にもなったブルーノ・クライスキーから放たれたものである。1975年に行われた広範囲な話題にわたる記者会見で、クライスキーは「マフィア的手法」という言葉を使ってウィゼンタールを非難し、「道徳的な権威者」としての彼の仮面を剥ぎ、彼がドイツの権力者たちの手先だったと示唆した。

マウタウゼンの神話

「ナチ・ハンター」以前の彼は破廉恥なデマ宣伝者だった。

 1946年に出版された扇動的な本『マウタウゼン収容所』の中で、ウィゼンタールは、マウタウゼン収容所の司令官だったフランツ・ツィェライスの「死の床での告白」だという噂の文章を広範囲に引用しているが、それによると、ハルトハイム近郊の衛星収容所では一酸化炭素による 400万人のガス殺害が行われたというのである。この主張はまったく馬鹿げており、いまでは、まともなホロコースト歴史家で、これを受け入れているものは皆無である。

 ウィゼンタールが引用しているツィェライスの「告白」によれば、ドイツ人は、その他にもポーランド人、リトアニア人、ラトヴィア人を1000万人も殺したという。実際には、この「告白」はまったくの欺瞞であって、拷問によってえられたものだった。

 その後、何年経ってもウィゼンタールは、マウタウゼンについて嘘をつき続けている。1948年 4月にも日刊紙の USAトゥデイのインタヴューに答えて、彼はマウタウゼンでの経験を次のように語っている。

「私は、そこに収容されていた15万人の内の生き残りの34人の一人だった」

 これは紛れもない偽りである。年月の経過は確実にウィゼンタールの記憶力を低下させている。なぜなら、自分の自伝の中で彼は「1945年 5月 5日にアメリカ軍が我々を解放した後にも、ほぼ3000人の収容者がマウタウゼンで死んだ」と記しているからだ。

『ユダヤ百科事典』によれば、マウタウゼン複合収容所には少なくとも21万2000人の収容者が生き残っていた。
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「ホロコースト」の商業化

極致までやり尽くした資金稼ぎの阿片使用

 イスラエルのヤド・ヴァシェム・ホロコースト・センターの館長の言によれば、サイモン・ウィゼンタールとその名をいただくロサンゼルスのセンターは、ホロコーストを「商業化」し、「俗悪化」している。この非難は1988年12月、イスラエルの日刊紙、『ハアレツ』で報道された。ブルックリンの週刊『ユダヤ・プレス』はこの非難を次のように論評した。

「ヤド・ヴァシェムが、ウィゼンタール・センターがホロコーストを商業化していると考えて立腹していることは、ずっと前から世間周知の事実だったが、今度の攻撃は、これまでにないもっとも公然たるものである」

 ヤド・ヴァシェム館長の言によれば、ロサンゼルスのセンターはウィゼンタールの名前の使用料として、彼に年間 7万5000ドル(約 750万円)を支払っている。「ユダヤ人は様々な下品なことをする」と、その[ヤド・ヴァシェム館長]報告はさらに付け加える。

「しかし、ウィゼンタール・センターは、その極致までやり尽くした。人の心を傷つけるような微妙な問題を、資金稼ぎのために阿片のように用いた。……」と。

クライスキー[首相]は要約する

 ウィゼンタールはもちろん、常に間違っているわけではない。1975年に彼はイギリスの定期刊行物『本と読書人』に寄せた手紙の中で、「ドイツの土地の上には絶滅収容所はなかった」と認めている。つまりかれはこのような方法で、ブッヒェンヴァルト、ダッハウその他のドイツ固有の領土にあった収容所を「絶滅収容所」とした戦後のニュルンベルグ裁判など[一連の戦争犯罪裁判]の主張が嘘だったと暗に認めている。

 ブルーノ・クライスキーはかつて、彼の「ナチ・ハンター」に対する決然たる態度を、次のように要約した。

「ウィゼンタールは、技術者だとか、その他様々な肩書きを名乗っているが、彼の活動を私が軽蔑していることを知っているので、私を憎んでいる。ウィゼンタールのグループはマフィア並みであり、恥ずべき手段でオーストリア[政府]に対抗している。ウィゼンタールは、真実をないがしろにし、手段を選ばず、策略を用いる人物として知られている。『アイヒマン・ハンター』が彼の自称だが、これは誰でもが知っているように秘密情報機関の仕事であって、ウィゼンタールは勝手に自分の手柄にしているだけだ」

 この普通ではない男を駆り立てているものは何だろうか。それを断言するのは難しい。名誉や賞賛への渇望であろうか。それとも、過去の恥ずべきエピソードを、それで埋め合せようとしているのだろうか。

 ウィゼンタールは明らかに賞賛を受けるのを楽しんでいる。「彼はエゴむきだしであり、(彼への)表彰状や名誉学位を誇っている」と『ロサンゼルス・タイムズ』は報じた。クライスキーはさらに簡潔な説明をする。彼の言によると、ウィゼンタールは「憎しみに駆り立てられている」。

 豊富な記録で証明される彼の欺瞞、虚言、無資格ぶりに照らして見る時、この軽蔑すべき男の前に積み重ねられる誇大な賞賛の数々は、我々が住む時代の、金銭ずくの腐敗堕落と無原則な自己欺瞞の悲しむべき反映である。

解説:『マルコポーロ』廃刊事件の際、文藝春秋とサイモン・ウィゼンタール・センター(SWC)はホテル・ニューオークラで約 300人ほどが出席する共同記者会見(95.2.2)を開いた。

 私(木村)は、その場で、SWCに関しても、別項の抄文などの、いくつかの資料の存在を指摘しながら、こう質問した。

「これらの情報が事実でないと主張するのなら、サイモン・ウィゼンタール個人もしくSWCは、これらの文章の執筆者を訴えているか、それとも、ミニコミは相手にせずに大手メディアだけを押さえておけばいいという考えか」

 SWC のクーパー副所長は赤面して身をよじりながらも、この点に関する回答を避け、長々と別の話を引き伸ばして、逃げおおせた。しかし、それらの資料の記述が事実だから法廷で争えないと告白したも同然である。

参考資料

『サイモン・ウィゼンタールの手品』Weber, Mark: The Sleight-of-Hand of Simon Wiesenthal. The Journal of Historical Review, 1984.

『戦争中のサイモン・ウィゼンタールについての新しい記録が新しい疑問を呼ぶ』The Journal of Historical Review: New Documents Raise New Doubts as to Simon Wizenthal's War Years. The Jour- nal of Historical Review, Winter 1988-89.

『サイモン・ウィゼンタール/いかさま″ナチ・ハンター″』Weber, Mark: Simon Wiesenthal / Bogus "Nazi Hanter".The Journal of Historical Review, Winter 1989-90.
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