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れんだいこのカンテラ時評284【れんだいこの学問分別論】
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投稿者 こげぱん 日時 2007 年 4 月 29 日 23:55:05: okIfuH5uFf.Lk
 

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Re:れんだいこのカンテラ時評284 れんだいこ 2007/04/24 20:53

 【れんだいこの学問分別論】

 れんだいこは齢50半ば過ぎにして漸くある疑問が解けた。これまでは、「人は、学んでなぜ馬鹿になるのか」の理由がわからなかった。人は、やがて訪れる痴呆域に入るまでは、努力さえすれば年齢を重ねると共に経験的智恵が増し、次第に賢くなると思ってきた。それには、論語の「学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し」の理が影響している。我々東洋人は、これを祖法としているので、深く学び且つ思うほどより賢者になると想定している。いわゆる「人の上に立つ者」はそういう人士であり、故に一角の者とか先生と呼ばれて尊崇される仕組みに概ね成っていると暗黙のうちに了解している。

 しかし、昨今論語の教えが通用しない事象に遭遇している。白痴専門家が大勢跋扈し始めており、彼らが、本来期待されている専門性とは真反対の痴愚見識を披瀝しており、為に人民大衆が当惑させられ不利益を蒙っている。近頃やけに目に付く国会議事堂の醜態やテレビに登場する自称知識人の阿呆面と言行の無能さを思えばよい。連中は、せんでも良いことばかりに夢中になっている。なしてこうなるのか。この現象を如何に理解せんか。これが疑問であった。今回禅問答式考案を得たのでこれを公にしておく。

 思うに、学ぶということは何の為に為すのか。国家が義務教育として巨額の費用をかけているからにはよほどの有益な理由が無ければなるまい。これにつき、れんだいこは然りと考える。「読み書きそろばん」は人が生きていくうえでの必須だから。ところが、学問をその先へ進めると、学べば学ぶほど余計にバカになると云う珍しい人種が生まれてくることになる。れんだいこは、本来有益な学問を学んでバカになるからには元がよほどバカなんだろうとも思う。そういう連中には漬ける薬が無いというべきだ。あるいは単に地位と名誉と金に目がくらんで好んで馬鹿になっているのかも知れない。

 ここまでなら、各自の生き方だからまだ許せる。問題は、そういう連中がよりによって当方を説教しに来ることである。来ないまでもマスコミ電波でしゃべりまくるから堪らない。れんだいこはテレビは見ない方だが、朝方の出勤前に何と無く音声を聞く。芸能ごとには興味が無いので社会面政治面にチャンネルを合わせる。聞けば、互いに目先を変えただけの害悪極まる御用見解を披瀝しあっている。見解がまるで陳列された商品であり、我々にはそのうちの任意の見解商品を受け入れるよう仕掛けられている。多くの者はほんまかいなぁと思いながらも分別のないままに受け入れてしまうというようなことになっているのではなかろうか。そういう心配までさせられる。

 このところの内閣支持率の高さは異常であるが、こうした電波公害によってもたらされているのではなかろうか。もっとも、内閣支持率を引き出す仕組みそのものが問題だ。百人や千人の調査で何が分かると云うのだろう。要するに、ある見解を流布させたいが為に、その根拠付けに百人や千人の無作為選出調査なるものをダシにしているだけだろう。エエカゲンニセンカイと思う。マスコミは喧伝する以上、情報の正確さを論証せねばなるまい。あるある事件とは違うという公正さを説明して見よ。

 一般に、学が出来すぎると、御用理論プロパガンダに向うらしい。彼らにはその見返りに富と地位と権威権限とサムマネーが与えられるようである。全国各地何処へ行っても先生先生と呼ばれるのが快感で、いたく満足という仕掛けらしい。天下り云々しているが、手前達も結構天下っているのではないのか。あれこれ思うと、早く電波公害に代わる日本版アルジャジーラを立ち上げねばなるまい。今は恐らく言論の自由という意味では戦前より酷いのではなかろうか。

 もとへ。学問には、正学と虚学がある。この識別が大事だ。普通には、正学は実践的に役に立つ学問であり、虚学は逆の意味で理解すればよい。この場合の正学とは、「読み書きソロバン」及びその発展系の体感、経験、智恵に列なるもの総体と思えばよい。思えば、田中角栄の見識は、正学の極みであった。下手に高等教育機関へ行かなかったから良かったのかも知れない。彼ほどの人物は史上でもそうは居るまい。れんだいこは、現代の大国主の命と見立てている。正学をこう理解すると、虚学は、実践に試されると役に立たない虚飾学ということになる。この弁えを仮に第一公理とする。この認識が最初に必要となる分別である。

 問題は、現代学問を論ずるのに、そういう第一公理的了解だけでは解決し得ないところにある。というのは、虚学は、普通には役に立たないのだが、実際には役に立つような虚学があるということである。そして、今やそういう虚学が主流化しているように思われる。こうなると、第一公理の正学虚学観だけでは解けないことになる。第一公理は余りにも杓子定規で、複雑怪奇な学問界を理解するには、子供段階の認識に過ぎないということになる。

 第一公理観からすれば、「役に立つ虚学」とは背理であるが、何故にこの公理が成り立つのか。ここを思案せねばならない。思えば、第一公理の「役に立つ」が問題で、漠然とし過ぎている。「役に立つ」は、「5W1H手法」をリトマスして精査されねばならないのに、「5W1H手法を抜きにしたまま役に立つ」を抽象的に通用させているところに問題がある。公理がまだ練れていないということになる。実際には、「役に立つ」は、「誰が、何の為に、どのようにして」という手法とセットで問われねばならない。これを欠落させた「役に立つ」は空疎である。

 とすると、正学とは、究極的に見て世の中全般に実践的に役に立つ学問であり、虚学は、世の中全般に役に立つのではなく究極的に見て私的ないしは特定党派の利益にのみ役に立つような学問とでも規定し直した方が良いのではなかろうか。これを仮に第二公理とする。「私的ないしは特定党派の利益にのみ役に立つ学問」なぞ有る訳が無いと思うのは、論語的儒教的理解に偏り過ぎている。

 もっとも、「私的ないしは特定党派の利益にのみ役に立つ学問」というのは程度問題であって、百%そうだというのではない。例えて云えば、第一公理的な「正学5割、虚学5割」が標準とすれば、「正学2割、虚学8割」という風に虚学に異常偏向している学問と理解した方が正確であろう。故に、カルト学であろう。

 では、「究極的に見て世の中全般に実践的に役に立つ学問」が何ゆえ正学で、逆は虚学なのか。これは、最も根本的な分別なので容易には解けない。れんだいこは、東洋的叡智思想である「身の内と身の外世界の相似現象論」を媒介させることにより識別したいと思う。それによれば、我々の心身機能は互いに共生的に補足しあってネットワーク化している。これの具合で健康に成ったり病気に陥ったりする。外界は、この身の内の理の相似象をしており、外界と云えども共生的であることが望まれている。いわば、両者は、身の内小宇宙、外界大宇宙として相互に通行している。これが望まれている姿であり、正学は望まれている通りに学問するので学べば学ぶほど有益で、故に正学と云う。虚学は、逆であるので虚学と云う。こう分別する必要がある。

 西欧史を学べば、第二公理的正学と虚学の闘いの連綿史であることが分かる。儒教的東洋人にはこの厳しい西欧社会の相克史が理解されていない。儒教的東洋人が、第一公理的学問観のままに西欧学を学ぼうとすると、正学史と虚学史の識別ができていない為に、両者を混合させたまま漫然と資料の羅列研究で事足りることになる。しかし、それでは座りが悪い。どこかの段階で統一的に理解したがることになる。そこでどうなるかというと、多くの者は、虚学史の方を正学史と勝手に懸想して鵜呑みにする始末となる。なぜなら、現代世界を牛耳る勢力が虚学史の方をプロパガンダし続けており、権威を授与しているからである。

 ここまて云えばお分かりであろうが、虚学とは、「歴史的ユダヤ学」のことを念頭に置いている。実際には「歴史的ユダヤ学」にも正学志向と虚学志向があろうから、より正確には「ネオ・シオニズム派内ロスチャイルド派虚学」と明確に言い切った方がより正確であろう。ロスチャイルド派は「シオン長老の議定書」を古典マニュフェストとしているので、「シオン長老の議定書派」とも言い換えることができる。そして、この連中こそは、かの昔イエスともっとも激しく論争しイエスを死刑に追いやった歴史的パリサイ派の流れを汲む者でもあるので、現代パリサイ派と呼ぶことも出来る。

 現代パリサイ派が現代世界を牛耳っており、世界を彼らの意に染まるよう改造中である。彼らこそ史上の正真正銘の革命派と云えるかも知れない。革命にはそういう怖さがあることが次第に判ってきた。ところが、連中の理論と実践が虚学となっている。利益にさとい者がこれに群がっている。この虚学が膨大な学的体系を構築しており、ウヨサヨの二本建てになっている。これを渉猟通覧しようとすれば寿命が幾ら有っても足りない。

 正学と虚学の違いは次の点に認められる。究極的に見て、正学がよろづに於いてフェア・トレードを旨としているのに対し、虚学はアンフェアの虜(とりこ)となっている。正学はかって、シルクロード交易を生み出したが、虚学は、シルクロード交易を狙い撃ちにする盗賊を生んだ。その連中が近代になって世界の植民地化を生んだ。彼らが触手を伸ばした至るところで侵略と収奪が発生し、文化が破壊され、黒人奴隷が移植された。これらは皆、虚学が引き起こしたものである。

 正学と虚学にはそういう違いがある。仮に思えば良い。世界中の諸民族のうち、異民族同士が遭遇したとして、平和を望まぬ者があろうか。れんだいこは、僅かの経験からこのことを確信している。多くの諸民族は、礼節を尽くして待遇した事例を遺している。戦争でさえそうだ。誰が好んで相手の殺戮を望もうか。多くの戦史は、無駄な殺生を避けた事例を遺している。これが世の実際だ。異民族同士が遭遇した時、一網打尽せんと考えを廻らすのは異例だ。戦争で無差別殺生を好むのは異例だ。諸国民は願わくばと云う限定であるが真に平和と交流を望んでいる。これが実際だ。スポーツの国際交流はこれを例証している。

 虚学は昔より、拝金蓄財を旨としており、高利貸し金融を得意として勢力を扶植してきた。彼らは、手前達が虐げられている時はヒューマニズムを喧伝し革命理論を弄び、手前達が権力を掌握するや独裁と悪法を好む。彼らは富める国に寄生し、その養分を吸い取るや他の富める国を求めて転移する。跡に残された国は往時の勢いを失い、大概の場合再起不能にされてきた。そういう事例は、歴史に枚挙の暇ない。

 顕著な違いは次の点に認められる。正学が概ね共生を旨としているのに対し、虚学は強制の虜(とりこ)となっている。虚学は戦争と革命と収奪を飯の種としてきた。各国政府の財政を赤字にさせ、金融コントロールしてきた。正学が、祖国の伝統と歴史を尊ぶ在地型を旨として国造りし、然る後に願うらくは国際的協調に向かおうとするのに対し、虚学は、国際主義を旨として在地型の歴史と伝統の否定に向かう。その癖、手前達は誰よりも強い内向きの同胞主義と選良主義に浸っており、異民族を勝手に畜生ゴイムと蔑視し、ゴイムに対しては国際主義をプロパガンダすると云う二枚舌を駆使している。ゴイムに対し、第二、第三選良として生き延びるよう説教し、彼らの理想とする秩序に服するよう説き続けている。

 現代パリサイ派は、そのような得手勝手なご都合主義的な独善な唯我独尊的な虚学を好み、全てを金儲けの資にしてしまう。皆それぞれ寿命が有ろうに一生を平然と悪事に費やして恥じない。その狂気を正学としてプロパガンダし続けている。現代政治と経済と学問と文化の虚学体系を構築しており、そのテキストが配信配布され続けている。これを洗脳教育と云う。逆に、正学のテキストは焚書坑儒され続けている。これが歴史の実際である。中世から近世、近世から現代への過程は、この事象の強化史である。

 そういう状況下であるからして、日本人を含む儒教的東洋人が学問する場合、「政治と経済と学問と文化の虚学体系」を正学とみなして洗脳されるのも致し方ない面もある。しかし、この虚学体系は、「世のため人の為に成る正学」を抑圧した上に成り立っているので、学べば学ぶほど「世の為人の為」にならないようになっている。我々の体で云えば、身体機能が助け合いネットワークしているのに、その理法に反して抑圧と対立と分裂を強いている。現代のストレス病のその多くは、この虚学体系が生み出しているように思える。

 我々が、そういう虚学を受け入れて、現代パリサイ派に奉仕してみても、使い捨てにされるまでの間を栄耀栄華されるだけでしかない。権力者はそういう空虚の基盤の上に成立している。俗に云う、飼い殺し状態にある。これを長年煩うとどうなるかである。漸く結論に辿り着いた。そういう訳で、「議事堂やテレビで自称知識人の阿呆さ加減」を目にするようになるという仕掛けである。これにつき、後日もっと論証していくことにする。

 れんだいこは、幕末維新、明治維新の検証過程で、ネオ・シオニズム学の導入時の様子を示す情報を得た。まだ論としては纏めていないが、資料的に「フリーメーソン日本史」、「グラバー考」、「フルベッキ考」に記した。それによれば、明治維新政府が文明開化の名の下で進めた教育、研究機関のその大元の枠組が、フリーメーソン系お雇い外国人によって造られたということを知った。つまり、この時よりネオ・シオニズム虚学が学問的権威で押し付けられ、これに疑問を湧かさず学び得た者が優秀者とのお墨付きを得たというだけの話である。無能学者の原点がここにある。

 ネオ・シオニズム虚学は一見精緻に見えるが、共生志向できないという点でそもそも学問の根本が狂っている。それと、そういう訳で本音と建前の二艘建てにしており、一般には建前の方のみ学ばされるので、実践的に役立たない。故に、学べば学ぶほど陳腐な且つ本来の学問に値しない偏狭な知識を植えつけられるに過ぎず、要するに馬鹿になる。「人は、学んでなぜ馬鹿になるのか」の理由がここにある。れんだいこが、マルクス主義からの出藍を決意した理由もここにある。

 学問の構図がかく見えてきた。そうと判れば解決法も容易い。我々は、根本に立ち戻って学問を東洋的正学に転回せねばならない。西欧的にはイエス学の地平で学問し直さねばならない。パリサイ派に汚染されない前のエジプト、バビロニア、ギリシャ、ローマ学、イソップ童話、各国の伝統的古典を識別し、これらを学問せねばならない。そして融合せねばならない。パリサイ派学問を駆逐し、真の意味での正学を再興せねばならない。そういう意味で夜明け前である。

 以上、れんだいこの現時点での認識の到達段階を記しておく。

 2007.3.22日、2007.4.24日再編集 れんだいこ拝

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